再会
とうみ とお
第一話:或るオーナーの死
矢野幸次郎という男は一言で言えば『金に汚い男』だった。
複数の不動産を持ち、家賃収入で生活していた矢野は物件管理を任せている不動産業者を顎で使いながらも、管理費用は交渉を繰り返して恐ろしく安い金額でやらせている。
物件の修理をする内装業者や水道業者にも厳しい価格交渉をするので、界隈では有名な人物だ。
そんな矢野が死体で見つかったのは、雪の降らない土地でも寒さが厳しくなる二月中旬の事だった。
地元では特に大きな神社の裏手で、膝までの深さしかない川に沈んでいるのを通りかかった新聞配達員が発見、通報した。
歩道から川までは一メートルほどの高さがあり、当初は酔って転落したのかと思われていたが、検死の結果は違った。
「殺人……では、矢野オーナーは殺されたのですか……」
矢野の自宅を訪ねていた野辺山優一が沈痛な面持ちで確かめると、矢野の妻である宏美はすっかり疲れた顔をして頷いた。
「警察が言うにはそうみたい……。まだ見つかって三日目だしはっきりした事もわからないから、詳しい事は教えて貰えなかったんだけど」
五十過ぎの年齢が少し上に見える程疲れた様子を見せているのは、親戚や友人がお悔みを言うついでに興味本位であれこれと聞いてくるからだろう。
「主人はまだ検死から戻されてなくて、あたしも何にもわからないのに。親身に聞いて下さるのは野辺山さんくらいよ」
「私でよろしければ、お話を窺いますよ。ただ、業務上何かとお聞きする事もあるかも知れませんが……」
「気にしないでくださいな。それがお仕事なんだから」
むしろ、仕事なのにおばちゃんの愚痴を聞かせて申し訳ないと言いながら、宏美はお茶のお代わりを入れると言って立ち上がった。
その間に、優一は鞄からいくつかの書類を取り出し、朱肉と合わせて炬燵の上に広げた。
戻ってきた宏美にお茶の礼を言った優一は、ステープラーで留められて冊子になっている書類を指差した。
「これがご主人と当社で交わした賃貸物件管理契約書です。当社で回収した家賃は管理料や経費を差し引いてここに書かれた銀行口座に振り込む契約になっているのです」
書かれている口座の名義人は矢野幸次郎となっている。
「現時点で、ご主人の口座は凍結されているかと思います。管理契約書の名義変更が必要ですが、それは物件名義が確定してからとなります」
「やっぱり……。でも、そうなるとあたしも困るのよね。何かと入り用だし……」
全て金の管理は幸次郎が行っていたようで、妻である宏美が管理しているのは自分の小遣い用と孫の入学費用に溜めている定期預金だけだという。
「そうですね。ですので、一つ提案をお持ちしました。あまり口外いただきたくないのですが」
優一は不動産管理会社からの家賃を振り込みから手渡しに変更してはどうかと勧めた。
「どういうこと?」
「手渡しであれば、そのまま奥様の手元に現金でお渡しできます。領収書は書いていただきますが、苗字だけでも構いません。印鑑もご夫婦共通のもので大丈夫です」
管理契約書に手書きで書かれた口座番号の上に入金方法を選択する欄があり、今は振込が丸印で囲まれている。
「ここにある通り、振込手数料は差引かせていただく契約です。ですが、二重線と訂正印で消して、現金の方に丸をいただければ次回の振り込み分からは現金でお渡しできます」
ただ、と優一は顔を曇らせた。
「申し訳ありませんが、通常現金のやり取りの場合はお店まで回収に来ていただく事になるのです。落ち着いてからで構いませんから、後日また振り込みに変更いただけませんでしょうか」
「あら、そうしたらあたしがお店までお金を貰いに行かなくちゃならないの?」
「いえ、今回の件は特例です。ちゃんと私がここまでお届けに参ります。受け取りとして領収証にサインと押印を頂ければ」
何から何まで、と宏美は深々と頭を下げた。
「野辺山さんにはわざわざお通夜にまで着て頂いて、それにアパートの件でも色々と良くして頂いて、本当にありがとうね」
「とんでもない。できる限りの事はさせて頂きますから」
にっこりと笑みを見せる優一に、宏美はお菓子を持たせると言ってまた立ち上がった。そこで、何かを思い出したらしい。
「そう言えば、主人が不動産屋に頼んでいない物件があるのよ。知り合いを住まわせてるみたいなんだけれど……」
そう言って、優一の目の前で箪笥を開いて一冊の権利書を取り出した。
比較的新しいその書類を受け取り、目を通した優一は一瞬だけ驚いたように目を見開いた。
「これは……失礼しました。ご主人が見つかった場所の真正面にある分譲タイプのマンションですね」
「そうなのよ。知人に頼まれたからって、主人が一戸だけ買って貸してるみたいなんだけれど、お宅も通さずに契約したみたいなのよ、ほら」
宏美が追加で渡してきたのは、不動産の協会が発行している簡素な賃貸借契約書だった。
中を捲ると、いくつかの項目に書き込みはされているものの、不動産で賃貸を専門に五年以上やってきた優一から見れば杜撰極まりない内容だった。
「これは……何か問題が起きた時に、これでは揉める可能性がありますね」
「でしょう? それに、保証人も取ってないものだから、不安で不安で」
優一は、宏美から見てくれと言われるままに契約書の最後のページにある賃借人の署名を確認した。
「結城、征子……」
「知人の娘さんだって言うんだけど、あたしも会った事が無いのよ」
「そう、ですか……」
言葉が出てこない優一に気付かない様子で、宏美は言葉を続けた。
「それで、良かったら野辺山さんにこの方と会ってきてもらえないかと思って。ここもお宅にお任せするから、ちゃんとした契約を交わして欲しいのよ」
「なるほど」
再契約自体は珍しい事では無い。
宅建業用や民法の変化や保証人死亡などで、以前の契約書では実情に合わない状況を訂正するのだ。
「そうですか……」
「そういうのって、おいくらくらいかかるものなの? 何度も言うようだけど、お金がね。お安くお願いしたいんだけれど」
宏美が歳に似合わぬ甘えたような声を出し、優一は嫌悪感をぐっと胸の内に抑えた。要するに無料でやってくれという事なのだ。夫婦とも、人を使う事に関して金銭の支払いを渋る所は良く似ている。
「わかりました。この物件の管理を任せて頂けるのであれば、無料で動きましょう。私が交渉に行きます」
「あら、本当? 助かるわあ」
内心で悪態をつきながら、優一は笑みを浮かべて頭を下げた。
「では、早速ですがこちらに訂正印をお願いいたします。それと、家賃は五日にまとめますので、またお電話してからお持ちしますね」
一通りの説明をして、お茶を飲み干した優一は小一時間かかった宏美への説明からようやく解放された。
矢野の自宅である大きな一軒屋を出て、広い駐車場にとめていた社用車に乗り込むと、すぐさまエンジンをかけて出ていく。
古くからの住宅街を抜けて、近くのコンビニエンスストアの駐車場へと入った。
「征子……こんなに近くにいたのか」
優一はジャケットの内ポケットから取り出したメモを見た。
結城征子。それは優一が七年前に別れた恋人の名前だった。契約書に書かれていた生年月日も見覚えがあったので、恐らく同一人物だろう。
今さら顔を合わせたくないという気持ちもあったが、仕事だと割り切った。
そう自分に言い聞かせる。
「とりあえずは、訪ねてみるか」
会社へと追加の用事が出来た事を連絡し、自分あての伝言を確認した優一は、件の分譲マンションへ向けて車を走らせた。
優一が結城征子と恋人同士になったのは、彼が大学三年生だった頃だ。
人の少ない文学サークルで知り合った征子とは、出会ってから一ヶ月で付き合い始めた。当時は若さと時間が有り余っていた事もあって、互いに就職活動が始まるまでは四六時中一緒の時間を過ごした。
映画を見て、カラオケに行き、どちらかのアパートへ行って互いにむさぼり合うように身体を重ねる。
「三十目前の今、考えただけで恐ろしい回数やっていたな」
信号待ちの間、苦笑しながらルームミラーを見て髪型を整える。客先へ行く前の癖だが、思わずの念入りにやってしまい、青信号に気付かずクラクションを鳴らされてしまった。
「何を期待しているんだ、俺は」
すぐに車をスタートさせ、目的のマンションへとたどり着いた。
来客用のパーキングに駐車し、管理室を覗くと小さな部屋の中で中年の女性が何やら懸命にノートに書き込みをしているのが見えた。
「すみません」
声をかけるが、締め切った窓で聞こえないらしい。
良くあることだと嘆息し、優一はガラスを軽くノックする。
驚きに肩を震わせ、管理人らしき女が顔を上げて優一を見た。
「ああ、すみません」
小窓を開けた管理人に名刺を差し出し、来客用スペースに駐車した事を伝える。
「じゃあ、ここにお名前と会社名と連絡先、それとナンバーを書いてください」
言われた通りに自前のボールペンで一覧表に書き込む優一に、管理人は「どちらのお部屋にご用ですか?」と尋ねた。
「406号室ですよ。女性が一人でお住まいだと聞いています」
「あら、結城さんの?」
「ええ。ご存知ですか?」
管理人として、大体の居住者とは顔を合わせていると言う女性は、先ほどとは打って変わって下卑た笑いを浮かべた。
「新聞で見たわよ。あの矢野さんの件でしょ? やっぱり追い出されるの?」
どうしてそうなるのか、と優一が首を傾げていると女性は「だって」と続けた。
「結城さんって矢野さんの愛人だったんでしょ? 夕方に迎えに来て飲んで二人で帰って来てるらしいじゃない。私もここの一階に住んでるけど、腕を組んで夜中に帰ってきたのを何度も見たもの」
不快感が喉の奥からこみあげてくるのを感じながら、優一は小さく首を振った。
「居住権というものがありますから、出て行けと言う訳にもいかないんです。今日はお話をさせていただくために伺っただけですよ」
どうにか笑顔を作ったつもりだったが、引きつって見えたかも知れない。
「そうなの」
と言うと、管理人は興味があるのか、オートロック玄関のインターホンに向かう優一に対して、ガラス戸を開いたまま聞き耳を立てていた。
下世話な事だが、聞かれて困るような事も無い。
406と数字を押してから、呼び出しボタンを押す。
五秒とかからず、声が聞こえた。
「はい。どなたですか?」
心臓が跳ね上がるような気持ちだった。
耳元で何度も愛していると言ってくれた征子の声に、優一は声が震えるのを必死で抑える。
「賃貸でお住まいのお部屋の件で参りました。“町アパ不動産”の野辺山と申します」
一瞬、ためらってから言葉を紡ぐ。
「……野辺山優一と申します。お話を、させて頂けませんか?」
インターホンの向こうで、小さく息をのむ音が聞こえた。
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