混合獣記

@world360

第1話 よろしく、ホワイト・ライガー

 みんな、同じ夢を何度も見たりするのかな?

 俺はよく見る。よくっていっても何か月かに一度だけど、いつも俺は夢の中で同じ場所に迷い込む。子供の頃から何度も迷い込んでるから『ああ、またこの場所か』って夢の中で思って、夢の中でこれは夢だってわかってるような、そんな夢。そこは現実では行ったことのない研究室みたいな場所で、銀色のデスクにPC、大型の電子顕微鏡、シャーレにフラスコ、試験管。そんなものが俺の視界の先に並び、そこをすり抜けて歩いていくと、今度は動物用のゲージがたくさん並ぶ味気ない部屋にたどり着く。ゲージはどれも空で、そこに本来入れられているはずの動物の姿はどこにもない。一つ異常なのは、そのゲージがどれも超大型だということだ。俺の家は動物病院なので、犬や猫のゲージには見慣れてる。体重が七0キロもあるセントバーナードやグレートテンみたいな大型犬を入れるゲージは小屋みたいに大きいが、それの何倍も大きい、牢屋みたいなゲージが並ぶ。まるでトラやライオン用の檻みたいだ。どうしたって広い個室が必要な、野生の大型の肉食獣。俺は空っぽのゲージに近寄り、まるでなにかを探すようにそれぞれのゲージの扉を開ける。扉の鍵はどれも外れ、簡単に開けることはできても、開けたところでそこにいた動物がいきなり出てくるわけもない。ただ鉄の扉のキィ、ギィ、という冷たい音が、夢の中に響くだけだ。

 いつもはそこで目が覚めてた。でも今日見た夢は、その続きがあったんだ。

 そのゲージが続く部屋の一番先の壁に、見たことのないドアがあった。

 それは厳重そうなセキュリティがついたドアで、重そうなドアの隣に、ちょうど腕が入りそうな穴の開いたロックがかかっていた。そのドアが、部屋の先の行き止まりだったはずの場所に、なぜか今日、いきなり現れた。

 俺は不思議な気持ちでそのドアを見つめた。

 ドアは壁からほんの少し浮き立ち、なぜかセキュリティが外れていた。俺は夢の中で考える。なんで今日、そこに、いきなりドアが現れたんだろう?

 でも考えたってわかるわけない。俺は考えるのをやめてそのドアに近づく。ドアノブに手をかけ、警戒心もなく思い切りそのドアを開け放った。

 ビックリした。

 そのドアの向こうに、いきなり青々とした草原が広がっていたからだ。

 「うわぁ――――!!」

 と俺は思わず声を上げた。いくら夢だってこれは反則だ。あんなカビ臭い研究室のドアを開けたとたん、こんな草原が広がっているなんて夢にも(夢の中だけど)思わなかった。草原は風に揺れ、見上げれば海みたいに青い空が広がり、太陽が信じられないほどの強い日差しで輝いていた。その太陽に影をつくるように大きく羽を広げた鳥が飛び、聞いたこともないほど大きくて激しい鳴声が空の彼方から風を裂くように降りそそいだ。草原は地平線の彼方まで続き、どこまでもどこまでも、その世界は続いていた。

 その地平線の先から、ゆっくりと近づいてくる人影があった。

 最初は黒い点でしかなかったその人影は徐々にその姿をはっきりと見せ始め、太陽の光が眩しすぎてよく見えなかったが、その人は風になびく長い髪を手で押さえているのが遠くからでもわかった。髪と一緒にスカートの裾も揺れているように見えたから、多分女の人だろう。彼女は左手で髪を押さえながら、右手を、真っ白な鬣をたなびかせる大きな獣の上に乗せていた。

 ―――ライオン?

 その鬣を見てそう思った。でもおかしい。その鬣は、青い草原と灼熱の太陽の下、まるで降り積もったばかりの雪のように、真っ白に風に揺れて輝いていたからだ。

 目を凝らしているうちに、その人影はまっすぐに俺のいる場所に近づいてきた。ライオンはたまに女の人の膝に頬をこすりつけ、ライオンがそうじゃれるたび、彼女は愛おしそうな手つきでライオンの鬣にそっと触れた。

 その仕草に、なぜか胸がドクン! と鳴った。

 まだ遠すぎて顔は見えない。それでも、その人を俺は知っているような気がした。よく知っている誰か、でも、よく知らない誰か。誰だかわからない。でも、確かに俺はその人を知っている。その人との距離が近くなるほど、俺の胸は理由のわからない高鳴りに大きく揺れた。

 「獅子レオ?」

 その人が、俺の目の前まで来て俺の名前を呼んだ。目の前にいるのにどうしてか顔が見えない。その髪も、手も、細い体もはっきりと目に映るのに、なぜか顔だけが見えなかった。話しかける彼女を白いライオンが見上げる。その瞳はまるで彼女を守るという静かな意志に光っているようだった。ライオンが、そんなに優しい目をしているなんて知らなかった。

 ―――どうして俺の名前を知ってるんだろう?

 そう思いながら静かに頷く。彼女は嬉しそうに微笑みかける。目も鼻も口も見えないから表情は全くわからないのに、不思議に彼女が微笑んだのが伝わってきた。ライオンが甘えるように寄り添い、その大きな体を彼女の前に横たえる。

 そのとき、あれ? と思った。

 ライオンは気持ちよさそうに目を瞑り、すっかりリラックスした様子で寝そべっている。その体のすべては目の覚めるような純白で、ライオンをこんなに真近で、しかも白いライオンを初めて見た俺はその姿に圧倒された。でも体が白いということのほかに、なにか、どこかに違和感を感じて俺は首を傾げた。

 どこだろう?

 じっとライオンを見つめてやっと気づいた。白い毛並みに隠れるように、体にトラのような縞模様がうっすらと灰色に入っていたのだ。

 あれ? ライオンって、体に縞模様があったっけ?

 そんな疑問に頭が混乱しかけた俺の思考を遮るように、彼女が急に緊迫した声で話しかけた。

 「時間がないの」

 彼女がそういった瞬間、ライオンがピクッと耳を立ててあたりを見渡した。優しかった瞳は急速に肉食獣の眼光に染まっていき、喉の奥から唸るような警戒の声を出す。そして敵の位置を探るように黒い鼻先を風に立て、空の一巡りを仰ぐようなライオンの目線の先に俺も目をやると、たった今まで青かった空に真っ黒な雲がものすごいスピードで集まっていた。そして目線を地上に戻すと、その大きな体で本当に彼女を守ろうとするようにライオンは彼女と俺の間に立ちはだかった。

 その瞳が、真っ直ぐに俺を射抜く。

 目の光はさらに鋭さを強め、口からはもうその牙が漏れている。本物の肉食獣が、俺に向けて牙を剥いている。その恐怖は言葉になるよりも早く俺の本能を凍りつかせた。逃げろ! そう命じる本能に従いたいのに、体がすくんで足に力が入らない。脂汗が一瞬で全身からあふれ出し、勝手に開いた口からは浅い息が漏れる。半歩、一歩、なんとか後退ると、ドン、と俺が出てきたドアに背中が当たった。

 ライオンから目を離せないまま、震える手でなんとかそのドアに手をかける。ライオンは背を低く前傾に倒し、警戒姿勢を最大限に高めながら俺に向かってにじり寄る。

 理性が、プツンと音を立てて切れた。

「わあっっっ!!!」

 と俺は悲鳴を上げてドアをめちゃくちゃに叩くのに、どうしてかさっき開いたばかりのドアにはロックがかかってまったく開かない。なんで?! と焦ってもっとめちゃくちゃにドアを叩いても、ロックは固く閉ざされて開く気配すら感じない。俺の手が壊れるほど叩いても、まったく、ドアは開かなかった。

 「獅子レオ!」

 と彼女が叫ぶ声も耳に入らなかった。もう俺は恐怖で頭が真っ白になっていて、とにかくドアを叩き続けた。ライオンは真っ赤な歯肉まで見えるほど口を大きく広げ、鋭い爪を持つ指先に力が入り、そして、肩から前脚に、前脚からその爪先に、筋肉が流動して力を蓄えていく瞬間瞬間がなぜか妙にはっきり目に映った。その流れが意味するものを頭が理解した瞬間、ライオンは剥き出しの牙を掲げて俺に向かって飛び掛かった。身を守る術も逃げ出す隙も無かった。悲鳴を上げる俺にその牙が突き刺さろうとした瞬間、ドアが突然プシュッ! と音を立てて開き、俺は急に開いたドアの後ろに背中から倒れこんだ。

 倒れこんだ瞬間、女の人がなにかいったような気がしたが、きつく目を閉じて頭を抱えた俺には、彼女がなにをいったのかわからなかった。

 ジ、ジリリリリリリリリ―――。

 気がつくと自分のベットの上だった。

 目に映るいつもの天井を見上げながら、俺は手を天井に伸ばすようにして目が覚めた。目覚めたばかりの頭では、まだ自分がどこにいるのかわからなかった。顔を横に向け、カーテンから漏れる朝の光を確認し、顔を反対側に向けて見慣れた学習机とロナウドのポスターをじっと見つめる。それでも夢の感触がリアル過ぎて、まだ目が覚めたことを理解できていなかった。

 「レオー、起きたかー?」

 といういつもの父さんの声が二階から聞こえてきた。それで、やっと自分が夢を見ていて、今自分の部屋で目が覚めたことを理解できた。

 「レオー?」

 「起きた! 今行く!」

 今日もいつも通りのんきな父さんの声に大声で返してから目覚まし時計を止める。寝ぼけた頭を振りながらカーテンを開けると、もう七月の太陽の陽射しが、ジリジリと焼けつくように、東京の街を照らしていた。

 「ふわぁ―――」

 と、体の底から安心した息が漏れた。頭と体にまだ夢の感触が残っていて、心臓はその緊張にいまだにバクバクいっている。窓の外の見慣れた住宅地の風景の方が現実だなんて、すぐには信じられないほどリアルな夢だった。窓を開けて、手を太陽の光にかざしてみる。一〇年に一度の猛暑、と騒がれている今年の夏の陽射しに比べても、夢の中の太陽の方がもっとずっと熱かった気がする。夢でよかった、と思う反面、夢から覚めてしまったのがもったいなかった気もする。白いライオンと草原、灼熱の、太陽の光。

 「おはよー」

 二階のリビングでは父さんがいつものようにエプロンをして、慌ただしくキッチンに立っていた。家には母さんがいない。俺が生まれてすぐに事故で死んでしまってから、ずっと父さんと二人暮らしだ。俺たちの家は三階建てで、三階は父さんと俺の部屋と風呂とトイレ、二階はリビングとキッチン、そして一階で父さんは動物病院を開いている。だから朝リビングに降りると一階から腹を空かせた入院患者たち(犬や猫やたまに猿)の鳴き声が聞こえてきて、父さんは俺よりも入院患者の朝メシをつくることで忙しい。入院するぐらいの犬や猫はおじいちゃんやおばあちゃんが多く、柔らかく煮込んだササミなんかじゃないと食べられないことが多いからだ。

 「ほれ! 朝メシ! パンはトースターに入ってるから自分でとれな」

 と父さんは今できたばかりのスクランブルエッグをテーブルに置く。俺はいつものようにパンを自分で皿に取ると、冷蔵庫からハムを取り出してパンにのせてテーブルについた。

 「今日終業式だろ? もう夏休みみたいな顔してるぞ」

 と背中を向けたままの父さんが笑っていった。俺は大きなあくびを一つして、そのままパンに噛りつく。

 「うーん。なんか変な夢みてさ」

 「変な夢?」

 鍋に入れられた大量のササミを、父さんがジャッとザルに入れる。シンクに捨てられた熱湯から一瞬ブワッと湯気が出て、その湯気は開けられたキッチンの窓からすぐに外に逃げていく。

 「うん。白いライオンが出てくる夢」

 「白いライオン?」

 振り向いた父さんのメガネが湯気で曇っている。マンガでよく見るそんな笑える光景も、毎日見ていればツッコミを入れることもない。父さんもわざわざメガネを拭くこともなく、そのまま乾くのを待っている。

 「うん。全身真っ白でさ、スッゲーカッコいいの。サバンナみたいなところで、女の人と一緒に歩いてくるんだよ。そんで女の人が時間がないっていってなにかいおうとしたんだけど、ライオンが俺に襲ってきてさ、なにいってるのかわからなかった。そこで目が覚めちゃった」

 「女の人?」

 と父さんが眉間に皺を寄せながら近づいてきた。さすがにまじめな顔と曇ったメガネの組み合わせは面白くて笑ってしまった。

 「なんでそんな顔してんの?」

 笑いながら俺はいったが、父さんはにこりともせずに俺との距離を縮めてきた。

 「その人は時間がないっていったのか?」

 「うん」

 「どんな女の人だった?」

 「どんなって・・・、髪が長くて、細くて、優しそうだったよ。でもなんでか顔はわからなかった。夢だからかなぁ」

 「そうか」

 と父さんは表情を緩めてキッチンに戻る。俺は今の会話のなにが父さんをまじめな顔にさせたのかわからなかったが、グゥ、と腹が鳴ったのを合図に齧りかけのパンを口の中に詰め込んだ。今日もギリギリまで寝てたから、もたもたしているとまた学校に遅刻する。ただでさえいつも遅刻で生徒指導の田中に目をつけられてるのに、終業式の日まで怒鳴られるのはカンベンだった。でも口を動かしているうちにそのライオンのことを思い出し、

 「あ、そういえばそのライオン珍しくてさ、顔はライオンなのに体にはトラみたいな模様が入ってんの。そういうライオンいる?」

 となんの気なしに聞いた。俺は知らなくても、獣医の父さんなら知ってると思ったからだ。

 「ライガーだ」

 振り向いた父さんの顔は、今度こそまじめそのものだった。湯気の乾いたメガネの奥の目が真剣に俺を見る。そんな父さんの顔は見たことがなくて、俺は正直少しビビった。

 「ライガー?」

 「トラとライオンを掛け合わせた、ハイブリッド・アニマルだ。おまえ、ライガーを見たことがあるのか?」

 「見たこともなにも、今日夢で初めて見たよ。ハイブリッド・アニマルって? キメラみたいなヤツ?」

 「キメラは生きた動物の体を繋ぎ合わせた、空想上の生き物だろう。ハイブリッド・アニマルはハーフなんだ。ライオンのメスと、トラのオスを人工的に生殖させるんだよ」

 「生殖って・・・」

 と俺は気まずく口をモゴモゴさせた。俺は思春期真っ盛りの現役中学二年生だ。いくら親子二人でケンカもなく仲良くやってるといっても、『生殖』なんて言葉を父さんの口から聞いたら動揺する。思春期の男子には、そんな生物の授業で出てくる言葉からだって、どんなことでも想像できてしまうのだ。でもそんな動揺を悟られるのは恥ずかしすぎて、ごまかすために残りのパンを全部口の中に放り込んだ。

 「動物園にはまずいないし、世界中の研究所を探しても限られた場所にしか存在しない。ほとんど幻の動物だぞ。それがどうして、おまえの夢の中に出てきたんだ?」

 「知らないよ」

 と俺は牛乳でパンを流し込んだ。

 「ゲームかなにかで見たことあるのかもね。それよりヤバイ! 遅刻だよ!」

 壁に掛けられた時計を見て慌てて俺は立ち上がった。のんびり夢の話なんかしたせいで、いつもより五分も長く朝メシに時間がかかってしまったからだ。

 「ちゃんと早く起きないからだ」

 父さんが笑った。その笑い方にさっきまでのまじめな顔は消えていて安心したけど、そんなことを気にするヒマもなく自分の部屋に駆け上がって、寝間着を脱ぎすて制服に着替える。そしてソッコーで歯を磨くと今度は階段を駆け下りた。朝、あと一〇分早く起きればこんなに慌てることはないとわかっているのに、その一〇分がどうしても早く起きられない。俺はバタバタと玄関先で靴を履いた。

 「レオ」

 慌てている俺の背中の後ろに父さんが立っていた。俺は「なに?」と焦りながら振り返る。

 「今日、帰ってきたら話がある。まっすぐ帰ってくるか?」

 「誕生日プレゼントのこと? まだ欲しいもの決めてないよ」

 「ん? ああ、それもある。とにかく、まっすぐ帰ってくるんだぞ」

 「わかった。行ってきまーす!」

 普段はのんびりした声しか出さない父さんが、珍しく真剣な声だった。その違和感になんとなく背中がザワザワしたけど、とにかく俺は玄関を開け、外階段を一階まで駆け下りるとそのままダッシュで学校に向かった。走れば一五分。今なら、ギリギリ間に合う計算だ。

 とはいえ、真夏の東京は暑い。

 朝だというのに玄関を開けた瞬間からモアッとした夏の空気が俺の走る気力を思い切り削ぐ。それでも走り始めるとあっという間に全身が汗だくだ。でもそんなことを気にしている余裕はもちろんなく、俺のほぼ唯一の自慢の俊足で学校に向けてひた走る。コンビニを過ぎ信号を渡り、善竜寺川にかかる橋を渡って、角を曲がったところにある魔の踏切を越えたら学校だ。イケル、踏切が目に入った瞬間そう思い、さらに足を加速したちょうどその時、踏切の警報器がカンカンカンカンと不吉な音で鳴り響いた。

「うわ―――っ!!」

と心の中で叫んでるつもりが実際に声になって漏れていて、でもそんなことより踏切が降りきる前に滑り込むべくスピードを上げる。子供の頃から誰よりも早く走れた俺の足だ。今、俺は中学二年の世界記録を更新して、風のように、雷のように、音速でこの数十メートルを走り切り、ゴールの紙テープを切るがごとく踏切を越えている、

・・・はずだった。

 悔しいことに俺の目の前で踏切は無情にも行く手をふさぎ、上りの急行電車が猛烈なスピードで視界の先を過ぎていく。過ぎた瞬間に今度は下りの電車が通り過ぎ、通り過ぎたと思ってもまだ警報機はしつこく高い音を出している。この踏切はつかまると長い。俺は肩で息をしながら、踏切の五〇〇メートル先に見えている杉崎第二中学校の校門を見て絶望的な気持ちになった。

 生徒指導の田中が、仁王立ちで立っている。

 「うわ―――っ」

 と今度ははっきりと声が出てしまった。田中、終業式の日ぐらい見逃せよ。

 また上りの電車が過ぎていく音を聞きながら、息を整えて空を見上げる。真夏の青い、高い空。今日もまた本格的に暑くなりそうだ。すでにびっしょりと濡れたシャツの下で、それでも汗が止まらない。遅刻はもう決定的だ。それなのに俺は、中二の夏休みをなにして過ごそうか、なんて、そんなことを考えている。とにかく今日は、終業式だ。

 あれ?

 と視界の先に映るものに目が留まった。鳥でも飛行機でもないなにかが、雲の白さに隠れるように飛んでいる。

 なんだろう?

 と目を凝らすとドローンだった。しかもニュースでよく見るような大きさではなく、もっと小型の、俺の握りこぶしぐらいの大きさのドローンが四つのプロペラを回している。へー、と思いながら口を開けてドローンを見上げた。よくテレビでは見ていたけど実物を見るのは初めてだったし、そんな小型のものがあるのも知らなかったからだ。

 相変わらず開かない踏切の前で、しばらくポケッと見ていると、フイッと、ドローンはまた雲に紛れるように消えてしまった。消える瞬間にドローンの真ん中が一瞬光った気がした。もしかしたらカメラがついているのかもしれない。どこにいったのか気になって探しても、もう見つけることはできなかった。

 誰か操縦している人がいないかと、俺はあたりを見渡した。でもそれっぽい人はどこにもいず、もう一度空に目をやっても、やっぱりドローンはもうどこにも飛んでいなかった。

 「レオ! また遅刻!」

 教室に入ると、夏芽が声をかけてきた。幼稚園からの幼馴染で、なぜか小学校も中学校もずっと同じクラスだったから兄妹みたいなもんだ。でも最近髪を伸ばし始めて、白いブラウスがほんの少し眩しく見える。

 「うるせーよ」

 ぞんざいに返事を返して席に着き、シャツを第二ボタンまで開けて下敷きで風を送る。シャツは汗でびっしょりで、絞ればいくらでも汗が出てきそうだった。

 「ようレオ! 遅刻魔!」

 「おはようレオ、遅刻王」

 琢磨と優二が寄ってくる。琢磨は小学校から、優二は中学からの親友だ。三人でいると

なにをしてても楽しくて、学校にいる間はもちろん、休みの日も俺は大体こいつらといる。琢磨はお調子者の芸人タイプ、優二は目立った特徴はなくてもいつも楽しそうに笑っている優しいやつだ。それで俺はスポーツ万能のヒーロータイプ、なんてね。スポーツは確かに得意だけど、頭はフツウだしヒーローってタイプじゃない。でも三人でいればいつも最高に楽しいから、こいつらと同じ高校に行けたらいいな、なんて、今からひそかに思っている。たぶんこいつらも俺と同じように思ってる、と思う。恥ずかしいから、そんなことはいったことはないんだけど。

 「うるせーよ」

 俺はこいつらにももう一度いった。校門で田中にこっぴどく怒鳴られ、もう遅刻の話はしたくなかったのだ。

 「あれ、おまえ、そのアザなに?」

 俺の開いたシャツの隙間に目を寄せてきて優二がいった。いつもはシャツにちょうど隠れていたアザが、優二の目に留まったらしかった。

 「ああ、優二は知んないのか」

 俺の代わりに琢磨がいう。俺も自分でも普段は忘れてるくらいだし、会話にのぼるようなことでもないので優二にはいっていなかった。

 「こいつ、子供の頃病気で死にかけたことがあって、そんときにできたアザなんだって」

 「え、マジで? もうだいじょぶなの?」

 「だいじょぶだよ」

 なぜか琢磨が話を続ける。なんでおまえがいうんだ、と心の中でツッコんだが、下敷きを動かすのに忙しくて放っておいた。

 「生まれてすぐ未知のウイルスに感染して、死ぬか生きるかの瀬戸際だったんだよな? それで何日も意識を失って本当に死にかけたけど、最先端医療と赤ん坊の無限の生命力のおかげで生き残ったんだ」

 本人の俺よりも誇らしげに胸を張って琢磨がいう。確かにほとんどその通りだったが、

 「バクテリア」

 とだけ訂正した。

 「未知のウイルスじゃなくてバクテリア。体中が黒く壊死していくやつで、治ったんだけど首筋のアザだけ残ったんだよ」

 「マジで!? スゲー! ちょっとよく見せてくれよ!」

 優二が俺の胸をのぞき込んでくる。仕方なく俺はシャツのボタンをもう一つ外して、優二にそのアザを見せてやった。

 左の首の付け根から鎖骨をなぞり、胸の中心に伸びるようにそのアザはある。もちろんもう黒くなくて、怪我の傷跡が残るようにアザの痕が残っているだけだ。子供の頃はそれを人に見られるのが嫌でプールの授業をサボったりしたが、中学二年になった今、人に見られても、特に恥ずかしいとは思わなくなっていた。

 「スゲー・・・」

 優二が本気で感動した声でつぶやいた。もう恥ずかしくないとはいえ、こんなに真近で人に見られることもなかったのでさすがに居心地が悪かった。

 「もういいだろ? いつまで見てんだよ」

 と俺はシャツのボタンをはめる。優二は「わりぃわりぃ」と笑いながら謝った。

 「でもさ、それ人喰いバクテリアじゃないの? だとしたらスゲーよ! 大人だって下手したら二十四時間ぐらいで死んじゃうようなやつだぞ? スゲー! レオ! よく生き残ったな! その傷マジカッコいいよ!」

 興奮した声でまくしたてたところで担任の浅井先生が登場し、教室に入ったとたんに、

 「レオ! また遅刻だって? 田中先生に怒られるの俺なんだから、しっかりしろよ!」

 と大声で言われてクラス中がドッと笑った。俺はさすがに身を小さくして、「すんません」と謝るしかできなかった。

 HRが始まり、浅井先生が今日の流れを説明する。終業式の後に各部活の表彰式があって、そのあとは掃除。そして通知表を配った後にHRをやって昼には解散。みんなもうそんな話は半分以上聞いてなくて、目の前に迫る夏休みに浮足立っている。俺も例外なく浮足立ってはいたのだが、なぜか教室の風景が眩しく目に映っていた。

 窓際に夏芽がいる。先生の話を聞くふりしながら、斜め後ろの女子に話しかけられて小さくクスクスと笑っている。机に頬杖を突きながら目を後ろにやると琢磨が落ち着きなくそわそわしていて、今からもう夏休みを待ちきれないのが一目でわかった。俺は琢磨のそんなわかりやすさが好きだ。目を戻し優二の席に視線を流すと、俺の視線に気づいた優二がニッと笑う。俺もつられて笑い返す。夏の陽射しが教室中を明るく照らし、クーラーの風に汗が音もなく引いていく。

 不思議な感覚だった。

 見慣れたはずのそんなすべてが、なんだかすごくいいものに思えてぼんやりとしてしまう。夏休みは早く来てほしいけど、このまま教室にずっといたいような気持ちもする。『よく生き残ったな』さっきの優馬の言葉がなんとなく頭に浮かぶ。生きてるからか。なんとなくそう思う。

 生きてるから、いまこの時がすごく大事に思えるのか。

 そう思って、一人で照れた。そんな恥ずかしいこと絶対に優二や琢磨には口に出せない。そう思うと勝手に口から笑いが漏れた。

 「レーオ」

 浅井先生が声を上げる。

 「おまえ、遅刻してきた上になんでHRで笑ってるんだ。おまえだけ一学期を延長しようか?」

 そのセリフに、また教室中がドッと笑った。


 通知表は、まあまあだった。

 体育が五、他は全部三か四。数学が四になってたのが嬉しかった。琢磨はほとんど二か三で、親に怒られることを本気で心配している。優二は三と四が半々ずつ。夏芽は、見せてくれなかった。

 「レオ、これ」

 帰り際、夏芽がプリッツの箱を俺にくれた。

 「誕生日プレゼント。八月一日、誕生日でしょ?」

 夏芽は毎年一学期の終業式の日に誕生日プレゼントを俺にくれる。子供の頃からの恒例みたいなもので、くれるものは毎年決まっている。俺の好物の、プリッツのサラダ味だ。

 「いつも悪いな。ありがとう」

 「まったく、なんで夏休みに生まれるのよ。誕生日プレゼントって、当日じゃなきゃ意味ないじゃない」

 これも毎年決まっていわれる。そんなことないって、って俺も毎年笑って返す。夏芽はそんな言い方しかしなかったが、

 「誕生日おめでとう」

 と今年も笑っていってくれた。

 「一四歳だね。私の誕生日も忘れないでよ」

 「覚えてるよ。一二月だろ?」

 「よろしい」

 夏芽は満足そうに頷くと、「じゃあ、二学期にね」といって教室を出ていった。

 「〝じゃあ、二学期にね″」

 後ろで聞いていた琢磨が、わざとらしく夏芽のマネをして俺のそばに近寄ってきた。

 「いいなぁ! レオばっかり! あいつ、俺にはくれないんだぜ。俺だって幼馴染みたいなもんなのに!」

 「つきあっちゃえばいいのに」

 と優二も近づいてきてあっけらかんと言い放つ。

 「そんなんじゃないって!」

 と俺は慌てて否定する。確かにつきあうとかつきあわないとか、まわりにそういうやつらも増えてきたが、俺と夏芽は断じてそんなんじゃないから、といってるそばから耳まで赤くなるのが自分でわかる。「レ~オ~」と琢磨がニヤニヤしながら顔を俺に近づける。

 「そんなこといってると、あいつ誰かに取られちゃうぞ。夏芽が好きだっていってるやつ、俺何人か知ってるぞ」

 「マジ!?」

 とつい大声を出したら優二がプーッ! と噴出して、琢磨がさらにニヤニヤする。やられた。とにかく俺は、そんなんじゃないと繰り返す。

 「まあいいけど。それより今日時間ある? ちょっと橋の下に寄ってこうぜ。兄貴が忘れてったの、無断で借りてきたから」

 「なに? なに借りてきたの?」

 橋の下とは学校に来る途中に渡る善竜寺川をまたぐ橋の下のことで、俺たちはたまにそこで肉まんを食べたり、塾をサボるのに使っている場所だった。川の土手はコンクリートの堤防になっていて本当は川までは降りられない。でもフェンスを越えれば楽々と下まで降りることができる。橋の下は、上から見ても人の目にはつきにくい、隠れ家にはもってこいの場所だったのだ。

 ひひひ~、と琢磨が気持ちの悪い声を出す。優二がなになに? と身を寄せてくる。

 「じゃーん! iPadとWi-Fiセット~!」

 おー、と優二が手を叩いたが、俺にはそれをなんでわざわざ橋の下で見るのかわからなかった。俺がきょとんとしていると、

 「バッカ、動画見るんだよ」

 と興奮した顔で琢磨がいった。

 「動画?」

 俺がまだ何のことか呑み込めずにいると、

 「エロいのだよ」

 と優二が耳打ちする。「エっ! っロ?」と俺はまた耳まで赤くなって固まってしまった。ひひひ、と琢磨が笑う。中学二年の男子ともなれば当然その方向はみんな興味があるわけで、俺ももちろん興味はあっても、どうしてもその話題になると体がギクシャク固まってしまう。免疫がないというか、はっきりいって苦手分野だ。

 「レオは純情だからな~」

 琢磨が笑う。

 「俺! イヤホン持ってるよ!」

 優二がすでに興奮してそういうと、俺は「う、うん」とかろうじて返すしかできなかった。


 「お、おー!」

 三人でiPadをのぞき込む。そこにはめくるめく大人の世界が広がっていて、食い入るようにのぞき込む琢磨と優二の横で、俺は体を硬直させて画面を見つめる。二人は優二のイヤホンを片方づつ耳にあてて大人の世界のすべてをゲットしようとのめりこんでいるが、俺はうまく乗り切れずそんな二人を横目にそわそわしていた。二人が歓声を上げるたびに俺もとりあえず頷いて合わせていたが、正直早くこの場から逃げ出したかった。

 でも優二と琢磨の、思春期のセーヨクは止まらない。

 俺はだんだんバカらしくなってきてコンクリートの上に横になった。橋で半分隠れた空が相変わらず青い。そういえば父さんに早く帰れと言われていたことを思い出す。父さんがわざわざそんなことを言うなんて、珍しいことだった。

 俺は部活にも入らずいつも早めに家に帰っていたからだ。

サッカー部にも陸上部にも興味はあったが、父さんは動物の世話で忙しく、俺が部活に入ると家の用事をする人が誰もいなくなってしまう。父さんは部活に入ってもいいといったが、俺は断った。だから俺はいつも割と早めに家には帰っているのに、なんでわざわざ早く帰れなんていったんだろう?

 まあいいや。きっと誕生日プレゼントのことだろう。二人を置いて先に帰るのは気が引けるし、ちょっとぐらい遅れても大丈夫だろう。動画に夢中の二人を眺めながら、今年はiPadをリクエストしようかな、なんてなんとなく考えていた。

 その時ふと、フェンスの向こうに人影が見えた。

 俺と同じくらいの背格好の、俺と同じくらいの年齢の少年だった。それだけなら別に気にも留めないが、その少年はフェンスの向こうから俺たちをじっと見つめ、俺が気づいたことに気づくといなくなってしまった。その目が俺たちを非難するように険しく寄せられていた気がして、俺は少年が消えた方向を目で追ったが、橋に視界を遮られて追うことができなかった。知ってるやつじゃない。学校でも見たことはない気がする。夏だというのに全身真っ黒の格好が妙に印象に残った。黒い靴に黒いズボン、黒いシャツに黒いネクタイまでしていた気がする。目が隠れるくらいの髪はもちろん真っ黒で、鋭い眼差しと重なって、黒いヒョウみたいな印象だった。

 ―――ハイブリッド・アニマルか。

 その姿に、父さんがいっていた言葉を思い出した。ハイブリッド・アニマル。ライオンとトラのハーフ。ならさっきの少年はヒョウと人間のハーフみたいな印象だ。そんなわけないか、と思っても、今日見た夢のことが妙に気になる。あの女の人は、なにをいおうとしていたんだろう?

 「ちょっと、iPad貸してくれ」

 動画に夢中の琢磨たちからiPadを無理やり奪い、文句を上げる二人の声を無視してインターネットに検索をかける。

 『ハイブリッド・アニマル』

 そうすると、思ったよりもたくさんの検索結果が現れた。その中の一つをクリックする。すると画像がたくさん出てきて、俺は思わず食い入るように画面を見つめた。

 夢で見たライオンと、同じライオンがそこにいた。

 いや、ライガーだ。ライオンではなくライガーだと父さんはいっていた。その真っ白い鬣も、トラ模様の入った胴体も、夢で見たのとまったく同じだった。その項目を読み進めると、父さんの説明とまったく同じことが書かれていた。そして俺の夢に出てきたライガーは、ライガーの中でもさらに希少な、ホワイト・ライガーという種類だった。

 「なにそれ、カッケー」

 二人がiPadをのぞき込む。俺がそこに書かれていることをそのまま読み上げると、二人は「へー」と感心した声を出す。

 「こんな動物いるんだな。俺初めて見た」

 「俺も」

 二人がそろって口に出す。俺だって今日夢に見るまで知らなかった。知らなかった動物を、どうして夢に見たんだろう?

 ―――やっぱりなにかのゲームかな。

 そう思って考えても、いつどこでみたのか思い出せなかった。もっとはっきり言えば、知らない。俺はこんな動物は、まったく知らなかったのだ。

 夢の中なら知らない動物が出てきても不思議じゃないのかもしれない。深く考えるほどのことでもない気がして、iPadを二人に返してまた横になった。

 あれ?

 と、俺は空の一点に視点を止める。そこには今朝見たドローンがまた飛んでいた。今は空に雲がないからその姿がはっきりと見える。俺はあたりを見回してみたが、やっぱり操縦している人はどこにもいない。今日は珍しいものをよく見る日だ。今朝の夢、ドローン、あの少年もそうか。その三つのことを考えると急に気持ちにさざ波が立った。「早く帰れ」そういっていた父さんの、真剣な声を思い出す。

 「なあ、おい」

 不安そうな優二の声に身を起こした。琢磨はもう一度動画を見ようとしていたところで、「なんだよ」と不機嫌そうな声を出す。優二は川の向かい側を見つめていて、そこには俺の知っているダルメシアンが、じっと俺たちのことを見つめていた。

 「あれ? ペスだ」

 家の近所の駒田さんちの老犬で、風をこじらせて家に何日か入院したことのある犬だった。元気にはなったけど、もういつ死んでしまってもおかしくないほど老衰していたはずだった。

 「知ってる犬か?」

 「うん。おとなしい犬だよ」

 といってはみたものの、ペスは前脚を踏ん張るように大きく広げ、俺たちに向けて低い唸り声を上げている。明らかに様子がおかしい。飼い主の駒田さんを探してもどこにもいない。唸り声と一緒に、口元からは涎がだらしなく垂れている。

 「なんか怖いよ。大丈夫かな?」

 臆病な優二がそう漏らす。うん、と俺は頷いたが、ペスの異常な雰囲気に俺も警戒を強めた。ペスを見ながら川の深さを確認する。最近雨が降っていなかったから、ペスぐらい大型の犬なら苦も無く渡れそうなほどの水量しかない。

 「狂犬病かな」

 iPadから目を上げて琢磨がいう。その声に緊迫感はなく、iPadとペスを交互に見ながらのんびりと構えている。

 「まさか」

 俺は首を振った。狂犬病ワクチンは犬を飼う人全員に義務付けられているし、狂犬病の発症例も、日本ではもうずいぶん長い間報告されていないはずだった。

 「えい!」

 と琢磨が足元にあった石を投げる。「おい、やめろよ!」と優二が怯えた声を出す。

 「大丈夫だよ。あてないし。追っ払うだけ・・・」

 と琢磨が言い終わるより前にペスが獰猛に吠えたてながら俺たちに向かって突進してきた。

 「うわぁあぁぁあ!!!」

 誰よりもビビった優二が叫び声を上げて逃げ出して、俺たちも負けず劣らず大声を上げながら優二の後に続いて堤防を駆け上った。ペスはあっという間に俺たちに追いつき、なんとか俺がフェンスをよじ登った瞬間、ガシャン! とそのままフェンスに体当たりした。

 「ビビったーーー」

iPadを右腕で抱えて、尻もちをついた琢磨がいう。フェンスの向こうではペスがまだ唸り声を上げている。

「琢磨のせいだぞ! 石なんか投げるから!」

涙目の優二が叫び、琢磨が「ワリィ」と片手で拝む格好をした。俺はまだペスから目を離せなかった。ペスは堤防を後ろに下がり、ウロウロと旋回するように体を回すと、またピタリと、俺たちに向けて前傾姿勢をとったからだ。

 「おい」

 と俺が二人に声をかけたのと同時に、ペスは短くダッシュすると思い切りよく宙を飛んだ。

 「うわぁぁあぁぁ!!!」

 俺たちはまた叫び声を上げて一目散に逃げだした。ペスは老犬とは思えないスピードで俺たちとの距離を縮めてくる。正直俺だけなら逃げられそうだったが、足の遅い優二は限界だった。仕方がない、と俺は二人を先にいかせてペスとの間に立ち塞がった。

 「琢磨! 優二を頼む!」

 「おう!」

 と琢磨が優二の手を引っ張り先に行くのを見届けて、俺はポケットから出した獲物をペスの鼻先にガッと突き出す。一瞬怯んだすきを見逃さず、俺は後ろ手に大きく振りかぶってその獲物をペスの頭上すれすれに、思い切り遠くまで投げ飛ばした。

 プリッツだ。

 「ゴー! ペス!!」

 その号令でペスはプリッツを一目散に追いかけて、俺たちの前から姿を消す。

 ・・・はずだった。

 ペスは確かに一瞬混乱した表情を見せ、なにが起こったのかわからないといったように前後左右を見渡したが、やがて状況を理解すると、またピタッと俺に向けて視線を合わせた。

 「うわぁぁぁああぁぁぁ!」

 三度目の叫び声を上げて駆け出す俺にペスは吠え声を立てながら向かってきた。いくら俊足自慢の俺でも0距離からの犬との競争に勝てるわけない。背中でペスが飛び掛かる気配がして、もう駄目だ! と蹲って頭を抱えたとき、

 「キャン、キャゥン!」

 と予想しなかった声が聞こえた。

 恐る恐る振り返ると、そこには鼻先を押さえて蹲るペスと、さっき見た黒づくめの少年が立っていた。逆光でその後ろ姿がさらに黒く見える。彼は俺を守るように両手を広げ、ペスに向けて対峙していた。ペスは情けない声を出しながらそれでも戦闘態勢を取ろうとするが、

 「行け」

 という少年の低い声に体をビクッと震わせると、首をうなだれて走り去った。俺はあっけにとられて立ち上がることもできず、その少年の後ろ姿を見つめていた。少年がゆっくりと振り返る。その顔に、太陽の光が影をつくる。

 「白神獅子シラカミ レオ?」

 「・・・え?」

 名前を呼ばれて、その少年が知っている誰かなのか確認しようと、目を凝らしてその顔を見る。逆光に目が慣れても、やっぱり知らない顔だった。

 「・・・誰?」

 「百武漣ヒャクタケ レンだ」

 「ヒャクタケ?」

 聞いたことがあるようなその名字に、「え!」と気がついたとき、琢磨と優二が戻ってきた。

 「レオ! 大丈夫か!」

 琢磨はどこで拾ってきたのか木の棒を持ち、優二は通行止めに使うカラーコーンを盾のように抱えながら、工事現場用のヘルメットまで被っている。二人とも、どこかの道路工事の現場からでも借りてきたんだろう。俺はその姿に安心して力が抜けてしまって、「おーう」とその姿勢のまま手を上げた。

 「え? 誰?」

 琢磨が百武漣を見て訝しそうに声をかける。優二はその琢磨の後ろに隠れるようにして、きょろきょろとペスの姿を探している。

 「あー、えっと、この人が助けてくれた。名前が、」

 と紹介しようとすると、百武漣は琢磨と優二をみて眉間に軽く皺を寄せ、なにもいわずにその場から立ち去った。俺はまだ呆然としていたが、その後ろ姿に優二が「カッケー」と呟き、琢磨が「なんだあいつ」と悪態をついた。

 俺はなにが起こったのか全く理解できなかったが、「ヒャクタケ」という苗字には心当たりがあった。その名前が、今朝、父さんが真剣な顔をしていたことに繋がっていく。どうしてそんな繋がりを感じるのかはわからなかったが、珍しすぎるぐらい珍しい苗字だ。関係がないとは、どうしても思えなかった。

 「ワリィ、俺帰るな」

 立ち上がり、それだけいって走りだしてから、思い返してまた逆戻る。琢磨と優二を追い越して百メートルほど先に落ちていたプリッツの箱を拾ってから、そのままダッシュで琢磨たちをまた追い越した。

 「じゃーなー」

 手を振る琢磨に俺は頷くだけで返事を返し、全速力で走っていった。

 ヒャクタケは、母さんの旧姓だ。

 俺が生まれるのとほぼ同時に母さんは事故で死んだから、俺は母さんの顔を知らない。写真も動画も残っていない。だから母さんがどんな人だったのか俺は知らない。ただ、大学で動物の研究をしていて、その研究所で父さんと出会って結婚したといっていた。そして母さんの旧姓はヒャクタケだったと、いつか父さんがいっていたのだ。

 「父さん!」

 白神動物病院のドアを思い切り開けると、そこには父さんはいなかった。クーラーの風が冷たく汗を冷やす。時計を見ると一時過ぎだった。この時間なら、家に戻って少し遅い昼食でも取っているのかもしれない。俺は病院を出て二階に上がる。玄関を開けた瞬間に冷たい空気がまた襟元を冷やしたが、呼んでも探しても父さんはどこにもいなかった。

 往診にでもいってるのかな。

 父さんは動物病院にしては珍しく、たまに往診も引き受けていた。年を取って歩けなくなった犬もいるし、移動用のゲージにどうしても入りたがらない猫なんかもいるからだ。でもずっと病院を空けていくわけにもいかないから、そんなに遠くまで行くことはない。もし往診なら、すぐに帰ってくるだろう。

 ふうっ、と一息ついて冷蔵庫から麦茶を出してゴクゴクと飲む。喉を潤す麦茶の冷たさにやっと気持ちが落ち着いてくる。落ち着いて考えると、自分がなんでこんなに胸騒ぎを感じているのかそれ自体もバカらしくなってくる。変な夢に始まって、ドローンを見て、犬に襲われて、たまたま母さんの旧姓と同じ人に会った。どれも大騒ぎするほどのことじゃない。よくあることではないにしても、たまにあっても、おかしくないことばかりだ。

 —――でも、

 じゃあなんでアイツは、俺の名前を知ってたんだろう?

 そう思ったときふいに気づいた。リビングにいればいつも聞こえてくる、動物の鳴き声がしないのだ。俺は嫌な予感がして病院まで駆け下りた。まだ父さんは帰ってない。そして診察室の奥、入院用の犬や猫たちのゲージには、動物が一匹もいなかった。

 「なんだよこれ」

 俺は思わずつぶやいた。昨日まで、ここは満員だったのに。

 愕然としたまま、俺は考えた。二〇匹いた犬や猫たちが、半日で全員退院するなんてあるだろうか? あるわけない。じゃあ逃げた? それもない。ゲージには厳重に鍵がかかっている。でも今、すべての鍵は外れている。じゃあなんだ? 逃がした・・・? なんのために?

 頭がこんがらがってきたので俺はいったん家に戻った。どっちにしろ俺一人じゃなにもわからない。父さんが帰ってきたら聞くしかないわけで、それにおなかも空いた。食べられるものを探して冷蔵庫を開けても、こんな日に限ってなにもなかった。

 夜七時になっても、父さんは帰ってこなかった。

 何度も電話したが携帯はつながらず、留守番電話になるばかりだった。こんなことは初めてだ。黙って父さんが遅くなることなんてない。不吉な予感を感じた俺はいてもたってもいられず父さんを探しに外に出ると、玄関を開けた瞬間、また、あのドローンが目に入った。

 さすがに偶然とは思えなかった。

 気味が悪くなって、ドローンから目を離さないように階段を下りる。ドローンは空中に静止している。階段を下り切った瞬間にダッシュで走り出すと、ドローンは俺の後をついてくる。なんだよあれ? スピードを上げても、その白い機体は俺を監視するように、俺の後を追ってきた。

 胸がザワザワする。

 異常だ。夏休みの最初の夜が嫌な気配に包まれていく。汗が首筋からしたたり落ち、その生ぬるさが日常を越えた緊張に染まる。目的地もなく探しても父さんがいる場所なんて想像もつかないのに、とにかく俺は町中を走り回った。それ以外、どうしようもなかったからだ。

 「はぁー」

 と、川沿いの公園で息を落とした。ベンチに座り、汗をぬぐいながら息を整える。父さんは見つからない。昼にペスに襲われた橋が見える。空を見上げると、相変わらずドローンが俺の後をついてきていた。

 「意味わかんねぇ」

 つぶやきは夜に落ちる。ドローンはそのつぶやきまで見透かすように、空の上に浮いていた。

 その時だ。

 獣の低い唸り声が耳に入った。瞬間的に昼間の緊張がよみがえってあたりを見渡す。俺は身構える。公園に生える低い樹木の先に、獣の目が光って見えた。

 ペスだ。

 ダルメシアンの、斑点のある特徴的な姿が夜の中でもはっきり見えた。俺は立ち上がり、目をそらさないまま逃げ出すタイミングを計り後ずさる。ペスは俺を襲うタイミングを計るようにゆっくりと、牙を剥き出しながらにじり寄る。

 狂犬病。

 そういった琢磨の言葉を思い出す。だとしたらヤバイ。噛まれて感染したら気が狂ったように死ぬしかない。ペスの口からは涎が溢れ、狂犬病としか、もう見ることはできなかった。

 ・・・グゥㇽㇽㇽㇽㇽ。

 え? と俺はペスとは反対側を振り向いた。そこにはシェパードの姿があり、ペスと同じように唸り声を上げながら俺の方に近づいてくる。え? ともう一度ペスを見る。その背後に、無数の光る目が連なっていた。

 なんだよこれ?!

 俺は囲まれていた。まるで町中の大型犬が俺を喰いちぎりに来たように四方を囲んでいる。混乱した俺は逃げ場を探したが、凶暴な犬たちはさらに数を増やし、俺はどうすることもできなかった。

 最悪のケースを頭に浮かべ、飛べるわけもないのについ空を見る。そこには忌々しいドローンが、この状況を楽しむようにカメラの目を光らせていた。

そんな隙を作った俺がバカだった。

 俺が犬たちから目をそらしたのを合図に、凄まじい叫び声を上げて犬たちが襲いかかってきた。俺の叫び声が無人の公園に響き渡る。俺はどうすることもできず、また無様に頭を抱えてその場所に蹲った。

 「キャン、キャン!」

 犬の悲鳴が、また聞こえた。

 昼間と同じ状況に目を開ける。そこにはまた、漆黒の服に包まれた百武漣が威風堂々と立っていた。

 百武漣は襲いかかる犬を凄まじい勢いで払いのける。どんなに数が多くてもそんなものは意味がないというように次々に犬を薙ぎ倒していく。俺はあっけにとられてその姿を見続けた。人間って、そんなに機敏に動けるものだろうか? とにかく百武漣の反射スピードは速く、一匹の犬を倒した瞬間にもう次の犬に蹴りを入れて、そのまま体を回転させてその次の犬ごと蹴り倒す。俺は自分の状況も忘れてその姿に目を奪われた。百武漣は息一つ切らさず、無表情に犬たちを圧倒した。敗勢を認めた犬たちは百武漣から徐々に距離を取り始め、唸り声を上げながら探るように俺たちのことを丸く囲んだ。

 あ、ヤバイ。

 と俺の直感が告げたのと同時に、円陣を組んだ犬たちが一斉に飛び掛かってきた。腹を見せるほど高く飛ぶその姿で夜の空が埋まり、叫び声を上げる俺の胸に生臭い獣の匂いが一瞬で満ち、もうダメだ! と俺が目をきつく閉じた瞬間、

 「グオオオオオオオオ!!!」

 と地を割るような雄叫びが鳴り響いた。恐る恐る目を開けると、そこには百武漣の姿はなく、代わりに、巨大な黒い獣が、俺の目の前に現れていた。

意味がわからなかった。

 その獣はさらに高らかに雄叫びを上げると、雷のような速さで文字通り犬たちを蹴散らしていった。犬たちは倒されながらもその獣に襲いかかろうと威嚇を繰り返していたが、その獣が咆哮を上げて牙を剥き出しにすると負けを認めたのか、それぞれがバラバラにこの場所から走り去っていった。

 獣はしばらくその犬たちの姿を追い、すべての犬が逃げ去ったのを確認すると、俺の方に向き直った。正面から、俺はその獣と目を合わす。黄金の目、縦長の瞳、開かれた口から見える赤い舌。そして光るような、漆黒の毛並み。よく見るとその黒い毛並みの中には、さらに黒い斑点が隠れている。俺は息を飲んだ。不思議に恐怖は感じなかった。

 そしてその姿が一瞬白い光に包まれると、百武漣がそこにいた。涼しい目で、俺のことをまっすぐに見つめながら。

 「白神獅子シラカミ レオ

 名前を呼ばれても、俺は言葉も出なかった。目の前で起こったことが現実だなんて、どうしても理解できなかった。

 「ジャグリオンの、百武漣ヒャクタケ レンだ。君を迎えにきた。よろしく。ホワイト・ライガー」

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