第二話:面影



「全然、変わってないね」

 はにかみながら話す征子に、優一も同じ言葉を返そうとして口を噤んだ。

「私は、色々あったから……」

 互いに歳をとった。来年には三十歳になる二人は、しばらく玄関先で無言で立っていたが、人の気配を感じて部屋の中へと移動した。


「それで、急にどうしたの?」

「この部屋のオーナーの奥さんの依頼で来たんだ」

「そっか……」

 時間はあるから、と征子はリビングへと案内すると、コーヒーを用意すると言ってキッチンに向かった。


 3LDKの典型的なファミリータイプの間取りで、女性一人が住むには広すぎる部屋だった。飾り気の無いリビングには、カウンタータイプのキッチンに寄せるようにしてダイニングテーブルが置かれ、二脚の椅子が向かい合わせに置かれている。

 解放された襖から見える和室は、まるで使っていないかのように何も置かれておらず、畳も色だけは変わっているが傷一つ見当たらなかった。


「一人で住んでいたのか」

「そうね。ずっと一人。ここに来る前は、一部屋しかない小さなアパートだったのよ。マンションを与えられて引っ越してきたのはいいけど、物が少なすぎてガラガラになっちゃった」

 寂しそうに笑いながら、征子は何の柄もない真っ白なマグカップに入れたコーヒーを優一の前にそっと置いた。


「仕事は?」

 本当に聞きたい事は別にあったが、優一はすぐに踏み込む勇気を持ち合わせていなかった。

 困ったような顔をして微笑む征子は、確かに昔よりも幾分疲れて見える。

「しばらくは飲み屋に居たのよ。小さなスナックでね……でも、このマンションに来る前に辞めちゃった」


 優一が次の話題を探している間に、征子が先に口を開いた。

「矢野から聞いたかも知れないけど……私、彼からお金を貰ってたの。でも、あの人ったらとんでもないケチでね、光熱費とかは彼が払って、食費もギリギリ。余分なお金なんてめったにもらえないから、服とか化粧品はデートの時に買ってもらうくらいだった」

 それでも、働かずに生活していられるなら良いと思った、と征子は語る。


「愛人ってこんなのかな、って思ったけど、私の見た目で三十になりかけの歳でしょう? こういうチャンスはもう無いと思ったら、ずるずる長引いて、もう一年半も経っちゃった」

 働いていたスナックで矢野と出会った征子は、色々と買ってもらったり食事や旅行に連れて行ってもらううちに、深い仲になったという。


 胸が詰まるような息苦しさを感じながら、優一はコーヒーを一口だけ飲む。少しだけ砂糖が入っているらしく、うっすらと感じる甘さに懐かしさを覚える。

「カップにスプーン半分。だったよね?」

 ちゃんと憶えているんだから、と笑う征子に、優一はコーヒーを吐き出しそうな程に違和感を感じた。


 まるで、七年前から会話を続けながら互いに歳を取ったような錯覚と、同時に矢野という五十を超えた男に抱かれた元恋人の存在が頭の中で交錯する。

「大丈夫?」

 気付けば、身を乗り出した征子の顔が近くにあった。

 軽く手を伸ばせば届く距離に。


「……いや、何でも無い。少し仕事が忙しい時期だからさ。ちょっと疲れてるだけだ」

「そうなんだ。不動産会社だっけ。大変だね」

 征子の顔が離れた事で、少し息が楽になった優一は、仕事で来たのだと気持ちを切り替えた。

「その矢野という人が、亡くなられた事は?」


「知ってる。新聞は見てないけれど、今はスマホでニュースを見ているから……正直、まだ実感は無いんだ」

 まだ警察は来ていないが、矢野の資産の一つであるここの目の前が遺体の発見現場になっている。いずれ捜査が進めば征子も任意同行くらいは求められるだろう。

「奥さんは……?」


 不安そうに聞いてくる征子に、優一は首を横に振った。

「まだ知らない。今日ここに来たのも、ご主人が知り合いに貸している部屋の契約がずさんだから、しっかりと契約を巻きなおして欲しいと言われたからなんだ」

「契約かあ……でも、警察が調べたら、私が矢野の愛人だったってバレちゃうよね。ううん、優一君からすぐにでも伝わっちゃうか」


 八方塞がりだね、と征子は力なく笑う。

「仕事もしてないし、保証人も居ないからね。普通の契約だったら難しいよ。それに、奥さんにバレたら慰謝料も払わなくちゃ。不倫してたんだから、仕方ないよね」

 話しながら、征子はぽろぽろと涙をこぼし始めた。

「悪い事しちゃったなあ……奥さんにも、優一君にも……」


 優一が声をかけるのをためらっていると、指で涙を拭った征子は、赤い目をして微笑んだ。

「ごめんね。どうしようもない愚痴を言っちゃった」

 両手で握った自分のカップを持ち上げ、まだ熱い湯気がたちのぼるコーヒーに口を付けた。


「いや……。偶然だったけど、ここに来て征子の話を聞けたのは良かったと思う。あの時、別れてからずっと気になっていた君のことを知る事ができた」

 優一は一つ一つの言葉を絞り出すように、少しのショックで崩れる砂の人形に話しかけるような慎重さで話す。


「矢野の奥さんには、俺からは言わない。警察がそこまで調べるかはわからないけど……すぐにでも引っ越し先を探して出ていくなら、俺は追わないし、退去申請書にでたらめの引っ越し先を書けば、奥さんには行き先は分からないと説明できる」

「優一君……」


 次第に早口になっていく優一は、逆に征子をまっすぐ見られなくなっていった。

「契約書の退去時清掃は、貸主側での負担になっていた。ある程度掃除をして、荷物を残さなければ金銭的な負担は無くてすむ」

「それじゃ、次の部屋さえ決まればいいんだね!」

 安く入れるアパートなら、引っ越しをするくらいの蓄えはある、と征子が泣きながら笑顔を見せた。


「征子……」

 再び、昔に戻ったような錯覚を覚える。

 嬉しい時に目じりに皺を作る笑い方は、昔と変わっていない。

「俺の居る会社で探すと、バレる可能性があるから別の不動産屋で探した方が良い」

 そうして、分かる限りのアドバイスを話していると、インターフォンが鳴った。


 二人で顔を見合わせて、頷いた征子が恐る恐るカメラ付きインターフォンのスイッチを押した。

「……はい。どなたですか?」

「征子! ここ開けろ!」

 いきなりスピーカーから聞こえてきたのは、若い声だった。


「正春! ここに来たら駄目って言ったじゃない!」

「あいつ死んだんだから大丈夫だろ! いいから開けろよ」

 やりとりを聞きながら、優一は先ほどまで熱を持っていた胸がすっと冷えていくような気した。


 別れて、連絡も取っていなかった七年の間、優一に色々とあって今でもその影響があるのと同じように、征子にも七年間で色々な出会いと経験があったのだ。

「冷静に考えれば、そうなんだよな」

 優一が立ちあがった時に、征子はインターフォンの相手に帰る様に強い言葉をぶつけてスイッチを切った。


「ごめん。変なところ見せちゃった」

 振り向いた征子は、優一が立ちあがっていることに気付いて胸元で拳を握った。

「どうしたの?」

「今日は帰るよ。あまり長居するわけにいかない。会社に戻らないといけないし。名刺を置いておく。近いうちに……今度はちゃんと、連絡を入れてから来るよ」


 言葉を探している様子の征子に、優一はこれ以上話す事は無かった。

「ん、わかった。なんかごめん。ありがとう……」

 征子に背を向けて、押し開く玄関が奇妙に重く感じる。

 本当はもっと話すべき事が沢山ある。知りたい事も伝えたい事もあるはずだと優一は理性でわかっていた。


 だが、どうしても征子に対する感情がまとまらない。あちこちに散らかるように広がっていくのは、愛情であり憎悪でもあった。

 わかっているのは、今の征子は優一の恋人では無いことだけだ。

 エレベータを降りた時、優一は酷く疲れた顔をしていたのだろう。会釈をしたとき、管理人は驚いた様子だった。


 オートロックを抜けて、風除室から自動ドアを開いて外へ出ると、社用車の近くに一人の若者が座り込んでいた。髪は金髪で耳にピアスを開けて、サイズの合わないフリースジャケットをだらしなく来ている。

 近づくと、苛立ちを込めた目で優一を見上げてきた。


「なんだよ」

「車を出します。危ないから離れてください」

 できるだけ冷静に伝えると、しばらく睨みつけて来た若者は舌打ちして立ち上がった。


 若者が遠ざかるのを待ち、鍵を開けて運転席に座った優一は乱暴にキーを回してエンジンをかける。

「……何をやっているんだ、俺は」

 若者の声は、先ほどのインターフォンから聞こえた声とそっくりだった。

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