第3話 島人

 「おはよう」

 俺が起きると、レンはもう起きていた。俺が起きるずっと前からもう起きていたのか、退屈そうに布団の上で猫みたいに伸びをしていた。俺は寝不足のまま挨拶をし、レンを連れてリビングに降りる。父さんは、やっぱり帰っていなかった。

 パンと目玉焼きと牛乳だけの、簡単な朝食を食べる。レンは昨日とは違いパンを不思議そうに眺めることもなく、パンの上にのった目玉焼きごと器用に食べる。ただ食べるときに、クン、と鼻を鳴らすことは忘れなかった。

 そして、今日どうするか考える。

 選択肢は二つ。父さんを待つか、待たずに西表島に行くか。

 父さんに聞きたいことはいくらでもあった。母さんのこと、俺の生まれたときのこと、混合動物ハイブリッド・アニマル、アカデミー、そして、混合人間ハイブリッド・チャイルドのこと。父さんがどこまで知っているのかわからなかったが、なにも知らないということはないはずだ。昨日レンに聞いたことのすべてを、父さんに確かめてみたかった。

 でも帰って来なかったら?

 正直、帰ってこない可能性の方が高い予感がした。昨日レンに聞いた印象だと、アカデミーがなにか関係しているに決まってる。そうすると父さんにも危険が迫っていることになる。もしかすると、誘拐とか。

 ありえないか、と笑ってもみても、胸の不安はぬぐえなかった。

 「なあレン、これからどうしようか?」

 「西表島」

 「・・・そうだよな」

 父さんを待っている時間はない。俺は牛乳をゴクゴク飲み干し、ガタン! と椅子の音を立てて立ち上がった。

 「わかった行こう。どうやって行くんだ?」

 牛乳のコップを両手で抱えながらレンが首をかしげる。俺はその仕草の意味がわからなくて同じように首を傾けた。

 「飛行機。レオがとる」

 俺は固まった後、「そこからかよ!」と思わず大声で叫んでいた。

 PCの電源を立ち上げ、ネットで西表島までのチケットを探す。羽田空港からの直通便はなく、石垣島まで飛行機でいって、石垣島から海路で行くことになる。その距離二千キロ。空港までの距離も考えて、到着まで六時間はかかる長旅だ。

 ついでに西表島の詳細をウィキペディアで調べた。よく聞く島の名前ではあったけど、イリオモテヤマネコがいるということ以外、なにも知らなかったのだ。島の面積は二八九.六一㎢。その九〇%を亜熱帯の自然林で覆われ、島全体の八割が国有林。川沿いにはマングローブが生えそろい、山地にはシダやヤシが群生をなす自然の宝庫。珍しい動物もごまんとそろい、イリオモテヤマネコのほかにカンムリワシ、セマルハコガメ、サキシマハブ、なんて、名前を聞いただけじゃ想像もできない動物たちの住む王国。それが、西表島だった。

 「すげぇ」

 俺はこんな状況なのにワクワクしてしまった。

 南の島は初めてなうえに、見たこともない動物たちの住む島に行ける。動物病院の息子の俺が、動物を好きじゃないわけがない。天然記念物の動物が見れる。そのワクワクが俺の中で一番リアルに感じられたからだ。俺はタンスをひっくりかえしてリュックの中に服を入れ、去年の誕生日プレゼントに父さんからもらったG-SHOCKを腕にはめる。あと必要なものは・・・金だ! 昨日真っ裸でうちに来たレンが金を持ってるはずがなかったので、俺は金色のブタの貯金箱をエイヤッ! とハンマーで叩き割った。

 ・・・五六七二円。

 金を数える俺をレンが上からのぞき込む。粉々に砕け散った貯金箱の破片の下を調べても、百円玉一枚、それ以上は増えなかった。

 「はぁー」

 と俺はため息をついた。とてもじゃないがこれじゃいけない。どうするか少し考えて、仕方なく俺は父さんの部屋のドアを開けた。不測の事態(地震とか)が起こった時のために、ベットの下に現金を隠してあることを知っていたからだ。今は多分、不測の事態というヤツだから、使っても後で怒られることはないだろう。

 「よっと」

 とベットの下に手を入れる。ベットに張り付けてある封筒を探しあて、ベリベリっとテープをはがす。封筒の中身を見ると、西表島に行くためには十分な金額が入っていた。

 その中に一枚、白い封筒が入っていた。

 なんだろう? と思って封筒を取り出して開けてみる。それは父さんの手紙だった。ただ一言、『西表島で待つ』とだけ書かれていた。そして手紙のほかに、一枚の古い写真が入っていた。

 病室で赤ん坊を抱く女の人と、寄り添う若い父さんが映った写真だった。

 「母さんだ」

 その写真をのぞき込んだレンがいった。俺の手は震えて、言葉はなにも出なかった。

 初めて、母さんの顔を見た。

 優しそうな目と、満面の笑み。抱かれている赤ん坊は俺だろう。しわくちゃの猿みたいな顔。その頭を守るように抱きかかえた、母さんの姿。

 心臓がドクドク鳴った。全身から血の気が引くのがわかる。頭にドリルを突き付けられて、その上から巨大なハンマーで叩かれたみたいにクラクラした。

 「どうしたの? レオ?」

 レンの言葉も耳に入らない。自分がどうしてこんなに衝撃を受けているのかわからない。でもとにかく全身に鳥肌が立って、俺はいてもたってもいられなかった。俺はその写真をジーンズの後ろポケットに入れて立ち上がった。

 「行こう」

 とにかく、西表島に。


 空港までは順調だった。

 夏休み初日の羽田空港は家族連れで混雑し、俺たちはカウンターに並んで一番早い石垣島までのチケットを買った。中学生二人(レンが中学生かは謎だけど)が飛行機のチケットを買って止められないか不安だったけどそんなこともなく、俺は自分たちの飛行機乗り場を探してウロウロしていた。俺は空港も飛行機に乗るのも初めてで戸惑ったけど、ずっと研究所で暮らしていたというレンを頼るわけにもいかなかった。どうにか自分たちの乗る飛行機の搭乗ゲートまでたどり着き、まだ時間に余裕があったから待合所のソファに座り、母さんの写真を取り出して眺める。

 母さんに会いに行く。

 そう考えると、期待なのか不安なのかわからない感情に、また頭の中がグルグルした。

 「白神獅子くんだね」

 いきなり声をかけられて俺は顔を上げた。レンかと思ったが、レンは俺の隣でとぼけた顔で眠っていた。それにレンの声じゃない。もっと低くて、もっとかすれた、老人みたいな声だった。

 「白神二郎くんは元気かな」

 俺の隣に、いつの間にかおじいさんが座っていて、その人が俺に話しかけていた。白神二郎は父さんの名前だ。俺はそのおじいさんに覚えがなく、知り合いかどうか思わずじっと見つめてしまった。でも、どう見ても知らない人だった。

 「誰ですか?」

 率直に聞くと、そのおじいさんは「ほっほ」と楽しそうに笑った。この暑いのに蝦茶色のスーツを着て、つばのついた帽子まで被っている。皺の中に目があるような細長い目。白い口髭と顎髭を伸ばし、椅子ではなく杖に寄りかかるように座っている。俺に話しかけたくせに、俺ではなくガラス張りの窓の外で飛び立つ飛行機を眺めていた。

 「白神二郎くんの、友人だよ。それに君、わたしのことを知らんのか」

 「はい」

 と俺はまた率直にいった。おじいさんはまた「ほっほ」と笑った。

 「勉強不足だな」

 「俺がですか?」

 「いや、私がかな」

 そういって、楽しそうに肩を揺らした。 

 「西表島に行くんだね?」

 そういわれて、俺は返事に困った。いきなり父さんの友人といわれても信用することはできない。それに誰かもわからない人が、どうして俺の行く先を知っているんだ? もう一度チラッとレンを見たが、レンは寝息を立てているだけだった。

 「そう警戒しなさんな」

 とおじいさんはおもしろそうに顎髭を撫でた。

 「これをあげよう」

 そういって、おじいさんは握りこぶしを俺の目の前に差し出した。俺がただ怪訝な顔でおじいさんの顔を睨み付けるように見つめていると、「ほっほ」とまた声を出した。

 「危険なものじゃないよ。君の役に立つものだ。さあ」

 俺はまだ迷っていたが、柔和そうなおじいさんの笑顔にゆっくりと手のひらを差し出した。おじいさんはまた笑い、手を開いて、俺の手のひらの上にポトン、とそれを落とした。俺の手のひらの上には、包み紙に包まれた飴玉が二つ重なっていた。

 「腹が減っては戦はできぬとな。ほっほ。じゃあ、期待しとるよ」

 それだけいうとゆっくりとした動作で立ち上がり、しっかりとした足取りで去っていった。

 「なんだあれ」

 その後ろ姿を見送りながらつぶやくと、起き出したレンが俺の手のひらをのぞき込んだ。「なあ、あのおじいさん知ってるか?」

「知らない」

レンは首を振った。

 「でも、嫌な匂いはしないよ」

 と俺の手のひらの中に向けた鼻をクン、と動かし、飴玉の包みをとくと、ポン、と口の中に放り投げた。

 「あ、おまえ! 知らない人からもらった食べ物なんて危険だぞ!」

 「イチゴ味だ」

 そういって飴ののった舌を出し俺に見せる。俺も「まったく」といいながらもその飴の包みをといて口に放り込んだ。

 「こんなんじゃ腹のたしにはならないよなぁ」

そういう俺の口の中に、イチゴの甘い香りが広がっていった。


 南の島は、暑かった。

 「あちーーーー!」

 というのが、南の島石垣空港の外に一歩踏み出して俺が発した最初の言葉だった。レンは慣れているのか涼しい顔をしているが、太陽の照りつけ方が東京とは比べ物にならない。マジで燃え盛るような太陽が、肌を焼き焦がすように照りつけていた。でもそんな太陽の暑さに文句をいっている暇もなく、空港から出ているバスに乗って石垣市内を目指す。市内に出てフェリーに乗れば、西表島はもう目と鼻の先だ。俺たちはちょうど出発するバスに乗り込み、空港で買った地図を広げた。飛行機の中でレンはずっと寝ていて、西表島のどこを目指せばいいのか全く聞けなかったからだ。

 西表島は、広い。

 石垣島からは船で四十分で行けることはわかったが、西表島のどこにいけばいいのかわからないことにはどうしようもない。俺はまた眠ろうとするレンを叩き起こして、西表島の地図を目の前に広げた。

 「ここ」

 とレンは地図の北端を指さした。

 「ここ?」

 と俺は声を上げる。レンは頷く。レンが指さした場所には、『ピナイサーラの滝』と書かれていた。

 「研究所なんてどこにあるんだよ」

 「滝の中」

 そっけなくレンはいい、「滝の中ぁ!?」と声を上げた俺を無視して眠ってしまった。よく寝る奴だ、とレンの寝息にあきれながらも、俺は背中がムズムズするのを抑えられなかった。

 ヤバイ、すっげぇワクワクする。

 バスは無事に石垣市内に到着した。そのまま一直線にフェリーターミナルまで行こうとする俺の肩をつかみ、レンはなにも言わずスタスタと歩き出した。俺はわけがわからなかったが、ついていくしかない。石垣島はもうレンのフィールドだ。俺が余計な口出しをするより、レンにすべて任せた方がいいだろう。

 フェリーターミナルから離れた、貨物船や漁船が止まる港にレンは入っていった。俺がきょろきょろと一つ一つの船の大きさに口を開けていると、その大きな船と船の間に挟まるように停泊している、小さくてオンボロな漁船の前で立ち止まった。

 「よお!」

 その漁船の中から屈強な体を真っ黒に日焼けさせたおじさんが、白い歯をニッと剥き出しながら顔を出した。その体のイカツさは初対面の俺がちょっと引いてしまうほどで、その人は丸太でも手刀で割れそうな太い腕を振り回しながら、レンに向けて手を振っていた。

 『大将』だ。

 名前を紹介される前から、一目見て俺はその人に『大将』というあだ名をつけてしまった。その体つきと、太いゲジゲジ眉。目も口も鼻も顔のパーツのすべてがデカい。おまけに頭には捩り鉢巻きまで巻いている。どこからどう見ても、『大将』というあだ名がピッタリだった。

 「我喜屋がきやさん」

 と、レンは俺にその人を紹介した。俺が軽く頭を下げると、その人は船から降りてきて「白神獅子くんだな」と俺に向けてニッと笑った。

 「あ、はい」

 と俺はまた頭を下げる。また知らない人に俺の名前を呼ばれた。俺の疑問はそのまま顔に出ていたのか、我喜屋さんはまたニッと白い歯をむき出した。

 「母ちゃんから話は聞いてるよ! まあまず船に乗れさ! 西表島まで、すーぐ着いちまうから!」

 大将はそれだけ言うと船に向かって踵を返し、ピョン! と船に飛び乗って「ほらはよー!」とまた大きく手を振った。昨日から俺は驚きっぱなしだ。今、大将から「母ちゃん」という言葉が出たことにももちろん驚いていたが、もうここまで来て驚いてもしょうがないと気がついた。それで、いわれるがままに大将の船に乗り込んだ。レンも俺に続いて船に乗ったことを確認すると、「行くよー」といって、大将は船のエンジンを吹かさせた。

 爆音みたいなエンジン音を響かせながら、船は真っ青な海の上をすべるように走っていった。海の色は、今まで見たどの海よりも澄んで青い。その色に見とれる間もないほど船はスピードを上げて、風が爆風になって顔に当たって痛いほどだった。

 「遠いところ大変だったなぁ」

 と、風とエンジンの音に負けないくらいの大声で大将がいった。

 「お~りと~り~、っていいたいとこだけど、それどころじゃないもんなぁ。まぁとにかくお~りと~りだわ。あ、お~りと~りって、よくきたなぁって意味な」

 訛りのある話し方で大将はいい、俺も大声で返事をするのだが、轟音のせいで大将の耳までは届かない。「なにー?」と大将は舵輪から体を反らして俺の方を振り向くのだが、振り向くと同時に船が揺れて、俺は慌てて「前! 前!」とジェスチャー付きで声を出す。そうすると大将は「ガハハハハ!」と豪快に笑いながら船のスピードをさらに上げた。

 「おまえの母ちゃんには、世話になったのよ」

 強い風と陽射しを避けるために、ポケットから取り出したサングラスをかけながら大将はいった。俺は返事をするのは諦め、とにかくその話を聞くために風を手でふさぎながら耳を澄ました。

 「俺が西表島の山ん中でさぁ、ハブに噛まれて死にそうになってるとき、偶然、お前の母ちゃんが通りかかったのよ。山ん中でだぞ? 普通人なんて絶対に通りかからないところに現れて、傷を消毒して、いつも持ち歩いてるっていう血清打ってくれて、俺を山の下まで送り届けてくれたんよ。なんでも山ん中に動物の研究所があるっていって、そこの研究者なんだってなぁ。でもなんでか知らんが、自分のことは誰にもいわないでくれっていわれてなぁ。秘密の研究をしてるからって。俺は西表島に生まれてずっと住んどるけど、山ン中にそんな研究所があることも知らんかったもんなぁ。なんせ命の恩人の頼みごとやろ? 俺は絶対に誰にもいわんっていって、でもトゥジにだけはいいか? って聞いたら、その人笑って頷いてくれたわ。俺、トゥジには嘘つけんからさぁ」

 「トゥジってなんですか?」

 俺は声を張り上げる。

 「嫁のことさぁ」

 と大将はのんびりという。

 「そんでなぁ、誰にもいわんで、それっきり会うこともなかったさぁ。だからもう、てっきりあれは夢だったのかと自分でも思うようになってたもんが、それが急によ、この間俺の家に現れて、頼みごとを聞いてくれないか、って頭下げるわけよ。俺びっくりしてさぁ、話聞いたら、そこにいるレンって坊主を俺の船で石垣島まで送り届けて、そいつが連れてくる自分の息子を、西表島まで連れてきてほしいっていうわけさ。フェリーがあるのにどうして? って思ったけど、そこは男として聞いちゃいかんとこだと思ったのよ。なんせ命の恩人さ。俺はわかったっていって、そんでいま、こうしているわけよ」

 けたたましいエンジン音と風の音の中でもはっきりと聞こえる大将の言葉に、俺は無言になった。レンに聞いた時から母さんは生きているとわかっていたのに、東京で聞いたその言葉はまだどこか夢みたいだった。でも今、西表島を目の前にした海の上で聞くその言葉は、はっきりとした現実として聞こえていた。

 「おまえ、母ちゃんとずっと離ればなれだったんだってなぁ。かわいそうになぁ。会えるといいなぁ」

 「・・・はい」

 でもまだ、現実に実感がついていかない。俺はとりあえず頷いただけだったが、大将は風に吹かれながら振り向いて、またニッと白い歯をむき出した。

 西表島に着くと、夕方だった。

 大将が波止場に止めた船を降りると夕日がちょうど水平線の彼方に沈んでいくところで、俺は思わずその景色に見とれてしまった。大将はその太い腕で船をロープで括りつけ、「行くぞぉ」といって俺たちの頭をクシャクシャっとかき回した。

 「どこにですか?」

 俺が聞くと、「俺の家や!」といってずんずんと歩いていった。それでいいのかレンに目で聞くと、レンは大きく口を開けて海も見ずにあくびをしていた。なんとなく気づいていたことだが、レンは問題がないときは特になにもいわないのだ。だから俺は、ずんずん歩く大将の後ろを、小走りでついていった。

 「帰ったぞー!」

 と大将が玄関の引き戸を開けると同時に、

 「おかえりなさーい!!」

 という声が玄関先にこだました。小さな子供たちがバタバタと玄関先に走り寄り、大将の腰と右足と左足にタックルするように飛びついた。

「とうちゃん! おみやげは?」

と口々に声が上げる。大将は三人の子供の頭を平等にかき回すと、「ない!」といってガハハと笑った。

 「えー!」

 と三人が一斉に文句を上げていると、「おかえりなさい」といって、奥から赤ちゃんを抱いた女の人が現れた。大将の奥さんだろうか? でも野獣みたいな大将の奥さんと呼ぶには、あまりにもほっそりとしてきれいな人だった。

 「ほら! みんなお客さんにあいさつしい!」

 と大将が一喝すると、大将の大きな体の陰から俺をのぞき込むようにして、三人の子供たちが一斉に「いらっしゃい!」といって、笑い声を上げながらバタバタと走って家の中に戻っていった。

 「こら!」

 とその女の人が叱っても子供たちはあっという間にいなくなり、「まったく」といって大将は頭を掻いた。

 「トゥジの恵さ」

 「いらっしゃい」

恵さんはにっこりと笑うと優しくいった。そして赤ちゃんを大将に渡し、その場にちょこんと正座すると、なぜか俺に向けて深々と頭を下げた。

 「え、ちょっ」

 動揺する俺をよそに、大将も奥さんの横に正座すると、赤ちゃんを抱えたまま同じように頭を下げた。

 「ありがとう」

 それが、頭を下げた大将から出た言葉だった。

 「白神獅子くん。君のお母さんのおかげで、俺たちはこうして幸せに暮らしとる。本当に、ありがとう」

 「いえ、あの、ちょっと・・・、やめてください。俺が助けたわけじゃないし」

 「いや、恩人の子は恩人さ。俺たちは感謝してもしきれん。本当にありがとう」

 「いや、あの、はい・・・。わかりましたから、顔を上げて・・・」

 しどろもどろにいう俺に、恵さんが顔を上げてにっこりと笑った。その表情に、なぜかドキリとした。恵さんは笑顔のまま、

 「おなかすいたでしょう」

 といって、俺たちを家の中に招き入れた。

 「かいです!」

 「あおです!」

 「うみです!」

 「そしてこの子がてん

 居間に通されると、四角いちゃぶ台のむこうで子供たちが一斉に声を上げて自己紹介をしてくれた。一番大きい子が快、二番目が青、三番目が海、そして奥さんの抱く四人目が、天。みんな見事に男の子だった。全員坊主頭で、全身真っ黒に日焼けしている。さすがに天の肌は焼けていなかったが、それでも香ばしい匂いがするように、うっすらと肌は焦げていた。

 大将の家の居間には畳が敷かれ、開け放った縁側の窓からは夕方の南風が柔らかく入り込んだ。木目の見える低い天井、居間の奥にもう一つ部屋があり、柱で区切られたその部屋の奥が台所になっている。恵さんは天をまた大将に預けて台所に消えていった。年月を感じさせる、日に焼けた畳と柱。俺は正座した足の裏をもぞもぞさせながら、その家の中を見渡した。

 「畳、俺初めてです」

 「なにぃ?」

 俺がそういうと大将が驚いた声を上げ、子供たちが一斉に笑った。

 「今どき、っちゅうやつか。まあ楽にし。足しびれるやろ」

 「はい」

 足を崩す俺の横で、レンはまだ正座のままおとなしく座っていた。正座に慣れていない俺はもう足が痺れてしまったが、レンはなんともないのか、涼しい顔でそのままの姿勢を続けていた。

 「お兄ちゃんたちどこから来たの? 東京? 飛行機乗った?」

 快が勢いよく質問して、ほかの二人も快をまねるように同じ質問を繰り返す。こんな小さな子供と話すのも初めてな俺は、その勢いに圧倒されて、ただ「うん」と頷いた。

 「すげー!」

 全員が目をキラキラさせながら俺を見る。

 「こいつら、内地に連れてったことないからなぁ。やかましいやろ」

 と大将が天をあやしながらそういった。

 「みんないくつなんですか?」

 大将に聞いたつもりだったが、「八歳!」「六歳!」「四歳!」とそれぞれが元気よく声を上げた。「そして天が二歳さ」と、大将が笑いながらいった。

 「おまえの母ちゃんに助けられたとき、ちょうど快が生まれた年でなぁ」

 と大将は話しだした。

 「山の神様にそのこと報告しに行った帰りに、ハブに噛まれちまって、もうどうにもこうにもいかなかったのよ。でもそんとき、お前の母ちゃんが現れてな。本当に山の神様かと思ったわ。ハブなんか見慣れてて、子供の頃から一回も噛まれたことないのに、なんでこんな時に限ってって思ったもんだが、きっと今日この日のためだったんだな。だからなんも気にせんで、今日は家で休んでけ」

 「どこで母さんに会ったんですか?」

 「カンピレーの滝の辺りさ」

 カンピレーの滝。さっきレンはピナイサーラの滝を目指すといっていた。違う場所だ。なんとなく、意味もなくがっかりした。

 「明日は、西表の山にいくんだろ?」

 「はい」

 「ならしっかり休まんともたんで。険しいしハブもおる。内地人がいきなり入ってウロウロするには、ちっとばかり厳しいからな」

 チラッと横目でレンをみてから、俺は頷いた。レンがこくりと頷いたからだ。

 「よっしゃ!」

 と大将は勢いよくいった。

 「それじゃまずメシじゃ! 恵! メシはよぅ!」

 「はよぅ!」

 子供たちも大将の言葉をまねる。台所の奥から、「はーい」という楽しそうな返事が大声で返ってきた。

 どれも初めて食べる料理ばかりだった。

 ゴーヤを炒めたゴーヤーチャンプルーや、豚肉を煮たラフテーなんかは食べたことがあったが、他には見たこともない料理がちゃぶ台いっぱいに並べられた。子供たちが勢いよくがっつく。俺が見慣れない料理に戸惑っていると、「ムジ汁さ」「これがしりしり」「これはグルクンの唐揚げ」「これはイラブチャーのお刺身よ」と、大将と恵さんが一つ一つ料理の名前を教えてくれた。

 「あの人がいなかったら、この子たちにも会えなかったからねぇ」

 一通り料理が食べ終わると、天をあやしながら恵さんがいった。大将は食べながら酒を飲むと潰れてしまい、畳の上でガーガーと豪快にいびきをかいていた。子供たちは畳に横になって絵を描きながらおとなしくしているが、たまにクレヨンを取り合って声を上げていた。

 「島人しまんちゅなのに、この人お酒に弱くて」

 恵さんが笑った。その笑った目のまま天を腕の中であやす。天は小さい手を耳元に上げたバンザイの格好で目をつぶり、スヤスヤと寝息を立てていた。

 子供をあやす母親というのを、俺はテレビの中でしか見たことがない。

 だから、なんとなくぼんやりとした気持ちで、恵さんと天を見つめていた。

 「なにか事情があるんでしょう?」

 恵さんがいった。

 「子供と離れて暮らすなんて、母親には本当に辛いことよ。それ以上に辛いことなんてない。だから、レオくん。詳しい事情は知らないけど、もしもお母さんを恨む気持ちがあったとしても、許してあげて。お母さんは、あなたのことを望んで手放したわけではないはずだから」

 「恨むなんて・・・」

 俺はいった。恨むもなにも、母さんが生きていること自体昨日まで知らなかったのだ。その母さんになにを感じていいのか、正直わからない。ただ、天をあやす恵さんの姿に、ぼんやりと母さんの姿を重ねていた。

 ポケットの写真の中の、母さんの姿を思い出す。その姿が、恵さんに似ている気がする。

 「わからないです」

 正直に俺はいった。

 「俺、昨日まで母さんが生きてることも知らなかったんで」

 事実をそのままいっただけだったが、自分の言葉に思いのほか棘が含まれていることに気づいて、右手の手のひらをぎゅっと握った。恵さんは悲しそうに目を細めた。天が目を覚ましかけているのか、目を閉じたまま、その手がなにかを探すように恵さんの腕の中で小さく動いた。

 「母さんがいなくても、昨日までうまくやってたんです。父さんがいて、友達がいて、学校は楽しくて、なにも問題はありませんでした。でも昨日いきなりこいつがやってきて、母さんが生きてるから西表島に行こうっていって、ほかにもいろいろあって、そのいろいろのことは、すいません、話せないんですけど、・・・正直、よくわからないです。母さんのことは」

 「そう」

 恵さんは静かにいった。俺はその目を見たくなくてうつむいた。

 そうだ。俺はレンに聞かされた途方もない話より、母さんのことが気になっている。俺が変な獣になって人間に戻れないかもしれないことより、不老だか不死だかよくわからない話より、そんなことどうでもよくて、母さんのことが気になっている。

 母さん。

 会ったこともないのに、どうしてこんなに気になるんだろう? 俺はどうして、こんなに混乱しているんだろう?

 「会いたい?」

 恵さんがいった。その言葉に、俺はますます混乱した。

 「・・・会いたいです」

 でも、出てきたのはその言葉だった。俺は両手の手のひらを、また強く握っていた。

 「ならその気持ちのまま、会いに行けばいいのよ」

 恵さんは笑った。俺はうつむいたまま、コクン、と頷いた。葛藤がないわけじゃない。むしろ葛藤しかない。でも恵さんのその言葉が優しくて、俺は小さく頷いていた。

 そのとき天が泣きながら目を覚ました。恵さんが「あらあら」といって天の体をゆすると、子供たちが寄ってきて天の周りに集まった。子供たちはその泣き声を面白がるように天の顔を指でつつく。天の泣き声は大きくなり、「コラ!」と恵さんが子供たちを叱る。その声に大将も目を覚ました。

 「寝ちまったか」

 と大将がボリボリと頭を掻いて起き上がった。子供たちが天から離れ、大将の上にふざけた笑い声をたてながら覆いかぶさっていく。

 「こりゃ! おまえら風呂に入ってこい!」

 大将が怒鳴ると子供たちは笑ったまま返事をして一斉に駆け出した。俺がその姿を見送っていると、

 「ほら、レオくんとレンくんも」

 といって恵さんがにっこりと笑った。俺が「え?」という顔をすると、

 「うちでは、子供たちは全員でお風呂に入るの」

 とにっこりと笑っていった。

 「ええっ!」

 「大丈夫。家のお風呂は広いから」

 といって、またにっこりと笑顔をつくった。


 いわれた通り、その風呂は広かった。子供たち三人がプールに飛び込むように順番に湯船に入り、誰かが体を洗っているときは誰かが頭を洗い、その間にもふざけあって笑い合って、タイルに滑って転びそうになるのを俺が慌てて背中を支えた。風呂中に子供たちの声が響き渡り、俺はその騒がしさに圧倒されてしまったが、レンは相変わらずマイペースに湯船につかっていた。子供たちは嵐のような勢いであっというまに風呂からあがっていくと、そのときにはもう湯船のお湯は半分になっていた。

 「すごいな」

 俺はレンと向き合う形で湯船につかりそういった。レンは黙ってうなずき、蛇口をひねってお湯を足した。湯気が立ち込める室内に、お湯が落ちる音がドボドボと鳴り響いた。パシャン、とレンがお湯をすくって顔を叩いた。

 レンの体は、普通の中学生の体だった。

 混合人間ハイブリッド・チャイルド。その裸の体を見ても、俺の体と違うところはなにもない。尻尾も生えてない。体に特別な模様もない。もちろん耳も鼻も目も俺と同じ人間の顔だ。俺は自分の体をまじまじと見つめた。どこからどう見ても普通の体だ。本当にレンのいうように、自分も混合人間ハイブリッド・チャイルドなのだろうか? 試しに「グアゥ」と小声でいってみると、「なにやってるの?」とレンはまじめな顔で俺を見た。俺は、照れて笑うしか仕方なかった。

 風呂から出ると、恵さんがスイカを切って待っていてくれた。

 縁側に大将一家と一緒に座り、スイカの種を飛ばし合う。レンはそこにいる誰よりも遠くに飛ばして、「すげー」と子供たちの称賛を浴びた。

 一四歳を目前にした、夏休みの初日の夜。

 俺は知らない場所にいて、知らない家族と、知らない友達と、知らない夜の中にいる。そのことが急に心細くなった。なにやってんだろ? という気持ちでスイカの種を飛ばす。スイカの種はほんの数十センチしか飛ばなくて、それを見て子供たちが「ダセー」と笑った。

 本当なら、今頃琢磨と優二と、夏休みの計画を立てているはずだった。

 町内の夏祭りにいって、プールにいって、海にいって、花火大会にいって。去年の夏休みはそう過ごした。今年も、当然そう過ごすと思っていた。

 でも今、俺は西表島にいる。実際に東京からは遠く離れた場所だったけど、その実際の距離よりも、なんだかすごく遠くに来てしまったような気がした。

 「恵、電気消してくれや」

 口数の減った俺をチラッと見てから、大将がそういった。恵さんが席を立つ。電気が消されると、東京とは比べ物にならないほど真っ暗な夜が広がっていた。

 「すごい星やろ?」

 大将がいう。俺は口を開けて夜空を見上げた。

 星が、こんなにキレイだなんて知らなかった。

 東京で一つか二つ見えるかすんだ星の光ではなく、磨かれたダイヤモンドみたいな星が、数百も数千も、真っ黒な夜空の上に輝いていた。

 「すっげー・・・」

 俺はため息みたいな声を漏らしていた。「そうやろぉ」と大将はいい、俺の肩に分厚い手を置き、俺のことを自分の方に引き寄せた。

 「レオ、俺はお前の母ちゃんにどんな事情があったのか知らん。でもおまえのことを大事に思ってることだけはわかる。だから気張れ。元気出せ」

 「・・・はい」

 星の迫力と大将の言葉が嬉しくて、俺はただ素直に頷いていた。

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