26:出会いの泉

ブルーゾたちオークと別れ、フリックら一行を乗せた馬車は再びハクラナン山脈のふもとを目指した。魔人化の反動でぐったりとするアクラをミーナが気遣きづかう。

「しかし、アクラの魔人になれる時間が短すぎて便だよなあ。もし今グラルドに襲われたらと思うと……」

そう話したガストンを、ミーナがじろりとにらんだ。

「ガストン、あなたまた余計なことを言うつもり?」

「えっ?あ、いや、その……」

ミーナに低い声で言われ、ガストンはしどろもどろになって口をつぐんだ。

「大体不便って何よ。普通人間は魔人になんてなれないんだから、そう考えたら凄く便利じゃない」

ミーナの理屈に、アクラがくすっと笑って言う。

「確かに山で暮らしていたときは、山を駆け回るのも、狩りをするのも、魔人の姿の方が便利だったな。母様が生きていた頃は、魔人でいる方が長かったぐらいだ。だが母様が死んでからは、父様は私に人間になれと言ってな。その頃から父様は、いずれ私に人の姿で、人の中で生きさせようとしていたのだな」

「そうよ、アクラはもう魔人になんてならなくていいの。ベリアにも上手く人の姿になれるよう教えなくちゃね。ねえフリック様」

「うん?ああ……」

ミーナの言葉に、フリックは浮かない返事をした。

確かにアクラが今後人間の社会で暮らしていくには、魔人の姿が便になるのだろう。でも人間の振りをして生きることが、本当に正しいあり方だろうか。アクラが魔人の血を引く者として堂々とできるなら、その方が自然で、理想なのではないか。そんな風に生きられないだろうか。フリックは馬車に揺られながら、そんな思いをつのらせていた。


馬車は山の麓へと到着した。フィガロが馬車から飛び降り、大きく伸びをして骨を鳴らす。

「よし、じゃあいっちょ行ってくるからよ、手はず通り明日の朝にまた合流しよう」

「本当に一人で大丈夫なのかい?」

ガストンが声をかけた。

「山を駆け回るには人間おまえさんたちは足手まといってやつだ。夜目も利かないしな」

「頼むよフィガロ。だが十分注意してくれよ」

フリックが言った。

「俺だってまだ死にたくねえからな、無茶はしねえよ」

フィガロはそう言うと四足で地面を蹴って山へと入っていった。

「気をつけてねーっ!」

ミーナはその背中に向かって叫ぶと、フリックを振り返った。

「さて、待っている間、私たちはどうしましょう?」

「アクラを休ませて、俺たちは野営の準備をしよう」

フリックが答えた。陽は既に西に大きく傾いていた。


程なくして日は沈み、夜のとばりが下りた。澄み切った夜空に丸い月が明るく輝き、夜の闇を薄くしていた。

フリックたちは麓の森に少し入ったところで、小さな焚き火を囲んだ。食事を取り、土の上に簡単な寝床を作る。アクラは既に横になり、すやすやと寝息を立てていた。

「少し体を動かしてくるよ」

そう言ってフリックは剣を取り、森の奥へと入っていった。ついて行こうと腰を浮かせたガストンをミーナが止め、無言で首を振る。そうやって席を外す時は、一人になりたい時だと、彼女は分かっていた。

木々の間を抜け、フリックは懐かしい場所を目指した。着いた先は五年前にアクラと初めて出会った、あの小さな滝壺だ。ざあざあという水音が、かつての記憶を呼び覚ます。アクラが立っていたその泉の中心には、水面に映った月がゆらゆらと浮かんでいた。

ここでアクラに出会い、図らずも水浴びを覗いてしまい、怒鳴られた。山での暮らしを聞いて、町での暮らしを話した。野山を駆け回って遊び、馬に乗せて草原を走った。別れる頃にはすっかり日が暮れて、国に戻るとバージルにいつもより長い説教を受けた。にもかかわらず次の日もたまらずここに足を運び、一日待ったがアクラは姿を見せなかった。その後も何度かこの泉に来たが、再会は叶わなかった。あの少女は山に住む妖精のたぐいだったのではと、そんな風にも思ったものだ。フリックは過去に思いを馳せ、しばらくぼうっと泉に映る月を眺めていた。

(フリック、聞いておるのか?)

そうアクラの声が聞こえた気がして、フリックははっと我に返ると、思わず笑みをこぼした。


フリックは大きく息を吐くと、表情を引き締めた。剣を抜き構え、対峙するグラルドの姿を思い浮かべる。襲い来る爪を想像し、それを打ち払うように剣を振った。

奴と初めて戦ったときは殺されるところだった。二回目はアクラの助けで何とか戦えたが、奴の動きも鈍かった。わざわざ三日開けたのだ、次は万全にしてくるだろう。

フリックは全力で剣を振るが、魔人の爪を捌ききる感覚は掴めないでいた。剣を止め、一度呼吸を整える。

再び剣を振り始め、突破口はないか、効果的な戦い方はないかと思案するが、どうイメージしても自分の剣はグラルドの爪に止められ、グラルドの爪は自分の体を切り裂く。魔人は大きく、強く、速い。その上技も使う。人間一人が対抗するには、あまりにも強大な力を持つ相手だった。

それでも、アクラと一緒なら……。

フリックは自分の横に並ぶアクラの姿を想像した。アクラと共にグラルドに向かっていく。人の姿のアクラが、フリックをサポートするように動く。やがてアクラは魔人化し、その動きを一段と素早くする。今度はフリックがアクラをサポートするように動く。二人は呼吸を合わせ、次第にグラルドの体に剣が届くようになる。遂にはグラルドを挟むように、前後から奴の体にその剣と爪を突き立てる。想像のグラルドが、どさりと地に伏した。フリックは手応えを感じ、ふうと息をつくと剣を収めた。

決戦は明後日、必ずグラルドを討ち果たすと、フリックは決意を胸に泉を後にした。


夜が明け、日が昇る。

真っ先に目を覚ましたアクラが体を起こし、寝ぼけまなこをこすりながらぼりぼりと赤い髪を掻いた。辺りを見回し、皆がまだ寝ているのを見る。アクラは寝床から出て立ち上がると、少し森の奥へと足を踏み入れた。朝もやに包まれた森の中は、静かな空気の中に鳥たちの朝一番のさえずりが響いていた。

「おはよう、アクラ」

うしろから声をかけられ振り向くと、そこにフリックが立っていた。

「水を汲みに行かないか?」

彼はそう言って手に持った革の水筒を見せた。


フリックはアクラをあの滝壺へと連れて行った。

「おお!この近くであったか!」

アクラが顔を輝かせ、フリックもそんなアクラを見て嬉しそうに微笑んだ。アクラは水際まで行くと、もやのかかった水面を懐かしそうに目を細めて眺めた。

人里に降りろと父に言われたとき、すぐにこの泉で出会った少年の顔が浮かんだ。真っ直ぐに天を見据みすえ、強くなると告げたその少年の眼差しを思い出し、アクラは自然と笑みを浮かべていた。

フリックは水を汲むと、アクラに声をかけた。

「昨日も魔人化で汗をかいたんだ、ここで流していったらどうだ?」

「ああ、それはいいな」

アクラは立ち上がると、着ている服に手をかけた。脱ぎかけて、突っ立ったままのフリックを見る。

「フリック、何をしておる、あっちに行かんか」

「おっと、すまない」

フリックはそう言って立ち去りかけて、はて、と思った。アクラも随分恥じらいを覚えたものだと。フリックは少し反応を見てみようと、近くの岩に腰を下ろした。

「いや、また服を盗まれたら大変だ。俺がここで見ていてやるよ」

「そうか、助かる」

アクラはまた服に手をかけたが、すぐにフリックに向き直って言った。

「……いや、何を言っておる!だめだ、あっちに行け!」

「何を照れる?裸なら、夜這いの時にも見せてくれただろう?」

「それは……」

アクラは一瞬言葉に詰まったが、むうとふくれると眉を寄せてフリックをにらんだ。

「フリック、おぬし……私をからかっておるな?」

フリックはぷっと吹き出すと、笑い声を上げた。

「はははは、悪いアクラ。退散するよ」

フリックはそう言うと、少し残念そうにその場を離れた。





  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る