第7話 神の座す場所、再会
カンピレーの滝。
レンはそれが島の中心にあるといっていた。でもどこが島の中心なのか俺にわかるわけもなかった。それでも俺は白い体を翻して、森の中を走っていく。不思議に、夜も森も怖くなかった。ホワイト・ライガーの獣の遺伝子が、俺にそう思わせるのかもしれない。他の獣の鳴き声が夜の森には響き続けていたが、その声はどれも俺の姿を見る前に遠くに掻き消えるように消えていった。
そして、俺の体がもう本当に人間ではないことを俺は知った。
鼻が、水の匂いを嗅ぎ分けるのだ。森の中の土の匂い、木の匂い、動物たちの様々な匂いの先に、大きな川の匂いを俺の鼻は感じていた。そして音。水の匂いをたどりながら、耳は集中して水の流れる音を探す。水が流れる音の先の、水が落ちる、滝の音を。
アカデミーが俺を探して襲ってくるかと思ったが、もうホワイト・ライガーになってしまった俺に興味はないのか、アカデミーの教授たちも、操られた動物たちも、俺に襲いかかってくることはなかった。俺はただ森の中を走る。夜の中に、幻のような白い残像を残しながら。
そして、一本の川に出た。
川の淵を下流に急ぐ。少しづつ川は大きくなっていき、そして水の落ちる音が、耳を澄まさなくてもはっきりと聞こえ始めていた。俺は急ぐ。この先がカンピレーの滝だと、確かな確信が俺の中に響く。心は焦り、足は早まり、俺はまたレンの名前を呼び始める。レン、レン。俺の仲間、俺の唯一の、同じ仲間を。もう川辺ではなく、俺は川の中を走っていた。川は浅く、俺はその中を水を跳ね上げながら進んでいく。月が遠くで俺の姿を照らしている。跳ね上げる水の中に、俺の姿が、映っている。
息が切れたころ、その場所に着いた。
ザアザアと滝の流れる音がする。そこは高い場所から水が落ちるピナイサーラの滝と違い、いくつも集まった低い段差の岩から落ちる滝が集まる、円形の、闘技場のように開けた泉のような場所だった。
俺はその中心で立ち止まった。
レンはいない。父さんも。俺はぐるりとあたりを見渡す。円形の泉の周りは滝に囲まれ、その周りを鬱蒼とした森の木々が囲っている。鳥の声が鳴く。その羽ばたきの音が聞こえる。レン。呼んでみても、やっぱりその声に返事は返ってはこなかった。
水の中に、俺は体を横たえた。
少し疲れた気がする。目を閉じるとそのまま眠ってしまいそうだ。眠ってしまえば、すべてが夢だったと、自分の部屋のベットで目が覚めるのかもしれない。そんな期待をまだ俺は持っている。でも体の中に響く孤独が、もう俺をそんな夢から遠ざける。これは現実で、約束の場所には誰もいない。それでも俺はレンを呼び続ける。レン、レン。声は帰ってこない。そして、俺は目を閉じていた。
滝の音が、止まった気がした。
どれくらい目を閉じていたんだろう? 俺が目を開けると、そこに、レンが、暗い闇をまとうようなジャグリオンの姿が、目の前にいた。
レンはなにも俺に伝えることなく、真っ直ぐに俺を見つめていた。俺はしばらくそのまま動けなかった。夜よりも深く黒いその姿が、月の光に照らされるその姿が、あまりにも気高く美しかったからだ。
レンは、俺にゆっくりと近づいてきた。俺は立ち上がることができず、ただ首だけをレンに差し出すように動かした。
レンが、俺の鼻先を舐める。
俺はそのままレンの首筋に顔を埋める。柔らかく毛が絡み合う。月の光が二人を照らし、影の中で俺たちは一つの魂のように重なり合う。こんな安心を、俺は感じたことはなかった。一人じゃないということが、こんなに俺を満たしていくなんて、知らなかった。
滝の音が、森のざわめきを静寂に変える。この場所から、世界はどこまでも広がっていくようだった。
そうだ。ここから始まるんだ。
俺たちは体を離し、もう一度お互いの姿をその目に見る。レンの黒い体と、俺の白い姿。ただその姿を、お互いの目に焼き付ける。そして―――、
レンの肩越しに、暗い影が浮かび上がる。その影は滝の上に何体も浮かび上がり、不気味な銅像のようにピクリとも動かない。その異形の姿。レンも俺の肩越しを鋭い目で睨み付ける。円形に落ちる滝の上で、その影は俺たちを囲うようにそびえ立っていた。
「遊びは終わりだよ」
すでに聞きなれた声が、肉声のままこだまする。俺たちを囲む一番高い滝の上に、ひとつだけはっきりとした人影が浮かぶ。Drだ。そしてその隣には手を後ろで縛られた父さんが、教授にその手をつかまれながら立っていた。
―――父さん!
と俺は声にならない声を上げる。その声はグヮウ、としか響かなかった。
「レオ! レン!」
叫ぶ父さんにDrは容赦なく殴りつける。その姿に、俺とレンの咆哮が鳴り響く。父さんは殴られてもぐっとこらえ、Drをキッと睨み付ける。Drは笑った。
「まさかカンピレーの滝が、最後の場所になるとはな。ここは、なんて呼ばれている場所か知ってるかい? 神の座す場所、神々の集う場所だよ。なあ、レオくん? 新しい命を作り出せる私に、とてもふさわしい場所だと思わないかい?」
神の座す場所。たしかに、その名にふさわしい場所かもしれない。でもはっきりいってDrに似合う場所じゃない。あいつはそんな大きな名前がふさわしい男じゃない。俺は唸り声を続ける。あの男を倒し、父さんを助け出し、母さんに会いに行く。
「ねぇ? そしてここは、君たちの墓場だよ。生きている君たちのデータは、もう十分に取れているんだ。あとは死んで私の役に立つことが、君たちの使命なんだよ」
後ずさるレンの前に俺は立つ。Drの支配力は、まだレンに影響を与えている。俺はレンを守るために、生まれて初めて上げるホワイト・ライガーとしての咆哮をDrに向けて解き放った。
「元気がいいね」
Drは楽しそうに笑っていう。本当に嫌な奴だ。あいつのせいで俺は母さんと引き離され、俺とレンは
―――レンを、守るんだ。
「グオオオオオオオオオ!」
俺の雄叫びが森を揺らす。表情一つ変えず笑っていたDrは、その声に虫唾が走るような笑顔をピタリとやめ、その本性を初めて顔の表面に張り付けた。氷よりも冷たい、残酷な無表情。そしてその表情のまま、
「やれ」
と一言いい放った。
その瞬間、周りを囲む影たちが一斉に俺たちに飛び掛かってきた。虎縞のグリズリーが、ワニのウロコを持ったゴリラが、次々に俺たちにその凶暴な力で襲いかかる。数が多すぎて、俺たちは防戦一方だ。俺の鬣の横を分厚い風圧と共にゴリラの拳が過ぎ、鋭い一角の角を持ったオオカミが俺の腹にその角を突き立てようと疾風になって襲いかかる。俺はすべてギリギリの距離でその攻撃を避け、体中から湧き上がる闘争本能に任せて牙を剥き爪をかざした。レンも同じように俺の横で攻撃を避け続けたが、どうしても敵に致命的な一撃を与えるスキがないようだった。
しばらくそのままの混戦が続き、俺はふと妙なことに気づいた。
グリズリーの爪が俺に向かって振り落とされる。蛇の尻尾を持つ鷲の爪が、天空高くからレンに向かって急降下する。俺は紙一重でその爪を避け、レンは体を回転させて鷲の一撃を身軽に避ける。俺たちは追い詰められていたが、それでもまだ、体のどこにも傷を負っていなかった。
―――レン。
―――うん。
レンも気づいていた。目の前にいる
―――どうしてだろう?
―――レオ、耳を澄まして。
そういわれて、攻撃を避けながらも俺は耳に意識を集中する。森のざわめきが聞こえる。滝の音も相変わらずだ。そして、その音の中に紛れるように、小さな声たちが俺の中に響いてきた。
―――タ、スケ、テ・・・。
―――タス、ケ、テ・・・。
レンの声じゃない。折り重なるようなか細い声が、いくつもいくつも水滴の響きのように聞こえてきた。
―――レン?
―――こいつら、苦しいんだ。
レンがオオカミの牙を避ける。すれ違いざまに、レンはその背中に噛みつくことができたはずなのに、レンは牙を見せただけで口を閉じる。はっきりとは見えなかったが、レンの黄金の瞳には、うっすらと涙が滲んでいたような気がした。
―――俺と同じだ。こいつら、苦しいんだよ。
レンは俺に語りかける。その響きの悲しみに、俺の胸まで痛くなる。
―――レンも、苦しいの?
―――ずっと苦しかったよ。仲間がいなくて、誰もいなくて、俺は、ずっと苦しかった。
―――ずっと?
―――生まれてから、ずっと。レオ、君に会いたかった。世界で君だけが、俺と同じだったんだ。
その瞬間、レオの頬にグリズリーの爪が掠める。大勢を崩したその体を圧し潰そうと、金色のゴリラが月を背に舞い上がる。
―――レン!
俺はレンの体に覆いかぶさり、ゴリラの圧力をその身で受けた。その状況に、ここにいるすべての
「グオオオオオオオオオオオ!!!!!」
俺は我知らず大声で吠えていた。俺の体が潰れるほど、レンの顔の歪みも増していく。限界なんてとっくに超えていた。それでも、レンを守りたかった。
叫び声は、天を貫くほどの声で俺の体中から放たれた。雄叫びを繰り返すほど、俺の体の中になにか大きな力が集まるのがわかった。俺はその力を集めるために何度でも叫び声を繰り返す。
「オオオオオオオオオオオ!!!!!!」
プツンと、俺の中でなにかが切れた。俺は瞬間、体を旋回させて俺たちを覆う
「まさか、そこまでの力があるとはな。驚きだよ、白神獅子くん」
初めて、驚きの表情をDrは見せる。俺は間髪入れず、Drに向けて飛び掛かっていった。
パン! と、そのときに音がした。
俺はDrの目の前に倒れ込んでいた。なにが起こったのか全く分からなかったが、右肩に、熱い火のような痛みが走ると、倒れ込んだ俺の場所から、水が赤く染まっていった。
「そんなプログラムはデータにない。君は本当に、面白すぎる実験体だね」
そういって、俺の頭に足を置いた。その瞬間、レンの雄叫びが大きく聞こえ、Drに襲いかかるのがわかった。でもその瞬間、もう一度パン! と銃声が響き渡った。
レンが俺の足元に倒れていた。そしてまた水が血に染まる。俺は吠え声をあげ立ち上がろうとするが、体に、力がはいらなかった。
「銃で撃たれるのは初めてだろう?」
Drが俺を踏む足に力を込めながらそういって笑う。抜け続けていく血のせいなのか、妙にその声がくぐもって聞こえる。グォウ、とレンの声がか細く聞こえる。
「マンガみたいに、撃たれて起き上がれるようなものじゃないよ。肩を打ち抜いてる。おとなしくしていた方が賢明だ」
もう笑い声さえDrはあげない。冷徹な、物を見る目で俺のことを見下すと、俺の頭を思い切り踏みつけた。悔しかったが、Drのいう通り、撃たれた場所から体中の血と力がどんどんと抜けていくようで、俺は立ちあがることはできなかった。そして痛みが遅れてやってくる。撃たれた場所は本当に燃えるようで、その傷口から硫酸が全身に流れ込むように、傷口だけじゃなく、体中が焼けるようだった。耳までかすみ始め、俺たちの名を呼ぶ父さんの声が、遠く消えていくようだった。
「でもまあ」
Drはいった。
「君たちへの最後の褒美だ。そこまでして会いたかった人に、会わせてやろう」
そういうと俺の頭から足をどけて、カツンと、水の流れる地面を蹴った。そうすると俺の体の下で地響きが鳴り始め、俺たちのいる円形の滝壺全体がガクン、と揺れた。
信じられないことに、滝壺ごと地下に向けて下降していった。
ザアアアアア――― っと落ちる滝の水が水飛沫を上げ、その飛沫が霧になって視界を奪う。ガコン、という衝撃を感じて滝壺の下降が止まったとき、月は遠く小さく浮かび、その空が見える空間は、正円の形に区切られていた。
「最後のステージだ」
Drの笑みが、さっきまでとは別人のように暗闇に歪む。その歪みの先に暗い人工的な空間が広がっている。どうやらここも、アカデミーの地下施設のようだった。
「神の座す場所。さっきここのことをそういったな?」
Drはいう。そして一人、滝壺の上から俺たちに背を向けて歩き出す。
「その名のとおり、ここはアカデミーの心臓部だ。君たちが今まで見てきたアカデミーの研究のすべてが、この場所で生まれるんだ。神である私と、君のお母さんの力でね」
母さん、その名を聞いて俺は全身の力をもう一度振り絞る。なんとか立ち上がろうと脚に力を入れるのに、脚は力なくガタガタと震えて崩れてしまう。レンも同じだった。レンはよろめきながら立ち上がり、そしてまた力なく崩れ落ちる。
「君のお母さんはなぜ、君をわざわざこんな場所に呼んだんだと思う? 危険を冒してレンを君のもとに送り、来れば君も危険にさらされるのがわかっていたのに。普通の人間に戻すため? そのために、なぜ君がここに来る必要があったと思う?」
Drはそういいながら闇の中に消える。そして次の瞬間、ガシャン! という鈍い音と共に電源が入れられ、この場所全体が眩しい光に照らされる。突然の眩しさに目を閉じて、うっすらと目を開けた瞬間、
そこに、母さんがいた。
大きく丸い、液体に満たされたオーブのようなガラスケース。その中で、長い髪を揺らして、目を閉じた母さんが浮かんでいた。夢で見た女の人だ。写真で見た、母さんの顔だ。
母さん!
俺の口から吠え声が漏れる。Drは愛おしそうにガラスケースを撫でつける。俺の背中に怒りが稲妻のように走る。「母さんに触るな!」その吠え声が、むなしく施設の中に反響する。父さんも隣で教授に手を縛られたまま、呆然としたように母さんのことを見つめていた。
「これは、受胎装置だよ」
Drはいった。
「この中は人工的な羊水で満たされている。つまり、胎内の再現だ。君のお母さんは、この中で君をもう一度産むつもりだったんだ。レオくん、君がここに入れば君とお母さんは羊水の中で細胞レベルで混じりあい、そのときに君を作り上げている混合細胞は排除される。そして混合細胞が排除された後、君は人間としての形を取り戻し、もう一度生まれるんだ。それはまさに、神の技だと思わないかい? 君のお母さんは、そのためにこの装置の中で君を待っている必要があった。だから君をわざわざ、この場所まで呼んだんだよ」
母さん、母さん!
俺はDrの説明よりも、ただ母さんの姿を見つめていた。理屈じゃない。ただ心が体が母さんを呼ぶ。初めて会う母さん。母さん、母さん。俺の体はその想いに引きずられるように、ゆっくりと立ち上がり唸り声を上げていた。
「すごいね」
Drはわざとらしく拍手をして俺のことを褒めたたえた。その拍手の音がパン、パン、パンと空間の中に反響する。
「でも私は、ただの人間の君には興味がないんだ」
拍手を終えると、Drは冷徹な声でそうつぶやいた。
「それよりも、その姿の君を解剖したい。人間の細胞が、今の君の体の中でどうなっているのかが知りたいんだ。協力してくれるね?」
クッ、と、Drの口元が引きつれるように歪んでいく。そして一言、
「さあ、サヨナラだ」
という声が低く響いた。
その瞬間、俺たちの周りを取り囲んでいた
「グオオオオオオオオオオオ!!!!!」
その雄叫びに、不思議なことが起こった。
俺に襲いかかってきた
シン、とあたりに静寂が走った。
―――ナ、カ、マ。
そしてこいつらは、俺にゆっくりと近づいてくる。一匹が俺の傷口をいたわるように舐める。他の
「な、・・・んだって?」
Drは目の前の光景が信じられないといったように、初めて余裕をなくした声を漏らす。
「こんな、・・・バカな。おまえたち! そいつを殺せ! 喰いちぎれ!!」
Drの声は、虚しく
「来るな! 母親がどうなってもいいのか!」
脅しだとわかっていた。母さんの眠るその装置が、そんな小さな拳銃一発でどうにかなるとは思えなかった。俺はDrに向けて足を進める。Drはもう、ホワイト・ライガーの姿の俺にとって、ただのひ弱な人間でしかなかった。
足を進めるごとに、俺の中に熱い怒りが溜まっていく。もう一歩足を進めると、その怒りが黒い炎に変っていく。その炎が俺の中で燃え盛り始める。俺の体は、その生まれて初めて感じる暗く黒い感情に支配されていく。その感情の名前はわからなくても、その感情に自分が支配されることは心地よかった。俺の中にはどす黒い力が満ちて、その力は拳銃で撃たれた痛みも軽々と埋めて俺の中に漲っていく。もう俺は、Drのその喉を一噛みするだけでいい。それですべて終わる。それですべてが、終わるんだ。
―――憎しみだ。
その感情の正体に気づいたとき、俺はDrに襲いかかっていた。
「だめだ! レオ! 殺すな!」
そう、叫んだのは父さんだった。俺は爪の下でDrの体を抑え込んで父さんの方を振り向いた。手は後ろに縛られたままだったが、もう教授はどこかに逃げてしまったのか、父さんは一人で、俺に向けて叫んでいた。
俺は父さんのいった意味がわからなかった。
殺すな? どうして?
こいつが悪の元凶だ。俺の体に人喰いバクテリアを感染させ、母さんを使い俺を実験台にして、母さんを俺から引き離し、レンを支配して、そしていま、俺のことを殺そうとした。そいつをどうして殺してはいけないんだ? 殺すための爪も牙も、俺は持っているのに。今少し指先を動かすだけで、こいつのすべてを、終わらせることができるのに。
どうして?
「殺したら、もう元の自分には戻れない。人間に戻れたとしても、もう元のレオには戻れないんだ! だから殺すな! 憎いのはわかる。でも殺すな。憎んでもいい。でも憎いからといって、殺してしまってはダメなんだ!」
「グヮウ?」
父さんがなにをいっているのか、理解することができない。言葉の意味はわかる。でも理由が俺の中に伝わらない。その間にも俺の憎しみは俺の中で膨れ上がり、Drの首元に置かれた爪が鋭さを増す。もうその爪先がDrの首に軽く刺さり、そこに血が、薄く滲んでいた。
「許す必要はない。でも殺す必要もないんだ! レオ! 離れろ! その男はもうなにもできない!」
憎しみで満たされた俺の心に、父さんの言葉は何一つ響かなかった。言葉の意味が理解できないんじゃない。ただ、俺の中に満たされた憎しみが、ただ爪を立てるだけで完結できるその憎しみが、甘く、心地よかったからだ。
「グヮウ」
と俺は父さんに返事をした。ホワイト・ライガーの俺の顔が笑えるのかはわからなかったが、そのとき、多分俺は笑っていたと思う。そしてその笑顔のまま口を開き、Drの喉にその牙を埋め込んだ。
「グォォ―――――ン!!」
その瞬間、レンの声が鳴り響いた。それは今まで聞いたどの咆哮とも違う、切なく、悲しみに濡れるような声だった。
俺の牙はDrの喉を噛み切ろうとする寸前で、その筋の立った動脈に先端が当たったまま静止した。そしてレンの方向を振り向く。レンは血に濡れた体を引きずるようにして、俺のもとに近づいてきた。
その姿を、不思議な気持ちで見つめる。
レンはよたよたと俺の傍に近づくと、その短く赤い舌で、俺の鼻先をそっと撫でた。俺はレンがなぜそうするのかわからず、レンのことをじっと見つめる。レンは、いつまでもいつまでも、俺の鼻先を舐め続けた。
「ひ、ひぃぃぃ」
大型の
でもレンは俺の鼻を舐め続ける。小さな子供が、笑いながらじゃれ合うみたいに。
俺の中の、憎しみの炎が揺れる。その炎はレンの舌の柔らかさに、少しづつ小さくなっていく。俺はレンを不思議な気持ちで見つめる。レンはいつまでも、俺の鼻先を舐めている。
ペロリと、俺も小さく舌を出した。
レンの、柔らかい毛が舌先に触れた。レンは小さく頷くと、鼻先を押し付けるように、俺の鬣に首を埋めた
そのとき、俺の体中から力が抜けた。
憎しみは跡形もなく溶け去り、今、自分がなにをしていたのかが信じられないほど心が空っぽになり、その空っぽになった心に、レンの柔らかさだけが満ちていく。体から心が伝わる。心に、温かいものが満ちていく。
Drを抑える脚から、自然に力が抜けていた。Drはそのすきを逃さず俺の下から悲鳴を上げて逃げ出していく。でもレンの体温に満たされた俺に、そんなことはもうどうでもよかった。
でもDrは惨めな銃でおとなしくなった
カッ! と天窓のように開いた滝の穴から強烈なライトがいくつも降り注いで俺たちを照らした。俺はなにが起こったのかわからなかったが、Drもそれは同じだったらしい。俺たちが慌てふためく中、父さんだけが冷静にその場に立ち、Drのことを見つめていた。
「終わりだ、Dr」
ライトの光と一緒に、ヘリの羽が回る轟音が響き渡る。父さんはその中で悠然と言い放った。
「国は、この場所を探してたんだ、Dr。この場所だけは、どうしても突き止めることができなかった。この、アカデミーの心臓部はね。Dr、君とレンが、ここまで連れてきてくれたんだ」
「なっ!」
呆然と父さんを見るDr。空のライトの中からはロープがたらされ、素早い動きで銃器を持った迷彩服の男たちが無数にロープを伝い降りてくる。一陣が降りたち号令が飛ぶ。男たちはあっという間に隊を作りDrを囲い込むと、皆一斉にその銃身をDrに向けた。
「ック!」
Drはなおも諦めずに周りを見渡し、「行け! 殺せ!」と
「くそぉおおおお!!」
それが、Drの断末魔だった。
「ほっほ」
と笑うその姿に見覚えがあった。蝦茶色のスーツ、帽子と杖、そして、顎を隠す白く長い髭。
―――あ!
と俺は思い当たった。この島に来るとき、空港で、俺たちに飴をくれたおじいさんだった。
「首相!」
と父さんがそのおじいさんに頭を下げる。首相? 首相!?
―――え?!
と俺が驚いているのを気にする様子もなく、「ほっほ」といいながらその人は父さんに片手を上げると、俺たちのもとにまっすぐと歩いてきた。銃を持った男たちは道を作るようにその人の歩く道に整列し、背筋をまっすぐに伸ばし全員が全員敬礼した。
――――えええええ!!
俺はそれ以上驚きを表現する言葉も持たず、ただ俺たちに向けてまっすぐ歩いてくるそのおじいさんを見つめていた。首相の顔もわからなかった自分が恥ずかしかったが、だってまさかそんな人が、空港で自分の隣に座るなんて思わないじゃないか!
「勉強不足だと、いったじゃろう?」
俺たちの目の前に立ち止まり、そのおじいさん ―――いや、首相――― は楽しそうな声でいった。俺たちがただそのおじいさんを見上げると、おじいさんは俺たちの頭をゆっくりと撫でた。
「助かったよ。アカデミーが西表島に研究所を作っているのはわかっていたんだが、肝心のこの場所がわからなくてね。だから君たちに助けてもらったんだ」
なんのことを言っているのかわからず、俺は首をかしげる。それはレンも一緒だった。おじいさんはまた「ほっほ」とふくよかに笑った。
「飴じゃよ。あの飴は、発信機だったんだ。君たちは
―――え、えええええ!!
俺は呆然とした。あの飴がまさかそんなものだったなんて想像もしていなかった。
「さてと」
とおじいさんはレンの頭から手を放した。
「もう大丈夫だ。君たちには治療が必要だね」
そして「おい!」と隊員に声をかけると、隊員たちは担架を持ってレンに駆け寄った。そしておじいさんは、
「レン、
と優しくいった。レンは不安そうにおじいさんを見つめ、その次に俺を見つめたが、俺が頷くとポ、ポポポと体から白い蛍のような光を発しながら、ジャグリオンから人間の姿に戻り、そしてそのまま倒れ込んだ。迷彩服の男たちがそのレンを受け止める。そして気を失ったレンを担架に乗せると、号令をかけてヘリコプターに走っていった。大丈夫だとは思いながらも、俺は心配でそのレンの姿を目で追いかける。そうするとおじいさんが、
「大丈夫」
といって俺の頭をもう一度撫でた。
「さて、君はこっちだね」
と、母さんが浮かぶ受胎装置に目をやった。
―――母さん。
真近で見るその装置は巨大で、中には琥珀色の液体が隙間なく満たされていた。そしてその中央に、折り曲げた膝を抱きかかえる姿で、母さんが浮かんでいた。
―――生きて・・・る?
時折その口から泡のようなものが出る。表情は安らかで、その姿は水の中で眠っているようにしか見えなかった。
「ここで、ずっとレオのことを待ってたんだ」
いつの間にか隣に来ていた父さんが、俺の肩に触れそういった。その目は、愛おしそうに母さんを見つめている。そうだ、父さんも母さんにずっと会っていなかったんだ。俺が生まれてから、一四年の間、ずっと。母さんが、俺を助けたから―――。
父さんを見上げると、俺の視線に気づいた父さんがにっこりと笑った。メガネの奥に光るものがある。父さんはメガネを外し、笑顔のまま涙を拭いた。
「きれいだろう?」
父さんはいった。それは俺に、自慢の妻を紹介するように、照れたような言い方だった。
「レオ、おまえのお母さんだよ」
その言葉に、俺はなにも答えることができず母さんの姿をじっと見つめた。母さん、母さん。生まれて初めて見る、俺の、母さんだ。
「レオ、あの中に入るんだ」
父さんがいった。
「そうすれば、レオ、おまえは人間に戻れるはずだ。混合細胞も、
頷く俺の肩を父さんが促す。俺たちは装置の裏手に回り、そこにある階段を上って装置の上にたどり着いた。横にある機材を操作し、父さんがオーブのようなその装置の天窓を開ける。そこはかすかに甘い香りの液体に満ち、その中で、母さんの髪が揺れていた。
「さあ」
父さんはいった。
「レオ! 飛び込め!」
その声を合図に、俺はその中に飛び込んだ。口の中に、甘い液体が一瞬で満ちる。俺は息を吐きだしたが、不思議に水が灰の中に満ちてしまうともう息苦しくはなかった。流されるように俺は母さんの体の傍に寄る。母さんの顔を正面から見る。その瞳はまだ開くことはなかったが、俺は両手を広げるように、思い切り前脚を開くと、母さんの体に重なるように、その体に身を寄せた。
「行くぞ! レオ!」
父さんがそういうと、装置全体がブゥゥゥ・・・ンと振動を始め、その振動に合わせるように、白い光が俺の体から立ち上る。母さんの体も同じだった。そして振動が強くなると、すべてが真っ白い光に包まれた。 ・・・記憶があるのは、ここまでだ。俺は自分の体が崩れていくような感覚の中で、必死に、母さんのことを抱きしめていた。
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