兄さん想いの妹

千葉県、船場須ふなばす市。

海沿いの、ベッドタウンというには少々田舎すぎるきらいのあるこの町の住宅街に我が家はあった。我が家といってもボロアパートである。


ところで我が船場須市にはナス田楽を擬人化したマスコットキャラクターがいる。

その名も「ふなっすー」。俺の憧れのマスコットの一人である。

「ナス汁ブシャー!」の一発芸(?)はあまりにも有名だ。

千葉県非公認にして船場須市非公認。さらにはべつにナスもナス田楽も地域の特産品でもなんでもないのだから驚きである。軽快なトークとキャラクター、エキセントリックな挙動によって全国のお茶の間に笑顔を提供するふなっすー。事務所に所属せず活動するその年収はうん億円ともいわれている。


しかしそんなふなっすーでも、この緊迫した場の空気を解すことはできないだろう。


夕日の差し込む狭いアパートの一室。

くたびれた畳の和室に、俺は正座させられていた。

ちゃぶ台を挟んで俺の正面に座っているのはセミロングの黒髪少女。

その手元では針と糸がついついと動き、ほつれたニッチーのスーツがみるみる修繕されていく。


「ケンカはもう止めると約束しましたよね? 兄さん?」


視線を落としたまま、大きくため息を一つ。呆れたようにそう言ったのは、中学生の俺の妹、「根津 美咲みさき」である。


「……ごめんなさい」


謝るしかない。中学生の妹に頭の上がらない高校2年生の兄。これが我が根津家のヒエラルキーである。

なにを隠そう、ランドのアトラクションをほぼ一人で運転しているのはこの妹なのだ。下の弟の世話からなる家事全般もそつなくこなす、スーパー妹である。


やからどもを叩きのめし、空を見上げて黄昏れていたのはほんの一瞬。

騒ぎを聞きつけた美咲に見つかり、ランドは閉園。帰宅して今に至るというわけだ。


「兄さんが春休みの間だけでもというから手伝いましたけど、もうイヤですよ」


「そんなぁ」


「『そんなぁ』じゃありません。おじいちゃんが残したランドを守りたいという兄さんの気持ちは分かりますが、父さんが倒れた今や家計は火の車。激しく燃え上がっているのです。わたしだって暇じゃありません。できればアルバイトを増やしたいところなのです」


矢継ぎ早に言われ、ぐうの音も出ない。

ちなみにすでに美咲はバイトを2つ、内職を3つもかけもちしている。


「で、でもアトラクションが動かないテーマパークなんてナスの入ってないナス田楽みたいなもんだよ。田楽単品では子どもたちに夢を与えることができないよ」


「そんなことわたしは知りません。あとわたしはナスが嫌いです」


栄養価が低いから。と小さく付け加える美咲。

にべもない。

何気に帰ってからずっと、美咲は目を合わせてくれない。言うまでもなく怒っている。ああ、俺にふなっすーのユーモアか財力のどちらかでもあれば、こんなことにはならなかったのに。

妹の笑顔が遠い。

というか、美咲が最後に笑ったのを見たのはいつだろう?

いや「その日を境に彼女は笑うことを自らに禁じてしまった……」みたいな重い話ではないが、気づけばここ最近はいつも仏頂面である。


過去回想。


俺達の母さんは下の弟、慎太しんたが生まれてすぐに病気で他界した。もともと体の強くない人だったらしい。

当時小学校高学年だった俺は、普通に悲しんで、普通に泣いた。

しかし美咲はといえばそうではなかった。

悲しくなかったはずはない。それでも美咲が気にかけていたのは、慎太のことだった。美咲はまだ乳飲み子だった弟の顔を見て言った。


「こんなに早くにお母さんと会えなくなるなんて、かわいそう」


そして弟のために、涙を流した。

小さい頃から、頭のいい子だった。

それからと言うもの、母さんの代わりになるように美咲は弟の面倒を見て、家事をこなし、そしてテーマパークの仕事すら手伝っていた。美咲がアトラクションをある程度動かせるのはその辺が所以である。

ランドの経営が傾き、親父が酒浸りになっていた頃。俺はグレてケンカに明け暮れていた。そんな時も美咲は文句ひとつ言わずに父を支え、俺に更生を促したのだ。

とまれ、こうして美咲はわがままを言わない子に育っていった。

それにつれ、自分の感情を抑え、それに馴れてしまったのかもしれない。


その後色々あって、俺は妹に泣きの土下座を入れ、何があっても美咲の言うことには逆らわないと誓ったのはまあ別の話。


沈黙が続く。

美咲がスーツに針を通すかすかな音だけが、部屋に流れる。

申し訳ない気持ちになった俺は、たまらず口を開いた。


「結局自分でスーツをボロボロの血まみれにしちゃったのは謝るよ、でも……」


「そんなことを怒っているんじゃありません!」


俺の言葉を遮り、ぴしゃりと美咲が言い放った。


「わたしは刃物を持った人を相手にしなければならないことを続けるつもりなら、もうお手伝いしたくないと言っているんです」


顔を上げた美咲の眼尻にはうっすらと涙がたたえられていた。


ああ、そうか。

美咲は昔から、頭のいい子だった。

そして誰より、思いやりのある子だったのだ。


「……ごめんな」


マジごめん。

謝ってばかりの兄である。


「……もっと自分の体を大切にしてください」


「うん」


「わ、わかってくれたならいいんです。兄さんも来年は受験なんですから、ランドのことは一端忘れて、勉学に身を費やすべきですよ」


大きな声を出したのが恥ずかしかったのか、うつむいて作業に戻る美咲。

こんなところはやっぱり可愛い妹である。


って、ん? 受験?


「なにを言っているんだ? 美咲。俺は進学しないぞ」


もちろん就職するつもりである。できれば親父の跡を継ぎ、ランドを再建したかったが、そうも言っていられないだろう。手近な就職先を見つけ、家に金を入れるつもりである。


「なにを言っているんですか? 兄さん。兄さんは進学するんですよ?」


……決定事項なのか。今明かされる衝撃の事実である。


「いやいやいやいや、さっき自分で言ってたじゃないか。わが家の家計はバーニングファイヤーだって。俺が大学に行く金なんてあるわけないだろう」


それとも美咲の中では俺は大学の特待制度を利用できるほど優秀な高校生なのだろうか? 過大評価にも程がある。近すぎて見えなくなるものもあるのだろうか。もしかして俺の愛すべき妹はものすごいブラコンなのだろうか……。


「その点はご安心下さい」


美咲は右手を胸の前に置き、誇らしげに言った。


「兄さんが大学に行けるように、バイトと内職で得たお金から学資ローンを組んでおきました」


「ハァ!?」


ハァ!? とか言っちゃった。兄弟の前では荒い言葉遣いをしないように誓いを立てていたお兄ちゃんであったが、一瞬でそれが消し飛んだ形である。


「あ、でも頑張って国公立に合格して下さいね。私立や医大に入学できる程の額はさすがに貯められませんでした」


「いや、いやいやいやいや……ちょっと待ってくれ」


思考が追いつかない。

美咲がバイトやパートをかけもちしているのは知っていた。

そして、その給料がが家計に入っているより多いはずだということもなんとなく感じていたが、しかし……。


「だ、大体、お前だって来年は高校受験じゃないか」


そんな風に言い返すのが精一杯である。


「え? わたしは就職しますよ? 学費は貯まったとはいえ、大学生活はなにかと入用でしょう? 遠くの大学に通うことになったら、生活費なども必要でしょうし……」


美咲は当然のようにそう返してきた。

ええー……?

思いやりが、重すぎる。

至れり尽くせりかよ。

お前は俺の母ちゃんか!

……いや、もしかしてそういうことなのか?

てっきり、美咲は自分が高校に行くために貯蓄をしているものかと思っていた。俺は就職して今までの恩返しとして少なからずの支援をしようと心に決めていたが、それは兄として当然のことだ。

だが、逆はおかしいだろう。

まさか美咲は、にもなろうとしていたなんて。


気づけば、その場に立ち上がっていた。

それは兄としての情けなさによる身震いから来るものであったし、なんとかしなければという焦りからでもあった。


「……兄さん?」


突然無言で立ち上がった俺を、美咲が心配そうに見上げている。

わがままを言わない子。

わがままを言えない子。

そんな妹のわがままを、いい加減聞かせて欲しいと思ったから。

俺は美咲に近づき、その両肩を掴んで、言った。


「ごめんな、兄ちゃんそれは聞けないよ」


「お前は高校に行かせるし、大学だっていいとこ行かせる。そんで友達いっぱい作って、馬鹿みたいに楽しいスクールライフを送るんだ」

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