第4話 地下、アカデミー

 翌朝早く、俺たちは大将の家を出発した。外に出て、朝から照りつける太陽に俺が思わず顔をしかめると、「おまえら帽子は?」と大将が聞いてきた。着替えはリュックにパンパンになるほど詰め込んできたが、帽子にまでは気が回らなかった。俺が首を振ると、「ちょっと待ってろ」

といって家の中に戻っていった。そして戻ってくると、ジャングルの探検家みたいな帽子を二つ、その手に握りしめていた。

 「これやるさ。帽子被らんと日射病になるぞ」

 そういい、俺たちの頭にかぶせてくれた。その後ろについてきた恵さんがおにぎりを詰めた袋と水筒をくれて、本当にちょっとした探検隊みたいな格好になった。

 「これ、爆弾おにぎり。おいしいわよ」

 「爆弾おにぎり? なんですかそれ?」

 と俺が首をかしげると、「ひみつ」といって恵さんは笑った。

 「食べてみてからのお楽しみ。気を付けていってらっしゃい」

 そういって俺とレンのことを交互にギュッと抱きしめた。女の人にそんなことされたことがない俺は慌てたが、思いのほか強く恵さんが俺のことを抱きしめるので、そのままの姿勢で固まっていた。

 「ほりゃー。いくぞーい」

 大将が家の裏から軽トラを出す。俺たちはその荷台によじ上る。車が走り出すと快と青と海が「バイバーイ! またね!」と手を振って、天は恵さんに手を握られてその小さな手を振っていた。

 「それで、どうするんだ?」

 「とにかくピナイサーラの滝を目指そう」

 昨日とはうって変わったやる気を見せて、レンは俺の開いた地図にグイッと頭を寄せてきた。その指が、ピナイサーラの滝をさす。

 「カヌーで行くのが一番早いけど、それだと観光客もいて人目があるから徒歩のルートで行こう。ジャングルを歩いたことはある?」

 「あるわけないだろ」

 当然みたいにいうレンに驚いた。いったい日本の中学二年生のどれだけが、ジャングルを歩いたことがあるっていうんだ。

 「そう」

 レンは俺の答えは気にもせずにそっけなくいった。ガタンと車が揺れる。文句をいおうとしていた俺は舌を噛まないように慌てて口を閉じた。

 「研究所に着くまでは、それほど危険なことはないと思う。アカデミーは目立つことを嫌うから、研究所の外では襲ってこないよ」

 「東京ではめっちゃ襲ってきたじゃないか」

 「あれはレオを試すためだから」

 「試す?」

 「うん」

 レンの頷きに、ゴクン、と俺は唾を飲み込む。やにわに緊張が俺を襲う。

 「試すってなにを」

 「変換コンバーションだよ。変換コンバーションは危機的状況に反応しやすいんだ。危険が迫ったとき、混合細胞は自分を守るために変換コンバーションしようとする。混合細胞の防御反応の結果が、変換コンバーションなんだ」

 「つまり死ぬかもしれない状況になると、変換コンバーションするかもしれないってことか?」

 「そう」

 レンは淡々と続けた。

 「八月一日を前に、アカデミーはその可能性を知りたかったんだ。レオが変換コンバーションしなければ、アカデミーにとってそれが一番いい結果だからね」

 「だって、誕生日までは変換コンバーションはしないんだろう?」

 俺はつい大声を上げた。「どうしたー?」と大将が車の窓から声をかけるのを、俺は笑ってごまかした。

 「予測は常にずれる可能性があるんだ」

 レンの言葉に、俺は黙り込んだ。また頭が混乱し始める。

 「もう八月一日まで時間がない。もし危険がせまれば、いつ変換コンバーションしてもおかしくないんだよ」

 じっとりとした沈黙につかまれて、なにもいえない俺にレンがいった。

 「大丈夫。レオのことは、俺が守るから」

 レンの言葉に頷くしかできない自分が、情けなかった。

 軽トラは、なにもない道の途中で急に止まった。

 「ここでいいのかー?」

 窓から体ごとせり出した大将がそういうと、レンが小さく頷いた。俺たちは荷台を降りる。大将も運転席から降りて、心配そうにあたりを見渡した。

 「こんな、なんにもないところから行くのか? おまえら大丈夫か?」

 「大丈夫」

 レンが頷く。大将はまだなにかいいたそうだったが、心を決めるように短く何度か頷き、そのゴツい手を俺の前に差し出した。

 「がんばれよ。レオ」

 俺がその手を握ろうとすると、一瞬ニカっと笑い、俺の手を引っ張って両手を俺の腰にロックする。そして「せーの!」と大声を上げると、腰が折れるかと思う勢いで俺の体を引き寄せた。

 「イッ! イデデデデ! 大将! 痛い!」

 「大将って誰や!」

 「アッ! ちっが! イデ! 我喜屋さん! イッダ!」

 「大将でいいわい!」

 と最初に会った時と同じように豪快に笑い、やっと俺から腕を離した。そして「ほら! レンも!」といって無理やりにレンにも同じことをしたが、レンは俺みたいに悲鳴を上げることはなく、ただされるがままにされるまま、死んだ目で顎をガクガクと動かしていた。

 「よっしゃ」

 なにがよっしゃなのか全くわからなかったが、大将は腕を腰に当てて俺たちの前に大の字で立ち、また最初に会ったときみたいに俺たちの頭をクシャクシャっとかき回した。

 「がんばれ、おまえら」

 大将はそういって軽トラに乗り込み、勢いよくエンジンを吹かして車をUターンさせ、元来た道を帰っていった。

 「帰りも家に寄るんやぞーーー!」

 開けた窓から叫んだその言葉が、エンジン音と一緒に遠く走り去っていった。俺たちは軽トラが見えなくなるまでその場に立って見送った。

 「・・・変換コンバーションするかと思ったわ」

 俺のつぶやきを無視してレンはスタスタと歩き出すと、道路を外れて草藪の中に入っていった。

 掘っ立て小屋みたいな水色の小屋が、すぐに目の前に現れた。

 その脇の獣道みたいな道を、レンは振り返りもせずまっすぐに歩く。道はすぐにぬかるみに埋まり始め、靴を汚しながら歩くとやがて沢に出た。レンは沢をまっすぐにわたる。周りには秘境じみた大きなシダの葉が生えそろい、どこか遠くからはギャアギャアと鳴く鳥の声が聞こえた。俺は気味が悪かったが、レンに泣き言をいうわけにもいかず黙ってレンの後をくっついていった。沢を越えさらに山道を歩くとまた沢に出た。レンはそこでピタッと足を止めた。

 「どうしたの?」

 俺が声をかけても答えることはなく、ただあたりを見渡して鼻をヒクヒクと動かした。

 「どうしたんだって!」

 俺がもう一度声をかけてやっと、

 「おかしい」

 とレンの口から言葉が漏れた。

 「本当はこの沢沿いにまっすぐ行って山を下るんだ。そうすると滝壺につく。滝壺はアカデミーの給水講になっていて、そこから入り込むつもりだったんだ。でもなにか、嫌な匂いがする」

 「嫌な匂いって?」

 「わからない。嫌な匂いだよ」

 レンはそういって黙り込んだ。レンのいう『匂い』とは、レン特有の、レンにしかわからない動物的な直感だろう。俺の背中に汗と一緒に緊張が走る。レンはまだ黙って考え込む。

 「行こう」

 そういって、レンは沢ではなく山を登った。

 「仕方ない。滝の上まで行こう」

 汗が、首筋を伝っていく。

 湿気のある熱い空気に喉が渇き、恵さんがくれた水筒の水をゴクゴクと飲む。慣れない山道に脹脛が痛い。まだ山に入ってそんなに時間は経っていないはずなのに、見慣れない風景に時間の感覚が麻痺してくる。ガサッ、とシダの葉が揺れるたびにビクッと一瞬体が止まる。レンはあたりをキョロキョロと見渡しながらさっきよりも歩くスピードを抑え、あからさまに警戒しながら慎重に足を進めている。

 その背中が汗に濡れている。

 俺は珍しい植物に見とれるのにも飽き、ただ無心にその背中ばかり見つめて歩いた。暑さに頭がボーっとして、自分がなんでこんなジャングルを歩いているのかわからなくなる。レンの汗に濡れた背中だけが、俺がここを歩く理由を教えてくれる。

 急に、木の上を見上げてレンが止まった。俺も立ち止まりレンの視線の先を見ると、そこには一匹の鷲が、鋭い目で俺たちのことを睨みつけていた。

 「すげぇ」

 初めて見る鷲に俺は素直に声を漏らした。褐色の羽毛、斑点のある翼、目の周りが黄色く縁どられている。その姿は単純にカッコよかった。

 「カンムリワシだ」

 レンがつぶやいた。その眉間には深く皺が刻まれている。俺はまた「すげぇ」といって鷲に近づこうとその木の下に駆け寄った。

 「レオ!」

 レンが叫んだのと同時に、甲高い叫び声をあげて鷲が襲いかかってきた。広げられた翼で空からの光が途切れ、攻撃を宣言するかのように広げられた頭上の羽が逆光で黒く視界に映る。俺が大声をあげると、レンが高くジャンプして鷲の攻撃を遮った。

 その鷲の叫び声を合図にするみたいに―――。

 一瞬でジャングル中が動物の興奮した声で満たされた。ギャア! ギャア! と気味悪く興奮した動物たちの声と共にガサササッと草を掻き分ける音が響き、その方向を向いた瞬間に大口を開けた蛇が俺に向かって飛び掛かってきた。

 「うわぁ!」

 俺は背中のリュックを外しその蛇に殴りかかる。運良くリュックが蛇を叩き落とすと、ガサササッとまた音を立てて蛇は草むらの中に消えていった。

 「レオ! 大丈夫か!」

 駆け寄るレンに答えることもできず、俺は自分の心臓が早鐘のように鳴るのを聞いていた。

 なにがおこったんだろう?

 わけがわからず立ち竦むしかなかった。心臓は痛いぐらい俺の胸を打ちつけていた。

 「ハブだ。噛まれてないか?」

 レンが俺の体中を確かめるようにさする。『ハブ』その名前に血の気が引く。俺は黙ってうなずいた。

 「どうしてだ?」

 「わからない」

 レンの声にも焦りが滲み、俺は動揺を隠せなかった。

 「ドローンは?」

 「飛んでない。それにドローンが飛ぶ場所なんてないよ」

 そうだ。ここは亜熱帯のジャングルなのだ。ドローンが自在に飛べるほどの空間は広がっていない。空のほとんどは大きな植物の葉に覆われて塞がれている。偶然か? 野生動物が人間を襲ったって不思議はない。偶然、俺は二匹の動物に襲われたのか?

 「とにかく急ごう」

 俺の手を引き走り出すレンの後を追いかけながら、「ッツ」とその腕に痛みを感じた。その痛みは血管が鳴るようにズキズキと響いたけど、ハブに噛まれたわけじゃない。そんなことを気にしている余裕は全くなかった。

 途中、動物たちは何度も俺を襲ってきた。後ろから猪が猛烈な勢いで追いかけてきたときは、正直もうダメかと思った。イリオモテヤマネコが木の上から飛び掛かってきたときには避けきれずにその爪が頬をかすった。動物たちは皆異常に興奮した目で俺だけに向けて襲いかかり、偶然じゃないことはもう明らかだった。危険が迫るたびにレンが俺を守ってくれたけど、その危険を乗り越えるたび、俺の腕の痛みは増していった。

 「着いた」

 急激に視界が開けた場所に踏み入ると、息を上げながらレンがそうつぶやいた。たどり着いた場所はまさに滝の頂上で、俺たちの足元の岩場を清流が流れ、その清流がその先で飛沫を上げながら崖の下に落下していた。

 俺たちは咄嗟に空を見上げる。やっぱりドローンはどこにも飛んでいない。レンは俺と目を合わせると、それほど速くも深くもない清流の流れの中を、滝が落ちる場所まで歩いていった。

 「準備はいい?」

 そういうレンの言葉に嫌な予感はした。俺はレンの隣で滝の下をのぞき込む。あたりまえだが、高い。思わず足がすくむ俺に、レンは冷静にこう言い放った。

 「飛び込むよ」

 予感は的中。俺はマジで眩暈がした。

 「他の行き方はないのか?! いくらなんでも死ぬ高さだよ!」

 「ないよ」

 冷徹なレンの言い方に、俺は言葉も出なかった。

 「滝壺は深いから死ぬことはないよ。滝壺の下にアカデミーの給水用のゲートが隠れてるから、落ちたら俺の後についてきて。気をつけて。ついてこれなかったら死ぬかも」

 「変換コンバーションしちまうよ!」

 わめき散らす俺を見て、レンがクスッと笑った。

 「大丈夫。攻撃を受けるわけじゃないから、変換コンバーションはされないよ」

 俺はまだまだわめき散らしたかったが、なにをいっても無駄だってことが、レンの笑顔を見てはっきりわかった。

 「うわぁあぁぁああああああ!!!」

 思い切り飛び込むと、体中から声を上げるような叫び声が出た。喉の奥まで丸見えになるほど開いた俺の口に風圧が巻き込まれ息もできなかったけど、そのことに気づく間もなくバッシャーーーン!! と冷たい滝壺に叩きつけられた。開きっぱなしだった口の中に容赦なく水が入りこむ。俺はとにかくレンを探してめちゃくちゃに手足を動かした。息ができない、マジで死ぬ。そう思ってもがく俺の手をレンがつかみ、水の中をさらに奥へ潜っていく。俺の肺に残る空気はすでに限界を超えていたけど、レンの手を握りしめ必死で足を動かした。レンはますます奥へと泳いでいく。俺がもうほんとマジで限界、と思ったとき、グオゥ! という水の流れに俺の体は吸い込まれた。声にならない叫び声をあげながら、俺は完全に気を失った。

 「レオ」

 呼ばれて目を開けると、俺は真っ白な部屋の中にいた。

 「どこだ? ここ?」

 「アカデミーの研究所だよ。給水施設の中」

 「アカデミー?」

 「そう」

 「ついたのか」

 給水施設。俺が寝そべっているすぐ横には、俺たちが流されてきた水の溜まりが満ち、そこから少し高い段になっているコンクリートの床に俺は寝そべっていた。壁も床と同じようにコンクリートの打ちっぱなしで、その壁の中に給水管が張り巡らされているのか、時折水が金属にあたるようなキィ――ンという音がこだましていた。

 アカデミー。

 本当にあったのか。今この瞬間まで、自分がアカデミーの存在を疑っていたことに気づく。西表島に、こんな場所が、本当にあるなんて。

 「ここ、西表島のどこなんだ?」

 「地下だよ。西表島の地下全域が、アカデミーの研究所なんだ」

 「地下全域?」

 「そう」

 途方もない話だ。どうしてわざわざ西表島の地下なんかに。俺の疑問を感じ取ったのか、レンはそのまま話をつづけた。

 「混合動物ハイブリッド・アニマルの研究に、西表島の独自に進化した生態系が適してたんだ。でも地上に研究所をつくったら研究に必要な動物たちの生態系を壊してしまう。それに目立つしね。だから研究所は地下につくった。それに、西表島は全体の八割が国有林になっていて、国に守られてる。だから、アカデミーが隠れて研究するにはもってこいの場所だったんだ」

 「ちょっとまって。国に守られてるっていった?」

 「そう」

 「それってつまり、アカデミーも国に守られてるってこと?」

 「ちょっと違う」

 レンはいった。

 「国に守られてるのは、西表島全体だよ。その地下に施設を造れば、必然的にアカデミーも国に守られることになる。そうすればアカデミーには、ちょっとやそっとじゃ誰も手を出せない。アカデミーは、国を利用してるだけだよ」

 「つまり、国には秘密で地下施設を造ったってこと?」

 「そう」

 髪から水を滴らせながら、レンは俺の目を正面から見つめた。そんな話聞いてない。そこまで話がデカいなんて、想像もしていなかった。

 「どうして国は黙ってるんだよ」

 「この島には、国も簡単には手が出せないんだ」

 レンはいった。

 「それほど貴重な生態系がこの島には息づいている。だから、不用意にアカデミーを攻撃して、この島を壊すわけにはいかないんだよ」

 「はぁーー」

 と俺は寝ころんだままため息をついた。話がどんどんヤバイ方に転がっていく。最初からそうだったけど、自分がどんどん現実から遠ざかっていく。今この瞬間の現実が理解できない。でも理解できない方が気が楽な気もするが、よくわからない。俺は自分の中の複雑な感情を処理しきれず、頭と体から気が抜けていった。

 「シャツ脱ぎなよ。水、絞らないと風邪ひくよ」

 「あ、うん」

 自分のシャツを脱ぎ、そのシャツを雑巾のように絞りながらレンがいった。シャツから蛇口をひねったように水滴がしたたり落ちる。俺も自分のシャツを脱ぎ、リュックの中に着替えを探して手を入れる。あたりまえだが、着替えも全部ビショビショだった。

 「あーあ」

 とリュックの中をかき回していると、

 「どうしてそんなにたくさん着替えを持ってきたの?」

 と不思議そうな顔でレンがいった。

 「だってレン、おまえ変換コンバーションしたら服破けちゃうじゃん。だからたくさん持ってきたんだよ」

 「ああ」

 レンは納得した顔でうなずいた。

 「ありがとう」

 まじめな顔でそういわれ、俺はなんだか照れてしまった。ずっとレンに助けられてきたから、お礼をいわれるのがこそばゆかった。

 「いいって」

 照れ隠しに意味もなくリュックの中をかき回していると、恵さんにもらったおにぎりの袋が手にあたった。ビニール袋を開けると銀紙に包まれている。これなら、もしかしたら中身は無事かもしれない。そう思って銀紙を剥くと、中身はやっぱり無事だった。でも、なんだこれ?

 普通のおにぎりを想像していたのに、中から出てきたのはたこ焼きみたいな外見の、なんだかよくわからない丸い物体だった。

 「なんだこれ」

 レンに聞いても知らないという。でもまさか恵さんが食べられないものを渡すとも思えないから、思いっきりそのたこ焼きもどきに食らいつく。うまい。たぶん、揚げたはんぺんみたいなかまぼこみたいなものの中に、ひじきの入った炊き込みご飯が入ってる。西表島の郷土料理かな? そのたこ焼きもどきを渡してモゴモゴと口を動かすと、滝で冷えた体に少しづつ体力が戻ってきた。

 そういえば俺、母さんの料理食ったことないんだな―――。

 あたりまえのことを今さら思う。今さらそんなことで悲しくなったりはしないけど、でもたこ焼きもどきを食べながら思う。

 ―――俺、母さんのつくったおにぎり食いたい。

 そう思うと、体の底から力が湧いてきた。

 生きてる。母さんが生きてる。

 「行こう」

 俺は立ち上がって、絞ったばかりのシャツを着る。レンはまだ口を動かしながら、俺のことを黙って見上げた。

 「母さんに会いたい。レン、連れてってくれ」

 初めてはっきりと口にした自分の意志に、レンも頷いて立ち上がった。口の端に残った米粒を指で取りながら、「こっち」といって走り出した。

 だだっ広い給水施設の壁際に長い階段があり、その階段を上りきったところの扉を開ける。扉の向こうには薄暗い廊下が広がっていて、誰もいないことを確かめてから廊下を走り抜ける。レンが先を行き、俺がレンを追いかける。俺はいつアカデミーの連中に見つかるかとビクビクしていたが、レンはなにもいわずに先を急いだ。不安になった俺は溜まらずレンに確かめる。

 「なあ、誰もいないんだな」

 「こんな場所まで、教授たちは降りてこないよ」

 レンはいう。

 「もう少ししたら博物館に着くから、博物館を越えるまでは大丈夫だよ」

 「博物館?」

 俺が疑問を口にすると、「ここ」といってレンは立ち止った。俺が肩で息をしながら立ち止まると、目の前にはいかにも頑丈そうな大きな鉄製の扉があった。頑丈そうなだけではなく、扉の隣にはセキュリティ用だと思われるロックシステムの箱がついていた。その箱の真ん中には、ちょうど腕が入りそうなぐらいの穴が開いていた。

 ―――夢で見たのと、同じドアだ。

 俺はゴクン、と唾を飲んだ。もしもここが夢で見た場所と同じなら、この先には、真っ青な草原が広がっているはずだった。

 「どうするんだよ?」

 俺が聞くと、「こうするんだよ」とレンはその穴の中に手首を差し込んだ。そうすると箱の中で赤いレーザー光線が光り、カチッ、という鍵が外れる音がした後、シュン! と自動でドアが開いた。

 「研究所に住む人間には、手首にチップが埋められているんだ。そのチップと、体温がセキュリティの鍵なんだ」

 「体温?」

 「生きてないと入れない」

 レンがなにをいっているのか理解するまで数秒かかった。そして理解したとたん、背筋にゾクッと悪寒が走った。

 「それってつまり・・・」

 「うん。万一職員の手首だけを入れても開かないようになってる。それに、チップが入っていない手が入るとその時点でその手がロックされる。逃げられないよ。だから、レオは絶対に手を入れないで」

 「わかった」

 俺はますます激しくなる悪寒を感じながら頷いた。ここにきてようやく、アカデミーがどういうレベルで危険な組織なのかが本当に理解できた。レンがいるとはいえ、よくそんな場所にただの中学生の俺が忍び込めたもんだ。・・・いや、ちょっと待て。それは本当は、ありえないことなんじゃないか? 

 俺はここでようやく気づいた。

 俺のことを、ついさっき西表島の動物たちが襲ってきたのだ。おそらく、というか確実に俺だけを狙って。ここはアカデミーの本懐だ。ドローンを飛ばさなくても、それぐらいのことはできるんじゃないか? そして、それはつまり、俺たちはもう見つかっているっていうことだ。

 ゾクッとした。

それなのに、なんで俺たちはここまでたどり着けているんだろう? 

レンにその疑問を聞くよりも早く、レンはロックの外れたドアの中に入っていった。

夢で見た草原は、そこには広がっていなかった。

 でも俺はガッカリする暇もなく目の前の光景に目を疑った。そこには、本当に博物館が広がっていたからだ。

 「スッゲー・・・」

 この旅が始まって何度言っているかわからない驚きの声を出すと、その場で俺は固まってしまった。巨大な恐竜の化石が、かすかなライトに照らされてそびえ立っていたからだ。しかも一体だけじゃない。何種類もの恐竜の骨格が、何体も何体も薄暗い室内に浮かび上がっていた。

 「博物館だよ」

 レンはいった。

 「アカデミーは世界中からありとあらゆる動物を集めてるんだ。その中には化石もあって、ここはその保管場所だよ」

 「恐竜も? どうして?」

 「遺伝子の研究に必要なんだ。どんな動物の遺伝子に、不老の技術を完璧にするためのヒントが隠されているかわからないからね」

 「化石から遺伝子なんて取れるのか?」

 「取れるよ。ただ、難しい。だから恐竜は集めただけ集めたけど、ほとんど役に立ってないんだ。だからここに放置されてる」

 「もしかしてクローンとかも作れるの?」

 「それは無理だよ」

 レンは笑った。

 「クローンを作るには、純粋な遺伝子の培養が必要なんだ。化石からじゃ、古すぎてほかの微生物の遺伝子が混ざってることがほとんどで、無理なんだって」

 「それでもすげぇ・・・」

 俺たちは恐竜の骨の中を潜り抜けながら、そんな会話を続けた。超至近距離で見る恐竜の骨格は迫力がありすぎて、どれも今にも動き出しそうだった。

 「なあ、じゃあなんの動物の遺伝子が一番不老に必要なんだ?」

 「ホワイト・ライガー」

 俺は立ち止まった。立ち止まった俺に気づいたレンの表情が、ライトに照らされて影を作った。

 「でもホワイト・ライガーは、混合動物ハイブリッド・アニマルの中でも作りにくい種族だ。繁殖もできない。混合動物ハイブリッド・アニマルは交配能力を持たないから。だから、レオ、君の存在はアカデミーにとってものすごく貴重なんだよ」

 その言葉に、なぜか俺の右腕がまたズキズキと痛み始めた。俺はなんて言っていいのかわからなかった。

 「レオがもし人型のまま一四歳を迎えられれば、レオ、君はもう年を取らない。永遠に十四歳の姿のまま、生きていくことになる」

 「なんだよそれ」

 俺のつぶやきが、博物館の中で反響する。レンは俺を見たまま話をつづけた。

 「可能性は低いよ」

 レンはいった。

 「ライガーになる可能性の方が、圧倒的に高いんだ」

 「そんなの、どっちでも同じじゃねえか!」

 俺の怒鳴り声が博物館の中に反響する。

 「だから、人間に戻したいって、母さんがいってた。母さんなら、それができるんだ」

 「どうやって! どうやってライガーの細胞だけ俺から抜き取ったりできるんだよ?! そんなことできるわけないじゃん!!」

 「できる。母さんがそういってたから」

 レンの言葉に、俺はまた黙りこんで唇を噛む。

 「・・・なんで俺なんだ?」

 「人喰いバクテリアを、ホワイト・ライガーの細胞が治したっていっただろう?」

 「・・・うん」

 「人喰いバクテリアを消滅させ、壊れた細胞を修復し、元の細胞よりも強いものに変える。でもレオより後の、typeBの実験では成功例はない。もしかすると、バクテリアも関係しているのかもしれない・・・」

 「typeB・・・」

 記憶を巻き戻す。最初の日に、レンが自分のことをそういっていた。typeB。保育室で生まれたっていっていた。俺はそのとき同時に聞いた母さんの話にショックを受けていて、保育室については詳しく聞いていなかった。

 「レンって、人間から生まれたわけじゃないの?」

 「そうだよ」

 なんてことなさそうにレンはいう。俺はなぜか胸が苦しくなる。

 「人工配合された受精卵を、培養器の中で育てるんだ。そうやって生まれた。でもレオと同じようにはいかなかったんだ。変換コンバーションが最初から起こってしまったから。アカデミーとしては、俺は失敗作なんだ」

 「・・・変換コンバーション、カッコいいのにな」

 なんて言っていいかわからず、そうつぶやいた。レンは静かに首を振るだけだった。

 「でも、レオの母さんは優しかった」

 俺はまだ黙ったままだ。いえる言葉なんて、なにもなかった。

 「だから、レオの母さんが俺の母さんだ。母さんのためなら、俺はなんでもする」

 俺は複雑な気持ちになる。俺のそんな気持ちには気づかず、レンは次の扉の前で立ち止まった。

 「ここだ」

 レンがいった。

 「ここを越えれば、もうすぐだよ」


 夢で見た場所だった。目の前には、広大な草原が広がっていた。

 風が吹いて、太陽の光が照り、見渡す限り青い草が生い茂っている。俺はただ茫然と立ちすくむ。地下から入ってきたはずなのに、そこは、地上そのものだった。

 「外に出たの?」

 「まさか」

 レンはいった。

 「ここは大型動物用の運動場。自然環境になるべく近い状況で、動物たちを育ててるんだ。太陽は人工。風も雨も、気候もすべてコントロールされてる」

 すごい。俺はあたりを見渡した。見上げると空も完璧に青く、とても人工的につくられた場所だとは思えなかった。

 「大型動物って、ライオンとか?」

 「ライオンとか、トラとか、ヒョウとか」

 「放し飼いなの?」

 「いや、殺し合わないように管理されてるよ。今は多分、ライオンの時間だ」

 空を見上げながらレンはいった。よく見るとドーム状に広がっている青い空のてっぺんに、人工の太陽が輝いていた。その太陽は少しづつ移動しているんだろう。レンはその位置を見て時間を推測したようだった。今、俺たちの真上に太陽はあるから、普通に考えれば十二時ごろだけど、俺は自分のG-SHOCKでも時間を確かめる。十二時ジャスト。大将の家を出てから、もう四時間ほどたったことになる。ここに来るまで非日常的なことがありすぎて、時間の感覚が体の中から抜けかけていた。

 そしてまた、非日常的なことは続く。

 遠くから、ライオンが俺たちに向けて、ノソリノソリと群れをなして歩いてきたのだ。

 ―――今度はライオンかよ。

 俺はうんざりしながらため息をついた。ライオンたちの上には小型のドローンが何機もプロペラを回して飛び回っている。間違いなく俺たちはもうアカデミーに見つかっている。レンは例によって俺を守るように俺の前に立ち、四方からくるライオンたちに鋭く目を光らせる。

 ワシやハブが相手じゃない。いくらレンでも、武器もなくこの数のライオンに勝てるわけがない。

 「レオ、逃げるよ」

 レンがそういうと同時に、その体にほのかな白い光が浮かび上がる。小さな点滅のようなその光は一瞬で大きくなり全身を真っ白に輝かせ、その光が眩しくて俺は思わず目を閉じた。そしてゆっくりと目を開けると、

 そこに、あの黒い獣の姿があった。

 ―――ジャグリオン。

 漆黒の夜を思わせる真っ黒な毛並、鋭く前を見る眼光、低く唸る口からは牙が漏れる。俺は二度目に見るその姿に、それでもまだ目を見張る。呆然とする俺の頬をジャグリオンは一舐めし、そして背を低く地面に伏せ、その低い声で一声鳴く。

 ―――乗れっていってるのか。

 俺は恐る恐るその背中に足を回す。俺が完全に乗ったのを確かめると、ジャグリオン ―――レン――― は立ち上がり、ライオンたちに向けて威嚇するような咆哮を発した。そして全速力で疾走する。疾走するレンに向けて、ライオンたちも獰猛な声をかけながら走り寄ってくる。

 「うわあああぁあああぁ!!」

 俺はもうずっと叫び声をあげっぱなしで、必死でレンの首筋にしがみついた。体の下でレンの体が激しく躍動するのを感じる。飛び掛かるライオンの一匹一匹をレンはしなやかに飛び避けながら、右に左に駆け回る。そうかと思うとグッと前足に力を込めてライオンを飛び越えてジャンプする。最初はビビっていた俺も、レンのその動きに「スゲェ」と思わず口をつく。ライオンが飛び掛かり、その爪が俺を切り裂こうとする瞬間に、絶妙のタイミングでレンは体をよじらせる。ライオンの爪は俺の目の前で空を切り、俺はもう怖いというより興奮して叫んでしまった。

 「スゲェ! レン、スッゲェよ!」

 風を切るレンの黒い毛がだんだんとライオンの群れを遠ざけていく。ライオンは徐々に追いかけることを諦めてその体を草の上に伏せていく。俺は興奮しながら後ろを向いて、小さくなっていくライオンの姿を見つめていた。そして前を向いた瞬間、

 「うわあああああああ!」

 とまた大声を上げる羽目になる。今度はキリンが、その長い脚でどうやってそんなスピードを、と思える速さで突進してきたからだ。

 ライオンの素早い牙と爪の攻撃とは違い、キリンはその長い首を鞭のようにしならせて俺たちめがけて振り下ろしてきた。俺は身を屈めてその攻撃をギリギリのタイミングで避わしたが、その上をブゥン! と風を切る音がして、俺の全身は鳥肌が立つ。首の攻撃も脅威だが、その長い脚から繰り出されるキックも破壊力抜群だ。俺たちを狙った蹄が地面に深い穴をあけ、当たったらタダで済むわけがない。それでもレンはその長い脚の間を縫うようにして、キリンの群れも遠ざけていく。キリンは馬みたいに高い声で喚いたが、俺たちはあっという間にキリンたちをはるか彼方に追い抜いていった。

 次はなんだ?

 そう思った瞬間に、レンの体を通して地響きが伝わってくる。嫌な予感を感じる間もなく、怒り狂うゾウの大群が前方から押し寄せてきた。

 ―――これは、ヤバいんじゃないか?

 いくらレンでも、俺を乗せたままゾウの体を飛び越えるほどのジャンプはできそうにない。ゾウは体を寄せ合い密着して迫ってくるから、その足の間をすり抜けて逃げ切ることもできない。レンもそう判断したんだろう。今までずっとまっすぐ前を目指して走っていた体を左に傾かせ、ゾウの群れの区切れを探すようにスピードを上げる。でもゾウは俺たちを囲むように円をなして近づいてきて、レンはその円の内側を回るようにグルグルと旋回する。その円はだんだんと縮まり、俺たちはとうとう、その中心に追い詰められた。

 グォウ、とレンがゾウたちに威嚇をしても、完全に俺たちを追い詰めたゾウが怯えることはない。すべてのゾウがその長い鼻を天高く上げながら、逆にものすごい勢いで俺たちに吠えたてる。真近で見るゾウの群れの迫力は圧倒的なパワーに満ちていて、俺を絶望させるには十分だった。

 その円が、だんだんと縮まってくる。俺たちは逃げ場もないまま、その円の中で後ずさる。見渡す限りゾウの灰色の姿しか見えない。その巨大な足で踏み潰される恐怖が目の前に広がって、心臓が緊張で破裂しそうにバクバクと鳴った。

 右腕が、ズキリと音を立てるように痛む。レンの首に回した手の爪が、バキバキと異様な感触で疼きだす。痛みが一瞬バキッ! と全身を貫き、俺は「ウッ」と息を漏らした。

 そのときだった。

 「レン、ご苦労だったな」

 と大空から拡声器を通した声がしたかと思うと、戦車でも運べそうなほどデカいヘリコプターが、轟音を撒き散らせながらながら近づいてきた。そして俺たちの頭上でホバリングする。ゾウたちは全員ヘリを見上げて鼻を上げ、ヘリのプロペラが撒き散らす風と音に負けないような、つんざくような鳴き声を上げた。

 その声に耳をふさぐ余裕もなく、ヘリからは網が俺たちに向けて放射状に放たれた。俺たちは逃げる隙もなく網の中に絡めとられ、そのまま空高く上がっていく。あっという間に離れていく地面を見ながら網にしがみつくしかできなかった。ヘリはそのまま高く上昇を続けたかと思うと青空を模していた天井が開き、その中に俺たちごと入っていった。

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