第四話:怨恨
矢野の衣服や持ち物から採取された指紋は全て矢野本人と妻の宏美、そして結城征子の物だった。
髪の毛なども採取されたが同様の結果で、署内では結城征子が金銭のトラブルなどで矢野と喧嘩になり、殺害したのではないかという推測が主流となった。
「俺は違うと思うぞ」
夕刻、課内の打ち合わせが終わった三上は、電話をかけながら指を二本立てて古谷に言った。
「通行人に見られる可能性がある外を選んだ理由が無い。一人暮らしなんだから、室内で殺した方があとの始末も付けやすいはずだ。尤も、外に出てからカッとなってやった可能性もあるが」
三上はそれも考えにくいと言ったところで、電話の相手が出たらしい。
「ああ、すいませんね。野辺山さんはおられますかね? ……ああ、そうですか。いえいえ。大した用事じゃないんで、また掛け直します」
電話を切った三上は隣に立っている古谷を見上げた。
「野辺山はさっき一度戻って来てから、外の仕事に出たそうだ」
煙草の箱を掴んで、一本引き抜く。
「古い家の残置物確認で汚れるから、直帰の予定だとさ」
「どうします? あ、分煙ですからここで吸ったら駄目ですよ。ほら」
古谷が指差した先では、禁煙中の課長が厳しい目で三上を睨みつけていた。火を点けた瞬間にどやしつけるつもりだったんだろう。
古谷を連れて喫煙ルームに入った三上は、先ほどの話を続ける。
「結城征子の細腕じゃあ、大の大人を川の中に漬けこむのは無理がある」
「漬物みたいに言わないでくださいよ。ですけど、検死の時に沈められた直後に死んだと分かったんでしょう?」
「そこだよ。まず抵抗する大人を川に沈めるのも、首にボールペンを突き刺すのも大変な事だぞ」
とにかく結城征子が犯人ではない。少なくとも実行犯では無い、と三上は断定した。
「いずれにせよ物証がないですね」
「その通りだ。だからまだまだ捜査は続くぞ。お前はさっさと一度帰って軽く寝ておけ。先に他の奴が行ってくれたが、四時間後の十時にはマンションの見張りを交代する」
「三上さんはどうするんです?」
大きく煙を吐き、短くなった煙草を灰皿に押し付ける。大きな赤い缶の灰皿には水が溜まっていて、吸殻を落とすと小さく音がした。
「矢野が行った飲み屋を探しに行く。ボチボチ焼き鳥屋も空き始める頃だ」
「それなら、リストのコピーを下さいよ。僕も行きますから」
「超過勤務しても、出世は早くならないぞ?」
「良いんですよ。なに、繁華街は大して広くないんです。二人で探せば意外と早くみつかりますよ」
「だと良いんだがな」
鑑識からもらったリストをコピーした三上は、古谷と共にマンションの近くにある繁華街へ向かった。
結城征子の証言では、どこかで酒を飲んできた矢野が真夜中になって突然訪ねて来たという事だった。
かなり泥酔しており、店の名前も聞いていないと言う。
そして矢野は征子を乱暴に抱いてから、さっさと帰ってしまった。時間はおよそ三時ごろにマンションを後にした。
そして、殺害された。
繁華街の近くにあるコインパーキングに車をとめ、三上はまず一軒のスナックを訪ねた。
「焼き鳥屋じゃないんですか?」
「少しでもヒントがあった方が良いだろう」
まだオープン前だが、もう準備を始めているはずだと三上は『浪漫』と書かれたドアを開いた。
「あら、キヨくん。どうしたの? そんな若手のイケメン連れてきちゃって!」
ドアベルの音を聞いて、薄暗い店の奥から三十台半ばの女が出てきて、三上の顔を見るなり妙に耳に残る声で迎えた。
「キヨくん?」
「俺の名前が清隆だからな。それより美香、ちょっと聞きたいんだが大丈夫か?」
「仕事? 最近飲みに来てないじゃない。たまには捜査以外の用事で来てよ」
「今度そうする。それより、このあたりの飲み屋には詳しいだろ?」
スナックの女性は同伴などで近辺の店を良く知っている者が多い。それで三上は顔見知りの美香を訪ねたのだ。
「そりゃあね。この道二十年だもの」
「おまえは未だ三十台だろうが。捕まりたくなかったらあまり言いふらすな」
「はいはい。それで?」
三上は焼き鳥屋の中で串カツを出すところに心当たりが無いか聞くと、五軒ほどの店がすらすらと出てきた。
「と言っても他にもあると思うわよ」
助かる、と言って手帳に店の名前と大体の場所を書き記した三上は、手帳にボールペンの先を当てたままで顔を上げ、美香に追加の質問を投げた。
「この中で、一番安い店はどこだ?」
ケチな矢野なら、そういう店を選ぶのではないか。三上はそう考えた。
それから数軒回ってみたが、矢野の特徴を伝えても店員は憶えていなかったり休みの者が居たりと捜査は進展しない。当日に居たアルバイト店員のシフトを確認して再度尋ねる事を伝えていく。合わせて、サンプルになる串カツを一本ずつ買っていった。
スナックに至っては数が多すぎる。
美香に言わせれば裂きイカやチョコレートはスナックで出される『乾き物』の定番で、どこで出されてもおかしくないという。
「また鑑識の結果待ち、ですか」
車に戻ってきた古谷から缶コーヒーを受け取り、三上は一口啜って熱い息を吐いた。
「明日になったら、例の不動産屋に話を聞きに行く」
「野辺山優一、でしたね。でも、単なる不動産の営業マンじゃないんですか?」
「結城征子が名前を出さなかった事が気になる」
それだけが理由なのか、と古谷が問うと「何でも聞いてみるのが捜査の基本」とマンションが見える位置に駐車した車の中で、三上はじっと正面を見据えた。
「結城征子じゃない。じゃあ、誰なのか」
現代の犯罪捜査では探偵のように推理をする部分は少ない。
科学捜査の進歩で、多少時間をかければ現地で見つかった遺留品で概ね絞り込めるからだ。
だが、今回は証拠が少ない。
繁華街という夜中の人口が多い場所に近いとはいえ、それでも早朝に近い深夜では目撃者も期待できない。
監視カメラも無く、周辺の聞き込みでは争うような声も聞かれていないのだ。
「だからこそ、余計に女がやっているとは考えられない」
それなりに体格のある矢野を問答無用で刺し、川へ落として沈める。
刺すのと落とすのは前後するかも知れないが、まともな神経をしている人間が出来る所業では無いだろう。
携帯の振動を感じて、三上は二つ折りの携帯を開いた。
「署から?」
『あ、三上さんですか?』
電話に出ると、鑑識課の署員だった。
『ボールペンのインクを鑑定したんですが、中国製のボールペンに使われている物と成分が一致しました』
「ということは?」
三上が問うと、電話の向こうで小さなため息が聞こえる。
『数が多すぎますね。あっちこっちの店に大量にありますから、どこで使われているかなんて特定は不可能です』
ただ、と話を続けようとして、電話の向こうでガサガサと音がした。
「どうした?」
『こんばんは。そしてお疲れ様です』
聞こえてきたのは検死官井戸の声だった。
「あんたか……何かわかったのか?」
『まずはお礼を。串カツありがとう。揚げたてじゃないのは残念だけど、実に美味しかった』
「おい、それは鑑識のサンプルだぞ!?」
『冗談ですよ』
ケラケラと笑う声が聞こえて、いらだった三上はダッシュボードを指で叩いた。
「用件を、早く」
『落ち着いて。例の遺体をもう一度よくよく調べてみたんだけど、新しい事がわかった』
井戸が説明したのは、ボールペンを使ったのはインクから間違いないのだが、傷の状態から見てインクが入った軸が刺さったわけでは無いらしいということだった。
『つまり、ペン軸を外したか、ノック式でペン先を出さない状態で突き刺したわけだ。結構力がいるし、ペンがストローのようになって血が流れたんだろうね』
前者であれば予めそうする為に用意したことになり、後者であれば突発的に手元にあった凶器として使った可能性が高い。
「ふぅ……それじゃあどうにもならんだろう。血が付いたボールペンでも出て来るなら話は別だが」
『捨てた可能性が高いでしょ。血でべとべと。二度と使える状態じゃない。下流をさらってみたら出てくる可能性もあるし』
「すでに鑑識が一度やってる」
そして有力な手掛かりは何も出てこなかった。
『それは残念。それにしても、首筋に穴が空いて血が抜かれたなんて、まるで吸血鬼の仕業だね。それじゃ、また連絡する』
電話を切り、念のため新たに分かった情報を古谷に伝えた三上は、無精ひげが伸びた顎を擦る。
「吸血鬼な。もしそうなら、俺たちの出番じゃないな」
「その可能性はありませんよ」
「なんでわかる?」
「吸血鬼の仕業なら、穴は二つ並んでいるはずです」
真面目に答える古谷に押し殺した笑みを見せ、三上は手帳に先ほどの井戸からの情報を書き示す。
「しかし、ボールペンを首に刺さる程に突き刺すなんて、普通の人なら無理ですよ。そんなに恨まれてたんでしょうか」
古谷の疑問に、三上は「そうだろう」と答えた。
「ケチな奴は人を動かす値段を安く安く見積もる。アパートやらマンションを持っているオーナーがそうだと、掃除や修理をする連中は余程金額を叩かれてただろうな」
「三上さんは、その業者の中に犯人がいる、と?」
「わからん。だが可能性はあるから、不動産屋に業者関係も確認するんだ。妻の方は業者を把握してなかったからな」
人が動けば金がかかる。
それは人が金を稼いで生きている以上は当然のことだが、“原価”がかからないから、と理解できない者も少なくない。
「出張費や作業料、手間賃……言い方は様々だが、それは人を動かす金だ。安くしろとかタダにしろなんて言うのは、その人物を安く見ている証拠……そう受け取られても仕方ない」
「仕事の価値そのものも安く見られたと思うかもしれませんね」
「怨恨の線で調べるのも、被害者がケチだと苦労するってこった」
捜査はまだまだ時間がかかりそうだ、と三上は鼻で大きく息を吸って、コーヒーと煙草の臭いがする息を吐いた。
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