第5話 Dr

 ―――カッ、カッ、カッ、カッ。

 ヘリが格納庫に収まり、俺たちの下の天井が閉まった瞬間に網はヘリから離された。俺たちは乱暴に格納庫の床に投げ出さ、ヘリが完全に止まる前に逃げ出そうと網を夢中で引っ張ってみたが、網は鋼鉄のロープみたいに頑丈で俺の力で切れるようなやわなものじゃなかった。隣でレンも網を齧り爪を立てているが、レンの力でも引きちぎることは無理そうだ。俺たちは焦りながら、網の中で無駄な格闘を繰り返していた。

 足音が、近づいてくる。

 その足音に、レンは低い唸り声を上げる。足音は俺の背後から近づいてくるのに、網の絡んだ俺は後ろを振り向くことができない。そして足音がピタッと止まると、またさっきと同じ言葉が頭の上で鳴り響いた。

 「ご苦労だったな、レン」

 男の声。母さんじゃない。鼓膜に針を立てるような、冷たい声。もしもレンが今言葉を喋れたら、「嫌な匂いがする」とそういっただろう。俺はレンみたいに鼻は効かないけど、その声だけでそいつが嫌な奴だということは十分にわかった。

 「ようこそ。白神獅子くん」

 そいつはいった。俺は返事をしなかった。そうするとそいつは「クック」と笑った。

 「ここまで来るのは、大変だっただろう? 西表島に着いたところから全部見てたよ。わざわざ危ない滝壺のルートから来なくても、訪ねてくれば正面から迎え入れてあげたのに」

 「おまえ誰だよ」

 「Drだよ。レンから聞いてないのかい?」

 「ドクター? 教授じゃなくて?」

 その男はまた「クック」と笑った。嫌な声だ。その声だけで耳の裏までゾッとする。どうにかそいつの顔を見ようと無理やりに体をひねると、目の端になんとかその男の姿をとらえることができた。

 「『教授』はレンの飼育係たちの総称だよ。私をそんな下っ端と一緒にしないでくれ。私はレンの生みの親だよ」

 Drの仕草は、そのすべてが完璧に嫌な奴って感じがした。笑う時に顎をわざとらしくあげ、右手で口元を隠し、左手を組んで右手の肘を支えていた。その笑い声にはあからさまに侮蔑と優位性を含ませている。嫌な奴。コイツのあだ名を『嫌な奴』に決定するのに、躊躇する理由はなにひとつなかった。

 「生みの親? レンはおまえがつくったのか?」

 「そうだよ。レンは私の作品だ。失敗作だがね」

 「作品? レンは人間だぞ!」

 「その姿を見ても?」

 俺の頭の裏に、レンの毛並が柔らかく触れている。獣の肌、獣の毛。でも俺は、レンがジャグリオンになる前の姿を知っている。今までの短いつきあいの中でも、レンを動物だと思ったことは一度もなかった。

 「あたりまえだろ! 俺たちを離せよ!」

 「元気がいいね」

 その男がまた笑う。笑い声が聞こえるごとに、レンの唸り声がなぜか小さくなっていく。

 「まあ、君はレンと同じ生き物だからね。そう思いたいのもわかる。レン、おいで」

 Drそういってレンの側の網を持ち上げた。レンは一度短い声で鳴き声を上げると、するりと、俺の傍から離れていった。

 「レン?」

 俺は驚いたのに、力の抜けた声が出た。背中を支えていたレンの体があった場所になにもなくなり、俺はそのままその場所に背中から倒れ込んだ。

 その男の姿がはっきりと目に映る。その手がレンの頭を撫でている。

 痩せぎすの体。骨ばった顎。目つきの悪い目にフチのないメガネをかけている。趣味の悪い白いスーツに全身をくるみ、口元には声の印象そのままの、気持ちの悪い笑みを浮かべている。いや、そんなことより―――。

 その男の手が、レンの首を撫でている。レンはその手を振り払うそぶりも見せず、喉からゴロゴロと甘えたような声を出していた。

 「・・・レン?」

 俺の呼びかけに、レンが俺の方を振り返る。その琥珀色の瞳に、さっきまで一心同体も同然だったレンのことを感じることができない。

 「レン?」

 俺はもう一度いった。レンはピタリと俺を見据え、なにも、答えようとしなかった。

 「君のことは教授たちが運んでくれる」

 嫌な奴はそういってレンの頭をいやらしく撫でつけた。

 「ここに来るまで、君が危険にどういう反応を示すのか、十分観察させてもらったからね。少々拍子抜けだったよ。まあ、レンがいたおかげかな。でもこれから、仕上げは教授たちがやってくれるよ」

 「仕上げ? 仕上げってなんだよ?」

 「それは始まってみてのお楽しみだ」

 Drは蛇みたいに顔を引きつらせて笑うと、俺に背を向けて歩き出した。その手はレンの頭に置かれたままだ。レンはおとなしく頭を触らせたまま、Drの隣を進んでいく。

 「それでは、また後で。白神獅子しらかみ れおくん」

 Drはそういい、シュッと開いた自動ドアの向こうに消えていく。レンは振り向かない。俺は不安になって大声で叫ぶ。

 「レン!」

 俺の叫びにも、レンは尻尾を下げて嫌な奴の隣に寄り添ったまま振り返りもせず、Drと一緒にドアの向こうに消えていった。シュン、とそのドアが音も立てずに閉まった一瞬後、ガシャン! と大袈裟な音を立てて格納庫の電気が落とされた。俺は暗闇に残されたまま、それでもレンの名を叫んでいた。

 

 『教授』と呼ばれるヤツらが俺をそこから連れ出したのは、それからすぐのことだった。レンたちが消えたドアと反対のドアからそいつらは現れ、皆一様に白衣をまとい、なんのためか知らないがガスマスクのようなもので顔を覆っていた。でも俺にわかったのはそこまでだ。そいつらは俺を網から出すと目隠しをし、手をロープで後ろ手に縛ると前後から俺を囲ってどこかに連れていった。レンが消えたショックで呆然としていた俺は抵抗する気力もなく、ただそいつらのされるがままに任せていた。

 たどりついた場所で、椅子に座らされ固定された。

 手は後ろ手に縛られたまま、さらに椅子にロープで縛られた。そして、目隠しを外されると、真っ白い、なにもない部屋に俺は座らされていた。そのなにもなさはただ単になにもないということではなく、部屋の隅々が発光するように白く光り、昔映画で見たナチスの拷問部屋を連想させた。それは精神科医がやる人体実験を兼ねた拷問で、精神が発狂するまで白い部屋にただ閉じ込めておくというものだった。そんなのどうってことないじゃん、って映画を見ながら俺は思っていたけど、人間は俺が思っているより強くないらしい。どんなに屈強な男も、その部屋にいれば大体四八時間で発狂し、壁に頭を打ち付けて死んでしまった。

 俺もここで、そんなふうに発狂して死ぬんだろうか?

 でも唯一その部屋との違いは、俺を見張るような横長の窓が、天井近くについているということだった。ガスマスクをしていない白衣の人間が何人もその窓ガラスの向こうで動き回り、たまに俺を指さしながらなにかを話し込んでいた。たぶん、あいつらも教授と呼ばれるヤツラだろう。どいつもこいつも、陰気な生気のない顔で俺のことを見下げていた。

 俺は恐怖よりも、腹立たしさでその窓を睨みつけた。

 なんだかわからないが、無性に腹が立っていた。このわけのわからない状況にも、レンが消えたことにも、ここまで来たことにも、俺が自分にはどうしようもできないところで、こんなことに巻き込まれていることにも。

 「なんなんだよ!」

 俺は叫んだ。叫んでも声は反響することもなく、白い部屋の中に消えていくだけだった。

 俺はしばらく無意味に叫んでいたが、そんなことをしても状況は変わらない。俺はどうにか逃げ出せないかと考える。ロープに結ばれた手をなんとか外せないかと力を入れてみたが手首が痛くなるだけで、ガッチリと結ばれたロープを外すことは無理そうだった。次は足。ご丁寧に足もロープで椅子に縛られている。それもガタガタと体を揺らしたぐらいでは外れそうもない。ダメだ。お手上げだ。上げる手もないぐらいお手上げだ。ただの中学生の俺に、こんな状況を乗り越えるうまい手が思いつくはずもない。しばらく様子を見るしかなさそうだった。ヤツラらにとって俺は大事な存在だってレンは何度もいっていたから、少なくとも殺されることはないだろう。

 と、思ったのは甘かったのかもしれない。

 ガコンと、俺の目の前の扉が開くと、猛獣の吠える声がした。その咆哮は俺の心臓を握りつぶすほど大きく、俺の全身は一瞬で鳥肌が立ち血の気が引いた。そして、その暗く開いた扉の先から、一匹の獣が、堂々とした姿で現れた。

 俺は目を疑った。

 目の前に、夢で見たそのままの姿の、ホワイト・ライガーがいたからだ。

 その姿は全身が輝くように真っ白で、柔らかそうな鬣が顔の輪郭を覆っていた。そして俺を警戒するように旋回させた体には、灰色の虎縞がはっきりと見て取れた。 

 一瞬、恐怖を忘れてその姿に息を飲んだ。

 自分でも、なぜそう思うのかわからない。でも確かに、そのホワイト・ライガーを見て、懐かしいような、そんな気がしたからだ。

 教授たちは俺がホワイト・ライガーを目の前にして、どういう反応をするのか見たいのだろう。一瞬感じた懐かしさは、すぐにその唸り声にかき消えた。俺は悲鳴を必死でこらえた。その鋭い目の光を見て、叫んだら襲ってくると本能的に感じたからだ。堪えた悲鳴が冷たい汗になって背中に流れる。ホワイト・ライガーの吐く息から、肉食獣の匂いが漏れ出て鼻先を恐怖に染める。これが、さっきの男 ―――Dr――― がいっていた仕上げだろう。直接俺を命の危険にさらしたうえで、俺のカラダの変化を調べるつもりか。俺は無意識に体を後ろにずらそうとする。でも手足を縛られた椅子が、無意味に数センチ後ろに下がっただけだった。

 ホワイト・ライガーは、ゆっくりと俺に近づいてきた。

 その牙を見て、爪を見て、俺はもう自分が死ぬ瞬間がはっきりとイメージできた。殺されない、殺されるわけがないといくら思い込もうとしても、そんなのなんの確証もない。その爪と牙で引き裂かれる俺の体と、そのときの俺の叫び声がもう頭の中で鳴り響いていて、気が狂いそうなくらい怖かった。自分でも情けなかったが、牙を剥いた猛獣を目の前にしたら誰でも同じ反応をすると思う。膝がガクガクと震え始め、瞬きもできず開いた目に涙が溜まるのがわかった。ホワイト・ライガーが前足に力を入れる。次の瞬間、俺に襲いかかってくるのがわかって、俺は思わず目をつぶった。目を閉じた瞬間、ホワイト・ライガーが床を蹴って飛び跳ねる音が、塞ぐことのできない無防備な耳に響き渡った。

 そして、俺は無残に食い殺されたはずだった。

 でも目を開けると、ホワイト・ライガーは俺を見上げるように目の前に座り、その下で、恐怖に固まった俺の鼻先を数回舐めた。

 なにが起こったのかわからなかった。

 それは教授たちも同じだったらしく、窓の中の人影が慌てふためいて動きだすのがわかった。ホワイト・ライガーはそんなこと気にするわけもなく、俺の顔を舐め終わると、優しい、真っ直ぐな瞳で俺のことをジッと見つめた。

その眼差しに、もう一度、今度ははっきりと懐かしさを感じた。夢で見たからじゃなく、記憶の中に眠る忘れていた温かさを、その姿を見て思い出すような感覚だった。

 「おまえなのか?」

 ホワイト・ライガーは答えるように尻尾を振った。

 「生まれたとき俺を助けてくれたのは、おまえの細胞なのか?」

 ホワイト・ライガーはもう一度尻尾を振る。俺はなんだか、泣きそうだった。

 そのときの記憶はないのに、そのときのことを思い出すようだった。俺の脳は憶えてなくても、俺の細胞は、確かにそのときのことを覚えていたのかもしれない。

 俺の手足は、指先からみるみる黒く変色していった。

 慌てふためく父さん、泣き叫ぶ母さん、医師と看護師がバタバタと俺の周りを行き来して、点滴で投薬を始める。効果のない薬。医師たちにはもうできることがない。そして、決断する母さん。

 母さんの持つ注射の針が、俺の脊髄に深く刺さっていく。俺は最後の力を振り絞るように泣き声を上げる。その泣き声がやんだころ、俺の体に白い光が浮かび始める。母さんと父さんと、すべての医師と看護師が俺のことをのぞき込んでいる。そしてその光が消えたとき、俺の体は、なにごともなかったかのように元の体に戻っていた。

 俺の細胞が知っていた。俺の体の半分は、目の前にいるホワイト・ライガーの細胞でできている。

 コイツにもそれがわかるんだろう。ホワイト・ライガーは首を伸ばし、俺の頬にその頬を近づけた。さっきまで凶暴な獣としてしか見れていなかったコイツの体温が、優しくその毛の柔らかさと一緒に伝わってくる。

 俺は俄然、体中に力が湧いてきた。

 コイツも、母さんも、レンも連れて、この島を出る。その決意が俺の中に生まれる。俺は全身の力を込めて、もう一度ロープを外せないか体中を強張らせた。

 ダメだ。決意だけじゃどうにもならない。

 俺はコイツがロープを噛み切ってくれないか期待して口に出していってみたが、さすがにそこまではできるわけがなかった。俺はまた無駄に体をバタつかせる。ガラスの窓に閉ざされて聞こえないが、窓の中では教授たちが、慌ただしく大声を出し合っているのが見て取れた。そしてまたドアが開く。今度は動物ではなく、教授たちがガスマスクをつけてバタバタとやってきた。その手に火炎放射器のようなホースを持ち、そのホースは教授たちの背負うボンベにつながっていた。

 睡眠ガスだ!

 そう思った瞬間発射された白いガスにむせ、視界もすべてそのガスに遮られたとき、信じられないことが起こった。教授の一人が後ろからほかの教授たちをそのホースの先で殴りつけ、倒れた教授たちのマスクを剥がす。そしてそのまま俺の後ろに回ると、俺と手と足のロープをナイフで切り取り、自分のガスマスクを上げて叫んだ。 

 「レオ! 大丈夫か!!」

 「父さん!!」

 ますます信じられなかったが、父さんは自分のマスクをまた素早く被り、奪い取ったガスマスクを俺の顔にも無理矢理被せると、

 「行くぞ!」

 といって俺の手を引いて走り出した。俺はわけもわからずにその手に引かれるままについていくが、ドアにはもう新しい教授たちが立ち塞がるように押し寄せていた。強行突破しようとする父さんに無数の手が襲いかかり、その手に押し倒されそうになった時、ヒュッと、俺たちの頭上をなにかが飛んだ。

 ホワイト・ライガーだ。

 ホワイト・ライガーはあっという間に教授たちを蹴散らして、「ついてこい」というようにガォウと鳴いて走り出した。俺たちは迷う暇なく、その後ろ姿を追いかけた。

 警報が鳴る廊下を、ホワイト・ライガーと父さんの後ろ姿を見ながら追いかける。父さんに痛いほど引っ張られてまっすぐ伸びた、自分の腕も。

 その腕の外側に、白い毛がなびいている。

 ガスマスクをしたまま見ているから目の錯覚だと信じたかったが、そんなわけはなかった。俺の体は変換コンバーションを始めている。 ―――変換コンバーションしたら、もう元には戻れない―――。 そういったレンの言葉を思い出したが、なんだか頭がぼんやりとして、なにも考えることができなかった。

 逃げ込んだ場所は、薄暗い、物置のような所だった。

 父さんはドアのロックを外し、その部屋に俺を連れて飛び込むと、ホワイト・ライガーも素早く後から入ってきた。ドアを閉め、父さんが自分と俺のマスクを外すと、

 「レオ!」

 といって、俺のことを強い力で抱きしめた。

 「父さん、苦しい」

 俺が笑っていうと、

 「すまん、どこもケガしてないか?」

 と俺のことを離し、腕の毛に気がつくと険しい瞳をして、また俺のことを抱きしめた。今度は、優しく抱きかかえるような抱きしめ方だった。

 「大丈夫だよ」

 俺はまた笑っていう。隣で、ホワイト・ライガーが俺を心配するように小さく鳴いた。

 「すまない、レオ、こんな目に合わせてしまって」

 俺を抱きしめたまま父さんがいい、俺は「ううん」と首を振りながら今度は自分から父さんの体を引き離した。

 「父さん、どうしてここにいるの?」

 俺はいった。父さんは「すまない」とまた小さく言い、俺の目をまっすぐに見た。

 「レンに、全部聞いてるな」

 「うん」

 「今まで、黙っていてすまなかった」

 俺はなんていっていいのかわからずうつむいた。いいたいこといっぱいあるはずだった。でも目の先に俺の腕に生える白い毛が見えて、俺は言葉にできない気持ちを隠すように反射的にその腕を隠す。自分になのか、父さんになのか、今さら隠しても仕方ないのに、隠さずにはいられなかった。

 「見せてくれ」

 父さんはその俺の腕を引き寄せ、確かめるようにその毛を触った。不思議な感覚だった。触られる毛を通じて、俺の皮膚に父さんの手の感触が伝わってくる。犬の頭を撫でるとき、犬はもしかしたらこんな感覚を感じるのかもしれない。毛の先に触れる感触は頼りなくても、触る人の体温より、その感情が伝わってくるようだった。

その時感じた感情は、『悲しみ』だ。

 父さんは険しい顔を続けていたけど、触られる毛の先から、痛いぐらいの悲しみが伝わってきた。

 父さんは俺の腕をそっと戻し、一瞬、俺から顔そむけた。そして服の肩口で目を拭くと、俺に向き直って怖いくらい真剣な顔でいった。

 「行こう、母さんが待ってる」

 「ちょ、ちょっと待って!」

 俺の手を引き立ち上がる父さんの手を、俺は思わず振り払う。もう信じられないことが起こりすぎて、なにがなんだかわからなかった。

 「父さん、まず説明してよ。なんでここにいるの? 今までどこにいたの? それに母さんのこと、どうして隠してたの? それに・・・」

 それに、の後の疑問を口にするのが怖くて、俺は黙り込んで視線をそらした。父さんはそんな俺を正面から見つめる。メガネの奥の目は厳しく眉を引き、そんな、いつも見ることはない他人みたいな父さんの表情の中で、メガネだけは見慣れたいつものメガネだった。そのメガネにだけ少し安心する。俺のよく知っている日常が、そのメガネにだけは感じることができたからだ。

 もう、日常なんてないのかもしれない。

 俺の体は変換コンバーションを始めている。これからまたなにかあったら、俺の体はもう俺ではなくなってしまうんだろう。命の危険なんて日常ではそんなに何回もあることではなくても、もう今日だけで俺は何度そんな目にあったのかわからない。次にまたなにかあったら、俺は隣にいるホワイト・ライガーと同じ体に変わってしまう。そして『次』は、起こらないはずがない。警報器はドアの外でうるさいぐらい鳴り響いている。この部屋が見つかるのも時間の問題だった。

 うつむく俺の体に、ホワイト・ライガーが顔を寄せる。俺から自分と同じ匂いがするのか、俺の体に鼻を近づけると、目を細めて俺の手の甲に舌を出す。俺はその頭を力なく撫でる。コイツのおかげで、俺は今生きている。それはわかってるのに、なんだか、その頭を撫でていると泣きたくなった。

 「母さんのことは、いうわけにはいかなかったんだ」

 父さんはいった。

 「アカデミーは、情報が表に出るのを嫌った。おまえに母さんのことを話せば、おまえから母さんの存在が外に漏れるかもしれない。そんな小さな可能性も、アカデミーは許さなかったんだ」

 「だからなんだよ!」

 俺は叫ぶ。ホワイト・ライガーが心配そうに俺を見上げる。

 「母さんは死んだって、ずっといってたじゃないか! それを、今さら、なんなんだよ! わけがわかんないよ!」

 「それは、母さんの願いでもあったんだ」

 「え?」

 意外な言葉に、俺はまた黙る。父さんは俺をまっすぐに見る。

 「母さんのことを話せば、おまえにも危険が及んだかもしれない。それに、」

 「それに?」

 「母さんがどこかにいるって知ってたら、おまえは自分が捨てられたかと思うかもしれない。おまえに、そんな思いをさせたくない。母さんはそう思ったんだよ」

 「・・・なんで?」

 「そんなの辛すぎるからって、母さんはいってたよ」

 「母さんが?」

 「ああ」

 「・・・」

 俺はわからなかった。母さんが死んでしまったのと、母さんがいなくなってしまったのと、どっちが辛いことなのかなんて。でも俺が子供のとき、死んでしまった母さんを思うことは辛くはあったけど、なんとなく、なんとなくだけど、幸せなことでもあった。俺の中で母さんは死んでしまっていたから、俺にとって、母さんはずっと優しい幻だったんだ。

 俺はなにもいえなかった。うつむく俺に、またホワイト・ライガーが心配そうに鼻を寄せた。

 「行こう」

 父さんがいった。

 「母さんが、待ってるぞ」

 俺はまだ素直に頷けなかったけど、差し出された父さんの手に俺も手を伸ばそうとした瞬間、入ってきたドアが勢いよく開いた。そこにはガスマスクをした教授たちが何人も押し寄せてきて、俺たちを発見すると一斉にホースを向けガスを発射した。

 ウォウ!

 ホワイト・ライガーが雄叫びを上げ、教授たちに飛び掛かりあっという間に蹴散らしていく。教授たちは怒り狂うホワイト・ライガーの攻撃になすすべもなくドアの向こうに逃げ出していく。ホワイト・ライガーは誰もいなくなったドアの前に立ち、俺たちを見ると首を大きく振ってドアの向こうに走り出した。

 「行こう」

 その姿に、今度は父さんではなく父さんではなく俺がいった。迷っている暇なんてない。迷っていてもなにもわからない。それなら、母さんに会いにいけばいい。この場所のどこかにいる、母さんに会いに。父さんのことを振り返りもせず、俺はホワイト・ライガーの後を追って駆け出していった。

 ホワイト・ライガーは凄かった。

 後から後から溢れてくる教授たちを残らず蹴散らし、俺たちはただその後を追いかけた。俺は自分がどこを走っているのかもわからなかったが、父さんが「こっちだ!」と時折大声を出すと、ホワイト・ライガーは迷うこともなくその道を走っていった。

 「父さん、あいつ名前は?」

 「スノウだ」

 「スノウ?」

 俺は笑った。スノウという優しい響きの名前が、あいつには全く似合わなかったからだ。

 「スノウは、元々はアカデミーの実験動物じゃないからな。昔、母さんが名前をつけたんだよ」

 「アカデミーの動物には名前がないの?」

 「そうだ。アカデミーは実験動物に名前はつけない。番号でしか呼ばないんだよ」

 「レンは? レンも実験動物なの?」

 レンは、母さんに名前を付けてもらったっていっていた。そのときの表情を思い出す。ぶっきらぼうな言い方だったけど、ほんの少し、口元が笑っていた気がする。

 「レンはここで生まれた。初めての混合人間ハイブリッド・チャイルドだ」

 慎重に言葉を選ぶように、父さんはいった。

 「そしてレン以外、混合人間ハイブリッド・チャイルドは生まれなかった。母さんがわざと失敗してたんだ」

 「わざと?」

 「動物と人間を掛け合わせるなんて、人間がやっていいことを越えている。母さんは、この実験にずっと反対だったんだ」

 「俺を助けたのに?」

 「母さんがやっていたのは、混合人間ハイブリッド・チャイルドをつくるための研究じゃない。治らない病気を治すための研究だったんだ。その研究が、アカデミーの不老の研究につながっていった。そしてアカデミーは、最初から不老細胞を持った人間が作れないか実験した。それがレンだ。実験は失敗だった。レンは不老細胞を持たず、変換コンバーションの能力を持って生まれてきた。アカデミーはレンに名前も付けなかったよ。だから母さんが名前を付けたんだ」

 走りながら、俺は背中がピリピリするような違和感を感じた。父さんは俺が生まれてから俺とずっと一緒にいた。それなのに、どうしてレンについてこんなに詳しいんだろう? さっき聞けなかった疑問がまた頭をかすめる。父さんは、どうしてアカデミーの部屋のロックを外せたんだ? それに、父さんはどうしてこんなにこの研究所のことに詳しいんだろう? 母さんにたどり着く道筋を、父さんは迷うそぶりもなく知っているみたいだった。

 『チップの入っていない手を入れると、ロックされて逃げられないよ』

 レンは確かに、そういっていたのに。

走る足からだんだんと力が抜け、いつのまにか、足がゆっくりと止まっていた。

「レオ?」

父さんが振り向く。足音が止んだ俺たちのことを、スノウが少し遠くから急かすような目で見つめている。

 「父さん」

 「どうした?」

 「父さんは、アカデミーの人間なの?」

 それなら全部納得がいく。急に俺の前に現れたのも、ロックが外せたのも、レンのことに詳しいのも。それにおかしいじゃないか。母さんがいなくなった後、アカデミーはただ俺を黙って放っておくか? 俺がアカデミーの人間だったら監視させる。誰に? 俺に、一番近い人間に?

 疑問が頭の中で渦を巻く。俺は、もう口に出さないわけにはいかなかった。

 「父さん、もしかして、俺が生まれてから、ずっと俺のことを観察してた?」

 「レオ?」

 父さんの顔が一瞬曇った気がした。その表情を隠すように、メガネが天井のライトに反射する。その表情は、俺の知っている父さんじゃない気がする。俺はもう、なにを信じていいのかわからなかった。

 「どうして急にここに現れたの? どうしてドアのロックが外せたの? どうして、レンのことにそんなに詳しいの?」

 俺は動けなかった。疑おうと思えば、父さんのすべてを疑ってしまえる。父さんがアカデミーの人間なら、俺を観察するのに、これ以上便利な人間はいないじゃないか。

 「レオ・・・」

 俺に近づいてくる父さんにビクっと体が反応する。父さんは俺の肩を両手でつかむ。そして俺と鼻がくっつくほど近くに顔を寄せて、俺の目をまっすぐに見る。

 「父さんを信じろ」

 そう、強い力を込めて俺にいった。

 「俺はアカデミーの人間じゃない。おまえの父親だ。なにがあってもおまえを守る。いいな?」

 俺も父さんの目をまっすぐに見返す。父さんといた今までの時間が、全部逆戻しになって俺の中に蘇る。その中の、父さんの顔。父さんと俺が、今まで過ごしてきたすべて。その時間の中に、俺の疑いが流れ込んで消えていく。疑うのか、疑わないのか、そんなこと選択するのは簡単だった。

 俺は頷いた。

 父さんも強い力で頷くと、俺たちはまたスノウに向かって走っていった。スノウは俺たちが走り出したのを確認すると、また飛ぶような速さで走っていった。

 「でも、どうして本当にそんなにレンのことに詳しいの?」

 俺はいった。疑いからではなくて、ただ、そこにある理由を知りたかったからだ。

 「アカデミーの動向を、ずっと探っている組織がある」

 父さんはいった。

 「父さんはそこに接触してた」

 「どうして?」

 「母さんを、取り戻したかったんだ。親子三人で暮らしたかった」

 低いつぶやきのような声。その声に俺はもうなにも言えない。俺の沈黙をかき消すように、父さんは続けた。

 「その組織はアカデミーの研究に反対だった。アカデミーの研究は、人間の定義そのものを変えるような危険なものだったから。そしてアカデミーのことをいつも見張ってたんだ。終業式の日、おまえが帰ってきたらその組織に保護してもらうつもりだった。でもおまえを待ってる時間がなかった。父さんは知っていたんだ。危険が迫っていることも、母さんがレンを迎えに出すことも。だから入院してる犬たちを全部退院させて、ベットの下の袋に手紙と写真を入れた。組織のトップを説得して、西表島でレオと合流するために。その組織でアカデミーのロック解除のチップを腕に入れて、ここにきたんだ」

 「どうして俺がここに来る必要があったの? レンを外に出せるくらいなら、母さんも来れたんじゃないの?」

 「母さんはこの島を出るわけにいかなかった」

 「どうして?」

 「理由があるんだ」

 「理由って?」

 父さんはそこで口をつぐんだ。その言葉の続きのように教授たちがまた前から群れをなして襲ってきて、スノウがスピードを上げて教授たちを一掃した。俺たちはスノウに振り払われて飛んでくる教授たちを避けながら走り続けた。

 「すごいな」

 父さんが笑った。俺はあいまいに頷いた。さすがに息が切れてきた。父さんはもう全身で息をしている。それでも懸命にスノウの後を追っていく。

 「レオ、おまえがこの島に来る必要があったんだ」

 「だからなんで」

 「理由は後でわかる」

 俺は仕方なく納得した。今父さんが話せないなら、これ以上聞いても仕方ないことだった。

 「その組織って? トップって、誰に会いにいったの?」

 「国だよ。首相だ」

 「しゅ!」

 俺はさすがに驚いた。ここまできて、まだ驚くことがあるとは思っていなかった。

 「すごいだろう」

 父さんは笑った。

 笑いごとかよ、とツッコミたかったが、驚きすぎて声も出なかった。

 「それで、会えたの?」

 「会えたよ。時間はかかったけどな」

 なんかもう、ほんとに、なんでそんなデカいことになってるんだ。冗談でも笑えない。いや、冗談としか思えなくて逆に笑ってしまいそうだ。もうわけがわからないから、とりあえずそのことについて考えるのはやめた。もう俺がどうこういったって始まらないし、なるようにしかならないだろう。

 「ここは?」

 父さんが新しい部屋の一つを開けると、大きな試験管みたいなガラスケースが並ぶ部屋にたどり着いた。試験管といっても、ものすごく巨大だ。人間どころか、サメだって入りそうなサイズの巨大試験管が部屋中に並べられていた。試験管からはいくつも太いコードが伸びて、そのコードは部屋の中心にある円形の機会につながっていた。そして、その試験管の中には、実際に生きた動物たちが目を閉じて水の中に浮いていた。

 「ここは?」

 俺は息を飲んだ。父さんはゼーゼーと息を吐きながら、まわりを見渡していった。

 「保育室ナサリー・ルームだ」

 「保育室ナサリー・ルーム?」

 「新しい遺伝子を持つ動物たちを、アカデミーが作ってるんだ」

 いわれて、俺は試験管に浮かぶ大型獣たちに近づいていった。トラの縞模様が入ったグリズリー、ワニのウロコを持ったゴリラ、金色の毛に覆われた小型のゾウ、羽毛に包まれたイルカまでいた。俺が分厚いガラスに手を置くと、トラ模様のグリズリーがうっすらと目を開けた。俺は思わずその場から飛びのく。でもグリズリーは、開いたかと思った目を、また静かに閉じただけだった。

 「混合動物ハイブリッド・アニマルを、人工的につくる場所だよ」

 父さんはいった。

 「もう、ただのテクノロジーの暴走だ。こんな研究、必要ないんだよ」

 「レンも、ここで生まれたの?」

 レンは、『保育室ナサリー・ルームで生まれた』といっていた。その言葉から、もっと違う場所を想像していた。まさか、こんな、こんな場所で? こんな場所で、人間が生まれていいはずがないじゃないか。

 「そうだ」

 頭をぶん殴られたような衝撃が走る。目の前の試験管の中に、目を閉じて浮かんでいるレンの姿を想像する。その想像のレンの姿に、どうしてかわからないが、俺は涙が出そうだった。

 「レン・・・」

 俺の母さんを、母さんって呼んでた。俺は正直、レンが母さんをそう呼ぶことに嫉妬していた。俺は母さんを、そう呼んだことがないから。でも、なんだか今、胸が苦しくてたまらない。理由はわからない。でも本当に苦しくて、息が詰まるほどだった。

 どうしてこんな場所で、人間が生まれなくちゃいけない。

 どうしてこんな、一人でしかいられないような動物が、つくられなくちゃいけない。

 俺の苦しみは、胸の奥で熱い熱を持って俺の中に燃え始める。その炎の名前を知っている。怒りだ。理由はなにもわからなくても、俺は目の前の混合動物ハイブリッド・アニマルたちを見て、激しい怒りを感じていた。

 アカデミーを、止めなくちゃいけない。

 「父さん。レン、俺の母さんのことを、母さんって呼んでたんだよ」

 「そうか」

 「母さんは、レンに優しかったのかな?」

 「そうだな」

 「父さん、俺、レンを助けたい」

 「ああ」

 レン。

 でもレンはDrと一緒に行ってしまった。まるでDrに飼いならされているみたいに。ここまで俺を連れてきたレンが、俺に嘘をついていたとは思えない。だから、レンが俺を裏切ったとはどうしても思えなかった。

 「Drってヤツが、レンを連れてっちゃったんだよ」

 「レンはDrには逆らえないんだ」

 「どうして?」

 「遺伝子に、最初からそうプログラムされてるんだよ」

 遺伝子。レンを作り上げた、遺伝子。目の前の混合動物ハイブリッド・アニマルたちを作り上げたもの。そのプロフラムは、絶対変わらないんだろうか? 遺伝子が命令するのなら、レンの心も、Drといたいと感じているんだろうか?

 スイカの種を、誰よりも遠くに飛ばしたレンの顔が思い浮かぶ。インスタントラーメンを、あんなにおいしいといった顔も。

 「父さん、レン、インスタントラーメンも食べたことないっていってた」

 「ああ」

 「帰ったら、俺と父さん、レンと、母さんみんなで、インスタントラーメン、食べようよ」

 「そんなもんでいいのか?」

 父さんは笑った。

 「母さん、料理上手なんだぞ。他にももっといろいろ作ってくれるぞ」

 「うん。みんなで食べたいんだ」

 その光景が目に浮かぶ。いつもの家のリビングルームで、みんなでご飯を食べている姿。一階からは混合動物ハイブリッド・アニマルじゃない、普通の動物たちの鳴き声がして、父さんが寝癖の付いた頭で慌てて動物たちの世話に行き、母さんが笑って料理を作って、俺とレンが、ゲームをしながらふざけ合っている。そんな光景が。そんな当たり前の風景が、本当に眩しかった。

 「レンはどこにいるの?」

 「Drと一緒にいるはずだ」

 「Drは、どこにいるの?」

 「わからない。でも必ず姿を現すはずだ。Drは、おまえと母さんが接触するのを、必ず妨害するはずだから」

 「どうして?」

 「母さんは、おまえを普通の人間に戻したいんだ。Drには、それは都合が悪いんだよ」

 『その通りだよ』

 突然、部屋中にDrの嫌な声が響き渡った。俺たちは驚いて周りを見ると、またあの「クック」という嫌な笑い声が響き渡った。

 『まさかホワイト・ライガーが君に感応するとはね。まったく、遺伝子とは、まだまだ私を驚かせてくれるよ』

 声はどこかに設置されたスピ―カーからしているようだった。天井から振り落ちてくるようなその声に、俺は思わず叫んでいた。

 「レンはどこだ!」

 『ここにいるよ』 

 Drがそういうと、動物が喉を鳴らす声がスピーカーから聞こえてきた。

 『会わせてあげよう。おいで。私は待っているよ』

 Drのそのセリフの後、俺たちが入ってきた扉が開き、ガスマスクをした教授たちがまた入り込んできた。その数は尋常ではなく、今度はいくらスノウでも突破することはできなそうだった。

 それでもスノウは大きく吠えて教授たちに飛び掛かる。俺が「スノウ!」と声を上げたのと同時に『パン!』という音が鳴り響き、教授たちにその爪が届くことなく、スノウはその場に倒れ込んだ。

 その体から、赤い血が流れている。

 拳銃だ。

 なおも唸り声を上げるスノウに、パン! パン!と銃声が響く。スノウは倒れ込んだまま動かなくなってしまった。

 「なにするんだよ!」

 『そのライガーはもういらないんだ。君がいるからね』

 Drの声が響く。スノウに駆け寄ろうとする俺の肩を、父さんがぐっとつかみ自分の体に引き寄せる。振り向くと、後ろからも教授たちが蟻の大群のように押し寄せてきた。

 そこで意識が消えた。

 教授たちが白いガスを一斉に噴出し、マスクをかぶる暇もなく、俺と父さんは床に倒れ込んでいた。

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