第2話 ジャグリオンは俺に語る

 ホワイト・ライガー?

 俺は呆然としたまま百武漣ヒャクタケ レンを見上げていた。なにをいっていいのかわからず、差し出された手も握ることもできなかった。百武漣はそんな俺の姿に微笑みを見せ、さらに腕を伸ばしてきた。恐る恐る伸ばした手で、百武漣の手をぎゅっと握る。百武漣はニッともう一度微笑み、俺の手を引き俺のことを立ち上がらせた。

 「ジャグ・・・・、なに?」

 「怪我はない?」

 俺の質問を無視して百武漣が俺の体の埃を払う。俺はただ頷く。俺は無事だが、百武漣の肩には爪痕が赤く筋を引いていた。

 「肩・・・」

 と俺がつぶやくと同時に、百武漣は険しい顔で空を見上げた。その先にはあの白いドローンが浮かぶ。百武漣はベンチにトッと飛び乗ると、高くジャンプしてドローンを地面に叩き落とした。

 それだって人間が飛べる高さじゃない。でも今さっき信じられない光景を目にしたばかりの俺の目には、それは当たり前のことのようにしか映らなかった。

 落ちたドローンを手につかみ、百武漣がもう一度俺の前に立つ。

 「肩」

 と俺はもう一度いった。百武漣は「ああ」というと、なんでもなさそうに首をすくめて肩の傷を一舐めした。まるで動物が、自分の傷を舐めるみたいに。

 「驚いた?」

 俺は黙って顎を振る。百武漣はまた微笑む。俺がなにもいえずにいると、「なにか着るものはないかな?」と首をかしげた。一瞬なんのことをいっているのかわからなかったが、やっと現実に戻り始めた目で見ると、百武漣は裸だったのだ。

 「うわあ!」

 俺は慌てふためいた。着るものっていったってなにも持っているはずがない。俺はとにかくシャツを脱いで乱暴に百武漣に手渡した。

 「ありがとう」

 そういった百武漣がシャツを普通に着ようとするので、「違う!」と叫んでシャツを奪い裸の腰に巻き付けた。百武漣は俺がなんで慌てているのかわからない、といったふうに不思議そうに俺が腰に手を回すのを見ていたが、俺が離れると「ありがとう」とまた微笑んだ。

 「・・・いや、俺こそ」

 なにもかもが現実離れしすぎていて、礼をいうことも忘れていた。だって信じられるか? 犬に集団で襲われることだって信じられないことなのに、その犬たちを追っ払ったのが、獣に変身した少年だったなんて。ありえない。マンガ過ぎる。そんなことが、現実に起こるはずがない。でも・・・、

 「・・・変身?」

 俺はそう口にしていた。だって、目の前で起こったことなのだ。

 「変換コンバーションだ」

 「コン・・・?」

 「ジャグリオンの細胞を、人型の細胞に連結して増幅するんだ。そして増幅したジャグリオンの細胞を人型の細胞の持つDNAに転写する。そうすると人型のDNAの塩基配列がジャグリオンのものに塗り替わり、高速で増殖していく。増殖が完了したのが、あの姿。人型に戻るときは、その反対をすればいいんだ」

 あたりまえだが、なにひとつ理解できない。それにそんな説明をしてほしいわけじゃなかった。変換コンバーションだかなんだか知らないが、とにかくさっき起こったことは事実なんだ。俺が知りたかったのはただその一点だけで、ただでさえパニックになってるのに、増殖とか塩基配列とかいわれても理解できるはずがない。

 「ジャグリオンって・・・?」

 「ジャガーとライオンの、混合動物ハイブリッド・アニマルだよ」

 混合動物ハイブリッド・アニマル。その言葉にまた混乱しそうになる頭を必死で整理した。どうして今日知ったばかりの言葉がこんなに俺に関係してくるんだ? ただ今日、ホワイト・ライガーを夢に見たっていうだけなのに。

 そこでハッとした。さっき百武漣はなんていった? 俺の名前を、呼んだ後に?

 「さっき、ホワイト・ライガーって俺のことを呼んでなかった・・・?」

 「うん」

 百武漣の、かすかな微笑みが闇に浮かぶ。その微笑みを優しく俺に向けたまま、百武漣は静かにいった。

 「君の中には、ホワイト・ライガーの細胞が生きている。君も俺と同じ、混合動物ハイブリッド・アニマルのDNAを持つ、混合人間ハイブリッド・チャイルドだよ」


 とにかく、家に帰ることにした。

 頭がこんがらがってなにも理解するどころじゃなかったし、ほとんど裸の百武漣と公園でいつまでも話しているわけにはいかなかったからだ。そんな姿を誰かに見られたら、と思うと気が気じゃなかったが、幸いほとんど人の目にはつかず家に帰ることができた。変身(変換コンバーションか)すると、服までは変換コンバーションすることはできずに全部破けてしまうらしい。そんなことを、歩きながら百武漣に聞いた。今日いろいろあった中で一番どうでもいい情報のようにも思えたが、それぐらいのことしかもう俺の頭は処理できなかった。途中、知らないおばさんが百武漣の姿を見てびっくりしていたが、百武漣は、そんなことは気にならないように俺の後ろをおとなしくついてきた。

 「なあ、おまえのことなんて呼べばいいの?」

 俺は聞いた。百武漣のことを考えるとき、頭の中でずっと『ヒャクタケレン』と呼んでいて面倒臭かったからだ。

 「レン

 ヒャクタケレンは端的にいった。

 「俺のことはレオでいいよ」

 俺も簡単にいった。レンは「わかった」とうなずいた。どうして母さんの旧姓を持っているのか、疲れ果てた俺はそのときは聞くことができなかった。

 父さんはまだ帰っていなかった。

 予想はしていたが、俺はそのことにもうんざりした。俺の周りでなにが起こっているのかわからない。リビングのテーブルにレンを座らせて俺も座ると、思い切り深いため息が出た。

 「疲れた?」

 レンはいった。

 「少しな」

 俺はいって、目の前のレンがまだ裸なことに気がついた。俺は自分の部屋から適当なシャツとズボンを持ってきてレンに渡すと、麦茶をついでレンの前に差し出した。俺は立ったまま麦茶をゴクゴクと飲む。レンは「ありがとう」とつぶやいて服を着ると、麦茶の匂いをクン、と嗅いでから一口飲んだ。

 なにから聞けばいいんだ?

 ハイブリッド・チャイルド? 変換コンバーション? ホワイト・ライガー? 母さんの旧姓? 父さんの失踪も? まったくわからなくて途方に暮れた。どれも聞かなくちゃいけないことなのに、どれも今聞きたい気分になれなかった。できればなかったことにして眠りたい。でも壁の時計は九時半を差している。父さんがこんな時間に帰ってこないわけがない。つまりそれは、本当の異常事態が今ここで起こっているということだった。

 「あー・・・」

 と俺は口を開いた。レンは俺の声に反応するように俺を見る。

 「ドローンは、なんで壊したんだ?」

 俺の口から出てきたのは、一番現実的に理解しやすそうなことだった。振り返れば、今日最初に起こった現実的な異変は、ドローンが俺の目の前に現れたことだった。

 「監視されてたから」

 「俺が? 誰に?」

 「アカデミー」

 アカデミー。新しい単語だ。でもそれはとりあえず横に置いておく。これ以上理解しなきゃいけないことを増やせない。

 「どうして?」

 「レオの契約期間の終了が、迫っていたから」

 ケイヤクキカンノシュウリョウ。俺はこの言葉もとりあえず無視して話を進めた。聞いたところで、話を理解できる自信はまったくもってなかったけど。

 「どうして犬たちは急に襲ってきたんだ? みんな、おとなしい飼い犬のはずなのに」

 ペス以外にも俺が知っている犬が何匹もいた。みんな人を襲うような性格じゃない。大体東京で飼われている犬が、人を襲うなんてまずありえない。

 「レオを試すために、ドローンから信号が出てたんだ。レオだけに襲いかかるように」

 「試すってなにを?」

 「契約を更新する必要があるかどうか、アカデミーが試してたんだ」

 「だから契約ってなんだよ!」

 ドン! と机を叩いて俺は大声を出した。レンは俺の苛立ちを気にすることもなく俺のことをまっすぐに見つめる。俺は声を荒げたことの自己嫌悪に陥りながら頭を抱えた。正直泣きそうだった。レンがなにをいっているのか、まったく理解できなかった。

 「ごめん」

 俺はいった。レンはその言葉には反応せずに俺のことを見つめていた。

 「正直なにが起きてるのかまったくわからない。おまえ誰だ? なんでいきなりこうなったんだ? 俺に今、なにが起こってるんだ?」

 「全部話すよ。母さんに、そういわれてるから」

 「母さん?」

 「俺の母さんだ」

 ドクン、と心臓が鳴った。母さん? レンの? それはいったい誰のことをいってるんだろう? 俺は、なんでその言葉にこんなに胸がザワザワするんだろう? 

 「レオが、生まれたときの話だよ」

 俺の疑問に気づかないまま、レンは静かに話しだした。


 俺は、生まれたときバクテリアに感染した。

 壊死性の人喰いバクテリアだ。感染経路は不明。まだ新生児室にいた俺が人喰いバクテリアに感染することは、普通に考えてありえないことだった。それでも感染は判明。俺の母さんは動物遺伝子学の研究者だったから、出産も母さんが所属する研究所の付属病院で行い、その病院には日本中の医療知識を集結させたようなスーパー医師がそろっていた。人喰いバクテリアは感染=死、と一般には知られているが、四八時間以内に適切な治療が行われれば、実際は高い確率で生き残ることができる。だから俺がいた病院ならまず間違いなく治療することができるはずだった。だが治療開始と同時にそのバクテリアが新種のバクテリアだったことが判明。既存の治療や投薬は役に立たず、俺の体は母さんの目の前でみるみる黒く変色していった。俺はそのまま泣き声を出すこともできず、体中をバクテリアに喰いちぎられて、もう、死は、確定的な状況だった。でもその場にいるすべての医師が諦めても、母さんだけは諦めなかった。母さんはただの動物遺伝子学の研究者ではなく、世界にも類を見ない天才的な研究者で、混合動物ハイブリッド・アニマルの細胞と遺伝子の専門家だった。母さんはその細胞構造に驚異的な自己再生能力があることを発見。その細胞の再生能力を治療不可能な難病治療に役立てるべく、日々研究に没頭していた。理論上は完成している研究だった。その細胞を人間の体の中で活性化させれば、例えば細胞が突然変異で悪性化する病気 ―ガン― などは、完全に治癒することができるはずだった。ただ未知の副作用や後遺症の可能性も否定できず、まだ実験段階にすら達していない治療法だった。

 その方法を、母さんは選択した。

 死んでいく俺の脊髄にハイブリッド細胞を注入。そうすると黒く変色した俺の細胞は、みるみるその皮膚の色を取り戻していった。経過は良好。俺は生き残り、治療は成功。めでたしめでたし、のはずだった。

 でも問題はそう簡単じゃない。母さんは確立前の治療法を研究所に無断で試したことで、殺人未遂の罪で起訴された。俺が無事なのにどうして起訴しなきゃいけなかったのかわからないが、きっと大人の事情だろう。ただ研究所側も事を大きくすることは望まず、母さんが研究所を去ることで起訴を取り下げた。母さんはその条件を飲まざるを得なかった。

 そして、ここで疑問が残る。

 そもそも、どうして俺は人喰いバクテリアに感染したんだ? それも新種の。

 「アカデミーだよ」

 レンはいった。

 「アカデミーが、その研究を欲しがったんだ」

 レンがアカデミーと呼ぶ組織(詳細はまだわからない)は、母さんの研究に前々から目をつけていた。目的はその再生能力。無限に再生を繰り返していくその細胞の力を、病気の治療ではなく、不老不死の方法として手に入れようとしていた。そしてその再生能力を、俺を人体実験の道具にして母さんに試させた。息子の俺が治療不可能なバクテリアに感染すれば、母さんがその治療法を選ばざるをえないと考えたからだ。

 「不老不死?」

 バカみたいに俺は大声を出した。

 「違う。不死に限りなく近い、不老を維持する方法だよ」

 冷静にレンが訂正した。

 「理論上は、それはもう実現可能な範囲の話だったんだ。遺伝子レベルでの再生治療の研究者がノーベル賞を取ってるのは、レオだってテレビで見たことがあるだろう? 医学的に、不老はもう夢物語ではなく、現実として実現できるレベルになってるんだよ」

 信じられない話に俺は言葉を失った。普通だったら、いくなんでもそんな話は信じられない。でも今日、俺はもっと信じられないものをこの目で見てる。だからそのまま話の続きを聞いた。手が勝手に、首筋の傷跡を撫でていた。レンは続けた。

 「アカデミーの策略は、すべてがうまくいった―――」

 俺は助かり、母さんの治療法の有用性が証明され、そのせいで母さんは職を追われた。アカデミーはそんな母さんに声をかける。母さんはアカデミーの話を断った。母さんがしたいのは不老の研究ではなく、あくまで治療の研究だったからだ。ただ、アカデミーは、そんなことで諦める組織ではなかったのだ。

 新生児の俺を人喰いバクテリアに感染させるような、危険な組織だ。断られたからといって手を引くようなことはしない。

 アカデミーは俺を人質にした。母さんが誘いを断れば、俺を力づくで奪っていく計画だったらしい。成功例の貴重なサンプルだ。母さんがいなくても、俺から手に入るデータはアカデミーにとってかけがえのないものになるだろう。アカデミーの本当の狙いは、俺と母さんを、セットで手に入れることだった。

 それで母さんは折れた。条件は、俺には一切手を出さないこと。

 アカデミーもそれで手を打った。でもアカデミー側も条件を出した。それが、俺が一四歳になるまでに研究で成果を上げることだった。

 どうして一四歳なんだ?

 それには理由があった。

 ハイブリッド細胞が俺の人間としての細胞を乗っ取って、暴走する可能性は最初から否定できなかった。母さんは暴走の可能性はあると考えた。いつ? それは俺の体が、遺伝子的に人間として完成する一四歳。そのときハイブリッド細胞が、人間の細胞との共存コウイグジスタンスを選ぶのか、完全なる浸食パーフェクト・イローションを選ぶのか、その結果が、この研究の成否を決める最重要項目だった。

 「浸食?」

 俺は絶句した。その言葉に、さっきのレンの姿が浮かぶ。黒い、大きな、ヒョウのような姿。ジャガーとライオンの混合動物ハイブリッド・アニマルだとレンはいっていた。つまり、俺も・・・? その意味を、俺は理解したくなかった。

 「完全なる浸食パーフェクト・イローションって?」

 「もしもハイブリッド細胞が暴走して浸食を選んだら、レオは人間の姿を維持できない。ホワイト・ライガーの姿に戻るんだ。細胞が、元ある姿に自分を戻そうとするのは自然なことなんだ。だから・・・」

 「だからってなんだよ!!」

 俺はまた大声を上げた。もう、レンを気遣う余裕はどこにもなかった。

 「一四歳になったレオの姿次第で、契約がどうなるかが決まる。人型のままなら契約は更新し、レオの安全は守られたまま母さんはアカデミーで研究を続ける。でもライガーの姿に戻ってしまったら、契約はその場で破棄。君は失敗作としてアカデミーにされる。人から獣に戻ってしまう変換コンバーションは、アカデミーにとって必要のない要素だから。どちらにしても、アカデミーはレオの遺伝子と細胞を徹底的に調べるだろう」

 「それじゃどっちも意味ないじゃん」

 「そうだよ」

 俺のつぶやきに、レンは静かに答えた。俺は全身の力が抜けていくのを感じた。足元から、俺の今までの現実が崩れていく。その感覚が、リアルに俺を支配していた。

 「なあ、母さんって、生きてるの・・・?」

 今の説明の中で、ずっと聞きたかったことを口にした。

 「うん。さっきからそういってる」

 「だって、死んだってずっといわれてきたんだぞ!!」

 「生きてるよ」

 表情を変えずにレンはいった。レンの話の中で、母さんが生きていることはわかってはいた。そうしないと話のつじつまが合わない。でもいきなりそんなことをいわれても、感情が理解に追いつかなかった。だって、

 「・・・顔もみたことないのに」

 そうだ。俺は母さんの顔も見たことがない。ずっと死んだっていわれ続けて、俺もそう思ってて、ずっと父さんと二人で生きてきた。それが、生きてる? 母さんが?

 「・・・どういうことだよ」

 母さんへの感情を自分の中に探す。子供の頃は、もちろん会いたかった。正直、ものすごく淋しいときも、辛いときも、苦しいときも、泣き叫んだときもあって、それを乗り越えて今がある。それが今さら、生きてる・・・?

 「父さんはどうして隠してたんだ・・・?」

 「そういう契約だったんだ。レオを、守るためだったんだよ」

 「そんなこと今いわれてもわかんねぇよ!!!」

 レンにぶつけても仕方のないことなのに、レンにぶつけることしかできない。大体こいつはなんなんだ。いきなり現れて、獣に変身して、わけのわからないことをいっている。のこのこ俺についてきて、のこのこ俺の家のリビングに座っている。招き入れたのは俺だ。自分のそんなバカさ加減に心底腹が立った。放っておけばよかったんだ。そうすれば、こんなことになるはずがなかったのに。

 「・・・レンの母さんも、俺の母さんなのか?」

 「そうだよ」

 なんとなくわかっていたその答えが、ものすごくショックだった。母さんには俺以外にも子供がいた。俺を置いて、いなくなったくせに。胸の奥から苛立ちとも怒りともつかない感情が溢れてきて、俺はレンの顔をまともに見ることもできず、またその場で頭を抱えた。

 「でも本当の母さんじゃない。母さんは名前をくれたんだ。俺は保育室ナサリー・ルームで生まれたから」

 「え・・・?」

 「俺はtypeBなんだ。人工授精させた卵子に、混合動物ハイブリッド・アニマルの遺伝子を直接混ぜ合わせて生まれた、混合人間ハイブリッド・チャイルドのtypeB。だから本当の母さんはいない。母さんは、typeBとだけ呼ばれてた俺に、名前を付けてくれたんだよ」

 「それが、百武漣・・・?」

 「そう。母さんの名字と、西表島の波から、レン。知ってる? 漣って、さざ波って意味なんだよ」

 「母さんが・・・?」

 「うん」

 「母さんって、どんな人・・・?」

 「優しくて、頭が良くて、強い人だよ。レオのことをいつも想ってる。俺にもレオのことばかり話すよ。だから、俺はレオのことを兄弟みたいに思ってる」

 「俺のことなんか、なにも知らないのに。生まれてすぐ、いなくなったのに」

 「俺も不思議だな、って思う。でもまるで昨日会ったばかりみたいに、レオのことばかり話してるんだ」

 「・・・俺に・・・会いたいって、いってた・・・?」

 「うん」

 涙が出た。俺はレンに涙を気づかれたくなくてうつむいていた。唇を噛みしめても、涙は勝手に溢れてくる。俺はレンにばれないように、小さく鼻をすするだけで精いっぱいだった。

 「だから、迎えにきたんだ」

 「え?」

 「レオ。君を助けたい。西表島まで、来てほしいんだ」

 「西表島?」

 「母さんが待ってる。君を、人間に戻したいんだよ」

 「西表島に、なにがあるんだよ?」

 「アカデミーの研究所。そこに母さんがいる。このままだと九四.七パーセントの確率で、君はホワイト・ライガーに戻ってしまう。だからその前に、君を普通の人間に戻すんだ。母さんは島を出られない。だから俺が、迎えにきたんだよ」

 「ライガーになっても、レンみたいに人間に戻れるんだろう?」

 「できないよ」

 レンは首を振った。

 「俺はtypeBだっていっただろう? レオはtypeAなんだ。最初から混合人間ハイブリッド・チャイルドの俺と、人間として生まれてから混合人間ハイブリッド・チャイルドになったレオとじゃ、そもそもの成り立ちが違うんだ。もしレオがホワイト・ライガーになってしまったら、人間には戻れない。時間がないんだ。誕生日に、なる前に」

 時間がない。今朝見た夢の女の人もそういってた。顔のわからない女の人。あれが、母さんだったのかもしれない。

 俺は涙を拭いて頷いた。本当のところ、レンがいっていることをすべて信じられたわけじゃなかったけど、今朝夢に見た女の人が、俺の背中を後押しした。

 あれが母さんだ。

 そのことに、もう疑いは持たなかった。頷く俺を見て、レンが「よかった」と微笑んだ。その微笑みに俺の肩の力が抜け、抜けた瞬間にグゥ~~と腹が鳴った。

 朝食べてから、なにも食べていなかったのだ。

 こんな状況で腹が鳴る自分に照れて赤面したが、俺につられたのかレンの腹もグゥ~と鳴った。俺たちは笑った。会って初めて、レンと笑いあった。

 「なんか食べるか」

 と俺は立ち上がり、冷蔵庫を開けてなにもなかったことを思い出す。キッチンの棚を探すとインスタントラーメンの袋が二つあったから、俺はそれを茹でてレンに渡した。レンは湯気の出る丼を不思議そうに眺めながら鼻を鳴らした。

 「これなに?」

 冗談ではなさそうにレンはいった。

 「インスタントラーメン。食べたことないのか?」

 「ない」 

 今度は割り箸を不思議そうに手に持ったレンの姿を見ながら、俺は自分の分のラーメンをすすった。しょうゆ味。なんだかその食べなれた味にほっとした。

 「いつもなに食べてたんだよ」

 「キャット・フード」

 なにげなくいった俺の言葉に、なにげなくレンは返した。俺がその言葉に箸を止めると、レンは俺の見よう見まねで、割り箸をパキッと割った。


 結局、父さんは帰ってこなかった。

 レンに聞いても知らないという。念のため警察に電話もしてみたが、父さんが事故にあっているということはなかった。予想はしていたが、それでも暗い気持ちになった。でも考えても仕方がない。とにかく、俺たちは寝ることにした。

 俺のベットの隣に、客用の布団を引いた。まさか布団まで知らないといい出すんじゃないかとレンに聞いてみたら、案の定知らないといった。ベットは知っているという。俺のベットで寝て、俺が布団で寝るか一応提案してみたが、「大丈夫」といって布団の中に丸くなった。

 電気を消す。眠ろうと目を閉じる。でも眠れるわけもなく、何度も寝返りを繰り返す。疑問ばかりが頭の中に浮かび上がる。その疑問の一つ一つを理解したつもりでいても、理解なんて到底できるはずもない。俺はまだ、レンのいったことが信じられなかった。

 「なあ、起きてるか?」

 レンの寝息はまだ聞こえていなかった。「起きてるよ」とレンはいった。

 「レン、アカデミーの研究所では、どんな生活をしてたんだ?」

 母さんのことよりも、今ここにいるレンのことが気になった。日本で生まれて育ってきて、インスタントラーメンを知らないなんて。そんな生活、俺には想像もつかなかった。

 「なんてことないよ。毎朝起きて、運動して、勉強して。血を抜いて検査して。その繰り返し」

 「なにを食べてたんだ? その・・・、キャットフードって、なんだ?」

 「キャット・フード?」

 「うん」

 「知らないけど、みんながキャット・フードって呼んでるから俺もそう呼んでる。チューブみたいなのに入った食べ物だよ」

 「みんなって? レンみたいなやつがほかにもいるのか?」

 「いない」

 レンは淡々といった。俺はレンの方を振り向いて、レンのことをじっと見つめた。レンは俺と反対の方を向いて横になっている。

 「ほかはみんな失敗したっていってた。だから研究所にいるのは、母さんとアカデミーの教授たちと、Drだけだ。教授もDrも嫌いだ。母さんは好きだ」

 「なんで先生は嫌いなんだ?」

 「あいつら、嫌な匂いがする」

 「母さんは?」

 「いい匂いだよ。よくわからないけど、俺のことも助けたいっていってた。ジユウにしたいって」

 「ジユウ?」

 「うん。だから、レオのことは俺が守るよ。母さんがいったから」

 「母さんが? なんていったんだ?」

 聞いても、そのあとはスゥ、という寝息が聞こえてくるだけだった。俺はまた寝返りをうち天井を見つめる。レンの言葉がぐるぐるぐるぐる頭の中を回って、とても眠れるとは思えなかった。

 「・・・でも、インスタントラーメンの方がおいしい。あれ、もう一度食べたい・・・」

 寝ていると思ったレンからそんな言葉が漏れて、「レン?」と俺は声をかけた。でも帰ってくるのは寝息ばかりで、どうやら寝言らしかった。俺は小さく笑った。そしてクーラーの音を聞きながら、眠りの中に落ちていった。

 昨日の続きの、夢を見た。

俺はあのドアを背に立ち、広い風景を眺めていた。鳥の声がして、草が風に揺れて、地平線の遠くから海の匂いがかすかに香った。耳を澄ませば、波の音まで聞こえてくるようだった。

 俺は母さんを探して歩き始めた。どこにいるのか知らない。でも海まで歩けば、きっと母さんはいるような気がした。それで、灼熱の太陽が俺の肌を焼く中を、俺はどんどん歩いていった。

 砂浜に、母さんはいた。

 長い髪を風に流しながら、白いワンピースを着て、海の向こうを見つめていた。「母さん!」と声をかけたが、声はでなかった。それで走って母さんに近づいていった。白い砂が足の裏で弾け、素足に、その砂が熱かった。素足? と俺は思ったが、そんなこと気にせず母さんに駆け寄った。母さんは俺に気づき、俺の首筋に抱きついた。顔は相変わらずわからなかったが、泣いていることだけはわかった。「ごめんね、ごめんね」と、母さんは俺にいい続けた。母さんがなんで謝るのかわからず、俺も母さんのことを抱きしめようと腕を動かした。

 その腕は、白銀に光り輝いていた。

 真っ白な毛に覆われた腕が俺の目に映った。「母さん」ともう一度呼ぼうとすると、グオゥと低い唸り声が出た。母さんは俺の鬣を抱きしめながら、いつまでも涙を流し続けた。

 そこで目が覚めた。

 ハッと目を開けると、カーテンを閉め忘れた窓から月明かりが部屋にさしていた。その光に腕をかざす。白い光に照らされた腕は、見慣れた、人間のままの腕だった。

 起き上がり、眠っているレンを見る。

 その体も月明かりに照らされて、黒髪が光るようだった。短い寝息が続いている。タオルケットの中に隠れた体が、小さく上下に動いている。

 ―――混合人間ハイブリッド・チャイルド

 どこにでもいる少年に見えるその姿に、ジャグリオンの獰猛な姿を当てはめることが、今でもまだできなかった。

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