第2話


 ハミヤ、十五歳。本編ヒロイン。


 桜色の長髪、紅玉の瞳。武器は白銀の太刀『彼岸櫻ひがんざくら』。八詠士はちえいしがひとり、戦乙女レンの末裔にして、桜ノ国の皇女。卓越した<花>の謡い手。威厳ある父、優しい母、そして頼もしい兄の元で満ち足りた幼少時代を過ごすも、宰相マサトキの叛乱によって、皇都霊陽れいようは陥落。父母を殺され、兄とともに生きのびた彼女は、裏切り者への復讐と故国奪還を誓う――。


 両親の離婚が決まり、引越しの準備をしている最中である。

 棚から何冊もでてきた古いノートを、藤間皙ふじませきは苦い顔で眺めやった。


 タイトルは『皇花おうかのハミヤ』。ぱらぱらとめくると、主要キャラクターの仔細な設定がひとりずつ書きこまれている。最後のページは彼らが旅する世界の地図。次のノートからは年表、歴史、文化、王族の系譜、呪文の詠唱、神話から聖典の内容までがびっしりと記されている。


 総計十二冊におよぶそれらは、皙の考えた架空の物語の設定集である。


「これ、結局完成しなかったんだよな」


 一時は作成に没頭したものの、熱が冷めて放置してしまったのだ。

 時計をみると、午後三時をステンレスの針が冷たく指している。

 息をついた皙は、古い教科書とともにノートを縛りかけ、そして思いなおしてノートだけを抜きとった。


 こんなもの、どうするんだ。


 心の中でつぶやいたが、それでも捨てることができなかった。



 世界には、自分ではどうにもならないことがある。


 皙にとってそれは、両親の離婚であり、高校受験の結果であり、そしてこれから歩まなければならない漠然とした人生であった。


 前々から不仲だった両親は、皙の高校進学を機に離婚することになった。私立高校へ進むことになった皙の学費を払えないと喚く父に、母は傲然と、自分が引きとって払うと告げたのだ。


 自分の節目を建前に使われるのは悲しかったが、第一志望の公立高校に落ちたのは皙の責任だ。――両親の口論を連日聞いていれば、勉強に力など入るはずがなかったのだけれど。

 どちらにせよ、決まってしまえばもう仕方がなかった。


 夜になってリビングに行くと、テレビがついており、母の貴子が缶ビールを飲んでいた。


「あら、皙。いたの」


 貴子はそう言ってテレビに視線を戻す。ソファーには高級そうなスーツが脱ぎ捨てられており、下着同然の姿だった。


 貴子は大手企業の会社員だ。その活躍がビジネス雑誌に載っている様を、皙は何度もみている。躍進するキャリアウーマンの先鋒として喝采を浴び、輝かしい人生を送る母。

 だから、その一方で、家のことに無頓着でも仕方がなかった。


「そっちこそ。早いじゃん」

「新居の件で不動産屋と打ち合わせがあってね、半休にしたの。帰りに映画でも見てこようと思ったけど、時間があわなかったから帰ってきちゃった」


 皙は冷凍庫から買いおきのスパゲッティを取りだして、レンジに入れた。


「なに。夕飯これからなの?」

「そう」

「ふーん」


 スパゲッティを食べはじめても、貴子は無関心に背を向けてテレビを眺めている。


 父は今日も戻ってこないだろう。冴えない事務員の父は、母との間に開いていくキャリアの差に耐えられなかったらしく、荒れて家に寄りつかなくなった。

 気持ちは分かる。だから、仕方がないことだった。


「ねえ、皙」


 新しい缶ビールのプルタブを起こしながら、貴子は言った。


「受験は残念だったけどさ、失敗は誰にだってあることなんだよ」


 始まった。

 皙は油っぽいミートソースの絡んだ麺をかきこむ手を早める。


「でもね、そんなものは大学入試で取り返せばいい。人は失敗の味を知るから強くなる。失敗は大きな学びのきっかけなんだよ」

「うん」


 最後の一口を胃に押しこんで、コーラで流す。

 母の持論にもとづく垂訓は巷で人気だと聞いたことがあるが、皙はそれが大嫌いだった。人の心を分かったふりをして、ただ説教がしたいだけなのだ、この母は。

 しかし口答えしてもはじまらない。やりすごすしかない、仕方がないことだから。


「一通り落ちこんだら、しっかり前を向きな。アンタは頭がいいし、想像力がある。想像力は大事だよ。アタシ、感心したよ。ほら、アンタが作ったアニメみたいな――」


 どん、と音をたてて席を立った。

 母は皿でも割ったかと言わんばかりに、振りむいた。


 言ってやりたかった。おまえに、なにがわかると。

 けれど、そうやって歯向かって、なにが変わるというのだ。


「……コンビニに行ってくる」

「あ。じゃあチョコレートバー買ってきて。ナッツ入ってるやつね」


 食器を流しに突っこんで、逃げるように家を出た。


 +++


 三月の夜は、冬の残り香がいまだに濃い。

 暖房のきいた室内からの温度差に苛まれながら、皙は人気のない通りをとぼとぼと歩いた。


「仕方がない、仕方がない、仕方がない……」


 口の中でつぶやいて、歯を食いしばる。


 世界は、思いどおりにならないことばかりだ。

 活躍し、成功し、胸を張って生きているのは、いつだって自分以外のだれかだ。

 なんの取り柄もない皙は、彼らの陰に隠れて、俯いているしかない。

 なにもかも、仕方がないのだ。そう。仕方がない。仕方がない。仕方がない――。


 衝動的に走りだしていた。


 こんな世界、いっそ滅んでしまえばよかった。

 自分ひとりがそんなことを考えても無駄だと分かっていて、だからこそ皙は強く願った。


 ――汝、精霊を讃えて祈願する。贄とするは我が魂。


 仕方がないと、我慢して、受け入れて。自分だけがなにも手に入れられない。

 望まぬ世界。望まぬ現実。なにもかも、くそくらえだ。なくなれ。消えてしまえ。


 ――解き放て。解き放て。解き放て。ついに門は開き――。


 交差点に入った途端、眩しいライトに照らされた。

 大型トラックのライトだと気づいた時には、致命的な距離まで唸るタイヤが迫っていた。


「あ」


 間抜けな声がでた。二つのライトが、人喰い鮫のように近づき、視界を覆う。

 なにもかもが見えなくなった刹那、どこからか高らかな声が鳴り響いた。


 ――顕現せよ!!


 光の爆発。感覚が無茶苦茶に揺すぶられ、唐突にぶつりと途切れた。


 続いて、どっ、と尻から落ちた衝撃。

 痛みに顔をしかめながら、目を開く。


 固い地面に、尻餅をついているようだ。幸いトラックの速度がそう出ていなかったらしい。


 しかし安堵は次の瞬間、驚愕に取ってかわった。



 桜の花弁が舞っていた。


 言葉を失うほど見事な桜の大群が、上天をも隠し、見渡すかぎりに咲き誇っていた。

 周囲の地面には文字とも絵ともつかぬ不思議な紋様の刻まれた魔法陣が描かれ、そしてその外から、抜身の太刀をもった少女が、絶句の表情でこちらを凝視している。


 ざわり、と血が湧きたった。

 なにが起きたのか理解するより前に、皙は少女の正体に思いあたり、かすれた声でつぶやいていた。


「ハミヤ……?」



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