第三話:捜査の手
「不動産屋?」
「そうです。なんでも矢野さんの奥さんから頼まれてお話に来たって言ってましたよ」
「そうかい。どこの業者か憶えてるかい?」
県警の刑事課で一課に所属している三上は、征子が住むマンションの管理人から話を聞き出していた。
野辺山優一の名刺を預かった三上は、一瞥してから同行していた古谷刑事に渡す。
「知っている会社だ。そこに話を聞きに行くぞ」
「わかりました」
駐車していた車に古谷が走って行くのを追いながら、三上はマンションの四階を見上げた。
「時間がかかったが……あの女は違うだろうな」
矢野の死体が見つかった現場、その目の前にある分譲マンションの一部屋を被害者が所有していると知ったのは、今朝訪ねた矢野の妻宏美からの情報だった。
もっと早く教えてくれ、と思わなくもないが、自分の夫が死んだ直後でもあり、また妻自身は現場に行った事が無いという。仕事で訪問した不動産業者の営業社員が来てから思い出したらしい。
「三上さん。どうしました?」
「ああ、悪い。すぐ行く」
覆面パトカーの助手席に乗り込み、三上は名刺にあった優一が勤める町アパ不動産への道順を説明する。
宏美が言っていた担当の営業社員も同じ野辺山優一だった。
「被害者の矢野幸次郎って男は、随分と金持ちだったんですね」
運転しながら古谷が口を開くと、三上は「そうだな」と答える。
「アパートにマンション。ほとんどの物件を例の不動産業者が管理している。家賃収入だけで月四百万に届く。三分の一はローンの返済に飛んだとしても、俺の数倍の給料だ」
「そしてその一部であの愛人は生活する。世の中は不公平なものですね」
「だが、あの結城征子とかいう女は生活が苦しいと言っていたな」
「最低限の金だけ渡していたようなもので……矢野の独占欲もあったんですかね?」
「わからん」
シートを軽く倒し、三上は手帳を睨みつけながら答えた。
「単なる締まり屋かもしれん」
三上は、矢野の死体を見た時の事を思い出す。
死体事態は何度も見ているが、目立った外傷もなく綺麗なものだった。
検死解剖に立ち会った三上は、その場で井戸という名の検死官から意見を聞いた。
「失血死だね」
三上は片眉を上げた。見た目には大きな怪我が無かったからだ。現場でも水の中に上半身が完全に沈んでおり、澄んだ水の底で目を見開いている表情を見ている。その時は、溺死だと思った。
「ここを見てくれ。小さな穴が開いているのがわかるだろう」
「確かに」
解剖を終えた井戸は遺体の首筋、頭髪がかかるか否かのギリギリの場所を指差した。
直径数ミリの穴は良く見ないと分からない大きさで、周囲がすり鉢状に凹んでいる。現場では気付かなかった部分だ。
「凶器はわからないけど、傷は動脈を傷つけてる。大量に出血したはずだよ。現場は酷い状況だったはずだ」
「仏は浅い川に沈められていた。足先だけが川岸に引っかかっていた状態で見つかったんだ。血は流れてしまっている」
「ああ、そうだったね。びしょ濡れで運ばれて来たんだった」
ふふ、と笑みをこぼした井戸はマスクを引き下げた。白い歯を見せて、口角を上げて肩を震わせている。
「肺には少しだけ水が入っていたけど、溺死じゃない。首を刺されて失血死だね。血が凝固しないように川に沈めたんだろうね」
全裸の死体、その両脇部分に黒い痣がある。
「首を刺した犯人は、抵抗できないように両脇を手で押さえて水に沈めたんだね。あんまり抵抗したような跡は見られないから、沈められたところですぐに死亡したみたいだ」
まだ三十過ぎの井戸は、遺体の足元に回って脛を指差す。
「ここは濡れていなかった。水には浸かっていないね?」
三上が頷くと、井戸は「オーケー」と大きく頷く。
「じゃあ、この部分と濡れていた腕部分の組織を調べる。死亡推定時刻を知るためにね。あと、彼は酒を飲んで裂きイカとチョコレートを食べている。その前にもどこかの飲み屋に入ったみたいだ。焼き鳥や煮込みの未消化分が胃の中に残っていた」
これね、とトレイに乗せた物を見せられ、三上は目を逸らす。
「そいつは後でリストにしてくれないか。付近の飲み屋から調べる」
「ああそう。なら焼き鳥屋の可能性が高いね。刺身や焼き魚は出てこなかった。そして串カツも扱っている所だ」
もっとも、同じ店で食べたとは限らないけれど、と井戸は付け加えた。
「もう一つある」
三上はそろそろうんざりしていたが、聞かないわけにはいかない。
井戸が指差したのは、遺体の股間部分だった。
「尿道に精液が残っていた。陰茎部分にぐるりとわずかな圧迫痕もあるから、スキンを使って性行為をしたんだろうね。それも亡くなる直前に」
このあたりから調べてみたらどうかな、と井戸は笑顔のままで伝えた。
検死の事を思いだした三上は、運転している古谷にちらりと目を向けた。彼はその日は非番だったのだ。
「次に解剖に立ち会うときは、お前も来い」
「わかりました……苦手なんですけどね」
「死体がか? それとも検死官がか?」
両方です、と答えた古谷はハンドルを回して平日で車の少ない交差点をゆっくりと右折した。そこで、ふと路肩に車を寄せて停車する。
「どうした?」
「携帯が鳴ってるんです」
振動するスマートホンを取り出した古谷は、停車禁止表示が無い事を確認して電話に出た。
三上は井戸が予測した矢野の大体の行動をメモした内容を読み直した。
矢野は志望する数時間前に酒と共に焼き鳥や串カツを食べ、その後少し間を開けてチョコレートなどを食べながら飲酒。そして誰かと性交した後で殺された。
「最初はどこかの風俗に行ってから、強盗目的で殺されたかとも思ったが……」
殺し方に違和感がある、と三上は考えている。
路上での強盗致傷は多くが打撲か刃物による切り傷だ。
「躊躇いや失敗も無い。明確に殺すつもりで刺して、数十分は自分も川に入って沈めていた、か」
検死官の井戸が言う犯人像は、殺しに慣れているか知識があり、余程矢野を恨んでいるか職業的に人を殺す冷血漢、というものだった。
「本当にそんな殺し屋だったら、それこそヤクザとのトラブルあたりなんだろうが……」
「三上さん。鑑識から胃の内容物のリストが出来たと連絡がありました。それと、指紋も粗方調べが付いたそうです。いくつかはデータにある指紋だったみたいです」
「わかった。それなら一旦、署へ戻ろう」
「不動産屋は行かなくていいんですか?」
三上は動きを止めた。
「考えを整理したい。物証があるなら先にそれを確認してからだ」
「了解です」
「少し考え事をする。悪いが話しかけないでくれ」
返事を待たず、三上はシートをさらに倒してメモ帳を顔に乗せた。
「野辺山優一……か。結城征子はその名前を出さなかった。不動産屋が来た事すら話さなかった」
何か理由があるのか、単に忘れていたのか重要事だと思わなかったのか。マンションへ戻って確認すべきかとも思ったが、先ほど古谷に宣言した通り物証が上がるならその方が確実だ。
なるべく結城征子という女性に余計な質問をしたくない、という感情がいつの間にか自分の中にある事に気づき、三上は舌打ちした。彼女が不倫について矢野の妻に知られる事を恐れる様子は、確かに保護欲を掻き立てるものだった。
だが、三上のこの感情は過去に起因するものだと分かっている。嫌な思い出がよみがえるが、振り払うように考えの方向を変えた。
矢野の不倫関係について、恐らく妻の宏美は知らないだろう。そんな事をおくびにも出さずにマンションの件を出したと言うのなら、大した演技派だ。
「古谷。矢野の不倫の件は秘密にしておけ」
「えっ、いいんですか?」
「民事不介入だ」
それはちょっと違うのでは、とブツブツ言っている古谷に、三上はメモを顔に乗せたままで「いいから」と念を押した。
「少なくとも、もう少し事件のあらましが見えてからじゃないと捜査が混乱する。いいな?」
「わかりました」
古谷の返事を受けて、三上は再び思考の海に沈む。
今の時点で一番怪しいのが結城征子なのは間違いない。
任意同行を求めた三上達は引っ越しの準備で忙しいと征子に言われ、室内でなら話せるということで現地にて聞き取りをする事になった。
矢野の愛人であると自ら話した事と、矢野の妻に言わないでくれと懇願したあたりは、矢野を殺したようには見えなかった。
他にも矢野の死について聞かれても不自然な様子は見せず、また矢野との肉体関係についても素直に話した。
「矢野が死ねば住む場所が無くなる、か」
だから今、安い場所に引っ越そうとしていて、仕事も探していると征子は語った。
「古谷。署に帰って物証を確認したら一度帰れ。マンションに張りつく」
「ええっ、徹夜ですか。まいったなぁ」
「文句をいうな。結城征子は引っ越すと言っていたからな。夜逃げでもされたらかなわん」
かと言って署まで引っ張るだけの証拠も無い。
「わかりましたよ」
早めに交代を寄越して貰うように頼まないと、と古谷は愚痴りながら所属の警察署へと車を入れた。
「やあ。お疲れ様」
「うっ、なんでここに……」
井戸の顔を見た三上の後ろで、古谷も「うわっ」と声を上げている。
「僕が依頼した解析の結果も出たと聞いてね」
井戸は一枚の書類を右手にぶら下げ、ひらひらと揺らした。
「凶器はボールペンだったよ。黒のボールペンか、複数色の奴だ。黒の油性インクが検出された」
「ボールペン、か」
刃物ですらない凶器で人を殺す。
犯人はどんな心境で、矢野の首にペンを突き立てたのだろうか。
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