第9話 エピローグ・1
「遅刻! 遅刻だ!」
俺が慌てて階段を降りると、もうレンが制服の姿でリビングに座り焼きたてのパンを食べていた。父さんはエプロンをして入院患者たち(犬や猫やたまに猿)の朝食を作り、その横で母さんがエプロンをしてフライパンを動かしていた。
「もっと早く起きないからだ」
父さんがそういって笑い、ジャッとザルの中に鍋に入ったお湯を開けた。振り向くとそのメガネが湯気に曇っている。
「レオはいつもこんなに遅いの?」
母さんがそういって笑い、テーブルに俺の分の朝食を置く。お皿にはスクランブルエッグとハムとウインナーが乗っていて、その横には果物の乗った小皿まである。「パン焼けてるぞー」という父さんの声を待たずに俺はトースターからパンを取り出し、レンの横に座ってお皿の中身を全部乗っけると、ケチャップをかけて口の中に放り込んだ。
「もっと落ち着いて食べなさい」
とん、と母さんが俺の前に牛乳を置く。俺はパンが喉に詰まって返事をすることもできず、慌ててその牛乳で口の中身を喉の奥に流し込んだ。
「プハッ!」
と息をつく俺の横で、レンはなにもいわず俺を見る。その目が俺を非難しているようで、俺はつい
「なんだよ」
と悪態をつく。レンは「べつに」といった後、
「おはよう」
と小声でいった。
「お、そういえば朝の挨拶忘れてたな。レオ、おはよう」
父さんがいい、母さんも続けて「おはよう」といった。
「おはよう」
俺も、またパンをほうばりながらそういって、ふと、今この瞬間の光景を見る。父さんがいて、母さんがいて、レンが、俺の隣にいる。朝の光がキッチンの窓から差し込んでいる。一階からは腹を空かせた犬たちの吠え声がする。俺がいままで見てきた毎日の光景が、いつもより騒がしく目に映る。こんな日が来るなんて、夏休み前は想像もしていなかった。
「どうしたの? レオ?」
黙り込む俺に、母さんが優しく声をかける。俺はパンを飲み込むと、「なんでもない」といって首を振った。
「口のまわりに、ケチャップがついてるわよ」
母さんがそういって俺の口元をその手で拭いた。照れくさくてなにもいえない俺の横で、レンがじっとその光景を見つめている。「なんだよ」と俺がまたいう前に、
「母さん、俺も」
といってレンは口を尖らせて母さんに差し出す。母さんは「あらあら」と笑いながら、なにもついていないレンの口元もその手で拭いた。
「母さん、ちょっと二人を甘やかしすぎだぞ」
「いいのよ。レオとはいままで一緒にいれなかったし、レンはずっと、こんなことなかったんだから」
そういって、母さんはまた笑った。俺はなんだか気恥ずかしいような気持ちでそんな母さんを見つめてしまう。俺の視線に、母さんはまたニコッと笑う。
「レオ! 遅刻だぞ!」
父さんの声で我に返り、俺は慌ててまた三階まで駆け上がる。制服に着替え、ソッコーで歯を磨いて、また玄関まで駆け下りる。そこにはもう靴を履いたレンが俺のことを待っていて、「レオ、早く!」と俺のことを急がせる。「わかってるって!」と俺は頷き、そして勢いよく玄関を開ける。
「いってきまーす!」
俺とレンがそろっていうと、
「いってらっしゃい」
と、玄関先で父さんと母さんが笑って手を振っていた。
そして、九月の東京も暑い。
俺は例のごとくダッシュで町を駆け抜ける。コンビニを抜け、ファミレスを抜け、橋を渡って角を曲がって、踏切を走り抜けるべくスピードを上げる。それでもやっぱり踏切はカンカンカンと鳴り始め、俺の鼻先で踏切棒は下がってしまう。
「あちゃー」
と俺は汗だくの体で空を仰ぐ。俺の隣ではレンが涼しい顔で立っていて、悔しいことにレンの体は汗一つかいていない。それどころか、俺はもう肩でゼーゼー息をしているのに、レンは呼吸一つ乱してもいなかった。
「おまえ、すげーな」
今さらながら俺はいう。
「そう?」
レンは特に自分のことをすごいとは思っていないらしく、なんでもないことのようにそれだけをいう。俺は呼吸を整えるために空を見上げる。そこには、夏が終わったとはとても思えないような、青く濃い空が広がっていた。
ドローンは、もう見あたらない。
あたりまえのそのことに、俺はなんとなく安心して一人で頷く。「なにやってるの?」というレンに「べつに」とだけ返事をする。そして快速電車がいった後の踏切の先の校門に、始業式だというのに仁王立ちで立ち構えている田中の姿を見て絶望した。
―――田中、始業式の日ぐらい見逃せよ。
そう思っても、もう遅刻は確定的だ。俺はまた、「はぁー」と深いため息をついた。
「おはよう! また遅刻! 久しぶり!」
教室に入ると、夏芽が真っ先にそういってきた。その後に琢磨と優二が、「おっす! 遅刻魔!」といって笑いながら近づいてくる。琢磨と優二は真っ黒に日焼けしている。俺のいなかった夏休みが、二人の間にもしっかり流れていたんだろう。俺も「おっす!」と返事をする。
「夏休み、どこ行ってたんだよ? 電話もつながらないし心配したぞ」
琢磨がそういう。俺は「ワリィ、ワリィ」と拝んだポーズで謝りながら席に着く。シャツのボタンを三つめまで外し、下敷きで風を送り込む。
「レオ、真っ黒だな~。ハワイでもいってたのか?」
俺に負けず劣らず真っ黒な優二が笑いながらそういって、「ちげーよ」と俺は返事をする。そして俺の首筋を見ながら、優二が顔を近づけてくる。
「あれ? おまえ傷口は?」
と、優二が不思議そうにそういった。
「傷口?」
「ほら、終業式の日に教えてくれたヤツ。首のところにあったのに、なんかもうなくなってるぞ?」
「マジ?」
そういわれて、俺は自分でもそこを見ようと下を向いたが、鏡がないと自分では見ることができない。傷がなくなっていることになんて、今まで全く気づかなかった。
「日焼けして見えないだけかな?」
優二がいったが、きっとあのときにこの傷も一緒に消えてしまったんだろう。受胎装置の中に入って、母さんと一緒に、また俺が生まれたときに。
俺はあのときの冒険を優二と琢磨に話したかったが、やっぱり信じてもらえるとは思えなかったのでいわなかった。その代り、この夏は西表島にずっといたことを話しだすと、優二が「スゲェ!」といって目を輝かせた。
「イリオモテヤマネコいた? カンムリワシは?」
意外に動物好きの琢磨がいう。俺が話しだすと、夏芽が「なに? なに?」といって近づいてきた。俺は西表島での出来事を、すべて事細かく話しだした。シュノーケリング、大将の家、四人の小さな子供たち、カヌーでの川下り、魚釣り。あの、アカデミーでの冒険以外のすべてのことを。
そのどれも、みんなスゲーといって聞いてくれたけど、あの冒険を話せないのはやっぱり淋しかった。みんなに秘密を持ってしまったことが、胸の奥で、スウスウする。
―――でもいいんだ。
レンになら話せる。レンになら、俺の全部を話せるんだ。
「みんな、席つけ~」
そこで浅井先生が登場すると、みんな慌てて自分の席に駆け戻る。浅井先生は教壇に立ったとたん、
「レオ! また遅刻か! 始業式の日ぐらいしっかりしてくれ!」
と大声でいった。その声に教室中が笑い声に包まれて、俺は「すいません」と縮こまる。夏休み前となにも変わらない、いつもの風景、いつもの日常だ。
でも、変わったこともある。俺はそれが、本当に嬉しい。
「さて! 始業式だが、転校生を紹介するぞ!
浅井先生の言葉に教室中がざわめき、みんなが一斉に俺を見る。俺はその視線に気づかないフリで漣を待つ。緊張した顔で、レンはすぐに教室に入ってきた。その姿に笑ってしまう。夏の間あんなに頼もしかったレンでも、緊張することがあることに安心する。
「
そういって頭を下げるレンに、俺は自然に笑顔になる。お調子者の琢磨が拍手を始めると、みんなが一斉に拍手をした。その拍手に顔を上げたレンが、まだ緊張はしていたけれど、安心したように笑って見せた。
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