第5話 疑いしは苦い果実

 喫茶店からの帰り道。まぶしいと感じていた私の目に狂いはなく、歩いて帰るのが憂鬱になる程度には熱気が立ち込めている。もう秋口といっても良い季節のはずなんだけど、いつまで暑いの? 汗をかくの自体は嫌いではないけれど、服が張り付くのは気持ちが悪くてどうしようもない。ついでに、夜が寝苦しいと寝不足につながってしまうから、いいことなんてないのに。

「あの二人、何かを隠していますね。このままだと、素直に解決することはないと思いますが。梅原さんは気付かれていましたか?」

 もっとも、今話題にすべきは気温ではなく先ほどの会話と反省。二人の微妙な感じに、梅原さんが気付けていたかどうかと、どう感じ取ったかの方が重要。話を聞かせてもらうのは、もちろん大切なことだけれど、それあdけで終わってしまうのでは私達の意味がない。今日は喫茶店という変わった場所で話を聞いたけれど、相手に対して違和感を感じているかどうかが、窓口の担当者としては非常に大きなポイントとなる。業務をスムーズに処理していくためには、どうしても慣れが必要になってくるけれど、感性的なところについては気付けない限り経験を積んだところでプラスにはならない。人間は会話を使用としている時に、言葉だけで相手に物事を伝えることは殆どないから、それを実感としてどの程度感じ取ってくれているかが重要。会話だけに注目し過ぎると、そちらに気付けなくなってしまう。

 分かりやすいところでは、身振り手振りに声のトーン、視線の動きであったり、考え込むような動作。分かりにくいところでは、視線の偏る回数、物事を思い出すのに必要としている時間の差であったり、放っておけば気付けないような特徴が沢山出てくる。一人の時でさえこの程度はすぐに分かるレベルになってしまうから、二人、それも関係の深い恋人同士で話をしてくれたとなれば、パワーバランスから、普段の呼び方、困った時の相談方法など、意外なほどに見るべきところは多い。

 その内、どの程度のものに気付けたのだろう? 鈴木さんの態度に、佐藤君の口調に、どの程度気付けたのでしょうか?

 それ次第で、随分と今後の予定が変わってきます。場合によっては、質問役を交代したほうがいいのかもしれませんね。前面に立ってもらった方が、分かりやすいこともあるでしょう。

「仲良く話されているように見えましたが、天野さんは疑っているんですね」

「それが仕事ですから。そのままを飲み込むのは、窓口で揉めたくない時だけですよ」

 窓口で相手の言葉を疑い続けていると、疲れてしまう。疲れてくると隠しているところがはがれ、相手に伝わってしまうからクレームへと発展してしまう。そうなれば、面倒ごとを呼び込むことになってしまい、結果的に仕事の進捗が遅れ、それを挽回するために無理をすることになってしまう。

 それとは違い、こんなふうにこちらから動いている時は突っ込んでしまったほうが、賢いことが多い。引いたところで状況が改善される見込みは少なく、引いたせいで誤解を与えてしまうこともある。そういった違いを把握しているのなら、攻める形で疑っていくのが解決の近道だと気付いてくれるはずだけど。タイミング的に、まだ早い感じですよね。入ったばかり、最初の長期案件で求めて良い対応ではありませんね。ただし、窓口の経験がないからといって、梅原さんには今までの部署で培われてきたものがあるはずです。それを使って、対応して欲しいのですが。中々難しいのでしょうか?

「情報収集の為に関係者に会う場合、謝った情報を入手しないように注意を払う必要があります。鈴木さん達、クセがありましたが気付けましたか?」

 真剣に話しているからこそ、相手の小さな動きも気になるんです。相手のことを正面から見ているから、視線の動きにまで気付けるんです。別に監視しているつもりはありませんが、この程度が出来ないようであれば、苦労しますよ。

「隠し事ですか? 正直、僕には分かりませんでしたけど。天野さんには、気になるところがあったということですよね?」

「てっきり、気付いているものだと思っていましたけど、違ったんですね。時折確認するかのように、恋人のことを盗み見るかのようにしていたの、気付かなかったんですか? 私はそこに違和感を感じたため、確認ではなく怯えているように見えたので、気になったんですよ。どこまで知られているのか、どこまでバレているのか、不安になったというところでしょうか」

 隣にいる恋人のことを警戒しなければいけない状態、それはどんな時だろう? 自分の意見に自信がない時? それとも、下手なことを喋ると怒られるから、確認をしたい時?

 どちらにしても、話を聞かせて欲しいとやってきたのが大人である以上、そのままを伝えてしまえば一番楽だったはずだ。無駄に考える必要もなく、思ったことを伝えてしまえばよかった。喋った内容がよくなかったと感じたのなら、相手の反応を待つのではなく、相手に反応してもらえるように声をかければいいだけでしょ? あの場で恋人のことを警戒しながら、待ちの姿勢でいるのが賢い選択肢だとは思えない。実際に確認しながら話してしまう方が早いし、何より誤解を与えることを避ける為に、恋人に誤解されない為にあの二人は同じ場所へときたんだから。疑問符を増やしてしまうような、無駄な疑いをかけられてしまうような、そんなリスクを取るとは思えないんですよね? それなら、一緒に来る必要はなかったのだから。

「天野さんの考え過ぎじゃないですか?」

「考え過ぎですかか。確かにその可能性を全否定出来るほど、私は彼女達を知っているわけではありませんからね。ただ、疑うことも私達にとっては仕事のようなものだと覚えていて下さいね。事実は小説より奇なりと言いますし、今回の案件についても私達は驚かされてばかりですから。こういった不思議なことも、現実には起こるんですね」

 疑うような真似をしたくない。仲が良くて、相手のことを好いているから盗み見をしてしまったと、そんな優しい世界の話しにしてしまえば楽になる。 けれど、現実は大体よろしくない方向へと、転がってしまうが多いから。それは人間も同じですよ。高いところからは、低い方へ流れるかのように人の心は動いてしまう。楽な方へと流れてしまった結果、大きな穴に飲み込まれてしまうのだとしても、流れている間は気付かない。。

「そういえば、梅原さんは奥さん以外に、お付き合いをしたことのある女性はいらっしゃいますか?」

 こういった状況を理解するには、沢山の悩み事に付き合わされるか、いくつもの恋愛経験から得るしか方法がないように思われます。頭の中にある可能性と方法論だけでは、人間を疑いながら話を聞くというのは難しく、疲れてしまう作業です。感情を疑い、個人を疑い、関係を疑うことになるから、何も楽しくないんですよね。笑顔でいられるような明るい技術ではないので、容易に伝えられるものではありませし。

 けれど、相談ばかりを受ける、愚痴を言われ続ける立場になってしまった以上、これこそが必要とされる技術となります。優しさと誠実さだけで、嘘まみれの世界を紐解こうとするのは茨の道もいいところでしょう。ちょっとくらいズル賢くなければ、状況に流されてしまい隠されてしまった真実には辿り着けなくなります。それでは、困るんですよ。専門家ではなくとも、私達は頼られる側の立場ですから、それなりの知識と技術が必要なんです。

「いませんよ。僕がお付き合いしたことのある女性は、妻のみです」

「幸せなことですが、それでは感覚的に理解してもらうのは、難しい気がしますね」

 ただ一人の人を愛し、望みの相手と結ばれた。そんな幸せを教授してしまっている梅原さんには、分からなくて当然なのかもしれない。他の人と比較する必要がなく、またそれを望まれない環境にいた。心配するようなことはあっても、疑う必要に駆られることはない。そんな、幸せな恋愛だったのでしょう。

 はぁ、そんな人に教えなければいけないんですね、仕事のために必要だから覚えて下さいと。気が進みません。

 事実として、この仕事を続けていくのなら必要です。ただ話を聞いているだけで誰にでも出来そうなこの仕事には、人の暗い部分を見続け、愚痴を受け入れ続けなければいけないという、面倒以外なんでもない大きな爆弾がくっついています。

 梅原さん自身も薄々気付いているとは思いますが、幸せをその手に握っているはずの人に、幸せの中にいるはずの人に、その事実を口に出して伝えなければいけないのでしょうか? これ、罰ゲームだったりしませんか?

「こういったことを私が言葉にしてしまっていいものか、少し悩みますが。世の中の恋愛というのは、必ずしも幸せにつながっているとは限りません。幸せに近づこうと口にしてしまった言葉が、後に関係性に大きなヒビを入れるということもあります。相手を信じていたくとも、信じられなくなるということもあります」

 恋愛とは非常に抽象的なものだから、恋人との明確な関係性を求めるためにプレゼントであったり、デートなどの行為を繰り返すのは珍しいことではありません。形にしてしまうのは、安心材料として考えればこの上なく、説得力を発揮するものとなるでしょう。

 しかし、それでも抽象的な物である恋愛では、相手の心を信じることを前提とされ、自分の気持ちを信じることも要求されます。

「私はそういった恋愛ばかり関わってきましたので、どれだけ仲良さそうにしていても、疑ってしまうクセつきました。梅原さんもすぐには難しいかもしれませんが、ここにいればいつかは身に付きますよ。恋愛を知らない私でも、気付けるようになりましたから」

「そういうものでしょうか?」

 恋愛経験の有無、結婚経験の有無。当人がどう思っているかは分かりませんが、この差はけして小さくありません。自身のパーソナルスペースに他人を受け入れる余裕を持っているということ、それが当たり前になっておりストレスとならないこと。正直、私としては想像も出来ないような世界に、既婚者のみなさんは住んでいるんですよね。

 けれど、それだけの梅原さんでは、まだ足りません。私自身に足りないところがあるように、あなたにも足りない部分があります。だから、それぞれが出来る範囲でカバーし合うことが大切です。今回については、面倒事に関わっている回数が多いか少ないかというだけです。

「そういうものですよ。深く考えても分からない時はありますよ。今はただ、そのタイミングではなかったというだけの話です」

 理解できるかどうか、そういったところに不安を抱えていられるのは今だけ。私の補佐ではなくなり、一担当者として動くことになれば思い知ることになりますから。本当に不安を抱くべきところはどこか、人間をどれだけ信じていいのか、そういったことに悩む日々が訪れることでしょう。

 その不安の目が身内に、特に奥さんに影響を及ぼさないことを個人的には願がわずにはいられません。誰も信じられなくなって、家族との離縁を選んだ職員もいましたからね。

「イヤだと言っても思い知ることになります。人間の身勝手さと心根のなさ、陰でどれだけのことを言われているか分からない不安。けれど、同時に人を信じる大切さと自分を貫いた結果も、相談者から教えてもらうことになりますよ。私達はここでしか味わえない、玉石混合の苦楽を目の当たりにするのですから」

 窓口の担当として職員を続けていくのも、けして悪いことばかりではない。嫌なことのほうが圧倒的に多いは事実ですが、それに関してはどこにいたとしても同じことでしょう。公務員である私達に面倒な仕事が回ってくるのだから、一般の会社に入ったりしたらもっとひどいんじゃないでしょうか? 愚痴を聞いていなくても、嫌なことだらけで心が磨耗してしまいそうです。

 けれど、そんな世の中なのに誰かを信じようとする人がいる、誰かの為に自分を削ってしまう人達がいます。どうしてなんでしょう、みんなが酷い世の中だと思っているのなら、そんな親切心なんて既に尽きているはずなのに。どうして、誰かに手を差し伸べようとする人が、まだ残っているのだろう?

 身勝手な人がいれば、反対側に親切心溢れる人がいる。世の中に絶望しかけると、希望を与えてくれる温かい人に出会える。世の中は一辺だけを見ていると素直に絶望出来るというのに、どうしてこうバランスを取ろうとしてくれるんでしょうか。悪いことばかりではないと、証明しにくるのでしょうか。私にはその理由が分からない。

「それに耐えるのか、逃げるのか。梅原さんが選ぶべきことなので、私にはどうすることも出来ません」

 この仕事を続けられないと、辞表を置いて去ってしまう人も少なくはありません。他の部署でミスをして、この部署へと左遷されてくる人もいるし、そういった人達をカウントして良いものかはちょっと悩むけど、離職率が低いと言えないのは事実ですから。

 ただし、この部署を好んで残ってくれている職員もいるのも事実で、目出度く希望していた部署に転属した方もいます。だから、出来ることなら梅原さんが慣れてくれると欲しいんですけどね。これは強要出来るようなことでもないし、あなたの人生はあなたのもの。人生の先輩である梅原さんに、私が口を出すことではありません。

「相談くらいには、乗りますよ。梅原さんは後輩であり、市民でもありますから」

 先輩としての私に、出来ることなんて殆どありません。一緒に対応できる期間も長いものではないでしょう。その途中で梅原さんが潰れてしまう可能性もあるし、もしかしたら私が潰れてしまうかもしれません。意見が食い違って、修復出来ないほどに関係が悪化してしまうかもしれない。そんなマイナスな可能性ふぁ、道端の石ころのように無数に転がっている。

「ありがとうございます、お世話にならないように気をつけますよ」

「そうして下さい。正直なところ、私に相談されて解決するほど軽い問題がくるとは思っていませんよ」

 だから、仕事以上で踏み込むつもりはありませんよ。こちら側に踏み込まれても困りますし、そこら辺はビジネスライクな感じを保ちたいというのが本音です。同僚でしかない私には、領分というものがあります。彼の隣には、既にふさわしい女性がいるのだからフォローはお任せしましょう。

「梅原さん、そんなに暗い顔しないで下さいよ。私達が落ち込んでいてたら、市民の相談を誰が受けるんですか?」

 断るような格好になってしまったことがショックだったのか、落ち込んでしまいましたか? でも、この程度で落ち込まれても困るんですけどね。

 そもそも、私に何を相談しようとしていたんでしょう? 私に相談しても、改善される問題があるとは思えませんよ。

「明るく元気に、今日も相談者様にきて頂きましょう。所長が朝礼でも言っているでしょ?」

「ははは。こんな時には、あの言葉がききますね」

 どちらにしても、私達は相談窓口の担当者でしかなく、その職務の一端として炎天下を歩いています。悩む側ではなく解決する側として。相談する側ではなく相談を受ける側として。吉田さん達のトラブルを解決する、案件と処理していくのが私達の役割です。それこそが私が選び、今歩いている道ですから。人間には暗い部分だけではなく、明るいところもあるよって、彼女達に見せられるような人間くらいにはなりたい。

 それくらいしか、先に大人になった私が渡せるものがないのだから。

 

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