第6話 ホワイト・ライガーは孤独に泣く
夢を見た。俺は一人で、浜辺に座り海を見ていた。
海の上には月が光り、その光が遠い波間に反射して波を照らしていた。俺はただ月と、波と、その果てにある水平線を眺めている。声を上げると唸り声が漏れていた。うつむくと、白い毛に覆われた手の下で、鋭く尖った獣の爪が、短く砂を掻いていた。
「レオ・・・、レオ!」
目を開けると、俺はまた椅子に縛り付けられていた。ズッシリと頭が重く、今の状況がすぐに把握できない。ブンブンと頭を振ると、またさっきの白い部屋の中で、今度は父さんと背中合わせに椅子に縛り付けられていた。
「大丈夫か?」
「・・・大丈夫」
見上げるとあの高い窓の中で、Drが俺たちのことを見下ろしていた。俺がいる場所からでもわかる、そのニヤニヤとした笑い方。そしてその隣には、ジャグリオンの姿のままのレンがおとなしく座って、同じように俺たちのことを見下ろしていた。
「レン!」
レンの耳に届くわけもないのに、俺は思わずそう叫んだ。レンは表情も変えず、ただシッポをゆっくりと振っただけだった。
『お目覚めかな』
嫌な声がまた響く。俺はその声の方向を睨みつける。睨みつけても無駄だとわかっていても、どうにかしてあの腹の立つ顔に一発パンチをくれてやりたい。
どうすればいいだろう?
俺はまたガタガタと体を揺らしたが、きつく縛られたロープが外れるわけもなく、手首が痛くなるだけだった。
『さて、私はこれからなにをすると思う? レオくん』
「知るか! ロープをほどけよ!」
『元気がいいね』
あいつの笑い声はもう聞き飽きた。俺はやけになって体を前後左右に揺らす。「うわあ!」という父さんの声と共に椅子のバランスが崩れ、俺たちは床に倒れ込んだ。俺は激しく頭を打ち付ける。あまりの痛さに、情けなく涙が出そうだった。
『君はもう、
ゾッとした。あいつは本当にそのつもりなんだろう。俺は体のすべての毛が粟立つように逆毛立ち、ぞわぞわと、髪の毛まで逆立っていくのを感じた。頭の裏側で、なにかが今にも弾けそうな音を出す。
『レンに会いたいんだろう? 会わせてあげるよ』
そういったDrの方向を見上げると、そこにいたはずのレンの姿がどこにもなかった。そしてシュン! と扉が開く。そこに、レンの姿があった。
「レン・・・」
ジャグリオンの姿のままのレンに声をかける。レンはその姿でも俺の声がわかるはずだった。獣なのはその姿だけで、その心は、俺の知っているレンのままのはずだった。
でも、その瞳が―――。
知っているレンの目じゃない。気高かった黄金の目は赤く血走り、口からは涎を垂らして呻き声のような唸り声をあげている。目の焦点は定まらず、落ち着きなく首を振りながらあらぬ方向に向けて吠えたてる。
「レン?」
俺の声は、届いていないようだった。レンはなおも首を振りながら俺にゆっくりと近づいてくる。目はますます血走り、時折口を大きく開けて牙を丸ごと空間にさらす。
『私は、失敗作は嫌いなんだよ』
Drがいった。レンはますます俺に近づいてきた。「なにか飲まされたな」と父さんがつぶやく。父さんも、必死にロープを外そうと体を揺らす。その反動で、俺の手首にはますます強くロープが食い込む。
レン、かわいそうに―――。
その姿のレンにも、俺は恐怖は感じなかった。ただ、悲しくて悔しかった。俺をずっと守ってくれたレンが、あんな男のせいで、今目の前で苦しんでいる。俺にはどうすることもできない。俺は無力で、レンや父さんや母さんに守ってもらってばっかりで、なに一つ自分で守れない。それが悔しくて、悲しかった。
『レン、行け』
笑うのをやめ、鋼鉄のように固く響くその声を合図に、レンが俺に飛び掛かる。俺は悲しみの中で目を閉じる。レンの吠える声が、泣き声のように頭の奥にまで響く。レンの牙が俺の体に突き刺さる。俺はそのとき、生まれて初めて、自分の死を覚悟した。
・・・耳の奥に、心臓の音を感じた。
死んだはずの俺が目を開けると、俺と同じ目線の先に、レンの、ジャグリオンの黒い顔があった。その目が戸惑うように俺を見つめている。レオ――― と俺の名前を呼ぶ父さんの声が妙にくぐもって聞こえる。俺は父さんに返事をしようとする。でも声がうまく出ない。出たのは、呻くような獣の声だった。
俺はそのとき、すべてを理解した。
俺の体は、ホワイト・ライガーに変っていた。不思議になにも感じなかった。そのことが怖いとも、悲しいとも、俺は感じていなかった。ただ、なぜか目の前にいるレンのことをものすごく近く感じた。俺の体は完全にホワイト・ライガーに
レンも、そう感じているのがわかった。
殺気立っていたレンの目からは少しづつその気配が消え、あの、俺の知っているレンの目にその色が変わっていった。俺たちはしばらくそのままお互いの目を見つめ合い、そして、ゆっくりとお互いに近づいていく。レンが俺の鬣に首筋を回し、俺も、レンの首筋に俺の鼻先を埋めるように近づけた。
―――こんな気持ちだったのか。
―――レン。
俺は話しかける。言葉は口から零れなくても、そう思うだけで、レンに俺の気持ちが伝わった。
―――レオ。
レンは答えた。頭ではなく心の中に、その声は直接響いてくるようだった。
―――ごめんな、助けられなかった。
―――いいんだ。なんだかすごく、自由な気持ちだよ。
―――自由?
―――うん。自由だ。
―――自由ってなんだ?
―――わからないのか?
―――うん。母さんもいってたけど、俺にはなんのことかわからない。
―――この島から、出ればわかるよ。
―――この島から?
―――うん。出よう、一緒に。
―――出れないよ。Drがいる。
―――倒そう。そして、母さんに会いに行こう。
―――母さんに?
―――うん。
言葉がない会話は、言葉になるはずの意識がすべて色になって心に流れ込んでくるようだった。俺たちの会話は青や赤や黄色の波になって、俺たちの中で囁かれた。それは言葉で会話をするよりもずっと、心の内側のすべてまで、伝え合える作業だった。
―――行こう。
レンの意思が、俺の中に流れ込む。俺は頷き、レンとともに、窓に立つDrの姿をキッと睨み付けた。
『クッ』
なにがおかしいのか、Drは窓の中であの嫌なポーズ ―――右手で口元を抑え、左手でその右手を支えている――― で体を小刻みに揺らしていた。俺たちはなおもその姿に睨みをきかせる。自然に口から低い唸り声が漏れ始め、俺とレンは、戦いの合図を鳴らすように二人して高く喉を天に仰ぎ、雄叫びを上げていた。
『最高だよ、君たち』
Drの声が響く。俺たちはその姿に牙を剥く。
『でも遊びは終わりだ。これで、生きている君たちに用はなくなったからね』
そういった瞬間、部屋の天井近い部分にいくつもの穴が開き、そこから水が轟音を立てながら降り注いだ。
『君たちの死体を、私は解剖したいんだ。それじゃ、せめて最期まで、みんなで仲良く元気でな』
そういい、Drは俺たちの視界から消えていった。その間にも水はどんどん部屋を埋めていき、すぐに俺たちの足首までも浸すほどになった。
「レオ!」
俺の
『俺は大丈夫』そう、伝えたつもりだった。でも父さんはボロボロと泣き始め、俺の鬣をその腕でしっかりと抱きしめた。
大丈夫だと、体で伝えるために顔を寄せる。父さんは俺の目を見て、まだそれでも泣き続ける。俺はその涙を拭くように、もっと深く父さんに自分の体を近づける。
「ごめんな、ごめんなレオ・・・」
父さんの涙はまだ止まらなかったが、なにかを決心したように涙を拭いた。その間にも水は注ぎこまれ、もう、父さんの腰にまで水は溢れかえっていた。つまり、俺とレオの体の半分は、もう水の中だった。
レンは、その間部屋の隅で水を弾きながら床を掻いていた。そして俺たちを見る。俺にはレンの言葉が伝わったが、父さんは一瞬考える顔をすると、
「排水溝か!」
と大声を上げた。そしてレンのもとに水を掻き分けて近づくと、その足元に手を伸ばした。
確かに、そこの床には周りの床と線を引いたように区切られた場所があった。しかも巨大だ。この部屋に満たされた水を排水するぐらいの穴だから、俺たちの体ごと押し流すには、十分なぐらいの幅があった。
でもどうやって開ける?
父さんはもう泳ぐように部屋中をバシャバシャと駆け回ったが、役に立ちそうなものはなにもなかった。俺の
そして、もう天井に鼻先が届く。
俺たちは必至で息を続けたが、呼吸しようともがくたびに口から思い切り水が入り込んできて逆に死にそうになる。それでも鼻先だけなんとか水の上に出して、それももう限界だと思ったとき、ゴ、ゴォォォォォという音が水の中から伝わってきた。
なにが起こったのかわからなかった。
部屋を満杯に満たした水は大きな渦を巻いて回りはじめ、俺たちはその渦になすすべもなく飲み込まれていく。そしてその渦は、排水溝の一点に向けて流れこんだ。
その、水に呑まれているあいだ、レンの意識が、俺の中に流れ込んできた。
―――カンピレーの滝! カンピレーの滝だ! 島の中心で!
その滝の名前が意識の中に響いたとき、俺はもう渦の中に飲み込まれていた。
ザン、ザァ・・・・ン・・・
繰り返す音に、うっすらと目を開けた。俺の体は砂浜の上に打ち寄せられ、静かに打ち寄せる波に体が濡れていた。辺りは暗く、見上げると、月が遠くに光っていた。
レンはいなかった。父さんも。
俺は一人で、見知らぬ海辺に横たわっていた。
ここで、気を失っている間に夜になってしまったのか、それともついたときから夜だったのか、それはわからなかった。辺りには人影も人家の明かりもなく、冴えわたるような月の光だけが、深い夜空を鮮やかに照らしていた。
俺は、意味もなく砂浜の上を歩きまわった。
砂の上には濡れた俺の足跡がつき、その足跡を波がまた静かに濡らす。俺はすでについた足跡をまた圧し潰すようにその上を歩き、遠く闇にまじる水平線を、いつしかじっと見つめていた。さっきまで感じていた自由はもう俺の中にはどこにもなく、その水平線の暗闇が、重く俺の心を塗り潰していった。
―――俺は、もうどこにも行けない。
なぜかそんなふうに思った。心の底に暗いなにかが流れ込んできて、そのなにかが重く俺の四本の足を砂に沈めた。俺はただ海を見ていた。暗い海を。
俺はそのとき、ホワイト・ライガーになってしまった自分の体を、運命を、初めて一人で見つめたんだと思う。
レンも父さんもいない。俺を追いかけまわすDrも教授もいない。静けさと、波の音。一人で見るその風景が、初めて、俺に俺の運命を教えられた。
俺は静かに歩き出す。波に、自分の姿を映すことができないかと顔を寄せる。でも打ち寄せ続ける波に顔を映すことはできなくて、ただ俺はその場に座り込んだ。そしてまた、夜を見つめた。
―――孤独だ。
俺が感じていたのは孤独だった。いままで生きてきて、淋しかったことはある。孤独を感じたことはある。でも今まで感じたどんな淋しさや孤独よりも、ただ深い孤独が、俺の中に落ちていった。
カンピレーの滝。
レンの言葉を思い出しても、動き出すことができなかった。どうしてか目は暗い沖に吸い込まれて、俺は、歩き出すことができなかった。
もう、元の姿には戻れない。
その意味を、今、俺は自然に理解していた。
月に向かって、吠える。獣の目からも、涙が流れる。
俺はいつまでも遠吠えを続けた。その声が届く場所が、どこかにあることを祈りながら。
でも俺の声に帰ってくる声はなく、ただ、波の音だけが後に残った。その波の音だけを聞きながら、しばらくそこにじっとしていた。目に映る暗闇は、遠くから、俺のことを飲み込んでしまうようだった。
―――レン、レン。
俺はレンの名前を呼び続けた。そうすれば、レンが俺の声に気づいて、呼びかけてくれる気がしたからだ。それでもレンの声は聞こえなかった。俺はそれでもレンの名前を呼び続けた。
こんな孤独があるなんて、知らなかった。
俺は、今、本当に、世界で一人きりだったのだ。
レンを呼ぶ声もいつの間にか途切れたころ、俺は立ち上がった。孤独は体を深々と浸していたが、それでもその奥に、体を立ち上がらせる、小さな光のような力が、俺の中にあったからだ。
レンに会いたい。
そして、俺は砂浜を抜け、夜の森の中に走り出した。
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