鞆の事情

@kumiko-kawakami

鞆の事情

                    


           第1章  ゆれるままに


                 1


 野球中継を見ていた夫、光男はカープが優勢な試合だったのでご機嫌だった。

「いいで、いいで、いけー、いけー」と大きな声をあげながら、酒もグングン進む。応援の甲斐あってカープは三対一でジャイアンツに勝った。

「小枝子(さえこ)、ええ試合じゃったな。風呂にゆっくり入るとするか」

 あたしに笑顔を向け、鼻歌を歌いながら浴室に向かった。

「酒を飲んですぐに入るのは危ないよ。テレビの番組をもうひとつ見てからにしたらええよ」

 あたしは止めたが、充分過ぎる酒の入った光男の耳には入らなかったようだ。

いつもカラスの行水の光男が浴室からなかなか出てこない。時計を見ると二十分過ぎている。気になって見に行くと、光男は湯船に顔を浸けている。

「あんた、どうしたんや」

 問うても叩いても何の反応もない。たまたま休暇をとって、勤め先の大阪から帰省していた一人娘の花美が、あたしの叫び声を聞いて飛んできた。浴槽の栓を抜いて空にし、夫の鼻の穴を湯の上の空気の場所に一ミリでも触れさせようとするあたしの手を掴んだ。

「湯の中にいたら息ができんよ」

 花美の手を振り払おうとする。花美はあたしの手の甲を強く叩いた。弾みで足が滑ってタイルの床に強く尻餅をついた。

「母さん、だいじょうぶ?すごい転び方だったけど、痛くない?」

 花美が振り返った、がそれどころではない。

「父さんの身体は浮いておるで。もう遅いかもしれん。湯を抜けば、重うなって引き上げられんようになる。隣のおじさんと息子を早う呼んできて。早う」

 花美に怒鳴られて、大輔の家へつんのめりながら急いだ。

「すぐ来てや。光男が風呂の中で溺れとる」

 戸をがらがら開けながら泣き声を振り絞った。大輔と息子の亮太は裸足であたしの前を走り、風呂から光男を引きあげた。

 かかりつけの医者、町田が来たが布団の上の光男を見て頭を振るばかりだった。

「脳内出血でもおこしたんやろうな。血圧の薬をちゃんと飲んでおったか」

「薬は本人に任せておったから、必ず飲んでいたかどうか」

 あたしは消し忘れたテレビドラマの主役になった錯覚に陥る。ほんの二十分前には野球の中継を見ながら、言葉を交わし食事をともにしていた夫が死んでしまったなんて、信じられない。これは嘘だ。

「ほんの二十分前に話をしたんや。それがどうして世の中がひっくり返ってしもうたんや。二十分しかたっとらんのに」

 与えられた台詞を言うように繰り返す。

「本当に死んだとやろか?」

 何度も周りに尋ねた。

「どうにもしょうのないことや」

 町田医師は、死亡診断書を花美に渡して帰っていった。

 光男は六十七歳だった。


 あれから一年たった。

 一周忌を終えると大輔がやってきた。

「どうにも寂しゅうてならん」

 大輔は大きな目を赤くしていた。

「なんでや。大ちゃんのところは息子夫婦に孫まで、しかも漁師を継いでくれるかもしれん男の孫が二人もおるのに」

「それはそれ、これはこれじゃ。光男がおらんのは、ほんにつらいの。これからずっとこうなのかと途方に暮れてしまうで」

 曇りガラスの笠に嵌めこまれた電球は、黄色と灰色のくすみを帯びた灯りを突っ立っている大輔を浮いているように照らしていた。

「浜に行って海を眺めようか。あたしも光男がおらんことに疲れてしもうた。死なせんようにできんやったかと、そればかりや」

 頬を落ちるものがある。

「明日の昼に鞆の浜におるでの」

 応えた大輔の顔は削げて、目ばかりがますます大きくなっている。

 翌日、浜に降りていった。馴染みがある古びた紺のジャンパーを羽織った男が浜に座っている。秋の匂いを含ませた潮風が、袖口から中に忍び入っているに違いない。

 大輔、あたし、それに光男はこの浜で月に一度ほど、他愛ない言葉を重ねちょっとした情報のやりとりをしてきた。中学生の頃、学校帰りにカバンを放り出して、木登りをして一番高く登ったのは誰か、速かったのは誰か、天日干しにしてある小魚を、いくつくすね取るか競争したことなどの思い出話はいくつもあった。中でも、高校三年生の運動会でのエピソードは三カ月に一度は話題になった。あたしと大輔はリレーの選手に選ばれたのだ。

「あたしが一番をキープしとったのに、大ちゃんが転んでビリッケツになってしもうて。大ちゃん、地面を叩いて悔しがっていたなあ」

「よりによって、大きなカエルが目の前に飛び出しおってな、踏まんように大股で走ったら、カエルも勢いよく跳ねてカエルの背中を踏んづけて足が滑ってしもうた」

 この事件があった五十年前から、あたしたち、もちろん光男も一緒になって盛り上がり、涙を流して笑い興じた。それがもうできない。


 綿毛のような雲がひとひら、突き抜けるような蒼天の隅に浮かんでいるのが視界に入った。気を整えて、光男の思い出を共有するただ一人の人間へと足を進める。

「遅れてすまんかったの」

 声をかけた。大輔は浜辺に脚を投げ出し両手首を砂に埋めて振り向かない。

「太陽は常夜燈に近うなっとる。小枝(さえ)ちゃんと昼飯を食おうと、握り飯を二つこさえてきたんやで」

 掠れただみ声が返ってきた。船を繰って海で吠えていた五十年の歳月で鍛えた声だ。

「ごめん、ごめん」

 明るい口調を使った。六十八年前に産まれたときから隣どうしだ。遊び、喧嘩、冗談、打ち明け話は途切れることなく続いてきた。幼馴染の懐かしさ、気安さ。穏やかで温い空気が、あたしたちの周りに漂い留まっている。その空間に身を置く。沈黙しても語っても自然な気分でいられる。

大輔の横に座り、同じように両脚を投げ両手を砂の中に埋めた。

「法事が重なるたびに、世間では光男がいないことがいよいよ確実になっていくようでな。寂しくて苦しくて叫びたくなるで。そっとしておいてほしいんじゃ。けど現実は非情や。よう来てくれまして、などとお愛想を言って茶を注いで廻ったりして。アホらしい」

 胸の内を吐き出した。

 浜の海の声と飛沫泡の欠片が飛んでくる。油を注いだようにのたりと広がる福山湾の向こうに福山市の中心部が薄いヴェールを掛けられたように在る。雲の形をゆらゆらと映し鈍い光を放っている。潮目には白い小波が不規則な形を造って停滞している。時間がたって太陽の陽射しが傾きかけると、湾はプラチナ色に輝く。対岸と海の境目に、半透明な帯状の霞が右に左にどこまでも延びている。

 あのヴェールの中で光男は漁をしとるやろな。そこにいてや。天に昇ったらいかんよ。そのうちあたしが誘いに行くで、それまで魚を獲って食べておってな。命の循環の中にきっとおってや。あたしは光男に懇願する。 

浜を囲む小高い丘の上に古刹が並ぶ。

「対潮楼に行くか」と大輔が提案をした。

 急な坂道を登ってたどり着いた寺は朝鮮通信使の正使、副使が宿泊した場所だ。障子と蔀戸(しとみど)は外されている。黒く太い柱を大きな額縁にして、自然が画になる。空と海の境界線に大小の島々が並び、鳥が啼きながら飛び交わ口を開いたまま見入っている。

 朝鮮通信使は、あたしたちと同じ光景を眺めて、日東第一形勝と湛えた、と書物にある。豊後水道からの潮と紀伊水道からの潮は、満潮時に激しくぶつかり合い渦を巻く。そのようすを眺望できるこの座敷を、通信使は対潮楼と名付けた。干潮時、二つの潮は東と西の方向にきっぱりと別れて流れ出る。往時船に乗る人たちは、この干満の潮の流れの到来を待ち、潮に乗って瀬戸の海を往来した。潮待ち港と呼ばれる由縁だ。この潮の流れと激しさが身の締まった鯛を作ってきた。ここ随一の馳走である。

 窓いっぱいに描かれた自然の画は、雨の日には雨の有りようを、風の日には風の有りさまを、晴れやかな日には天の機嫌の良さを眼前に繰り広げる。海と空に分けられた空間の中央に、波しぶきに覆われる巌が在る。巖の上に松に囲まれた朱の鳥居がある。祀られた神社に参る人が、小指の先より小さく見える。

江戸時代、将軍が変わるたびに合わせて十一回、朝鮮から貢ぎ物を持った朝鮮通信使が五百名に、対馬から加わった者五百名、計千名が寺や神社、大屋敷にここ鞆の浦で休息した。そのときの漁師町の賑わいが目に浮かぶ。釜山から京までは水路で、京から江戸まで陸路で往復した。街全体が総力をあげて朝鮮使のための食事、履物、衣類、用具の手入れ、伝達に走り廻っただろう。幾つかの寺に保存された書物と絵巻を眺めると、威勢の良い声やざわめきが遠い時間の彼方から聞こえる。

窓の前に座って身を動かすことなく過ごす。身の内で穏やかな昇華の作用が働いている。たまたまこの地で生を受け育ち、嫁ぎ、年齢を重ねてきたのは良かったと自らを肯定する。

「子どもの頃から百回は来たかもしれんが、気が晴れるよのう」

大輔は独り言のような言いようをして、あたしの顔を覗きこんだ。

「な、小枝ちゃんもそうじゃろう」

「うん」小さな笑みで応じる。

「風景のなかに身を置いていると、胸が次第に鎮まっていくのう。違うか?」

 大輔は再びあたしの顔を見た。

「確かにそうやの」

 あたしは深くうなずいた。

 作務衣を着た男が二人、障子を運びこみ壁に立てかける。

「もうお終(しま)いかね」

 大輔が尋ねる。

「秋は五時で終わりじゃ。日暮れは早うなるし客足も落ちるでな」

 がっしりした男が手を止め、あたしたちを振り返る。


 住職に押されて四十九日に納骨を済ませたことも悔いていた。骨になっても光男に違いないので、気が済むまで一緒に暮らしたかった。光男が仏になったと信じられない。手を合わせられない。鈴を鳴らせない。それは仏に対してすることだ。だから、あたしはしない。

 言った、言わない、から始まって売り言葉に買い言葉で拡大した諍(いさか)いがもうできない。他愛もないことにやっきになって、言い争った日々が限りなく懐かしく愛おしくて涙になる。ともに暮らした一日一日を、なぜもっと大切にしなかったのだろう。取り返しが効かないというのは、こういうことだと気づくと血の気が引く。

 二年前の春だった。持ち船二艘のうち大きい方の船に乗った。明け方二人で瀬戸の内海まで出るつもりだった。

「大物だったら、写真に撮ろう」と言って、光男は珍しくデジカメを手にしていた。真鯛が釣れた。大物とは程遠かったが、光男は機嫌よくカメラを向けた。

「鯛だけ撮れば大物か小物かわからんで」

「そうや、そうや」

 二人で笑った。

「ついでにあたしも撮ってよ」

「はいよ、俺も撮ってもらうか」

「それはいいねえ。なんや楽しいのう」

 あたしたちは、学校で習った唱歌やテレビではやっている歌を、掛け声付きで歌いながら働いた。塵一つない澄み切った透明な大気。日ごろ親しんでいる海の上。大きな安心と解放感に包まれて半日を過ごした。

 そのときの写真が目の前にある。

「今年の夏は暑うてな。あんたは暑さ寒さを感じないところにおって羨ましいよ」

 光男に話しかける。

「生きていくっちゅうことは大変やなあ」

光男ののんびりした声が聞こえる。両手を両頬に当てて写真を食い入るように見る。光男は笑っている。声にしないで。

 雨の音が大きくなっていた。低気圧が近づいていると、テレビが告げている。


                2


 狭い路地を下りきると海だ。北極で融けた氷山が海面を上昇させて沈みそうな遠い遠い島々までも、海は広大なうねりを送り続ける。またその島々からも潮の流れは打ち寄せる。集落の人間たちは、海の片隅のちっぽけな欠片にも足らない浜にしがみついて、生を全うすべく暮らしている。

 陽が昇ると、手漕ぎの舟で藻や海藻を採る。舟がいっぱいになるほど海藻を絡め取って浜に戻る。海水でざっと洗ってバケツに入れる。大きなものは浜に広げて干す。大輔の妻、富江が大ぶりのワカメを広げていた。

「大物が取れたな」

 富江の前にしゃがんで話しかけた。富江は浜の砂粒を数えているのではないだろうに、足元に目をやって顔をあげない。同じ言葉を声を大きくして伝えた。富江とは、ほどほどの距離を保っていたい。三十数軒の集落で生活していくのに必要不可欠な条件だ。

「あんたのところはええよ。嫁の美恵子さんは男の子を二人も産んでなあ。富江さんは、運がええ。羨ましいで。うちをみてみい。漁師は廃業じゃ」

 富江は返答に困っているらしい。ワカメの同じ箇所を何度も延ばしている。

「あんたんちの食事どきの賑わいを聞きながら、毎日一人で飯を食うとる。寂しいで」

「うちの大輔と、浜でよう話をしとるの。なんでや」

 富江は顔を上げ眼に執拗な恨みをこめて、あたしの言葉を激しく断ち切った。

「なんや、そんなんを気にしとったんかいの。あたしら三人は、光男も入れての話じゃが、同じ浜で生まれて同じ学校に通い、大人になってからも気の合う仲間やった。大輔さんは光男をよう分かっとる。思い出を共有しとる。それ以上は何もないで。富江さん、大輔さんを信じなされ」

 あたしは笑った。大ぶりの海藻は浜に広げて、小ぶりの海藻を軽トラに積んだ。家の入口にある洗い場に海藻を放りこんだとき、音をたてて身体を揺さぶる動悸に襲われた。三和土に腰をおろし背を戸に預ける。膝を緩く開いて顔を上げ、深い呼吸を繰り返したが、効果はない。身の芯が冷えていく。ようよう這って寝床にたどり着いた。身が消えていきそうだ。それもいいか。すべてお任せやな。とろとろと眠りに誘われる。

「さえこ。さえこ」

 光男が呼ぶ声がする。

「あたしは、ここにおるよ」

 懸命に応えようとして目が開いた。

「昨夜、雨が降ったんや。小枝子さんが浜に置いた海藻はそのままやったで、どうしたんやろうと思うて」

 声がくぐもってゆるゆると届く。

「隣の富江じゃが、わかるかいのう」

 とみえ、となりのとみえ。

「浜に広げた海藻は全部引き上げて、よう洗うてうちの納屋に干してあるでの。心配せんでええ。何や、目尻に涙が溜まっとる。光男の夢でもみたんかいな。俺は大輔じゃ。隣の大輔や。光男の友達の大輔。思い出さんか?」

 六畳の部屋に響き渡った男の太い声は、あたしを揺らした。首を僅かに捻って大輔に視線を送った。

「ようやっと意識が戻ったようじゃの」

「心配したで。何かあったら花美ちゃんが可哀想やもんな」

 そうだ、花美はあたしの一人娘。父親を亡くして、次は母親となったら可哀想や。まだ、いや、もう三十七歳だが、天涯孤独で生きていくには若すぎる。あたしは生き抜かねばならない。だが、覚悟は身の内に収まらず、気分はふわふわと浮いている。

「町田先生がな、鼓動はしっかりしとるが、脈がえろう早いし乱れておる。これで少し楽になるやろう、と言われて注射をしなさったで。どうや」

 大輔の声が尋ねる。あたしは自身の体調の変化が分からず黙っていた。

「検査したほうがええな、と小枝子さんの血液を採っていかれたで。美恵子が薬をもらいに行っておるでの」

 富江は寝床ににじり寄り耳元で言った。海の神が造る潮流のうねりに捉えられてしまった。潮の流れは強く、それから抜け出すのは容易ではない。助けてくれるという富江を拒否できない。よりによって富江の世話にはなりたくなかったが、花美のために感情を抑えこんだ。ここは素直に助けられるしかない。

「漁が忙しいで、あまり顔は出せんが気にしとるで。ほな、な」

 大輔は手を挙げて部屋から出ていったが、手に白い山茶花の花が二論付いた枝を持って引き返してきた。枝を富江に突きつけた。

「病人には慰めになるやもしれん。飾っといてや。それから花美ちゃんに連絡してな。」

「そこらのコップに枝を挿しておこうかいの。花瓶は釣り合いが難しいで」

 富江は飾らない口調で答え、枝を受け取った。大輔と富江は確かな夫婦なのだ。夫に先立たれたあたしを助けようと協力し、そのための会話をする。いかにも何気ない口調。

 午後、町田が現れた。作夜のうちに大阪から帰ってきたらしい花美が口元を引き締めて茶を出す。

「顔色がようなりましたな。検査の結果はな、不整脈が起きる回数は、正常の範囲からか

なりはみ出していますが、波形は正常ですよ。脈は一分につき百四十を越えとりますが、そろそろと動いて暮らしてください。おつらいことがありましたか」

「一年前夫が亡くなりました」

 あたしは目を伏せた。

「そうでしたねぇ。ストレスが大きすぎて心臓の鼓動を司どる自律神経がうまく働かない状態です。夫の死亡という事件から少しときが経ったので疲れが出たのでしょう。半年ほどゆるりと暮らしてな。軽度の家事は回復に良いと思いますで。家事に慣れたら夕方三分間外を歩いてな。徐々に時間と距離を延ばしていくように。朝は急に起き上がらない。手足を軽く動かしてから布団を離れるように」

 町田はカバンから二枚の用紙を取り出した。

「これは血液検査の控えです。心臓の方は問題ないですが、一度チェックしても良いお歳じゃ。精密検査を受けられるよう、総合病院への紹介状を持ってきましたで」

 複写になっていた用紙の一枚と紹介状を入れた封筒を置いて、町田は帰った。


 二日後の朝十時に大輔が現れた。

「ほな、総合病院に行くで」

 大きな声で呼ぶ。

「え、おじさんが連れていってくれはるの。あたしも行くよ」

「ええで。けど、軽トラや。小枝ちゃんは病人やで助手席に乗って、花美ちゃんは荷台に乗ってや。眺めがパノラマでええやろう?芦田川でも久しぶりにゆっくり眺めてな。中洲の工事もだいぶ進んどる」

「だいぶ進んだ、と聞くとちょっと寂しい」

「花美ちゃんがいてもいなくても、工事は進むんや」

「それが現実やもんな」

 花美はつぶやいた。芦田川は福山のシンボルだ。

 病院から解放されたのは二時に近かった。大輔は軽トラに乗ると、荷台と運転席を分ける小さなガラス戸を数センチ開けた。

「いくら何でも、お腹、空いたわ。ねえ、おじさんちの近くにある、ランチはハヤシライスだけっていう田渕食堂に行きたいな。あの甘―いハヤシライス、食べたい」

「ああ、タブさんのレストランやな。俺は近過ぎて食べたことないがの。綺麗なお嫁さんが来てな、そういう古民家が好きなんやて。そいで、仲間で織って作ったスカーフやバッグ、財布なども売っておるし、その織物をあしらったハンカチや帽子、葉書、ペンケースなどの小物も置いてある。中国新聞の福山版に載っておった」

「へえ、そうなんだ。何か、うれしいね。鞆が知られるのは」

 荷台に脚を投げ出して座りはしゃいでいる花美と、上機嫌の大輔に交互に眼をやる。心地良い車の揺れに身を任せる。検査の結果は、かかりつけ医に相談しながら生活を戻していってください、というものだった。娘も大輔も傍にいる。あたしは充分な安心に浸っていた。

「あ、見て、見て」 

 花美が高い声をまた一段と高くする。

「懐かしいのう。あの電信柱を見てや。鋼の網を引っ掛けて小さなタコ、イカ、サヨリや雑魚が串に挿して干してある。中学や高校のころ、たまにくすねて食べとった。ほんま、旨かったで」

「そんなことして怒られなかったんか」

 大輔が面白い話を聞いたとばかりに声を高くして聞き返す。

「えろう怒られたで。その電信柱と道を挟んだ家のおばさんが追いかけてきてな。人のものを取るのは泥棒や、またやったら警察に突き出すで、と怒鳴りおった」

「ほうか、実は光男と俺もやったで。そのとき俺たちを怒鳴ったのは、花美ちゃんを怒鳴ったおばさんの母親か姑やったろうな」

 二人は朗らかな声で悪事を白状している。

「でもな、旨かったでなあ。盗るのを止めるのは努力が要ったで」

「今朝、富江が今朝あれと同じものを干しよった。取りに来いや。きっと電信柱に干してあったものより旨いと思うで」

「ええの?大阪名物のたこ焼きせんべいを買うてきた。お世話になったお礼にそれを持って行く」

「気い遣わんでええ。そうや、明日の午後、光男の墓に行くか」

 大輔が快活に訊いた。

「うん。行きたい。お父さんに会いたいよ」

「あたしも連れてってや。あれこれ報告せにゃならん」

二人の間に割りこむ。

「光男は幸せ者や。死んでも思われて」

「なに、言うとる。死んだから思われるんじゃ。生きてるときは目の前におらなんだら、いないのと同じや。いのうなると、いつも思われるんや。あんたもそうなるで。あたしと富江さんがあんたのことで、また喧嘩や」

「あんたと富江が残って俺は先に逝くと誰が決めたんや。あんたと俺は同じ歳やで」

 三人は存分に笑って愉快になる。

「おじさんと母さんは息がぴったりやね。おばさんが嫉妬するやろう?」

「もう嫉妬の塊や」

 大輔は軽く受け流した。

「それに光男も絡んでおるでな。四角関係や。話しておると時間が長うなるで、家でじっくり聞くとええで」

「そりゃあ、複雑やな。メモしながら聞かんとな」

「花美ちゃん、なかなか賢いな」

「その賢い娘を産んで育てたのは、あたしやで」

 あたしは主張する。

 住宅が建てこんできて芦田川は見えなくなった。観光客を相手にする旅館やホテルがちらほらと視界に入ったところで、車は段差に差しかかった。あたしはシートベルトを強く押さえて、身をゆらりと大きく揺らせる。車もがたがたと揺れて路地に曲がりこんだ。

「さて、着いたで。あ、富江が手を振っとる」

 確かに富江が大げさに両手を振っている。

「また修行じゃな」

「また、って何を修行するんや」

 母親は女だと知っているのに、その意味を追求しない娘の瞳は無邪気に澄んでいる。


          


          第2章 鞆の事情

 

主な登場人物


中島小枝子  68歳

   光男  小枝子の夫 67歳で死亡

   花美  37歳 中島家の長女 大阪で働いている。。

田村大輔  68歳 小枝子の同級生

       中島家の東隣の住人

   富江  大輔の妻

斎藤ハル  89歳 中島家の西隣

       名古屋に娘一家在住

サキ     88歳 中島家の向かい側の住人 

浩市     89歳 サキの東隣

佐太郎    93歳 サキの西隣の住人

 りく    95歳 佐太郎の妻

       長男義雄 横浜在住

       次男博司 山口在住

タマ江    95歳 田村家の東隣

桜井ミツ   90歳 浜に近い場所に住む

       岡山に息子夫婦が在住

町田     鞆の住人が信頼する町医者

鞆太郎    鞆に現れた身元不明者

山田恵子   鞆の住人 山田家の跡取り娘

中越     鞆の地域の民生委員

三友     福山市街地の司法書士

       ハルの信頼を得ている 

野本     ハルに依頼された弁護士

小林     広島在住・みどり不動産社長



 

       

       1章  友を奪還せにゃならん


               1


明治の時代になると、朝鮮史の姿も街の賑わいも消えた。鞆の集落は栄えるでもなく廃れるでもなく、静かに歳月を重ねてきた。現代的なものがほとんど見当たない街並みは時代の流れからこぼれて、止まった時間に守られてきた。太陽が昇って沈み、替わって月と星が煌き太陽に座を譲って消えていく。人は生まれ育ち、与えられた役目を終えて去っていく。

 歴史上の名所がそこここに在り、その名所は過去の遺物ではなく、現在のものとして留まっている集落に、緩やかな時間を求め、自分の存在を確かめるためにの存在の原点を求めて人々が訪れる。狭い路地が入り組み、町家造りのレストランやカフェ。洒落たものは置いていない。昭和の初めの頃の台所のままの食堂のランチはハヤシライスに生野菜、漬物少々の一品限り。カフェと看板が出ていても、アイスクリームしかないときもある。注文すると大きなアイスクリームだけが皿に載って出される。ミントの飾りもウエハースも付いていない。

 年が明けて節分を迎えた。夕暮れが近づくと柊(ひいらぎ)の枝に鰯の頭を刺し戸口に立てた。大豆を軽く炒って家の内に撒いたあと、丁寧に拾う。自分の歳の六十八個と、花美の分三十七個をそれぞれの皿に載せて神棚に置いた。娘の花美もあたしも健康に恵まれて過ごせますように、と七度口に出して祈った。

 家の前は幅二メートルの路地だ。東は浜辺に西は寺の境内に上る石段に通じている。石段の手前には寺に沿って一周できる狭い路がある。

石段の下から寺を仰ぐと、山桜の古木が見える。墨を塗ったような桜の樹。まだ裸樹だ。季語は『春』を使える季節になったが、朝夕は真冬とさして変わらない気温だ。それでも陽の光は日々濃密になっていく。樹の肌には緑青色の苔が付着して、桜樹と命を共にしている。樹の内側に硬い蕾の原形が既に宿っているだろう。そして既に桜花の命の泉が蓄えられ守られているはずだ。細い枝が幹から伸びている。注意深く見れば、枝の先に僅かな膨らみがある。陽射しは春を内に含んで風はない。

 毎日のように午後二時に玄関を出る。温めた茶を入れタオルで巻いた水筒を肩に掛ける。光男のズボンで作ったポシェットには、好物のビスコ、タオルハンカチ、数枚のティッシュペーパーが入っている。丸まっていた背中は伸びて、地面に対して垂直に近くなってきた。身体の重心は臍の下にしっかりと在る。

 浜に下り海を存分に眺め、坂道を登って戻ってくるのは、心身のリハビリだ。海のある風景は滅多に同じ表情を見せない。いくら眺めても飽きない。あたしは安息で満たされる。空と海、往来する船は刻々と変化する。やがて太陽の光線と海面の角度が少しずつ小さくなるにつれて、海は金箔の粉を振りかけたように輝きを増していく。

 風が冷えてきた。立ちあがって坂を登る。途中で立ち止まっては息を整えた。ようやく家の前にたどり着く。

「小枝さん、お元気になられて良かったのう」

「お気遣いいただいて、有難いです」

 息を弾ませながら、お向かいのサキに応える。

「あんたは歳の離れた妹みたいなもんじゃ」

 サキは人懐こい顔をくしゃくしゃにしている。口の周りは皺の集合体だ。

「蒟蒻、じゃが芋、玉葱に雑魚を入れたごった煮や。結構おいしくできたでな、

お裾分けや。鉢に入れると、後を洗わにゃならんで手間やからビニール袋に入れたで」

 サキは拳大の袋いっぱいの煮物を、あたしに押し付けた。

「ありがとう。一人暮らしだと、こういうものを作るのが億劫になってな。重宝や。さっそく今夜の夕食にいただくで」

「そう言うてもらえるとうれしいのう」

 サキは一層皺を深くした。

「何や、話が弾んどるのう」

 サキの東隣に住む浩市が近づいてきた。

「おや、杖を変えたね。先に使っていたのは壊れたんかいの」

 サキは目ざとく、浩市の手にある杖を見て言った。

「いやいや、杖をその日の気分次第で変えて使ったら楽しかろうと思うてな、新しゅう買うたんや。ほれ、ここに濃い緑のガラスが三つ並んで嵌めこんであるやろ。陽の光にきらきらして、それはきれいやで」

 浩市は杖を空にかざす。傾いた陽光がガラスを通して、グリーンの帯を路地に造る。

「きれいやねえ。さすが、浩市さん、九十になっても、おしゃれなセンスをお持ちやな。この人は若かった頃、もててもてて、まっすぐ歩けんほどやったで。娘たちに囲まれてな」

「まあな。本当の話やで」

 浩市は胸を張った。

「ほんまに?」

 目を大きくして、しげしげと浩市を見る。確かに鼻が高く形が良い。口元は締まっていて、横顔のラインが彫ったように整っている。

「ほんまやで」

 浩市は更に胸を張り身を反らせる。引っくり返らないかと心配のあまり、背中に手を当てたくなる。このときの浩市のようすや話は何度見ても聞いても面白い。

「わしも杖を買うたで」

 気がつくと、サキの西隣の佐太郎がいる。サキとあたしは、佐太郎の杖を見た。

「わしのは、赤いガラスじゃ。実は一昨日、浩市さんと整体で行き合わせてな。玄関の傘立てに同じような杖が並んどってつまらん、という話になってな」

 佐太郎も杖を太陽にかざす。今度は赤い帯が延びて広がった。

「すてきやねえ」

   あたしは手を叩いた。

「そうやろう?どっちにするか、二人でえろう揉めてな。どっちも一本ずつしかなかったでな。ジャンケンで決めたんや」

 佐太郎は満足そうにうなずく。

「佐太郎さんが勝ったんやな」

 尋ねると、佐太郎は欠けた奥歯が見えるほど口を開いて、Vサインを作った。

「子どものころから、ジャンケンには弱くてな。他はおおよそええんじゃが」

 浩市が嘆くと、サキは「そうや、そうや」と続けた。

「浩一さんの嫁のハナちゃんは集落一の美人やった。それに気立ても良くてな。浩市さんはそれはそれは大事にしておったが、惜しいことに亡くなられた。もう何年になるかいの」

 サキは浩市にそっと目線を当てた。

「七年や、去年わし一人で七回忌をやったで。墓に出向いてねんごろに経をあげてな。般若心経を七回詠んだで」

「ハナちゃんは喜んでおったろうな。充分満足したと思うで」

居合わせた者たちはうなずいた。浩市は地面に視線を落とし袖で顔を拭った。

「このごろ涙もろうなってな。お恥ずかしい」

「年をとると皆そうじゃ。連れ合いとは、親よりもずっと長う暮らした仲じゃけえの。人生の戦友や。あたしもそうやった」

 サキは杖に置いた浩市の手の甲をそっと撫でた。

「泣いてくれる人がおってハナちゃんは幸せや。夫婦はどっちかが先に逝くもんでな。運命に逆らえんでの」

 浩市は顔をあげた。

「子は生まれんやったが、まことに申し分のない嫁さんやった」

 浩市はこの台詞を何度言っただろう。あたしは聞くたびに浩市の寂しさと優しさの深さを知り、それほど慕われているハナが羨ましくなる。

「それは皆もよう分かっとるで。浩市さんが嫁自慢するのも無理はないほどの女子(おなご)やったの」

「わしはハナちゃんの取り合いに負けてしもうた。唯一の大きな敗北やった」

 佐太郎は潔く言った。

「何言うとるんや。りくさんゆう立派な奥さんがいるのに、そんな大昔のことを言うたらいかん。おまけに夫婦揃って九十を超えたのは佐太郎さんとりくさんだけやで。贅沢な話や。二人で腕組んで歩いとるやないか。九十三と九十五やで。それも恋人気取りでな」

 サキは歯切れ良く断言する。

「違う、違う。いまさら恋人気取りはないで。お互いに支え合わんと歩けんのじゃ」

「そうやろうか。あたしには二人はくっつきたくてたまらんように見えるがの」

 サキは、ほほほと笑った。

「そうやない、そうやない」

 佐太郎は躍起になって手を振る。

「そんなに真剣に反対すると、余計にそう思えるがの」

 サキは笑い続ける。

「まあ、そのくらいにしておきなされ。佐太郎さんが可哀想じゃ」

 浩市が割って入った。

「そうや。サキさん、年寄りを虐めたらいかんでの」

 あたしも調子にのって諌めた。

「ずっと立ちっ放しじゃ疲れるやろ。それに寒うなってきた。明日の午後にでもうちに来いや。炬燵にでも当たって続きを話すとしょうかいな」

 サキは誘った。

「それはええ。子どもは当てにならん。若い者は自分の生活でいっぱいじゃ。もう何十年も前になるがの。長男の義雄一家が転勤で横浜に越したときは、清々したで。離れておれば、たまに来ても電話してもええ関係になってな。一緒に暮らしておったときは、年寄りゆうても甘えておられん。りくと二人でこそこそと不満を言いよった。孫が二人おったで嫁は忙しゅうてな。何か頼むとええ顔はせんやった。一緒に暮らすだけで勘弁してや、爺ちゃんと婆ちゃんが健康でおるように食事に気い遣うだけで精一杯やと言われたで。何かあったら、市役所の中にある福祉ゆう名のつくところへ行ったらええ、と嫁が教えたんや。自分が相談にのるとは言わなんだ。こうやって年寄りが集まって話すのが一番や」

 佐太郎は一気に吐き出した。

「うちはな、お爺ちゃんを一人にしておくのは心配や、二所帯住宅にして一緒に住もうと言われたけどな。わしはもう後がないんで、金はそれなりにしか出さんで、と言うたらそれきりになってしもうた」

 浩市も口を尖らせた。

「ほな、その話の続きは明日としょうかいの。大問題やでよう話し合う必要がある」

 サキが言うと「そうや、そうや」と声が一斉にあがった。

「あたしも、入ってええでしょうかいの」

 言ってみた。

「もちろんや。若い女人(にょにん)がおるのは楽しいで」

 佐太郎の言葉に、サキは大げさに顔をしかめる。

「けどな、あんたはまだ若すぎるで。七十にもなっとらんやろう。序の口、序の口や」

「あんたがわしらの年になる頃は、わしらはもうこの世にはおらんで」

「じゃが、温かく見守ってるでな。頃合を見計らってそろそろどうや?と声を掛けるでの」

 三人は口々に勝手なことを言う。話し声は狭い路地に筒抜けだ。


 翌日、あたしはサキの家に顔を出した。あたしの家から東に二軒目、つまり大輔の隣に住むタマ江が加わっていた。

「子どもと住むのは難しいのう」

 サキが口火を切った。

「その話はあたしには初めてや。いったい何の話や」

 タマ江が問うた。タマ江は九十五歳。

 タマ江の夫の佐一郎は、肝の太い賢人として名が高かった。物騒な事件を起こして、タマ江のいうところの牢屋に入り、世間に戻っても居場所も職もない男たちを集めて、山に連れていった。石灰石を掘り砕いて肥料を造る作業を手伝わせた。その労働に見合う給金を惜しまなかったので、男たちは佐一郎を深く慕っていた。タマ江は朝晩の賄いだけではなく、昼飯には丹精こめて作った梅干を三個添えた麦飯の大きなむすびを二個ずつ持たせた。彼らは迎え入れるはずの家族からも遠ざけられていたので、タマ江をおふくろさまと呼んで、食事のたびに手を合わせた。

 佐一郎は五十二歳で亡くなった。朝早く、家の裏手にある葡萄畑の見廻りに行って倒れたのだ。戻らない佐一郎を心配して男たちは手分けして探した。男の一人が両手両脚を広げ、天を仰いでいる佐一郎を見つけた。戸板に佐一郎を乗せて運び、三日三晩不眠不休で看病した。佐一郎は一度だけカッと目を開き、家族と男たちをしっかりと見て事切れた。

 男たちは佐一郎が昇っていった天を仰いで号泣したという。その後、佐一郎に倣い、石灰などの肥料を作る作業を発展させて、佐一郎の遺志を継いだ。タマ江を大切に扱って敬うことを忘れなかった。それぞれが佐一郎に逢うために一人ずつ、ある者は病を得て、またある者は高齢のためにこの世を去っていった。最後までタマ江の傍にいた者も二年前に逝ってしまった。この話はずっと語り継がれている。そのタマ江に集落の者たちは一目置いている。

「あたしも息子から、二所帯住宅はどうや、とよう言われる。聞きたいねえ」

 湯呑を両掌に包んでタマ江は言った。

「うちの場合は何でその話が出たのやったかのう?」

 佐太郎はりくに尋ねた。

「義雄夫婦が子どもたちを連れて、五年ほど前やったかの、盆に来たときに切り出したと覚えとるがの。ま、いつでもええ。話の初めがいつやったか、よりも話の内容が問題や」

「そうや、そうや」

 佐太郎は納得したようだが、話は始まらず首を傾けている。

「ちょっと、早う話されや」

 りくが夫を小突いた。

「ちょっと待ちいや。思い出しているところや」

「思い出したら話が始まりますので、皆さん、お茶でも飲んでいてくだされや」

 りくは笑みを口元に置いた。

「お二人とも声が大きくてはっきりして、お年には見えませんね」

 あたしは時間稼ぎに話題を変えた。

「見えません、やのうて、聞こえません、やろう?毎日夫婦喧嘩でな。小机の上に置いたメモ用紙がないで、そんなの知らん、あんたがやったことをあたしが知っとるわけないやろう、一緒に探そういう優しさがないおなごは嫌いじゃ、ああそれでよろし、他のおなごを早う見つけて出ていっても構わんで、と朝から晩までやりおうとる。それに耳が遠くなってきよったで、よけい声が大きゅうなってな。このくらいの声を出さんと聞こえんで」

「そんなことを、べらべら喋らんでよろし。話は二所帯住宅や」

 りくは夫を軽く睨んだ。

「そうや、二所帯住宅やった。えらい脱線してしもうたな」

「年寄りは気楽なもんや。話もあっちこっちと飛んで、ようけ収まりがつかんでな」

「いやいや、収まらんでもよろし。今日明日のうちに収めにゃならんゆうこともないでの」

 サキはとりなした。

「長男一家とは初めは一緒に住んどった。わしとりくは、なんとのう居心地が悪うてな。陰で文句を言うとったもんや」

「あんた、それは前にも話しとったような季いするが」

「そうやったかいの。いや、初めてやと思うけどな。どうやったかいのう。話したそばから忘れてしもうでのう」

「まあ、それはそれとしてな、急に長男一家が横浜に転勤になって出ていってしもうたでな。りくと何度も、我らが家に住んどる気がするのう、と言うてな。しかし、中学生と小学生になったばかりの孫たちの声が聞こえんのは寂しゅうてな。複雑な気分やった。が、やっぱり身体が元気なうちは親子といえど、別居がええと思ったで。ところが三十年も経ってから、長男夫婦がな、自分たちは定年で自由な身になり、子どもたちは家庭をもって孫たちもおる。二所帯住宅を建てて、横浜で一緒に住もうかと持ちかけてきよったで。じゃがのう、この歳になって環境が変わるのはつらいもんがあるでの」

 佐太郎は胸の内を明かした。

「それに鞆しか知らんあたしたちが、関東に馴染めるか不安での。息子夫婦以外は知らんお人ばかりじゃで」

 りくも言う。

「そうや、住み慣れたところが一番やで」

 相の手が入る。

「それに、向こうのお目当ては金じゃないかと疑うてしもうたで」

「金?」

 誰も彼も真剣な眼差しになる。人生の最終章に関わる大問題だ。

「わしの財産を吐き出させようとするような話をしてな。わしの家を売って頭金にしようか、と言うてな。そのうえ月々の暮らしには爺ちゃんの年金から、爺ちゃんと婆ちゃんの分の食費や光熱費、水道代、雑費など、そうさな、少なくとも二人分で六万は入れて欲しいと言うたんやで」

 佐太郎は一同を見廻しながら、目を剥いて言い募る。

「家がのうなったら、あんたらが何ぞのときに戻るところはなくなるで」

 サキは茶をすするのを止めて、眼をきつくした。

「この時代は若い人は大変やで。それで、つい親の金を当てにしとうなるやもしれん」

 タマ江には、関西に所帯をもっている息子と娘がいる。孫やひ孫もいる。子や孫の世代の苦労を知っているのか穏やかな口調だ。

「家を売って頭金にするゆうても、このあたりじゃ売れるかどうか、やな」

 浩市が両腕を組む。

「まず、売れんと思うな」

 佐太郎は厳しい顔付きで返した。

「不動産屋にも行かんうちから決めてもしょうがないで。ま、売る、売らんはあんたたちの好きにすればええ。売ったが戻ってきたいとなったら、このあたりの誰彼の家に行けばええよ。ただし佐太郎さんは男の人の家に、りくさんはあたしの家に来いや。あたしは女やけんな」

 サキはすまして言った。

「その歳で、か。よう言うわ」

 浩市は皮肉った。

「そんなことないで、あたしだって女やもん。子ども三人を産んだのが女の証拠や。男には産めんやろ?」

「何言うか。おなご一人では産めんが。男の協力が絶対に必要や」

 浩市の反論に「そうや、そうや」笑い声の渦になる。

「じゃあ、二所帯住宅の話は、結局取りやめになったんですか」

 あたしは訊いた。

「もちろんじゃ」

 佐太郎は言下に言った。

「百までに何があるか分からん。百の先がまだあるかも分からん。暮らしていくには金が要る。わしらの金はわしらのものじゃ。自分のために使う権利がある、とりくと話し合いを重ねた結果、そう決めてな。わしらは鞆から離れられん、と息子に言うた」

 皆が手を叩いた。

「その意気じゃ、佐太郎さんはきっと百の声をきくで」

「いやあ、そこまではどうだか」

 意気軒昂だった佐太郎は頭に手をやった。

「生きているといつも問題が出てくるのう。話し合うて解決していかにゃならんな。話し合いの基本を決めようかの」

 サキは提案した。

「いつもサキさんのところを使わせてもらうのもな。ひと月交代にしたらどうかの。場所を変えれば水道代や光熱費なんかも分担することになるで」

「それがええ」

 浩市の発言に、皆は一斉に応じた。

「季節が変わると光熱費が違うでな。いつも夏、いつも冬とならんように工夫せんとな」

「確かにそうや」

「心構えも大事や。楽しい大事な場所にしたいで」

「話し合うんじゃ。お互いに押し付けんこっちゃな。それぞれの考えがある。最後は当人が決めることやで。干渉しすぎたら良うないわ」

「相手の言い分を感情的に否定したらいかん。相談した人はそこに出た意見の中から、自分が納得のいくもんをもって帰ればよろし」

「なかなか賢い者が揃うとるの」

 サキは満足そうにうなずく。

「この会に名をつけるのはどうやろうかの」

 タマ江が言い出した。

「名前か。ええのう」

 佐太郎がさっそく乗り気になる。

「鞆の友の会、はどうじゃろう」と浩市。

「ゴロは悪うないで」りくの意見。

「じゃが、ちっと言いにくうないか」

 サキの言葉に皆は首を倒す。

「それでは、ともとも会。いや、ちょっと小洒落て、ともとも・くらぶ」

 あたしは手を挙げて言った。

「ええな。現代ふうやで」

 タマエが賛成した。

「それがええ。決まりとしよう」

 サキが言うと拍手が起きた。そこに集まる者たちの信頼を得ている二人が賛成したのだ。反論する必要はない。

 がらがらと戸が開く音がする。

「ごめんください。あがってもよろしいか」

「どこのどなたで?」サキが尋ねた。

「中島小枝子さんの西隣の斉藤ハルです。何やら賑やかなので、お仲間に入れていただければと思うて」

 一同は顔を見合わせた。

「どうぞ入りや」

 サキは間をおいて応えた。ハルが入ってくると、皆が少しずつ詰めて一人分の空間ができた。

「ここにどうぞお座わりになって」

 サキは押入れから、ペッタンコになった座布団を出して勧めた。

「ハルさん、ここでは掟っちゅうもんがある。それを守ってもらわにゃならん。ええか」

「ええで」

 ハルは八十九歳。サキより一つ歳上だが、サキの気迫に押されて小声で答えた。

「ここでの話を、勝手に持ち出して、あの人はこうや、どうやと外に撒き散らしたらいかん。それからこの場では、他の人が言ったことを否定したらいかん。これが、なかなか難しいがの。皆、長い年月を生きてきてそれぞれの人生観をもっとる。違う人生を歩んできたでの、体得した思いも違うて当たり前じゃ。そして正直に話すこと。嘘はいかんというこっちゃ。あと、時間は平等に。大問題が起きたときは例外としてな。場所は廻り持ちや。水道代や光熱費も各自の家で順にもつことになるでの。それさえ守ってくれれば、誰でもメンバーになれる」

 あたしはサキの演説に感心した。

「サキさん、賢いお人やな」

 隣に座っている浩市に耳打ちした。

「サキさん、お前様は歳はまあまあじゃが、存在感は長老やな。サキのひと声や」

 浩市の冷やかしに一同は手を打った。たまたま掟について話を始めていたが、結論はまだ出ていなかった。サキがハルの性分を心得て付け加えた意見に、皆は得心している。

 ハルは話の中心にいたがる。向こう気が強い。相手が話していても勝手に自分の話を始める。「ちょっと、こっちの話も聞いてや」と正されると、むっとして感情をそのまま顔に出す。面倒なので誰もが当たらず触らずに相手をしている状態だ。ハル、と聞いて困惑した雰囲気になったのは、そんな事情があったのだ。

「今月はあたしが仕切らせてもろうとる。来月は時計回りで浩市さんの番や。浩市さんは奥さんを亡くしとる。皆で手伝うで心配いらん。各自湯呑は持っていこうかいの」

 サキは浩市の表情を窺った。

「湯呑を持ってきてもらうと助かる。家内がいのうなってから、欠けた茶碗は捨てても新しく買うとらん。一人暮らしやでの」

「良う分かった」

「賛成や」

「では、ニューフェースのハルさんから、自己紹介をしてもらいましょうや」

 サキに言われて立ちあがったハルは、緊張した面持ちだった。

「自己紹介するほどのものは、持ち合わせていないですが、今年八十九になりました。先輩方がたくさんおられるので、いろいろ伺うて、元気で明るく生きていきたいと思うとります。どうぞ、よろしゅうお願いします。実は、夫の十五回目の命日を過ぎたところで、えろう寂しゅうてな。こちらに伺わせていただきとうなりました。迎えてくださまして、ありがとうございます。掟は固く守りますで」

 ハルは神妙な態度だった。気難しいうえに気の強いハルが、指を組んだり外したりしながら考えながら語る。居合わせた者たちはメンバーは静かに耳を傾けていた。一瞬おいて「ええでええで」と声があがった。ハルはほっとしたようすで腰をおろした。

「ハルさんの旦那が亡くなってから、もう十五年も経ったんかいな」

 あたしはハルに声を掛けた。

「そうや。私はすぐカッとなる人間で、夫につらく当たったこともしょっちゅうでな。後悔しとります。夫婦が寄り添うなど考えんような妻やった、と思うと身が竦みます。夫が肝臓がんで入院したとき、看護婦が身体を拭くゆうとったがまだ来とらん、と言いおった。あたしは、そのうち来るやろう、と答えて帰ってきてしもうた。あたしが拭いてやれば良かったと、今でも悔いておりますで」

 十五年前といえばハルは七十四、夫の三郎は三歳年上だと聞いていたから七十七だ。ハルがヒステリックに罵る声が響いた夜、三郎が家を出るという事件があった。翌朝、夫がいないのに気付いたハルは、さすがに驚いて近所に助けを求めた。集落の男たちが捜索した。歳に加えて夜の闇で足元が頼りなくなっていたのだろう。獣道にうずくまって手足や顔から血を流している三郎を、大輔たちが見つけた。里まで担いでおろし医者に運びこんだ。木の根か石に躓いて身体の平衡を失ったところを獣に襲われたらしい、と医者は言った。実際足の傷には獣の毛の塊が付着していた。蒼白な顔が腫れあがって、血が流れた跡が固まっているのを見たハルは、三郎に縋りついて泣きながら「ごめんな、ごめんな」と侘び続けたという。

それ以来ハルの声は静かになった。しかし三郎はそのとき負った傷と折れた骨が治らないまま亡くなった。七十七といえば、当時の男性としては平均年齢に近かっただろうが、居並ぶ者たちは、ハルに視線をさりげなく当てては俯き加減になった。


             2         


 四月になった。浩市の家にメンバーが集まった。

「先月は二所帯住宅は考えもんや、ということになったが、これもケースバイケースやろな。何でも話して相談するとしようかいの。突っ走らんように、ブレーキを掛けて頭を冷やすことにもなるしな」

 浩市は挨拶がてら立って言った。

「そういえば、浜のミツさんは昨日も今日も来んで」

サキは座るとすぐに言った。集落の中でもミツの家は一番浜寄りにあったので、浜のミツさんと呼ばれている。

「そうや、そうや」

 浩市も気にしていたようすで応えた。

「昨日、ミツさんは来なさらんやったで帰りに覗いてみたんや。ガラス戸は全部閉まっておったが雨戸は開いとった。無用心やと思うて、外から雨戸を閉めといた。けど、家の中から人の声もテレビの音もせん。今日ここに来るとき見たら、雨戸は閉めっぱなしや」

 あたしは心配のあまり声高になった。

「市の高齢福祉課に言うて、ミツさんの家の中に入らせてもらおうかの」

「岡山にいる息子さんに連絡をとってもらおうかいの。ミツさんは他には子はおらん。息子のところにおるかもしれん」

「けど、息子のところに行くんやったら、誰かに言うて行くやろ」

「浩市さん、あんたさんが当番やから、福祉課に相談したらどうや」

「そうするかのう」

 浩市は迷っている言いようをした。

「今すぐにでも電話したらどうや。座っておっても話はまるで動かんもんな」

 あたしは急かした。

「まことに、そうじゃ」

 浩市は膝を労わるように、両手で畳に手を付き、腰を浮かせて身体を起こした。

「ちょっとお尋ねします」

 玄関から太い男の声がした。

「あの声は大輔さんやな」

 あたしは立ち上がった。

「あたしが行きましょう。いつも若い人に動いてもらうのは、あたしらにも良うない。身体を使わにゃ。人は足から歳をとるゆうのが町田先生の口癖じゃ」

 タマ江が言う。

「老人体操もええよ。健康第一やからな」

 サキが提案する。賛成の拍手が湧いたところへ、タマ江が大輔を伴って戻ってきた。

「何や、小枝ちゃん、ここにおったんかいの。このところ昼過ぎに散歩に出たあと、ちいとも戻らんで。どこへ行ったとやろうと思うとったで」

 大輔は集まった面々を見廻した。

「今日は老人会やったとか?」

「今日も、じゃ。あんたも入らんか。小枝ちゃんもメンバーや」

 サキの発言に大輔は言葉に詰まって、あたしに目線を送ってきた。

「これからの人生の勉強をしとる」

 久しぶりに会った大輔に頬を緩めた。

「さよか。ちょっと考えさせてもらおうかの」

「大ちゃんと小枝ちゃんは同級生でお隣さんの仲良しや。小枝ちゃん一人では片手落ちや」

 ハルがからかう。

「こらこら、若い人を大切にせんと、あたしらは見捨てられるで」

 サキはハルを睨んだ。

「悪ふざけを言うて悪かった。つまらんことを申してすまんことでした」

 ハルは両肩をあげてから真っ白な頭を下げた。頭頂部には髪がなかった。

「もうええ」

 大輔は不機嫌な声を投げ出す。

「ところで、最近大ちゃんはミツさんを見かけたか?」

 不意打ちのように尋ねた。

「見とらんなあ。何かあったんか?」

 大輔はあたしの問いかけに、機嫌を治した口調に変えて問い返した。

「この二日間、誰もミツさんを見とらん。ミツさんはどこへ行くと誰にも言わんでいのうなってしもうた。しかも雨戸は開いたままやった。あたしが外から閉めたんや。そいで、高齢福祉課の人に、ミツさんの息子さんのところに状況を尋ねてもらおう、ゆうことになったんや」

 大輔のために説明を繰り返した。

「ほな、俺が直接行って訊いてくるわ。そのほうが話は早かろうて。六十五歳以上で一人暮らし、また老人だけで暮らしている所帯は、市に緊急の連絡先を届けてあるでの。目の前で電話してもらおう。小枝ちゃん、行こうか」

 あたしがうなずくのを、ハルが横目で見た。

「そうしてもらおうか。電話で尋ねてもいいが調べておきます、と言われて連絡を待っとるのは気が揉めるでな。役所ゆうところはそうそうすぐには対応してくれんこともある。若い二人に直談判をお願いしよう」

 浩市はうなずいた。

「すぐにでも出かけるか」

 大輔は一度据えた腰を浮かせた。

「ちょっと、お茶の一杯も飲んで何か口に入れて行きなされ。役所で待たされて腹が空くと、いらつくでの。このごろ職員に怒鳴っている爺さんや、職員にいつまでも話しかけておる婆さんをよう見かける。きっと寂しいんやろな」

 サキが湯呑に茶を注いで、あたしたちの前に置いた。

「あたしもひと口いただこう」

 ハルはやかんを持ち上げた。やかんには麦茶のティーバッグが五つ泳いでいる。

「仲良しがおるのは羨ましいことや」

 ハルは湯呑に両手を当て、滲みでるような声で言った。

「もう言わんでえな。気分悪い。役所に行くのを止めるか」

 大輔にはハルの言葉が通じなかったようだ。また蒸し返している。

「それはそれ、これはこれじゃ。ミツさんのためには行かにゃならんよ。それにハルさんは、前と同じ意味で言うとらんで」大輔を諭した。

「小枝ちゃん、ええこと言うなあ。そのとおりや。若い人がせっかく気持ち良う言い出してくれたんや。自分はそのつもりでなくとも、相手の気が立つようなことを言うたあとは、ようよう鎮まるまで黙っておるこっちゃ。言葉は難しいでの」

 サキは穏やかに言う。

「はい。そうします」

 ハルは畳に目線を落とした。

「分かりゃええことで」

 ハルを見ることなく大輔はぶっきらぼうに言った。

「さ、大ちゃん行くで」

 声をかけた。軽トラに乗ると、あたしたちはミツの件が頭の隅にありながらも、日常を取り戻した気分になった。

「話のええ材料にされて、胸糞悪いで」

「けどな、ハルさんは仲間外れにされんように必死やな。きっと少しずつ変わるやろ。人は群れておらんと、生きていかれん動物やでな」

「何でもあるのが生きとる証拠ちゅうやつやな。俺も冷静に物事を受け止めるよう努めにゃいかん」

 大輔の言葉に笑った。

「大ちゃん、偉いの」

「やっぱり、できんかもしれん。なんかバカにされたようにも思える。俺は俺でええわ」

「そうや、開き直って生きていくのもええで。いろんな人がおる。そいで世の中は面白いということや」

 市役所までの三十分は、久しぶりに与えられた二人の時間だ。市役所の出張所に行くよりも、元締めの方へ直接行くとサキには伝えておいた。

 市役所の建物が視界に入る。人通りも多くなる。店には、うまそうな菓子や洒落た洋服やバッグが並んでいる。

「街はええのう。目の保養じゃ」

 うっとりと眺める。

「けど、今回はミツさんのことで来とるでの。寄り道はできん。皆、どうなったやろうと心配しとる」

 市役所の駐車場に車を入れると、案内と書かれた黄色い腕章を腕に巻いた女性に、高齢者福祉課はどこにあるのか尋ねた。

「一階の一番奥、十八番の札があるところです。玄関を入ってまっすぐ進んでください」  

 高齢者福祉課のカウンターに、小さな白い箱のような機械が置かれている。緑のボタンを押して番号札をお取りください。その番号が呼ばれるまでお待ちくださいと大きな文字で書かれた札がその横に立てられていた。二十三という数字が書かれた紙が出てきた。目を上げると、ただいまの受付番号二十、とある。

「結構繁盛しとるな」

 大輔と廊下の端に並べられたいすに座った。十五分ほど待つと呼ばれた。若い男性職員にミツさんの話をした。職員はメモをして復唱し念を押す。

「ちょっとお待ちください」

 奥に行き、上司と見える白髪の混じった男性と話して戻って来た。

「その息子さんの電話番号と住所を再確認しますので」

 今度はパソコンを机に置いた女性職員に向かった。

「ミツさん、家の中には確かにおらんのか?」

 大輔がぼそりと口にする。

「誰も家の中に入っとらん、ということは」

 その先が声にならない。

「何かあったら、大ちゃんどうしよう」

 大輔の節くれだった大きな手を握った。

「慌てるでない。分かってから考えればええ」

「大ちゃん、何か頼もしゅうなったな」

 先の職員が戻ってきた。

「息子さんの携帯と自宅に電話をしましたが、どちらも留守電になっていましたでの。留守録に近所の方たちが心配しているので、連絡をくださいと入れておきました」

「家の中で倒れておる、ゆうことはないですかの」

 大輔が言うと、また男は上司の机に戻っていく。

「いちいち相談に飛んで行きおって。職員が決める権限はないのかいな。それとも、あの男は能力が足らんとか?」

 大輔は口元を歪める。

「待つしかないで」

 あたしは宥める。職員は戻ってきた。

「これからすぐにミツさんのお宅に伺いましょう。息子さんには私の携帯電話の番号を伝えましたが、いつ連絡があるか分かりません。それを待つ時間がもったいない。家の中に居るかどうかを、まず確かめましょう」

「そうしてくださいますか。お願いします」

「立会人をもう一人連れていきますでな」

 三人は連れ立って外へ出た。職員と同じパーカーを着た中年の女性が、福山市役所と書かれた軽自動車の横に立っていた。

「俺が運転しますで、助手席に乗ってくだされ」

 大輔が男性職員に向かって言った。

「こちらに女性の方がお乗りください。車二台で行けば何かのときに役立つでしょう。先に出ていいですか」

 女性職員は男性たちに言う。

「どうぞ。後をついて行きますで。何もないことを願うとります」

 大輔の言葉には心から出る響きがあった。二人の職員はうなずいた。

「私たちもそう思うとります」

 返ってきた言葉は事務的に聞こえた。高齢者関連の仕事を担当している役職だ。見知らぬ婆さんが無事でいてくれたほうが良い、面倒なことにならなければいいが、ともとれる。

 女性は車を発進させた。

「毎日、近所のお茶のみで顔を合わせておったんですよ。どこかに行く予定があったなら、出かける前にそう言うと思うがのう」

 女性職員が運転席に座り、あたしは後部座席に収まった。不安が拭えないあたしは語りかける。

「そうですね。で、次の信号を越えて直進していいのですか」

「はい。その信号を入れて四つ目の信号を左に曲がってください」

「わかりました」

 あたしは黙った。運転の邪魔をしてはいけない。この女性にとっては目的地に着くのが当面の問題だ。声は少しも動揺していない。役職柄あたしたちの不安な気持ちを共有してもらえるのでは、という期待は甘かった。相手にとっては、たまたま降ってきた仕事のひとつでしかないのだ。

 ミツの家の雨戸の前に四人で立った。大輔と男性の職員が、各部屋の雨戸を開けていく。

「雨戸が閉まっていなかったので、あたしが外から閉めました。それで鍵は掛けられなかったんやけど、見かけだけでも雨戸が閉まっていれば安全かと思うて」

 職員二人に言い訳をした。

「そうですか」と簡単な返事があった。

「警察がもうすぐ来るので待ちましょう」

「警察?」

「はい、でないと家宅侵入罪になりますので」

「はあ、なるほど」

 あたしたちは納得した。十五分も経たないうちに警察官三人が到着した。彼らは家の周りを一周して、鍵の留め方が甘い箇所を見つけた。

「叩けば、鍵が落ちるんではないか」

 言ったとおり鍵は開いて、七人は玄関の脇にある居間に入った。

生活がそのまま止まって残っている。湯呑には飲みかけの茶の葉が茶色に変色して沈んでいた。小皿には食べかけの和菓子が静かに在る。

「人の気配は感じられんのう。が念のため、すべての部屋を確かめましょうかいの」

 一般市民であるあたしたちが怖がらないように、と配慮しているのかのんびりとした言いようをした。

「この部屋は特に何もないです」

 警察官の一人は押し入れを開けたが、そこには夏布団一式がきちんと積まれていた。天袋を開け、大型の懐中電灯で隅々まで照らし、見上げている六人に「中はカラです」と報告する。

「ミツさんは、自分の背丈が届かない場所には物を置かんようにしていたんやな」

 大輔は感心している。

「そうらしいの。あたしも見習うことにしよう」

 相槌を打ったが、これから見る部屋に何があるのか、不安で声が上ずった。市役所の職員も警察官も無駄口をきかない。自然にあたしたちも言葉が少なくなり、足音にも気を遣って歩いていた。

 浴室を点検するとき、光男を思い出して彼らから離れた。光男が湯船から引き上げられた光景が一瞬にして蘇る。強く目を閉じ唇をきつく結んだ。

 異変があったのは、奥にある四畳半の小部屋だった。身の周りの品々が散乱していた。身につけるものを選んだ跡なのか、ハンカチ、カラの財布、バッグ、化粧品などが散乱し、タンスは半開きになっていた。中からとりあえず着るものを掴み取ったらしい、衣類が畳の上にも散乱していた。

「急いで家から出たんやろうか」

 大輔は散らばった衣服に目線を留めて、右の掌で顎を掴む。

「誰かに急かせれてやろうかの」

 職員が警察官に尋ねる。

「考えられるの」

 警察官は断定しない。

「誰が連れて行ったんじゃろうか」

 あたしは眉も頬もしかめた。

「争った形跡はないから、親しい人と出かけたんじゃろうかの。初め雨戸は開いておったんやな?」

 警察官は念を押した。

「はい」

「その日のうちに帰ってくる予定だったかもしれんの」

 警察官は用紙にあれこれ書き留めている。

「岡山に一人息子がおる、ゆうことやったな。その息子とまだ連絡はとれんのか」

「留守電になっておりましたで、すぐにこちらに電話を入れてほしいと、私の携帯電話の番号を伝えましたがの」

 職員が言ったそのとき、応えるように携帯の着信音が鳴った。職員はポケットから抜き取って耳に当てた。

「待ってましたで。こちらでは警察の方たちが家の中を捜索し終えたところです。ここにはいらっしゃらないと分かりました」

 携帯の相手は何か言っている。声が聞こえる。職員はうなずく。

「そうだったんですか。その入所先の名前と電話番号をお願いします」

「入所先?」

 大輔とあたしは、意外な言葉に驚きを隠せなくて同時に言った。

「施設に入ったゆうことじゃろか」

 大輔は納得がいかないらしく、首を右に左に傾けている。

「そういえば、ミツさんはケア付きのホームを探しよると言いなさっていたがの。でも、近くで、と言っておいでやった」

 まだ電話が続いているので、声をひそめて大輔に告げた。

「年金で賄えるところがええが、値段とサービスは比例するで折り合いが難かしゅうて、と言うとったで」

「そういう話があったんか」

 大輔は、狭い庭の真ん中に立っている松に眼を留めて答えた。

「電話は桜井ミツさんの息子さんからでして、ミツさんは岡山市の郊外にある、悠楽、悠々としている、の悠に楽しいと書きますがの、そういう名の老人ホームに入っておいでやということです」

 話し終えた職員は携帯を手に、明るい声で淀みなく報告した。

 サキ、浩市、タマ江、佐太郎夫妻にハルが玄関前に勢ぞろいしていた。職員の話が聞こえたようだ。

「なんで、急に、なあ。腑に落ちんことや」

 サキの言葉は皆の気持ちを代弁していた。

「パトカーがミツさんのところに停まっているのが見えて、肝を潰しましたで。何事かと思うて、ようすを窺っておりました。あたしらは、毎日のように年寄り同士で集まって、いろいろと情報を交換したり、悩みを語りおうたりしとる仲間です。ミツさんもメンバーですからの。あたしらに何も言わずに突然いのうなってしもうたのは、おかしい」

「そうや、ほんにおかしい」

 サキに続けて浩市が大きな声で言った。

「では、皆さんにご報告いたしました、ということで。私らは市役所に戻ります。皆さんのご心配が杞憂に終わって、良かったですね」

 二人の職員は車に乗りこんだ。

「ご苦労さんでした。そいで戸締りはちゃんとしておいたんじゃろな」

 ハルが車の窓に近づいて訊いた。

「戸締りは防犯の基本ですでの。抜かりはありません。声に出して確認しました。内側から雨戸もガラス戸も施錠しましたで。玄関は塩梅のええことに、内側からロックした状態で閉めると鍵が掛かる仕組みでの。鍵を持っている人以外は開けられません」

 制帽の下から白髪混じりの髪がはみ出た警察官が告げた。

「では、これで。何事もなく良かったことで」

 三人の警察官は、さっぱりした表情を見せてパトカーに乗った。

「さあて、どうするかいの。これからミツさんと連絡をとって、いきさつを聞かにゃならんが」

 タマ江が言う。

「浩一さんのところで相談せねばの」

 サキは歩き出す。全員が後に続く。坂道をゆっくりと登る。潮風が浜から吹き上がってきて、集団の背中を押した。


               3


 浩市を中心にして座った。膝の関節が老化して正座ができない者たちがほとんどなので、脚を投げ出してちゃぶ台を囲む。

「まずは岡山の施設に電話して、ミツさんにどんな具合か、本人から訊いてみるとするか」

 浩市が提案する。

「それがええ。息子に連絡しても、息子の立場での考えを聞くことになる」

「そうや、それにあの部屋の様子では、強引に連れて行かれた印象やった。息子の意見より本人の意向が大切やで」

「さっそく電話番号を調べるで」

 あたしは一○四を押して、岡山の有料老人ホーム、悠楽の電話番号を尋ね、続けてその番号をプッシュした。

「そちらに桜井ミツさんという方が、入所されていますよね」

 一同はあたしの言葉に耳を立てている。

「個人情報と言われても・・・あたしはミツさんと同じ集落に住んでいます。このところミツさんの姿が見えないので皆で心配しとります。え、居るか居ないか答えられない?何でですか」

 皆は困惑と怒りで顔中の皺をますます深くする。

「息子さんの了解をとればええですか?はあ?息子さんが同席せな会えんと言うておられる、ですか?」

 見かねたのか、サキが受話器をもぎ取ろうとした。

「現場に立ち会いましたで、あたしが話をします」

 言うと、サキは「もっともや」と受話器をあたしの手に握らせた。

「あたしらは、毎日集まって励まし合うて暮らしとるですよ。ミツさんがこのごろおいでにならんで心配してな。家の中で倒れておるのでは、と案じて市の職員と警察にお頼みして家の中を見てもらいました。雨戸も閉まっとらんし、あたふたと出て行った跡が見つかりましたで。あたしらにとっては大事件ですがの。そちらさんにはあたしらが疑わしい人物やから、ミツさんがそちらにおられるかどうか、も言えんゆうことですか。市の職員が、警察官二人に立ち会うてもろうて、ミツさんの家を捜索しているときに、息子さんからお宅に入所していると、電話で伺ったんですがの。そういう経過をお話してもダメですかいのう。警察からそちらに連絡して、あたしらがミツさんと話せるようお願いしてもらうように計らえばええですか」

 あたしは振り返って言った。

「チーフに相談してから返事します、とゆうとるで」

「面倒なこっちゃのう」

 大輔は早くも口を尖らせている。

「ま、そのくらい用心深くせにゃならんご時勢かもしれんな。一概に責められんで。入所者を守るためや」

 タマ江は中立の立場で発言した。

「身元引受人は息子さんやが、明後日の日曜日の午後においでになるそうや。ロビーでお会いになりますか、とゆうとる。そのとき番号の入ったカードを渡すそうじゃ。次からはそのカードを持って受付に行けば、ミツさんに会えるようじゃ」

「ミツさんと電話で話せんのかのう。岡山の郊外にまでこの脚で行けるか、ほかの人に迷惑をかけんか、と思うが」

 タマ江が口惜しそうに言う。

「小枝ちゃんに大輔さん、あたしに浩市さんの九十以下の四人で行ってくるかの。浩市さん、どうやろ」

 サキが提案した。

「ええやないか。人数はおったほうがええ。ミツさんも仲間が多いと本音が言いやすいやろう。ま、どっちにしても、ミツさんの身の振り方はミツさんが決めることやがの」

 浩市は膝も顔も前に出して、大いに乗り気になっている。

「ほな、その四人に頼むとしようで。あたしら、九十代組は答えを待つとしよう」

 タマ江は皆の顔を見回す。

「あたしも残ります。ミツさんとはさほどの会話をする仲ではなかったで」

 ハルは付け足した。


 予定した日は快晴だった。空には一片の雲も浮かんでいない。鞆の海も蒼一色だ。

「ええようにコトが進む気がするな」

 あたしは他の三人に話しかける。

「息子とミツさんが対立したら、ミツさんの味方になるで」

 浩市は意気軒昂だ。

「初めから喧嘩腰ではいかん。まずはよう話し合うことや」

 さっそくサキに釘を制される。

 福山駅で駅弁と飲み物、菓子を買った。福山から岡山まで新幹線で行き、岡山駅の待合室で弁当を広げた。

「どうゆう戦略でいくかいの」

 浩市は眼を輝かせている。

「まずは、丁寧に、息子さんに挨拶することやの」

 サキがすぐに、一語一語念を押すように答えた。

「警戒心を解いて、あたしらがミツさんをどれだけ心配しておったかと続けての、そいで息子さんの行動を責めずに、あちらさんの考えを慎しんで伺うことじゃ」

 サキは続ける。

「向こうは向こうでご意見があるじゃろうて。それを尊重せにゃならん。ふむふむとうなずいて聞くことや」

「あっちは息子という立場、こちらはあくまでも他人やもんな。相手の立場を立てるゆうことじゃな」

 あたしはサキに同調した。

「さてと、しゅっぱーつといこうで」

 浩市は拳を作った両腕を突きあげて、ついでに伸びをした。

「ほな、参りましょうで」

 あたしとサキも胸を張って足を踏み出す。

 観光案内所に向かった。

「南口を出て左に曲がればバス停があります。八番のバス停に行ってください。八番から出るバスは、どれも悠楽の前で停まります。次のバスは二十五分発です」

頬に艶のある女性が、右手で方向を示した。

 三十分近く揺られて篠峠という停留所に着いた。バスのアナウンスは、悠楽においでの方はここでお降りください、と繰り返した。真新しい建物が目の前にあって大きな看板に悠楽と太く記されている。あたりを見廻すと中国山脈の穏やかな山並みばかりが在る。

「酸素はいっぱいじゃ。店も住宅も見当たらん。土地の値段は安かったろうな」

 大輔は腕を組んで言った。

 壮大な四角いコンクリートの箱に詰められた老人たちは、どんな思いで朝な夕な山脈(やまなみ)を眺めているだろうと、推し量る。入居して四日目を迎えるミツのためにも、孤独な群れではなく温かい空間であれば良いが、と念じつつ。

 ドアは開かない。ドアの横に付いたチャイムが鳴った。

「あなたの住所、名前、電話番号を伝えてください。その後面会を希望する相手の方のお名前をおっしゃってください」 

 自動的に組みこまれているらしい女性の声が聞こえた。

「こりゃあ用心のええことで」

 あたしはサキと眼を合わせた。チャイムに向かって答えたが、それでもドアは開かない。

「続けて、皆さんお一人お一人の情報をお願いします」

 向こう側からあたしたちが見えているのか、女性の声が促す。

「面倒やのう」

 浩市が言うと、サキは人差し指を乾いた唇に置いた。

 十五分後にやっとドアが開く。四人は建物の中へと足を入れた。はめこんだ大きなガラス窓から陽がいっぱいに差している。広い板張りのフロアには観葉植物があちこちに置かれ、ソファやいすが並べられていた。

「まるでホテルのようじゃのう。今どきの老人ホームゆうのはこんなんか?」

 サキは口を半開きにして天井から床まで見渡して言った。

「有料じゃ。それも金が高いホームはこんなんじゃろうて。わしらには縁がない」

 浩市は臆していないと示したいらしく大きな声を出した。

 ブルーの作業衣をまとった女性が二人、あたしたちを迎えた。

「息子さん夫婦が、お母様とこちらに降りていらしゃいます。少々お待ちください」

 穏やかで安心感をもたせる口調だった。四人は、螺旋状になっている幅の広い階段に視線をやった。

 ミツの両腕を支えている初老の夫婦が現れた。

「ミツさん。会いたかったよう」

 サキは、階段下まで降りてきたミツを奪い取るようにして抱きついた。

「みんなにもう会えんのじゃなかろうかと思うてな。あたしは毎日泣いておったで」

 サキにしがみついたミツは、涙で顔を濡らしていた。

「だいじょうぶや。あたしらはミツさんを見捨てたりせんでな。仲間やで。鞆の仲間やで」

 あたしはミツの背を撫でて繰り返した。

 浩市はセーターの袖でゴシゴシと目をこすっている。大輔は口を曲げている。

「なんや、私らは悪者みたいに思われとるらしいの。まあ、座りましょう」

 男性が言ったので、七人はソファに相対して座った。

「あんたがミツさんのご長男さんかいの」

 サキは問うた。

「はい。太一郎と申します。こちらは妻の和子です。いつも母がお世話になっておりまして、ありがとうございました。これからは、母にはここでゆっくり余生を暮らしてもらおうと思うとります。どうぞご安心ください」

 太一郎の言葉に、ミツはわざとのように声を張り上げて泣きだした。

「どうやら、太一郎さんはそのつもりでも、ご本人は不本意らしゅう見えるがの」

 浩市は強く押した。

「母は泣き癖があって、これは老人に見られる症状の一つだと医者に言われました」

 太一郎は冷静だ。

「そうやろか。悲しゅうて泣いておられるように見えるがの。鞆にいたときはいつも笑っておいでじゃった。泣き顔なんぞ見たことはなかったで」

 大輔は睨みつける。

「ほんにそうや。きっと自分の意志でここに来たんやないで、つらいんや」

 続けてあたしは言った。

「雨戸は開け放しやった。警察や市役所の方たちは部屋の散らかり具合を見て、急かされて出ていったが、本人はすぐ戻ってくる心づもりやったんでは、と言われましたで」

 語気を強くする。

「これ以上の条件のホームはないと探し出したところです。ここなら近いのでちょくちょく顔を身に来れますし話もできる。いざとなれば提携している病院もあるので安心です。義母が受け取る年金に、あたしたちが少し上乗せすれば、毎月の支払いもできます。落ち着いて義母の老後が看られると思いましてな」

 和子は堂々と主張した。

「あたしはここに居とうない。あたしの家は鞆にあるでの。鞆があたしの家や。ここは知らん人ばかりで、気い遣うて疲れてぐったりや。早う鞆に帰りたい」

 ミツは真っ向から反論した。先ほどのスタッフが走って来た。

「何や、揉めてますか?」

「事務室でゆっくりお話しましょう。周りの皆さんは昼食を終えて寛いでいらっしゃいますので」

 スタッフが宥めようと肩に置いた手を、ミツは振り払った。

「もう嫌やゆうとるのに、なんで自分の家に住めんで、ここにおらにゃいかんのや。鞆に帰りたいで」

 ミツは振り絞るように叫んだ。人の顔の形は保っているが、水に濡れた古雑巾のように皺があちこちに打ち寄って、触れば壊れそうだった。フロアにいる老人たちは泣き叫ぶ老女を不安気な面持ちで見守っている。

「事務室に行きましょう。お話はあちらでしましょう。皆さんはお歳ですので、無用な刺激を受けて混乱なさると困ります」

スタッフは強引に話を中断させた。

七人はスタッフの後を付いていく。鞆から来た面々はミツ親子の前を歩き、振り向いては、ミツに笑みを投げかける。ミツを迎えに来たのだと顔と眼で語る。周りの老人たちは無言で、七人の移動に合わせて首を廻している。

 全員が事務室のいすに座った。簡素な応接室という感じに仕上がっている部屋だった。

 顔は浅黒く背が高いスーツ姿の中年の男が立ち上がって、七人を迎え入れた。

「事務長の長岡です」

 一礼した。七人も頭をさげた。

「とりあえず、お茶をいっぱい、お願いしますよ」

 ドアの近くに並んで立っているスタッフに声をかけると、二人は「はい」と答えて部屋から出て行った。

「皆さんのお話を伺うのに時間がかかると思いますので、その前に事務的なことを伝えさせて頂きます。まず住民票ですが」

 勢いこんでいる者たちの気を、いくらかでも削ぐための発言かもしれない、とあたしは思った。このような場合の対処法なのだろう。が従うしかない。

「入所に際して、ミツさんの住所は、この悠楽に転入届けが出されています。もし退所をご希望なら退所と転出の手続きを」

長岡は太一郎に視線を向けた。

「息子さんにお願いいたします」

「待ってください。私の考えは変わっていません。つまり母がこれからもここでお世話になるということです。退所させるつもりはまったくありません」

 太一郎は強く反論した。

「それは後で話し合うことにしましょう。もうひとつの問題は入所金です。お宅の場合は三百万円払っていただきました」

 金の話になって太一郎の関心は急転回したようだ。太一郎の眼にあった怒りはほとんど消えて、長岡に当てた視線は、ひと言も聞き漏らすまいと真剣そのものだ。

「それで、どうなるんでしょうか?」

 太一郎は急きこむように尋ねた。

「基本的には最小年限が一年で、一年以内の退所なら半分をお返しいたします」

「半分。百五十万だ。それはひどい。母はここに来て、まだ四日目ですよ。来た日と今日を除けば、まるまる一日お世話になったのはたった二日間ですよ」

 太一郎は声を荒らげた。

「そうですよね。ですから退所となったら、この場合は特例として百五十万を三百六十五で割り、一日分をだして×七というふうに計算します。それなら納得してもらえますよね」

「足掛け四日で、×七というのは?」

「一週間が最小単位なんです。お迎えする準備として部屋の清掃、お食事のメニュー、ベッドやリネン類の点検など、結構時間や人手が大変なんですわ。大切な方をお預かりするのですから、お一人お一人心身の健康状態の把握に手抜きがあってはいけませんのでね」

「なぜ一週間分なのですか。入居して一週間なんかたっていない」

 再び太一郎は抗議の声をあげた。

「一週間が最少単位になっていますのでね」

 長岡は慣れた調子で繰り返した。

「わかりました」

 不満が払拭されたとは見えなかったが、金の問題と聞いて感情を抑え難かった太一郎は大人しくなった。百五十万からの差を計算し、その大きさが効果をもたらしている。

「但し、それは退所金についてで、他の諸費用については契約書に記されたように対処させていただきます」

 長岡は付け足した。

「諸費用というのは」

 太一郎が「具体的にはどういうことでしょうか」と続けるのに構わず、長岡は声を大きくして抑えこむように言った。

「では、順にお話を伺いましょう。ご本人のミツさんはどうですか」

 長岡は促した。

「鞆に帰りとうてならん。それだけです。あたしは鞆で生まれて鞆で育って、鞆の人と一緒になりました。子を産んで、あ、この子ですが」

ミツは顎をしゃくって太一郎を指した。

「楽しゅう子育てしましたで。気の強い子で親子喧嘩もしましたが、仲良し喧嘩じゃったで。何せ一人っ子やったでの。可愛うてのう。鞆は九十年あたしを育んでくれたとこです。集落に知らん人はおらん。みんな仲間やで。鞆で死にたい。人生の始まりから終わりまで鞆の波の音を聞いていたい。それができんこの四日間は、つろうてつろうてならんやった」

 ミツはひと息ついた。長岡が「それでは」と言いかけたのを無視して、ミツは声を絞り出す。

「一日おきに風呂に入れると聞いとったが、一度も入れんかった。風呂に入れんのは何故やと訊いたら、急な患者さんがでて人手が足らんようになってな、と返された。ここはホームや。病人が出たら提携している病院に搬送すると聞いておったで。おかしな話やないか。風呂に入れんで頭が痒うてならん、と訴えたら櫛を渡されてな、これで掻きや、と言われたで。お茶は濃いのは眠れんから、麦茶かほうじ茶にしてほしいと頼んだのに、眠れるようにお薬がでますでな、と言うんやで。スタッフも看護師も優しゅうない。しなさい、してはいけませんしか言わん。いつも走っておって、呼んでも、お待ちください、あとで、ばっかりや。ここで静かに暮らしておる人たちは諦めたんや」

 ミツは滂沱たる涙だ。ときに声をあげて泣き叫ぶ。その激しさに呼吸が苦しくなるのかむせる。太一郎でさえ、まして鞆からきた面々は鎮痛な面持ちで身を硬くした。

 太一郎は母親に責められているようで苦しいのか、顔を赤くして唇を噛んでいる。鞆からやってきた四人は、鞆を恋慕してやまないミツを連れ帰る決意をますます強固にしていく。長岡一人だけが、ミツを見やっては茶をすすっている。

 十分もすると、しゃくり上げるような泣き方になった。泣き疲れたのだろう。胸のあたりが呼吸するたびに上下している。

「せっかく鞆からお友だちがお迎えにいらしたのですから、一緒にお帰りになりますか」

 スタッフが入れ替えた茶をひと口飲んで、長岡は言った。やれやれ、やっと泣き止んだか、このときを待っていた、と顔に書いてある。

「人には移動の自由がありますからね。ミツさんはご自分が住みたいところに住んで良いのですよ」

 長岡の口調は穏やかだったが、面倒を避けたいので鞆に帰ってほしい、と聞こえた。

「母さんの好きにしていいよ。僕たちは余計なお節介をしたようだな。洒落て清潔な良いホームができた、というので見学会に参加して決めたんだ。スタッフも感じが良くて、心配りが利いていたので飛びついてしまった。もっと慎重になるべきだったよ。入所に際して交換した文書には、入居者およびご家族の皆様のご要望には、真摯に対応させていただきます、とあったやないですか。その文が印象に残って、ここしかないと即決したんだ。それにここなら、子どもや孫たちもちょくちょく会いに来れる。僕の都合よりも、母さんの考えをよくよく聞いておくべきだった。僕は間違えた。申し訳なかったよ。鞆に戻ったほうがええよ。母さんの気持ちが一番だから」

 太一郎は肩を落として、横に座っている母親の顔を覗きこんで言った。

「いいや、おまえは余計なお節介なんぞしとらんで。あたしの息子はええ子じゃ。母親のためと思うてしたことや。真摯でなかったホームが悪い」

「ありがとう、母さん。そう言ってもらえると救われるよ」

 太い血管、細い血管が網目になって浮き出ている、シミばかりの茶色い母親の手の甲を太一郎は撫でた。

 長岡は無表情な顔で、目の前の親子を見ている。

「一度ここを訪ねたときにはな、ロビーの大きな花瓶には生花が山と盛られておりましたで。広いガラス窓は、そこにガラスがあるとは分からないほどピカピカに磨かれてのう。せっせとガラスを磨いておる人が何人もいましたよ。ところが母さんの部屋に行くと、テーブルの上の花瓶に百合が一輪挿してあったが、造花やったで。経営が苦しいとか、人手が足らんのなら納得いきます。しかしな、誰もが目に留まるところは見栄え良うしても、肝心の入居者の部屋がなあ、というこっちゃないですか。終の棲家も弱い者には冷たいの」

 和子は歯に衣着せぬ調子で言いつける。怒っているというより、あたしは知っていましたで、と言わんばかりの口調だった。

「そのように受け取られたのなら残念です。我々の熱意が伝わらなかったようで。確かに人手は足らんのです。スタッフ募集中ですがの」

 長岡は苦笑を漏らした。

 ミツが突然立ち上がった。

「お手洗いに行ってきたいでの」

 両手で宙を泳ぐ格好でドアに向かった。閉め方が甘かったのか、ミツが体をぶつけるとドアは開いた。廊下に出ていく。慌ててスタッフが部屋を出ていった。

「ミツさん、ミツさん、お手洗いはそっちじゃないですよ。戻ってきてください」

 スタッフの声がする。

「鞆にいたときは、こんなじゃなかったで」

 あたしは眉を寄せた。

「キビキビした動きでの。間違いなく仕事をこなしておったで」

 サキが付け加えた。

「ここに来てからのようすは、どうやったですか」

 大輔が太一郎に訊く。

「僕も二十四時間一緒というわけではなかったもんで、確かなことは」

太一郎は言いよどんだ。

「訪ねてきたときは、ベッドの上に座ってぼんやりしていたな。僕が来たときも、家内が来たときもそうだったそうで」

「ベッドの上でぼんやりしておるなんて、ミツさんには考えられん」

 大輔は驚いている。

「ミツさんは働きもんでな。朝早くから、雑巾を手にして玄関の戸まで拭いておった。残った水はプランターの草花にやっての。それから魚屋で採れたての魚を買うて、さっとさばいて干しよったで。漬物もまめに漬けてな。いつも立ち働いておった。座っておったのは、わしらとお茶を飲んだり、菓子を食うたりしておるときだけじゃ。玄関もいつも打ち水をしてそれはきれいにしておった」

 浩市も言い張った。

「ミツさんは、することがないところに急に連れてこられてショックやったんじゃろうな」

 あたしは思いやる。

「環境の変化は誰にとってもストレスですが、特に年寄りにはね。本人が納得するまで話し合うべきでしたね」

 長岡は平然とした言いようで、責任を太一郎夫妻に押し付けた。

「ここに入居なさっているご老人は、穏やかに過ごしているようにお見受けしますがの。徐々に慣れていくのでしょうか」

 太一郎は、長岡を直視して尋ねる。

「もちろんそうですよ。終の棲家と決めて入居なさったんです。皆さん、仲良く楽しくと心がけておいでのようです」

 長岡は語尾をことさらのように上げた。

「ミツさんにとって、終の棲家は鞆なんじゃ。わしらと毎日午後のお茶とお喋りを楽しんで、あとの時間はマイペースで暮らしておいでじゃった。生活が突然一変したんや。どんなにかショックやったろうて。察するにあまりあるで」

 眉をきつく寄せて浩市は言った。

「そうじゃ。浩市さんの家が会場になって間もない頃じゃったでの。浩市さんもえろう心配なさったもんな」

 あたしは慰めた。

「皆さん、仲がよろしいようで」

 冷ややかに長岡は言った。

「当たり前じゃ。生まれてときからの仲じゃけえ」

 サキは高らかに宣言する。

「それでは太刀打ちできんな、太一郎さん」

 拳を作って膝に置いている太一郎に、長岡は余裕の笑みを口元に浮かべた。

 スタッフが早足で駆けこんできた。

「事務長、ミツさんがお手洗いに入ったきり出てこんですよ」

「どういうことだ」

 長岡は怒りの表情になった。

「もう終わったんでしょう?皆さんがお待ちだから戻りましょうと何度言うても、大きな声で、嫌やとしか言わんのです」

「しょうもない婆さんやのう」

 長岡は小声で漏らし指先で机を叩いた。本性が転がり出た、とあたしは冷めきった眼になる。

「誰かが見張っておらねば、ですよね」

「何かあったら困るで」

 スタッフは長岡の言葉を受けて駆けていった。

「すみません」

 太一郎は額に手をやって言う。

「よくあることです」

 長岡は顔をしかめた。

「そうだ。太一郎さん、あなたが母上を説得してくださいよ。まずはトイレから出てきてもらわにゃ話の決着がつきませんで」

 迷惑なことをしでかしおって、金を運んでこない者にはもう用はない、と言外に長岡は言っている。それでも、ドアのノブに手を掛けた太一郎に、長岡は立場上注意した。

「母上には正面から向き合って、穏やかな表情で声は優しく、言葉はゆっくり、はっきりと心がけてください。後ろから呼びかけると恐怖心を煽ります。認知に問題のある人への対応の基本です」

「分かりました。でも、何で認知なんですか。母の認知に問題があるとはまったく知らなかった」

 太一郎はひどく驚いている。

「ミツさんはここに来てまだ四日目や。鞆では認知の、にの字さえ感じられんじゃったで。ここでの待遇がよほど悪かったんやろうな。それに息子じゃ、拉致するようなやり方で連れてきたんやないか。そりゃあ、年寄りにとってひどく酷なことやで」

「テレビで認知症は、老人に関わる周りの人間の気持ちが反映されると言いおったで」

 大輔に続いてサキも、長岡を攻撃する。サキの口から飛び出た唾が、窓から射しこむ光線の束の中で弾けた。

「テレビの報道を鵜呑みにしてはいけません。現実にはさまざまなケースがあります。ひと括りにはできない」

 長岡は防衛している。

 息子の説得は功を奏したようだ。太一郎の腕に上半身を支えられ、ミツはよちよち歩きで戻ってきた。ミツをソファに座らせると、太一郎はその横に腰をおろした。

「長岡さんは僕に、穏やかな表情で話し方は優しく、とおっしゃいましたよね。本当にそうしていただいていたのでしょうか。母の訴えとはかなり違うと思えますが」

 太一郎も長岡を非難する。

「反対に認知症に導いておったんやないですかね」

 浩市は紳士的な口調で棘のある言葉を吐いた。

「まあまあ」

 長岡は両手をいっぱいに開いて、鞆から来た者たちとミツの息子の気持ちを押し返すように、二回三回と動かした。

「予想以上に入居希望者がいましてね。スタッフの手が足りなくて申し訳なかったと思うとります。しかし、ご老人たちは、戦中戦後の悲惨な経験を乗り超え、現在の日本の繁栄を導いた方たちです。丁重に接したいという理念でこのホームを造ったのですが、まだ充分に整っておりませんで相すみませんでした。スタッフはできる限り手を尽くしたと信じているのですがね」

 のらりくらりと長岡はすり抜けていく。ミツがここに来てから、ずっと傍にいた者はいないのだから反論の証拠はない。けれど空疎な言葉の羅列だと聞こえているのは、長岡以外の者たちの顔を見て分かる。

「ミツさんには退所していただきましょうか。お手洗いに閉じこもるのは、ミツさんのお気持ちが鞆以外の場所を強く拒否しているという表現でしょう。一度鞆に戻られて、お仲間と過ごしているようすを、息子さん夫婦で見に行かれたらええのではないですかね」  

 これ以上話しても時間の無駄だと、長岡は決めたようだ。

「夫は仕事が忙しいのです。鞆までちょくちょく行くのは難しいですよ」

 和子は夫の立場を弁護する。

「和子、週末を利用して二ヵ月に一度でも二人で行くかの」

「週末は孫たちが来るし、お茶会も入るからの。二か月に一度くらいなら行けるかもな」

 和子は妥協策を提案している。

「家内は茶道の師匠をしておるので、時間があるようで結構ないんですよ」

 太一郎も鞆の者たちに妻の事情を説明して庇う。

「それは優雅な生活をしておいでじゃな。お姑さんの世話どころではないで。それで、ここに入所させて、と思いつかれたとゆうわけやな」

 サキはにこりともせずに二人の会話を突いた。

「聞いとられん。お二人ともミツさんの身になって考えてはおられんのじゃな。ご自分たちのことばかりじゃ。仲がよろしいのはええけどな」

 あたしも胸の内にしまっておけずに口にした。

「それでは、ミツさんの退所の手続きをお願いしますで。荷物はさっそく息子さんの車に積んでいただきましょう。梱包して鞆に送るなり運ぶなり、ご自由になさってください。とにかく早く部屋を空けてほしんですわ。明日清掃業者を入れて、その翌日入居なさる方がおいでじゃけえの」

 長岡は内輪話に苛立っている。立て続けに作業を指示して、いつの間にかスタッフに用意させた茶封筒を太一郎に差し出した。

「この中に退所手続きに関する用紙が四枚入っています。複写になっていますのでボールペンでしっかりと記入してください。初めの一枚は控えとして手元に保管し、残りの三枚を一週間以内に簡易書留で送っていただきたい。赤鉛筆で囲んだ部分、五箇所に認印でええですから印鑑を押してください。それと退所に当たっての諸費用の金額を記入した振込用紙が入っています。その金額を振り込み、振込を証明する部分をコピーして指定の箇所に貼り付けてくださいね。金に関することは、後から騒動にならないよう念を入れておいたほうがええと思いますでな。それらをこの中に入っている返信用封筒に間違いなく入れて送ってください。簡易書留ですよ。お忘れなく」

 一気に言い終えると、長岡はついと部屋を出ていった。残された七人は唖然としている。

「なんや、失礼なお人やな」

 和子が言うと、視線は和子に集中した。

「これであんたさんも茶道のお師匠さんに専念できるで。よろしかったな。本当にお義母さんを思う気持ちがあったんかいな」

 大輔の野太い声が遠慮なく響く。和子は唇を思い切り曲げて、声の主に射抜くような視線を返した。

 ミツを取り囲む態勢で七人は建物を出た。西の空を見ると、山並みの上は茜色に輝いている。天空は東の方から群青色に染まり始めていた。

 福山から鞆に向かうバスの中で、サキとあたしはミツを挟むようにして座った。二人は老いた友の背を撫で続ける。

「急に連れていかれたショックが癒えるのに時間がかかるやろうな」

 サキはポツリとこぼす。ミツの身体の温もりをどうやって守っていけばいいのだろう、

あたしの頭はそのことでいっぱいだった。

 ミツは、サキの手を握り締めて立ち止まり、自分の家の玄関に近づくのを頑なに拒んだ。全身を強ばらせて目を固く閉じている。皆は暗黙のうちに、ミツが自力で気ままな暮らしを楽しむまでには、かなりの時間が必要だと知った。

「細やかで穏やかな気配りと、ミツさんは大事な存在やと、あたしらが思うとることを示し続けていくしかないじゃろうの」

 サキが、自らと周りに言い聞かせるようにゆっくりと言う。

「そのうち時間が味方になってくれるで。きっと解決する」

 あたしは続けた。サキは自分の家にミツを連れて帰る。あたしと男衆もついていった。無言のミツを囲んで、あたしたちはこれからのことを相談した。その夜から、女衆が一人ずつ交代でサキの家に泊まると決まった。さりげなく見守る。目を離さずに、しかし基本はミツの気ままに任せる、などの意見がまとまった。二日後、ミツが入居中に使っていた物が、太一郎から届いた。

「ミツさん、これ、どうするんや」

 ミツは段ボール箱を一瞥して黙りこむ。

「開けてみるか」

 浩市が尋ねると激しく頭を振る。

「思い出すとつろうなるんやろうな。町田先生にどうしたらええか訊いてくるで」

 浩市はサンダルをつっかけて出ていった。戻ってきた浩市は、待っていたメンバーに「そのうち本人が何かを取りに家に戻ってみるか、と言いだすやろう。それまで待つことや。時間はかかるかもしれんが」と言われた、と報告した。皆は期待と心配をない混ぜにして、時間の流れに任せると決めた。






       2章 俺は誰だ?


               1 


 半月経っても無表情なミツだったが、浩市の家に行くのは楽しみらしい。女衆に混じって足取り軽く日参する。帰りには眼が笑っている。日を追って本来の生き生きしたミツに戻っていくのを、皆は確認しては胸を撫でおろしていた。

 浩市の家が会場になる最後の日、三月の末日だった。翌日からタマ江の家が会場になる予定だがタマ江が高齢なので、何とか負担が少なくなる方法はないかと話しあっていた。当のタマ江はうなずきながら、笑みを浮かべて話の成り行きを見守っている。

「皆さーん。ここに集まっておいでですかいの」

 明るい女性の声が入ってきた。浩市が立ちあがって玄関に向かう。

「今年度から、この地域の民生委員になりました中越、なかごしと申します。この地域のお年寄りは毎日午後になると集まって、お話し合いをなさっておると伺いましてな。ちょっとええでしょうかの」

「どうじゃろうか」

 浩市は振り返り意見を求めた。

「またにしてな、とは言いづらいで」

「そうや、民生委員はボランティアでやってくださっておる。務めを果たしてもろうたほうが、こちらも気持ちがええ」

「せっかくおいでになったんや。お仕事をしていただこうで」

 返ってきた言葉を聞いて、浩市は中越を中に招き入れた。

「しかし、惜しかったな。あたしはタマ江さんの考えを聞きたいと口を開こうとしたとこやった。ちょっと時間がずれておったらな」

 ハルは遠慮なく言った。

「それは、後でもええ」

 浩市は中越を気にして、ハルを制した。

「ちょうど芝居の緞帳が上がったところやったしな」

 その声の主を皆が見た。

「おお、ミツさん、声が出たなあ。えかったでえ」

 笑い声が沸いた。ミツが言葉を発したので、あたしはひどくうれしかった。緞帳が上がったところ、なんてぴったりやないかと感動すら覚えた。

「心の回復は一直線ではなく波がありますで、長い目で見てやってな、と町田先生は言うとったが、まさにそうじゃのう」

 浩市は頬を緩くして言った。

「町田先生にも報告せにゃ、な」

あたしは浩市の耳元で言った。ミツ奪還のために岡山まで仲間と出かけたことが報われ

て、こんなにうれしいことはない。

「皆さん、お元気で何よりです。改めてご挨拶いたします。この地区の民生委員を仰せつかった中越です。よろしゅうお願いしますで」

 中越は笑顔を振りまいた。

「いやあ、ご苦労さんです。ここらは年寄りばかりじゃけえ、お忙しかろうて」

 サキが出迎えの挨拶をした。

「皆さんのお名前、住所、年齢、電話番号を伺って、お元気だと現状の欄に記入させてい

ただきます。また三ヶ月後に伺います。ところで、この集まりには名前はありますかいの」

「ともとも・くらぶ、ゆうのです」

「ともとも・くらぶ、?」

「はい。平仮名で書きます。鞆の友の会ゆう意味です。みんな、鞆あっての存在ですで」

 あたしは誇らしく口にした。唇がほころぶ。

「あたしも鞆の人間ですが、鞆あっての存在かどうか、考えたことはないのう」

 中越は頭を傾ける。それぞれが必要事項を記入した書類に目をとおしてから、大きな茶封筒に入れ、さらに黒い布製のバッグに入れた。

「ご協力いただいて、ありがとうございました」

 バッグを肩に掛けて出ていこうとしたが、振り向いてまた座った。

「すんません。忘れておりました。実は」

 と言いいながらバッグのジッパーを開き、中からクリアファイルを取り出した。老人の写真を抜き取ってテーブルに並べる。正面からと背面からの全体像、それに正面、右斜め前、左斜め前からの顔のアップの五枚だ。

「井上さんの家に突然現れて、わしは誰やろう、と言ったそうじゃ。井上さんは驚いて警察に電話して騒ぎになりましての」

 中越は成り行きを説明した。

「その言葉遣いは、東の人間ではないの」

 さっそく、佐太郎がひと言挟んだ。

「特養のひまわりハウスに入ってもろうて、仮の名を鞆太郎さんにしています。皆さん、お心当たりはないですかね。男性です」

 老人の骨格はがっしりしていたが、放浪の果ての疲労が見てとれた。肉が付いていない両腕や両脚に傷が無数にあり、かさぶたになっている箇所もある。頭髪は申し訳程度に頭頂の周りに残っていた。髭は伸び放題で鼻から下を覆っている。一枚ずつ廻してじっと見る。

「何歳くらいですかいの」

 浩市が訊いた。

「還暦の祝いをしましたかと尋ねたら、考えこんだ後、したような気がすると言うたそうです」

「ぼんやりと覚えとる、ゆうことかいの。七十は過ぎとる感じやの。八十近くに見える」

「目元と鼻の形が、どこかで見たような」

 タマ江が首を傾けて言った。一同は色めきたった。

「しかし、鞆の住人ではないで。鞆のお人なら知らん人はおらん」

 浩市は断言した。

「そうや、そうや」

 皆がうなずく。

「このご老人は自分の名前や住所の一部でも言えんとですか」

「すっかり忘れておいでです。でも、懐かしいのう、と呟かれることがあるそうで」

 中越は答えた。

「その言葉遣いを聞くと、東のお人ではないのがますますはっきりするも」

「いろいろな場所の写真を見せて、反応を確かめておるそうですがの」

「こちらでも考えてみますで」

 浩市は暗に話の打ち切りを示した。

「何か気づいたら連絡をください。お願いしますで。携帯の電話番号が入っていますで、そっちにかけてください。出かけているほうが多いもんで」

 中越は一人一人に名刺を配ると帰った。

「なかなかの難問やな。どこかで見かけたことがあるような、ないような顔じゃのう」

 佐太郎は呟いた。

「あたしもそう思うて、帰ったら古いアルバムをめくってみようかと思いついたところや」

 タマ江が正面から顔を撮った写真を手に取る。

「この鷲鼻と目元が気になるのう」

 タマ江と佐太郎は頭を突き合わせて写真に見入っている。

「のう、りく。この人に覚えがあるかいの」

「山田さんちの爺さまに似ているような気がするがのう。しかし他人の空似ということもあるで。爺様は確か、五年ほど前に九十八で亡くなられたと覚えとるがの」

「そうか。そうかもしれん。貴重な情報や。山田さんちの親戚とか?」

「りくさんは賢い。よう思い出されたの」

「まだ分からんで」

 佐太郎は妻の立場が不利にならないように逃げ道を作った。

「山田さんちは男の子が三人いたが、跡をとったのは末娘の恵子さんじゃ」

「そうや。恵子さんは三人の子をもって孫も五人おる立派な婆さんじゃ」

「男の子の三人がどうなったか、調べてもらえばええかもしれん」

「確かにそうじゃ」

「中越さんに連絡してみるかいの」

 浩市はすぐに電話に向かった。話し終えた浩市は上機嫌だった。

「中越さんはえろう喜んでおったで。りくさん、ありがとうな」

 浩市が軽く頭をさげると、りくは柔和な微笑みを返した。

 翌日からの会場は、とりあえずタマ江の家、しかしタマ江はここでの最高齢者なので協力を惜しまない、と決めて解散になった。


翌日、タマ江は裏が白い広告紙に大きく、転ばない、と力強い文字を筆で書き、玄関の表と裏に貼って皆を出迎えた。誰もがその字を見てうなずく。順調な滑り出しだ。

 話題はもっぱら鞆にやってきた男性についての憶測だった。

「お邪魔してええでしょうか」

 朗らかな声が響き渡った。

「中越でーす」

「ああ、どうぞ。そのまま遠慮のうお入りくだされ」

 タマ江が応える。

「まあまあ、皆さん、相変わらずお元気で何よりです。山田さんちの爺さまに似とるんやないかと言った方がおらしたんで、写真を五枚とも拡大コピーをして持ってきましたで。とくと見てくだされ」

 中越は全員に写真が行き渡るように配った。メンバーは写真を見つめる。

「何年前だったか、爺様の葬式のときに飾ってあった写真に似とる気いがするような、しないような。はっきりせんが、どうやろうか」

「この男が山田さんちの息子だったら、かなりの歳じゃろうな。それに呆けてか認知症になってか放浪しとったら、歳より老けて見えると思うで」

「人間にとって、自分の名前や住所をちゃんと言える、言えないはこないに大きな問題なんやのう」

「あたしもそう思うで。初めて気がついたわ」

 てんでにしゃべって止まらない。

「恵子さんに会うて来ましたで」

 そのひと言に、中越に目線が集中する。

「恵子さんはな、散々写真を見てそうかもしれんが、はっきりとは言いかねる、と言いおった。一度会いたいと申されてな。今朝、特養にお連れしましたで」

「で、どうやった?」

 一斉に問いかける。

「どうやろうかのう、と首を傾げてな。しかし、向こうは眼が光ってな、どこかで見た顔や、とぶつぶつ言いおった」

 中越の答えに場は色めき立つ。

「言葉が出るんやな」

「認知ではないんやないか」

「そうかもしれん。まだら、かもな。最初見たときは、疲れておったか腹が減っておったかで、頭がぼーぅっとしとったかもしれん」

「で、どうにかなったんですか?」

「そりゃ、どうにかなったんで来なさったんやろ、中越さんは」

「皆さんのお話は、そのくらいでよろしいかいの」

 中越は声を大にした。

「はいはい、もうよろしいで」

 ハルが顔を突き出しうなずいた。

「すみませんのう。お忙しくて時間が大事やろうに」

 タマ江が中越に助け舟を出した。

「恵子さんによると、長男さんは大阪で電気関係の会社に定年まで勤めておったそうや。八十歳におなりじゃと。軽い脳梗塞を二度患うて入院なさった後は週に三度、デイサービスに通っておるそうや。恵子さんとは二、三ヶ月に一度は電話の交換があるし、脳の病気になる前は、年に一度は鞆の家にご夫婦で来おったんやって」

「ふんふん、で、他のお二人は?」

 浩市が促した。

「それを話すとこや。急(せ)かさんでください。皆さん、お元気なのはええが」

ハルは図に乗って「そうや、あたしらは元気やで。ともとも・くらぶ、と名もつけたでな」と得意げに言う。

「その話は先日伺いましたで」

 中越はきっぱりと主張した。

「ああ、あたしもおしまいかいの」

 ハルは、大げさに両手を開いて嘆く動作を披露した。

「話を横道にそらせてはいかんで。中越さんはお仕事でここにおいでになっとる」

 あたしはハルに目線を送って制した。

「特養に入った鞆太郎さんの話をしとります」

 中越は苦笑しながら重ねて言った。

「鞆太郎さん?そりゃ、どこの誰や」

 唐突にミツが言い、顔を歪めた。知らない人の名を聞いて不安になったらしい。

「ミツさん、鞆太郎さんは仮の名前でな。どこの誰か分からんゆう話が始まったんや」

 タマ江の言葉にうなずきながら、皆はミツに穏やかな眼差しを送った。

「鞆太郎という人を、あたしは知らん」

 ミツは立ちあがった。顔が蒼ざめている。

「まあまあ、座って、な」

 あたしはミツの肩にそっと手を掛ける。

「座らん」

 ミツは精一杯抵抗している。

「ミツさん、座っても話はできますよ」

 タマ江の声音は優しかった。

「そういえばそうや」

 ミツは腰を降ろした。納得できればころりと変わるのだ。

「手短(てみじか)に参りますで。次男さんは二年前に病気で亡くなられたそうじゃ。その葬式に三男さんを呼ぼうとしたが、どうにも連絡がとれんやったゆうことです」

 ペタンと両脚を折って座り、その間に腰を置いたミツを、中越は横目で見ながら言った。

「それで、コトが発覚したんやな。長男さんは、その三男の弟については何か情報をおもちですかいの」

 佐太郎が訊いた。

「三男さんが初めに就職したところへ問合わせたそうで。が、自主退職した後は何も分からんと言われて、金を使って興信所にも頼んだそうじゃがの。そうこうしているうちに、長男さんは脳梗塞で倒れてしもうてな。気がかりなんじゃが、我が身を守るだけで精いっぱいじゃ、とおっしゃってました」

「さようか」

 佐太郎は両腕を組んでじっと天井を見あげている。

「こういう癖があるとか、身体的な特徴があるとか、思い出したら連絡をください、ご長男さんにもそう言うてください、と恵子さんにお願いしましたで。恵子さんはまた特養に行って、鞆太郎さんと話をするそうじゃ。恵子さんを見て何か思い出してくれれば、と言うておいでじゃ」

「それはええな。山田家の者かもしれんが、全然別人かもしれんしの」

 タマ江の口調はどこまでも穏やかだ。中越の肩に入った力が抜けていく。

「福祉課の高齢者担当のスタッフは毎日のように話し合うております。皆さんのほうでも、何か情報がありましたら提供してください、とのことです。お願いしますで」

「ご苦労さんでしたの。まだお若いが無理せんでええ。ご自分や家庭のこともおありじゃろう。鞆に来なさったお人の身は保護されておるで心配いらん」

 大輔がいつもの大きな声で慰める。

「はい」

 中越はその言葉に顔をあげ、笑みを浮かべて去っていった。

 半月後、中越が現れた。これで三度目だ。

「恵子さんが言いよった。旦那さんが、おまえ、特養に行くはええが、向こうがうちの兄さんとなったら、どうするんや、と訊いたんやて。そうだったら、亡くなった両親が喜ぶやろうし、兄さんが帰ってきたのならあたしもうれしい、と答えたらな」

 みんなの視線を身に浴びて、中越はトーンをぐっと落とした。

「守秘義務があるでな、これ以上は口にできん」

「何や、つまらんのう。そこが一番聞きたいとこやのに」

 ハルが口を曲げた。

「後見人だか、保護者だかの問題がでてくる、とか?」

 佐太郎が推し量る。

「たぶんそうじゃろうの」

 りくは夫を支持した。

「つまり特養に入っておるのはええとしても、その費用の問題もあるんやないか。恵子さんは苦しい立場やな」

「かといって、兄さんかもしれんとなったら放ってはおけんで」

「そうやろう?中越さん」

「あたしは何とも言えませんでの」

 中越はそう言って口を結んだが、眼は話の流れを肯定していた。

「年金は減ったが、消費税も介護保険も上がった。厳しいのう。呆けて、自分の居場所を求めて流離(さすろ)うておる者に、義理とはいえ弟に当たるかもしれんお人が、そうと決まる前から受け入れるのに難色を示す、とはのう」

 一同がしゅんとした上を、浩市の繰り言が躊躇いながら流れる。

「なんや、世の中つまらんとなったら、これまで生きてきたのも否定されるようじゃ。しかし、人は生まれたら生きねばならんでの。生きていけゆうて、この世に出てきたんじゃけんの。恵子さんの話は横に置いて、特養におる鞆太郎さんを、たまにでもここに連れてくるのはどうやろうか。鞆に流れてきた人じゃ。縁があるかもしれん、自分が誰か思い出す可能性があるやもしれんで」

 タマ江がさらりと提案する。

「そのときは施設の誰かが、行き来に付き添わねばならんかもしれん。一度入所すると、何かあったら困るゆうて、うるそうならんかの」

 サキは心配する。

「まあ、おいおい考えてくださいよ。今日明日に、という話ではないですから。特養に訊いてみます。何か行動をするとなれば、費用の問題も付いてくるやもしれん。公(おおやけ)のものは予算、ゆうものがあるでな」

 中越は流れを押し止めた。

 どうしたら社会的に弱い人の助けになるのか、皆が思いあぐねている。良いことだ、とあたしは思う。他人を思うことは尊い。


                 2

        

 芦田川の土手の桜が満開というニュースを聞いて、ともとも・くらぶはうち揃って花見に行った。

 そよ風が吹いて桜は満開だ。花びらが舞い、空は春霞に覆われて柔らかな青だ。健やかに歳を重ねているグループを祝福している。

「ほんにええ日やなあ」

 タマ江はため息とともに、胸の芯から言葉を出した。

「花見が日本古来の風習になっとるのは、こういうこっちゃと分かったで」

「桜は特にそうや」

「桜の樹の下に眠るゆうのは、ええことかもしれん、と思うの」

「樹木葬の話やな。あたしも考えてはみたが、夫は墓の中じゃ。離れておるのもなあ」

 タマ江は迷っている。

「来年も桜の花に会えるよう元気でおろうな」

 浩市は、佐太郎夫妻に顔を向けた。

「おおさ、そういうこっちゃで」

 佐太郎は破顔一笑して、りくを振り向く。りくは静かに笑みを浮かべて夫を見あげる。

 りくは肺を患っている。皆は密かに心配している。が、あえて触れずに時間(とき)の神に委ねている。

「いい光景やの」

 あたしは浩市に囁いた。

「この歳になっても、相手が生きておるのはええなあ。佐太郎さんのとこだけや」

 浩市はあたしの胸に在る思いに共感を寄せている。

特養に身を置いている鞆太郎は、この日からともとも・くらぶに週に二回顔を出すようになった。警察の調査は続いているが、鞆太郎が恵子の兄だという保証はまだない。だが、鞆太郎は恵子を見かけると頬を緩めてうれしそうにしている。恵子も父に似た鞆太郎が気になるようで傍を離れない。

 中越がやってきた。この花見の光景を「福山市報」に載せるのだという。

「助け合っている超高齢のグループがあると話しましたらな、市の方で是非紹介したいと言われましての。それで今日は何枚か写真を撮らせてもらいます」

 中越はカメラを肩に掛けている。今まで見たこともない立派なカメラだ。尋ねると、写真撮影が趣味なのだと言う。

「これでバッチリ、記念撮影をしますで」

 中越は朗らかに宣言した。

 芦田川の川原に公園がある。そこにシートを敷き、大きな桜の樹の下で寛いだ。中越は角度を変えて、花見の宴のようすを撮った。

「僕もデジカメを持ってきました。スナップや記念撮影を特養の食堂に貼ります。それがきっかけで、どこから来なさったか分からんお人のことで、誰かが何か情報を提供してくだされば、という下心があっての。それに花見という晴れの光景は写真で見るだけでも、気持ちが高揚しますで」

 特養の職員は言い、恵子がつき添う鞆太郎を中心にした写真を何枚も撮った。

ともとも・くらぶのメンバー全員が手分けして作った弁当を食べ、職員や中越、鞆太郎も加わって記念写真を撮る。佐太郎とりくは二人の間に一センチも隙間がないほど寄り添っている。大輔の隣にあたしは並んだ

「光男が妬いておるかもしれんな」

 そう言われるより早く、あたしは首に巻いたスカーフを広げてカメラの前に立った。

「何じゃ、それは」

 大輔が訝しげに問うた。

「福山の街でな、光男さんに買うてもろうたものや。ずっと大切にしている。今日は光男さんも一緒にと思うて身に付けてきたで」

「また、光男さんかいな」

 笑い声が上がった。

「小枝子さんは純情なんやな」

 タマ江に言われ、あたしは俯き唇を緩くした。

「ほんに、光男がここにおったら良かったでな」

 大輔が深い情のこもった言いようをした。

「運命というやつには、従うしかないで。じゃが、ここに我らが集まっておるのは、天のお恵みや」

 タマ江は、しみじみとした口調で宴を締めくくった。


 会場は替わって大輔の家になった。月も替わって五月。自然な流れで大輔の妻、富江もこの集まりに参加するようになった。

 花見で撮った五十枚もの写真で、話はもちきりだ。何度も廻して飽きずに眺める。写真の一枚一枚が、そのときを捉えている。ときは非情にも流れ去ってしまうが、切り取られた一瞬の時間は、時間が経つのに比例して意味を大きくする。かつてあった時間の証明として。

「欲しい写真があったら、裏に名前を書いてください」

 大輔は声が大きいので、お喋りが盛りあがっていても言葉は通じる。

「分かったでー」

 一斉に返事があった。意味が分かっているのかどうかは知らないが、鞆太郎も大きな声で応じている。視線が鞆太郎に集中した。拍手が湧いた。

 大輔は壁に古いカレンダーの裏を表にしてピンで留め、大きな白紙にする。テーブルに散っている写真を拾いあげ、間をあけて貼る。各写真の上の余白にマジックペンで番号を書いた。写真の下に広い余白がある。

「六月いっぱいはうちが会場なので、写真を貼っておきます。欲しいものがあったら、名前を書いてくだされ。後から欲しくなったり、要らんようになったりしたら、名前を書きたすなり、棒線で消すなりしてな。急がんでもよろしい」

「はーい」

 あたしは大きな声を張りあげた。写真を見ると仲間と楽しんだ花見を追体験しているようで、ハイになっていた。そういえば、光男が亡くなって以来、心が浮き立つイベントというものに縁がなかった。それでつい声が大きくなった。富江はこの花見には参加しなかった。自分がいない場のことで、皆が楽しそうに声をあげているのが面白くないのだろう。にこりともしない。器の小さな奴、とあたしは聞こえないほどの小声で言ってから、器の大小はあたしも似たようなもんか、と自分に言う。

「こんにちは」

 男の声だ。

「ああ、特養のお迎えじゃな。どうぞそのままお入りになって」

 大輔が答える。

「お世話になりましたのう。ありがとうございました」

「それがな、今日はびっくりしましたで」

「何か」

 職員は、笑みを消して大輔を見た。

「それはそれは、びっくりしましたで」

 大輔はうれしそうに鞆太郎の「はーい」を報告した。

「それも元気な声やったで」

 報告する者の声も弾んでいた。

「ほう、週に二度でもここに連れて来て良かった。皆さんにはお邪魔だったでしょうが、甲斐がありましたで。認知が少し回復したかいのう」

 職員は感慨深げだった。

「では、また三日後に来ますで。よろしゅう頼みます。鞆太郎さん、帰りましょうで」

 言われた鞆太郎は、硬い表情をして突っ立ったままだ。

「どうかされたんか」

「何かあったんかいの」

「体調でも悪うなったかいの」

 鞆太郎は顔を真っ赤にした。

「わしは、皆さんを騙しておった。まことに申し訳なかったで」

 目尻を決したように押し黙ってからようやく言葉にし、いきなり土下座をした。畳に頭をこすりつける。

「一体どうしたこっちゃ」

「何じゃ、何じゃ」

「皆様のご親切に甘えて、まっこと恥ずかしいで。どうぞ存分に叱って、怒ってください」

 頭を畳の上に置いて、鞆太郎は苦しそうに声にした。

「そう言われても、何のことか分からんで」

 大輔は困惑している。

「鞆太郎さん、男じゃ。いや、男も女もないがの。言いたいことは、しかと言いなされ」

 浩市がカツを入れた。

「わしは鞆太郎ではのうて、山田雄吉と申します」

 一同は狸か狐に騙されたかのように口を開け、閉じるのを忘れた。

「そりゃあ、良かったで。一気に難問解決や」

 サキが確かな声で申し渡すように言った。翻弄された怒りが皆の中から出ないうちに抑えこんだのだ。あたしも「そうや。めでたいこっちゃ」とサキを後押しした。ややあって、拍手がおきた。

「えかったで。皆さんの気持ちが通じて鞆、いや、山田さんも決心されたんやろう。ありがとうさんでした」

 職員は興奮し安心したようだ。しかし、これだけの面倒をかけられたのだ。内心は喜びよりも裏切られた怒りの方がずっと勝っているに違いない。感情を無理に押し殺しているのが、歪んだ口元で分かる。職員は無口になり、雄吉は頭を垂れて車に乗った。

 大輔の報告を受けて、中越がとんで来た。

「それでな」

 腰をおろしながら。中越は開口一番言った。

「恵子さんはな、ええと、山田雄吉さんゆう名前やったな、その話を長男さんにしたら、弟の雄吉なら特養の費用は折半しよう、と言うたそうじゃ。恵子さんの旦那は、本来なら長男が全部やってくれてもええのに、と不満だったらしいがの。が、その兄さんも病気持ちで治療費があるし、あたしは跡取りやしな、そこんところはと恵子さんが何度も頼んだら、しょうがないなと応じたそうじゃ」

 中越は山田家のいきさつを報告した。

 三日後、雄吉は特養の職員に付き添われて現れた。中越と恵子も一緒だ。

「ここに来る前に、山田さんと特養の職員さん、あたしの四人で山田さんの家と、鞆の港に行ってきました」

 中越が言って恵子に視線を向けた。

「漁から戻った夫にも会えましたで。夫は、確かに爺様によう似とるのう、と驚いてな。仏壇を拝んで行きなされ、と勧めての。雄吉とあたしは並んで線香をあげて位牌に手を合わせました。それから雄吉は、鴨居の上にある爺さんと婆さんの写真を見あげてな、まっことすんませんでした、親不孝をして申し訳のう思うとります、と繰り返してな。その後、常夜燈のある鞆の浜に行きましたらな、雄吉は着いた途端に、ここじゃあ、と叫んでの。あたしは泣いてしもうたで」

 恵子は泣いたり笑ったりしながら報告する。

「そりゃあ、何よりやったのう」

 タマ江とサキは、恵子の手を握り背を撫でる。 難題が解決して一同の顔は緩む。

「ほんに、えかったで」

「中越さん、ご苦労さまやったな」

「恵子さんも胸の内が収まったやろう」

 口々に労わり喜んだ。

「さあて、明日からは小枝子さんの家が会場やで。間違えんといてや」

 頃合を見計らって大輔が言う。

「間違うても大したことはないで。二十秒も歩けばええこっちゃ」

「今までどおり湯呑と菓子を置く小皿を持参してな。菓子鉢に菓子を盛っておくで、自分の健康と体調、食欲と相談しながら、適当に取ってくだされ。場所が変わっただけやで」

 あたしは皆に伝えた。

「いや、光男がおる」

 大輔が手を挙げて言った。

「そうじゃ、そうじゃ。まずは光男さんに、お世話になりますと挨拶をせにゃ、な」

 浩市が見廻して言った。

「ありがとう」

 あたしは頭をさげた。目が赤くなるのが分かった。

「皆さんが揃って来てくだされば、さぞ喜ぶじゃろう」

 自分の声が湿っているのに気付いた。

 あたしは大輔の家を出た場所に立って、皆の背が消えるまで見送った。


                 3


 玄関を丁寧に掃除し、庭に咲いた紫陽花と羊歯(しだ)、小ぶりの蔦を瓶に挿した。紫陽花の水色の花弁からは梅雨の気配が湿度を通して感じられる。清々しく映えて、羊歯や蔦の野のものと溶け合っている。あたしは、離れたり近づいたりしながら無駄を省くために木鋏を動かしていた。

「ちょっと、早かったでしょうかいの」

 初めに訪れたのは雄吉だった。

「湯を沸かそうと火を点けたので、見ていてもらえますかいの。いつものやかんがガス台に乗っていますで」

 大きなやかんは大輔の家のものだ。ひとつ借りて、ともとも・くらぶ用に各会場で使い廻している。

 リビングの隣に台所があり、リビングから台所が見える。雄吉は言われたとおりにガス台が良く見える場所に持ってきた座布団を置いた。正座して両手を膝に置く。雄吉はいつもこの姿勢だ。

「久しぶりじゃのう。小枝ちゃんの家に来るのは」

 大輔はあたしに笑顔を向けた。

「よういらしてくださいました、ちゅうところやな」

 あたしも笑顔で返す。全員が集まった。

「わしから話してもええですか」

 雄吉は思いつめた面持ちで、あたしを見つめている。指が細かく震えている。

「どうぞ」

 あたしは掌を見せて促す。雄吉から話をすると切り出したのは初めてだ。一同は固唾を飲んで雄吉の言葉を待った。雄吉は畳に頭を擦り付けた。

「わしは認知症のふりをしておったんです」

 雄吉は声を絞り出した。

「わしを気持ち良受け入れてくださった皆さんには、大変感謝しております。ありがとうございました。なのに、わしは皆さんを欺いてまことに申し訳なかった。本当のことを言わねばならん、と思うとりました。しかし、今日にしようか、明日にしようかと迷うてな。会場が替わったのがちょうどええ機会かもしれんと思いましての」

 あたしは玄関を閉めた。玄関の前の路地にも観光客は入ってくる。そこで聞かれたら困る話かもしれないと心配したのだ。

「わしはちょっとばかし、そう思うとった。しかし、何か事情があるんでは、と慮(おもんばか)ってそのまま雄吉さんに任せておったで。特養のほうには話されたんかいの」

 佐太郎が訊いた。

「特養で絵を描かされたで。この人は認知症ではない、と医者が絵を見て言ったんや。人生が思うようにいかん年数が長うなって孤独感や不安が強うなっとる。そのともとも・くらぶに通っておれば、精神状態は健康に近くなるやろう。生活保護を受けてアパートを借りて一人暮らしをしたらええ。肝臓も腎臓も良うないが、身の周りのことはできる範囲じゃ。軽度の家事は心身にとってもええこっちゃ、と言われた。さすが医者や、よう見抜いたで、と寒気がしました。ほんに恥ずかしい。皆さんの好意に甘えていたと罪の意識にかられて後悔で身をよじってな。わしはよほどのアホか、と自分で呆れるほどの生き方しかできん男じゃ」

 あたしは雄吉の湯呑に茶を継ぎ足した。雄吉は唇を歪め、その口元の奥から少しずつ這い出てくるものを、手で掴み出して皆に披露すような苦しげな表情だった。静まった空間が、重さを増しながら畳に上に層を造り積もっていく。層の上に雄吉の声が、蛇がのた打ち廻るように吐き出される。

「鞆の中学を卒業して神奈川県の藤沢の工場で働いておりました。車の部品の検査をしておった。暮らすには充分な給料が出てな。仲間も気のええ人が多くて、ずっとそこで働く気でいたんじゃ。だが、世の中は旨くいかんもんや。仕事の帰り道、急な坂を降りる途中で後ろから車にぶつけられてしもうた。車一台が通るのがやっとの狭い道路やったが、運転していた若い者はかなりのスピードをだしておった。わしはぶつかった衝撃で道路に叩きつけられて立ち上がれんかった」

「そりゃあ、痛かったろうなあ」

 富江が眉をひそめて言う。会場があたしの家に替わっても、富江は大輔とともに現れる。正直に言えば面白くない。が、受け流すしかない。

「人が集まってきたで、その車は立ち往生した。逃げたら罪は重くなるぞと叫んだ人がいて、若者はおどおどしていたで。救急車とパトカーが来て、わしは入院した」

「ひき逃げされんでえかったな」

 浩市は、ほっとした声で言った。

「上手に転びましたね、と医者に言われて安心しましたで。頭を打っとらんやったのは幸いじゃった。が、腎臓の損傷がひどいと言われたで」

「つまり仰向けに転んだんやな」

 ハルはその場にいたかのように断言した。

「そのとおりや。会社に連絡したら、通勤途中の事故なので休職扱いになります。給料は三割カットになりますが、傷病手当が出ます。心配せずに療養に専念してください。診断書を郵送してください。腎臓は大事な場所ですからお大事に、と言われての。二ヵ月後に退院し通院しておった。精神的には結構きつかったで。養う家族がいないのはえかったが、気持ちの支えがのうなってな。会社が居場所やったんや。会社の人間も最初は電話してきて励ましてくれたが、わしが沈んでおるんで戸惑うらしく間遠になってな。それが寂しゅうてこちらから掛けても、向こうは忙しそうにしておるで、余計寂しゅうなって。そういった日が続くと、あんなに戻りたかった会社の存在が、だんだんと遠くになってしもうた」

 雄吉はしばらく無言になった。傍の恵子は兄の横顔を見つめている。

「事故から五ヶ月後に、職場に復帰して良いと医者に言われた。で出社したが、見慣れたはずの会社の建物が、何かよそよそしゅう見えた。二階にある元の部署に行ったら何人か知らん人がおって、何か用でも?という目でわしを見た。今日から復職した者です、と言うと奥から小柄な男がやってきて、君は庶務課に配属になりました。身体が楽だろうと部長が言いましてね、と教えてくれた。そんな連絡をもろうたような気がする、とぼんやり思いながら階段を降りて庶務課に行ったで。すぐに課長が皆に紹介した。わしには、あまり根を詰めてやらずに、少しずつ要領を得ていけば良いと言い、若い者によろしく、と頼んだ。会社は病み上がりのわしを、忙しくなく気も遣わん仕事に、と配慮したんやろう。わし以外の人間は忙しく歩き廻って電話をかけたり書類を覗いて相談しておってな。わしは会社から必要とされとらんと邪推して、やる気が失せてしもうた。一番親しかった仲間が他の支店に行ってしもうてな。張り合いのない毎日やった。気力が足りんやった。ええ会社やったのに、自分から辞めてしもうた。そいで、故郷に近いというだけの理由で大阪に行ったんや。安アパートを借りて仕事を探したが、ちょうど不景気の真っ只中でな。仕事なんかあるはずないがな。働いて貯めた金も心細うなって」

 雄吉は壁に視線を当てながらもその壁の外を見ているようすだった。

「たまたま入った飲み屋で、酒の値段を気にしながら飲んどった。女将は、金は気にせんでええ。この路地にはぎょうさん飲み屋がある。その中から選んで入ってくれた客やさかい、半分にしといたると言うたが、それでも気になって値段札ばかり見おった。そしたら、その女将がうちの洗い物、掃除、仕込みを手伝うてくれたら、チャラにするでと言いおってな。その日から女将の家に住み着いた。女将には旦那がおらんかったでな。すぐええ仲になったんや」

 雄吉のその日を思い返しているらしい。微笑んでいる。

「夜の大阪は賑やかや。路地には赤提灯が連なっておる。足元が覚束無いほど酔った客がうろうろしてな。若くもない女が派手な化粧をしてな、その女将のことやが、ほらほら、しっかりせなあかんでと言いながら、酔いどれてしもうた客に肩を貸してな。男は、だいじょうぶや、あっしは道頓堀(とんぼり)でも名の知れた一太郎という奴やで、などと言って女に寄りかかる。女は、はいはい、よう知っておるで、待ってるさかい、明日も必ず来てや。や・く・そ・くやで、と唇を突き出す。男は女を抱こうとするが、女は素早く男の手を振り払って、手を挙げタクシーを止める。慣れた走りでやってきたタクシーの運転手が顔を出して、お宅の常連さんやな。ほなおおきに。少し廻り道して帰らせてもらうで。この不景気やからな、そのくらいさせてもらわんと食っていかれへんで、と片目を瞑る。女将は、あんたさんの言わはることは聞こえんやったで。ほな、さいなら、と応えて店に戻る。そんな毎日やった。女は色が白くて肉付きがええ。細い目がきらりと光ると、わしの背中にぞくっと走るものがあった。その女は奈美さんと呼ばれておった。ほんまの名前かと訊くと、奈良で生まれた美しい女や、と返しよった。昼間街を歩いておると、奈美に着せたらさぞ似合うやろう、と思える服やアクセサリーなどが目について、買ってやりとうてたまらんでな。思いきって淡い紫のブラウスを買うた。奈美はえろう喜んでくれた。その喜ぶさまを見た瞬間から奈美の纏うものを買うのに夢中になった。ある日気が付くと、呉服屋の中に飾ってあった着物に手を掛けておった。それをお求めですかと問われて、そうやと叫んだ。店員は、今週は創業祭で一割引になっております。百四十万円のものですが、十四万円差し引きますで。ま、引いたお値段に消費税はかかりますけどな、と物言いだけは丁寧でな。わしは思わず、これを着せたい女がおる。その女のためにこの着物は作られておる、とまた叫んだ。いえ、お支払いいただければええんですよ、と店員は明らかに信用しとらん目つきで口にした。分割で払うてよろしいか、と尋ねたら急に態度が変わってな、それではこちらの方へ、とコーナーに案内して、ビザのカードをお持ちならクレジットで払えますで、と言うた。わしは店から飛び出した」

そこまで好きになられた奈美さんいうお人は幸せやなあ、とあたしは知らない女を思う。しかし、そこまで好きになった雄吉の方が幸せやな、我を忘れる程の恋はそうあるものではない。あんたは、どうやった?と胸に棲む光男に問いかける。

 話は続く。

「最後に入った店は宝石店やった。何百万円だったか忘れたが、高価な値段のついた大ぶりのエメラルドをあしらった指輪があったで。奈美は大柄じゃが、指は細くすらりと伸びておってな。その指に通したら、エメラルドの輝きはこの世のものとは思えんほど美しかろう眼が吸い寄せられてな。この指輪を見せてえな、と店員に声をかけた。目の前に置かれた宝石には深い煌きがあってまさに神秘的という言葉がぴったりやったで。さすがクレオパトラが気に入って鉱山まで持っておったのは納得や、奈美はクレオパトラや、と叫んでしもうたときには、その指輪はわしの手の中に在った。と同時に男の店員たちが駆け寄ってわしを組み伏せた。すぐに警察官が来て手錠を掛けたとき、わしはほっとしたで。もう盗まなくてもええ。我が身を警察に任せてしまえば、何も考えることはないがな」

「雄吉さんは警察に捕まった、というよりも保護されたんやな」

 あたしは訊いた。サキは穏やかな眼差しを雄吉に当てている。

「そうや、保護されたんや」

「そりゃあ良かった。病気も治る。いや、外に出られんなら病気になりようもない」

 大輔は雄吉の顔を覗きこんだ。

「詰まらん話を聞いていただいてありがとうございました。礼を申しますで」

「いやいや、つまらん話ではなかったで」

「あたしらに心を許して、身を曝(さら)け出す話やった」

「話すのに勇気が要ったやろう」

「あたしらはみんな人間や。身体の造りは同じじゃ。けど、同じようには生きられん。それだけは自分で解決せにゃならん」

「たまたま生まれ落ちた場所もあるし、生まれ持った性格もあるでの」

「流れに身を任せにゃならんときもある」

 あちらからもこちらからも、言葉が飛び交って、雄吉の話は飛び散ってしまいそうだ。

「おお、そうじゃ。それで奈美さんはどうなさった?」

 気付いて浩市が尋ねた。誰もが言いかけた言葉を切った。

「奈美は」

 雄吉は自らを奮いたたせるように居住まいを更に正した。

「手紙をくれた。三年後にあんたさんが出所したとき、あたしがいると盗みの病気が再発するやもしれん。あんたさんのためにならんと思います。店は閉めて名前を変えて大阪ではないところに行きます。本当にあたしのことを思ってくれたら、この勝手を許してく

ださい。さいなら、元気でな。とあった」

「そんなことを経験なさったんか」

大輔も目を潤ませていた。

「雄吉さん、つらかったやろうな」

 あたしは雄吉の胸の内を思いやった。

「まっこと、つらかったで。一週間ほど泣き明かしてな。それでも思い切れなくて、出所したら必ず探し出そうと決めたんや。それを希望にして勤勉に務めましたで。模範囚として運動の時間に皆に号令をかけたり、草取りの場所を割り当てたりしましてな。それもすべて奈美のために立派な人間になって、会いまみえたいという一念からでした。神様か仏様かが、再会のチャンスを与えてくれるのではないかと、夢を追うておった」 

 再び静寂が訪れた。柱時計が、ぼあーんと篭った音を鳴らした。一日の三分の二が終わったと気だるく伝えている。


「出所したその足で、奈美を探しに飲み屋街を思いつくまま歩き廻った。軒並み暖簾をくぐってみたが、奈美はおらんやった。冗談やったろうか、ほんまやったろうかと奈良にも行ってみたが、希望という文字が萎んでいくばかりやった。出所の際にもろうた準備金はとうに使い果たしてしもうてな。途方にくれて、恐る恐る出所するとき紹介された更生保護の仕事をする方に連絡をしたで。そのお人が奔走してくださっての。大阪の岸和田似あったネジを作る工場で働くことになった。やっとありついた仕事やったで、一日も休まず油にまみれて二十年働いた。二十年目のその日、朝礼で社長が至極真面目な顔で言うた。親父の代から注文を請けていた大手の電機会社の景気がえろう悪うなって注文が落ちこみ続けています。日本や世界の経済は、一部を除いて急速に不景気に向かっております。それで皆さんに迷惑をかけずに、つまり退職金と最後の給料を払える段階で工場を閉めることにしました。祖父が始めたこの工場を引き継いでここまでやってこれたのは、ひとえに皆さんのおかげです。ありがとう。これで話は終わりです。すぐにハローワークに行ってください。さあ、早く、と社長は皆を急きたてた」

 雄吉は目を細めた。その情景が眼の前に再び在るのだろう。社長の顔が浮かんでいるのかもしれない。

「わしは動けんやった。前科者はハローワークには縁がない。また更生保護の方に相談せねば、と思いながら社長に頭をさげた。社長はわしに前科があるのを歯牙にもかけず、働いてくれればええとだけ言って雇ってくれた。他の人たちと同じ待遇でな。世の中には神様みたいな人がおるんや。わしは泣けてしもうた」

 雄吉は両膝に固く握った拳を置いて俯いた。

「更生保護のお人に連絡しようとしたが、奥さんが電話口で、入院して療養中です、と言われてな、お大事になさってください、大きな恩をいただいて感謝しとりますと伝えてください、としか言えんかった。ただ生活しとるだけやのに、ネジの会社に勤めたときに蓄えた金や、退職金、最後の給料ものうなってしもうた。これからどうしたらええかと思いあぐねて、公園のベンチで横になっておった。そしたらな、わし自身が鞆の浜辺に座っておる夢を見た。はっと目が覚めてな。矢も楯もたまらんで、鞆に向かって歩き始めたで。途中コンビニで廃棄しようとした大きなビニール袋に入れた食べ物を拝み倒して貰うた。交番で百円借りた。見かけた市の社会福祉協会に行っては三百円ずつ貰うた。雨がえろう強い日があっての、お寺さんに駆けこんだで。土間で休ませて貰うて、五個もむすびを持たせてくれたこともあった。そんなこんなで、ようようここまで辿り着いた。あとは皆さんもご存知のとおりや。」

 路地を歩く人の靴音が聞こえた。笑い声も届く。

壁一枚隔てた部屋の中は沈黙だけが在った。何も言えない。何を言えば良いのか分からない。何かを言う必要もない。ただこの沈黙を共有していることが、雄吉が歩んできた半生に寄り添おうとしている気持ちの現れなのだ。

 雄吉の妹、恵子はただ兄を見つめている。ときどき茶をすする音が聞こえる。

窓ガラスを透す陽射しが僅かずつ傾いて、雄吉の顔全体を照らし始めた。雄吉は正座の姿勢を崩さず端然と座っている。陽は傾きを増していく。雄吉の身体を朱に染めあげて、それから忍び寄る夕闇に座を渡すべく身を引いていった。

「よう洗いざらい話してくださったのう」

 サキが労わるように言った。

「あたしらを信用しての話じゃで。有り難く聞いたでの」

「そうや。ほんに感動したで」

 それぞれが雄吉に応える。

「お天道さまのお導きじゃったんやろな。雄吉さんはここに戻ってくると定められておったのかもしれん。雄吉さん、その更生保護の方に連絡せにゃならんで。それで初めてけじめがつく、ゆうもんや」

 あたしは、雄吉を正面から見据えて言った。

「そうします。思い立ったら忘れんうちに」と言いながら、雄吉は腰のポケットから、メモ帳と先が丸まった短い鉛筆を取り出した。

「更正保護の方には、思い出したように居所と簡単な近況報告はしておったがの。今度こそは詳しゅう書きたい。ええと、神崎裕二さんに手紙を書く、と。帰りに切手を買います。袋を切って便箋がわりにして手紙を書きます」

 ともとも・くらぶの全員が拍手をした。

「兄さん、手紙を書くなら、あたしのシャーペンを貸すで。その鉛筆は書きにくいやろう。使い切っとらん鉛筆がようけあるし、息子が小学生の頃使うた鉛筆削りもあるで使うてや。便箋と封筒は、真実を話す勇気をもって帰ってきた兄さんへのお祝いじゃ。帰りに一緒に選びましょうで」

 恵子の申し出を受けて、雄吉はとろけそうな笑顔になった。

「雄吉さん、ええ妹さんをもって幸せじゃな」

 メンバーのそれぞれが、お互いに笑顔を向けあって雄吉に祝福の気持ちを贈っている。


間もなく雄吉は特養を出た。生活保護を受けて家賃二万円のアパートに住むことになった。風呂敷で包んだ僅かな衣類だけを持って引っ越すと聞いて、メンバーは雄吉の新しい住まいの掃除など手伝いがてら、ようすを知りたいと連れだって出かけた。

 アパートのドアを開くと、半畳の土間の左側に台所、右側はトイレと浴室が一緒になったユニットバスがあり、奥に南に面した六畳と四畳半の部屋がある。

「初めて手にした生活保護費でリサイクルショップに行きましての。鍋と皿、茶碗、汁椀、皿を二個ずつと、それを入れる小さな食器棚とちゃぶ台を買うたんですよ」

 雄吉は顔をほころばせた。

「兄さんたちが来たときのために、家に寝具を三式用意したままや。自分のものとして一式持っていってほしい」

 恵子が言う。

「それは今夜から助かるで。わしがすぐにも運ぶとしよう」

 大輔が申しでた。

「雄吉さんが戻ったときに、と恵子さんが揃えておいた布団や。喜んで使うたらええ」

 あたしは言ってから、大きな紙袋を雄吉に差しだした。

「これは雄吉さんにとって何度目かの出発のお祝いじゃで。大したものは入っとらんが、気持ちは充分入れてあるで」

「そんなことをしてもろうては」

 雄吉は躊躇う素振りを見せた。

「石鹸、歯磨き、歯ブラシ、タオル、布巾や箒などの細かな生活品ばかりでな。それこそ気兼ねのう使えるものばかりじゃで」

「しかも、うちにあったものばかりで買うたものはないでな」

 タマ江とサキが笑いながら付け加えた。

アパートからあたしの家に戻ると、皆脚を投げ出した。お茶を飲みながら、これからの雄吉の暮らしについてあれこれと話が弾む。話題の中心にいる雄吉と、それを見守る恵子の笑顔は眩しいほどだ。

「明日は、ともとも・くらぶの定休日や。皆さんゆるりとされてな。雄吉さんも時間がたっぷりあるで、手紙が書けるやもしれませんな。では、お開きといたしましょう」

 一段落したのを見計らって、あたしは挨拶をした。

「小枝子さんは、明日の予定はどうなっとるんや」

玄関で、サキがスニーカーに足を突っこみながら訊く。

「久しぶりに娘が来ますで、福山まで買い物に行こうかと思っとります。花美は二泊するゆうていますで。親子の話もせにゃ、なあ」

「そりゃあ、ええこっちゃ。あたしは、雄吉さんの話で興奮してしもうて。ちょっと疲れたで、寝の日じゃな」

サキは手を振って形ばかりの門から出ていった。






      3章  隣の世でも連理の縁(えにし)


              1


 その日から会場になった家の主、ハルが声をあげる。

「夫の葬儀以来、こんなにたくさんのお客さんをお迎えしたことがないでのう。行き届かんことが多いと思いますが、そのときは遠慮のう言うてくだされ」

「おやまあ、ハルさん、なかなか立派なご挨拶じゃで」

 さっそく浩市が茶々を入れる。どっと笑い声がおきた。

「こんな賑やかな雰囲気の場で、申し訳ないがのう」

 笑いが鎮まると、佐太郎はおもむろに口を開いた。

「どうしたんじゃ。何かあったんか」

 眼が佐太郎に集まった。

「報告することがありましてな」

 場は静まった。

「歳のせいか、がんの進みはえろうゆっくりですがの、それでも痛みが出てきてな」

 妻のりくが後を引き取った。胸が締めつけらる。

「病院でのうて家で死にたいと思うて、町田先生に相談しましたで」

 部屋の中はしんとなった。密やかな呼吸の音だけがある。

「夜になって痛みが出るとどうにもしようがない。つい、うちの人を起こしてしもうてな。この人は昼間寝るから気にせんでええと言うてくれるが、それでは申し訳ないで先生に相談したんや。先生は毎日夜七時に往診して、痛み止めと眠れるように点滴をしましょうと言うてくださった。自分が来れんときは看護師を寄越すと言うてくれてな。ひどく安心したところや。夫より二年歳上のあたしが逝くのは順当やけど、やはり寂しゅうてな。一緒に連れて行きとうてな。命が果てるのは惜しいとは思わんが、夫や仲間の皆さんと別れるのがつらいで」

 りくは膝に線を落とした。

「それはお悩みじゃろう。じゃがのう、夫婦はどちらかが先に逝くもんや。心中でもせん限り一緒は無理や。りくさんのところは、円満でええなあ。」

 ややあってハルが口を開いた。

「で、どうですか。体調は」

 雰囲気を変えるようにタマ江がりくに尋ねた。

「おかげさんでな。一日一日大事に生きております。ここに二人で来るのが何より楽しみでな」

「一日でも長う、来てくだされや」

 サキはりくを心から思う声で応えた。

「有り難う。わしもそう願うておる。りくが苦しむのは見とられん。強い薬でもええから、ただ痛くないようにしてほしい、と町田先生に頼んだ。先生は黙ってうなずいておられた」

 佐太郎は泣きそうだ。

「静かに逝ければそれでええんです。この人もおいおい来るでしょうから」

 りくはえくぼを見せて夫を見る。

「りくさん、佐太郎さんが来たときに、すぐ見つけ出せるように何か持っていきなされ」

 タマ江が勧める。

「ええ、昔、昔にこの人からもらった手紙がありますで、それを柩に入れてもらうよう頼んであります」

「それはええ考えじゃのう。うちでもそうすれば良かった」

 ハルは視線を遠くへ投げる。

「ハルさん、あの世に逝ったらな、これからは仲よう暮らそうで、と言えばそれで充分や。言葉が大事やで。言葉ひとつで相手の気持ちは雲泥の差になる」

 浩市が言った。

「さすが、気遣いの浩市さんや」

 サキは感心している。

「ひと一人を幸せにするのは難しいもんや。お互いの努力が必要やで」

 浩市は真面目な顔で言った。

「人は誰もが完璧ではないでの。お互いを思いやる気持ちを言葉や行動で示して重ねていかねばの。それを受け取った者の胸に残る。逝かれた者はそれを強い支えにして、それからを生きていくんじゃ」

 少し恥ずかしかったが、あたしは口にして言い切った。

「小枝子さんは今も幸せ、いうことやな」

 タマ江の応えを受けて、あたしはうなずいた。

「そうや。目に見えないものが大事や」

 光男の面影を求めて視線を宙に見据えた。

「今日は若い人からも力をもろうた。ええ日やったのう、りく」

 佐太郎は笑みを浮かべて妻を見た。

「ここはよろず相談所や。心の相談もできて安心したで」

 りくも夫を見て微笑んだ。

「ちょっと早いが、今日はこれで失礼させていただこうかの」

 佐太郎はりくに問うた。

「いやいや、良ければ、布団を敷きますで。りくさんは横になって、皆さんの声を聞いてくだされや。無理に、とは言わん。気が紛れるかと思うがの」

 ハルの申し出に、居合わせた連中は揃って顔を見合わせる。

「ハルさん、よう気が利くのう。感心したで」

 サキが持ちあげた。

「そう言われるのは、初めてじゃ。えろう照れくさい」

 ハルは両肩をあげて、その中に首を入れて笑う。

「照れくさいなんて言うて。ハルさんらしゅうもないで、なあ」

 りくが返した。暖かい笑みが皆の口元を緩くした。

「それでは、お言葉に甘えさせていただいてもよろしいかの」

「ええで、ええで。もちろんやで」

 大輔が立ちあがって、ハルと一緒に奥から布団一式を持ってきた。

「ハルがハリきって、じゃ」

 大輔の駄洒落に空気が温かく揺れる。

一週間ほど、りくは夫に手を引かれて現れたが、一日一日と力が萎えていくのは誰の目にも明らかだった。

「皆さーん、いますかいのう」

 佐太郎の声だ。

「おや、お一人か?」

 サキが尋ねた。

「りくはあちこち痛いで後から行く、言うてな。先に出てきたんじゃが、やはり気になる。皆さんの顔だけ見てすぐ戻るで」

「お茶の一杯はどうや」

 ハルが勧めたが佐太郎は首を振った。

「痛がっておるでの、茶をいただく気にならん。お気持ちはありがたいが、すまんのう」

「お茶などいつでも飲める。落ち着いたらお二人でおいでなされ。待っとるで」

 タマ江は心配そうな表情を見せながらも励ました。

 佐太郎は軽く頭を下げると、杖をつきながら早足で帰って行った。あたしたちは総出で佐太郎の後ろ姿を見送った。

「りくさん、だいじょうぶやろか」

 ハルはつぶやく。浩市は無言で首を振った。

 夏至を過ぎて半月、夕方の四時を過ぎてもまだ日は明るいが、陽射しは傾き始める。 

「もう解散の時間じゃろうと思いましたがの」

 佐太郎が現れた。

「おや、まあ、で、りくさんは?」

 同時に声があがった。

「皆さんに是非お会いしたいと言い続けておりますで、荷車に布団ごと寝かせて連れてきました」

 佐太郎は静かに告げた。皆は荷車の上で布団にくるまれているりくに近づき、二人が頭と首を持ち、二人はそれぞれ両肩の下に手を置き、また二人が腰を支え、一人は脚を持った。それぞれの足元に注意を払いながら家の中に運びこんだ。テーブルの脇に布団を置いて整える。りくの意識ははっきりしている。順に周りを見やって眼差しを当て、挨拶している。

「りくさん、どうや」

「お会いできて良かったで」

 皆がりくに慈愛の言葉をかけた。

「もう一度会いたいと思うてな」

 か細い声で応える。目が窪んでいた。青、灰色、黄色の絵の具を入念にかき混ぜてできあがった濃い隈が、目の周りを囲んでいた。佐太郎はタオルに包んだ吸呑を取り出すと、茶を入れてりくの口元に当てる。

「今朝からそればかり言うておったでな。どうしても皆さんの顔を見せてやらねばと思うて」

 佐太郎はりくの頬を両手で挟み「なあ、そうやったの」と言った。

「それならこっちから行ったほうが良かったかいの」

「電話をくれれば飛んでいったで」

「あたしらが行くと、痛みを我慢するやろうか、眠いところへ押しかけたらつらいやろうかなどと思うてな。行動せんまま心配ばかりしておったで」

 サキとハルの後を引き取ったあたしは、しどろもどろで声にした。衰えきったりくの姿は、病の残酷さを見せつけている。りくの手をそっと握る。骨の連なりに直接触れる。骨の上に薄い皮膚が乗っているだけだ。若い頃は水蜜桃のような肌で、耳元の産毛がたまらないと男たちの間で評判だったと聞いていたのに。移動したからか、りくは息を弾ませていた。ようやく呼吸が整ってきた。微かな笑みを唇の端に置いている。

「りくさんが笑うておるで」

「のう、りくは幸せやな」

 佐太郎はりくの額に掌を置いた。

 りくはうなずき、微笑んで目を閉じた。仲間と一緒なので安心している。あたしはりくの手の甲に自分の掌を当てた。この冷たさは、とカンが知らせる。確信と同時にそれを否定したい気持ちがあたしを苦しくさせた。

「あたし一人では手にあまるで、一度皆に相談したいと思うとる話があってな。その話をしてもええやろうか。ちょうど我が家が当番になったもんで、ええ機会やと思うてな」

 ハルが見廻して言う。心なしか身体から発散されるいつもの元気印のオーラが少ないように見える。

「りくも聞きたいそうじゃ」

 佐太郎はりくの口に耳を当ててから、ハルに伝えた。

「では、話させてもらうで」

 ハルは、よほどその話を思いつめていたのか張り切った声になる。

「あたしは大失敗をしてしもうた」

「ハルさん、もちっと小さな声でお願いしますで」

 タマ江がそっと言う。ハルはりくの状態に気づいて口を閉じた。

「声を小さくするで。悪かったの」

 身を縮めた。

「いや、構わん、と言うとるようじゃ。はっきりとはせんがの」

 佐太郎は穏やかに言ったが、ハルは黙ってしまった。


                 2


 鎮まった空間、そこは八畳の広さしかないが、壁、屋根、床、窓を包む果てしない大気の中に在る。その広がりへと、魂が身を離れて宙(そら)へ向かおうとしていた。部屋の空気は静寂に支配され、凝縮した命が身体という物体から分離しようとしている。命になったものは、もはや人の目には見えない。けれど気配を感じさせる。魂はゆらゆらと部屋の中を一巡し、並んでいる人たちの頭上をゆっくりと過ぎ、やがて閉じられた窓を抜けて天へと昇っていく。海の底よりも深い沈黙がゆき渡り、、空気もしんとして微動だにしない。

 あたしは飛び跳ねるようにして、座布団から離れた。

「りくさん、りくさん」

 鼻に手を当てる。

「ほんのちょっと前から、一分もなかったかもしれん。息をしとりません」

 佐太郎は口を大きくへの字に曲げ、顔を両手で覆った。

「町田先生に電話するで」

 大輔が慌てて携帯をポケットから取り出した。

 誰もが座っていられなくて、立ち上がってはみたものの、何をどうしたらいいのか分からず右往左往している。

「線香と蝋燭、枕花を用意せねば」

 タマ江が言う。

「いつ何があってもおかしゅうないと思うて、仏具は取り揃えましたで。湯呑やお水を入れる小ぶりのコップ、ご飯を盛る茶碗もいちいち吟味しましてな、通販で取り寄せました。線香立ては淡い紅の入った薄紫の萩焼のものにしました。りくのイメージにぴったりやと思うて、二人で気に入っております。それで、ライターと枕花だけをお願いします」

 佐太郎は覚悟していたのだろう、落ち着いた声音で言った。

「ほな、買うてくる」

 あたしはサンダルに足をいれた。

「転ばんようにな。それからレシートをもろうてな」

 サキの声が追いかけてきた。

「町田先生には、佐太郎さんの家に行っていただくでの」

 タマ江の声も聞こえた。

 枕花とライターを手に入れて戻ってくると、一同は佐太郎を囲んで座っている。

「荷車で家に運ぶとしようで」

 大輔が声を出した。

「布団ごと運んでな。石ころがあると身が痛いじゃろうて」

 浩市は優しかった。佐太郎は、りくの布団を胸の部分から下へとずらした。心臓や肺にかける負担を少しでも減らしたいのだろう。その動作がいかにも自然だった。

 佐太郎の家に着くと、浩市は佐太郎から受け取ったまっさらなシーツを畳に敷いた。皆でりくの身体をその上に移す。布団、枕、毛布を外気に向けて叩き、再度寝具を整える。りくの頭を北に置いてシーツごと静かに動かし寝かせた。

「りく、よう生きたな。あっぱれじゃ」

 佐太郎は髪を撫でながら語りかける。

「町田先生が見えたで」

 大輔が告げる。りくの横に佐太郎が付き添い、他の者は隅に並んだ。

 町田は、ライトを当てて瞳孔を観察し脈や鼓動を確かめ頭を振った。腕に巻いた時計にしっかり目線をやって「十八時五十二分です」と宣告した。

「残念でございました。しかしお見事なことをなさいました」とりくの遺体に手を合わせた。一同も倣って合掌する。

「佐太郎さん」

 町田は呼びかけて一通の白い封筒を差し出した。中から用紙を取り出し「先ほど伝えました時刻を書き入れましたで」と言い、佐太郎に手渡した。佐太郎は恭しく受け取った。

「これは大切なものですから、決して失わないように気いつけてな」

「分かりました」

 佐太郎は自らに念を押すように、もう一度頭を下げた。

「りくさんは満で九十五歳じゃが、母親のお腹に宿ったときからの命じゃけえの。産まれたときが一歳。仏さまの教えによれば、九十七歳じゃ。大そうご立派な人生やった」

  町田は再び手を合わせ、深く頭をさげた。玄関の戸を音をたてずに閉めて、町田は帰っていった。

「一週間ほど前やったか、やはり樹木葬がええか、とりくに訊いたがの」

 皆が佐太郎を見た。

「そうしたら、あんたと一緒がええ、と言うての。樹木葬だったら、あたしは桜であんたは好きなものにすればええ。墓に入れてもろうてもええで。樹木葬と墓に分けるのは身体が引き裂かれるようでつらい。どっちか、あんたが決めて一緒にしてや、と答えておった」

 佐太郎は微笑んだ。二人で交わした言葉を反芻している。そのときの光景が広がって、佐太郎は確かにその中にいる。

 やがて佐太郎は立ちあがった。

「この度は、ほんに皆さんにお世話になりました。りくも皆さんと一緒に最期を過ごさせていただいて、さぞうれしかったろうと思うとります。最期まで意思も言葉も通じて、思いの全てを語り合うことができましたで。わしが言うのも何ですが、妻は立派に生ききってくれました。我が妻ながら敬意を抱いております。先にも申しましたが、終の棲家は一緒がええ、樹木葬でも墓でもええと言うとりましたで、もちっと考えてみます。皆さま、ほんにありがとうございました。二人分の感謝です」

 佐太郎は深く頭を下げた。それから座って畳に頭を付けた。一同は同じようにして「この度はほんにご愁傷さまでございました」と返した。

「まことに大往生やったなあ」

 浩市が感極まったように言う。

「ほんにのう」サキが続ける。

「あたしも直にそちらに逝くでの。ちいっと待っててもらおうかの」

 タマ江は言った。

 家の近くを通る人々の声が侵入してくる。この土地の言葉ではない。ご当地ソングがヒットし、ここを舞台にしたドラマが話題になった。眠るように日々の営みを繰り返していたこの集落に、女性グループや夫婦連れが訪れる。『鞆の浦情話』という演歌を歌った若い女性歌手のファンなのか、若い者も混じっている。その観光客を案内するボランティア、鞆の龍馬というグループもできた。坂本龍馬の隠れ部屋が在り、龍馬が関わった日本丸という船の事件もあったことからこの名が付いたらしい。

 黙りこんでいるあたしたちには、遠慮なく侵入してくる弾んでいる会話や感嘆詞が、まったく意味をなさない音の塊に聞こえた。

手分けして通夜の準備をする。ハルは何も言わずにまめまめしく働いた。

「ここまで生きたご褒美に、という言いようは失礼かもしれんが盛花を用意させてもろう

たで」

 タマ江は小磯に打ち寄せる小波を思わせる静かな口調で告げた。

「それはそれは」

 佐太郎は恐縮している。

「白、紫と淡いピンクの花を取り混ぜてもろうた。白は純粋、紫は気品、ピンクは愛らしさや。りくさんらしいやろ。この取り合わせは、驚くかもしれん。ミツさんの発案やで」

 タマ江は秘密を打ち明けた。

「え、ミツさんがか」

「ようそこまで回復したの」

「そろそろ自分の家に帰ってみようかいの、息子から送ってきた荷物も処分せにゃならん、とつい一週間前に言うたのう」

「そうや。まずは掃除じゃ、と言うて本来のミツさんに戻る気配がしたな」

 ミツを支え続けた暮らしが功を奏してこの言葉を聞いたのを、小さな声で語りあう。

 タマ江は二度、三度深くうなずくと、佐太郎に向き合った。

「ということで、ともとも・くらぶ、として盛花をりくさんにお供えしますで」

 タマ江は丁寧に礼をした。皆も続いた。

 佐太郎の二人の息子、義雄と博司が家族とともに駆けつけてきた。葬儀には鞆の仲間と、横浜に住む長男義雄、山口にいる次男博司とそれぞれの家族によってひっそりと行われた。

「通夜は家族とごく親しい人たちで、りくの思い出話しをしてひと晩を過ごしたいと思うてな。これは、りくの希望やったで」

 佐太郎は挨拶した。

「母さんは間違えたことがない。肩書きや地位には惑わされずにまっすぐ人を見る女性だった。気心の知れた人ばかりなら、泣きたいときは泣ける。義理で挨拶する必要もない。お返しの数を調べる、などという雑用に気持ちが乱されることもない。やっぱり母さんらしいな」

 義雄は素直に母親を褒めたたえた。

「たまに帰ってくれば、よう帰ってきたのう、と両手を広げて喜んでくれた母さんが逝ってしまったなんて信じられないよ。長生きしてくれたおかげで、母さんは死なないんじゃないか、いつまでも生きていてくれると思っていたのになあ」

 甘ったれだったという博司は、六十代の半ばになっても母親を恋しがる。二人の勤務先でも、またその子どもたちの忌引きも一週間認められているというので、佐太郎はできればその間にりくの最期の住処を決めたい、と意見を求めた。

「樹木葬は地球の未来のためにもなる。母さんは孫子(まごこ)のためにもなることを思いついたんだ。素晴らしいよ」

「それに樹木葬は徐々に普及しているね。人間はいずれ土に還るべきだという考えは、共感を呼んでいる。いいんじゃないかな」

 義雄と博司は、母親が樹木葬を希望していたと聞いてその遺志に賛同した。

「父さんが樹木葬に抵抗があるのなら、強いて、とは言わないよ。それに、ここには代々の墓があるから、そこに入るのは簡単だ。どちらでも父さん次第だよ」

「樹木葬が嫌というわけではないがの、墓におるわしの父母、祖父母、ご先祖の方たちに、新入りの妻を守ってほしいとも思えての」

 佐太郎は懊悩の言葉を吐いた。

「僕らはそんなにちょくちょく鞆までは来れない。母さんを守るのは父さんだからさ、父さんが決めるしかないよ。僕らよりも父さんの方が母さんをよく分かっているだろうし」

 息子たちは柔軟に対応する。

「じゃがのう、りくの希望を無視するのは可哀想でのう」

「だったら、お義父さん、気持ちがどちらに傾くか、時間をおいたらどうでしょうか」

 義雄の妻は言った。

「お義母さんの喜びはお義父さんの喜びなのでしょう?すぐにどちらかを選ばなければならない、という必要はないと思うの。そのうちお義父さんの気持ちがどちらかに傾くでしょうよ。そのときを待てばいいんじゃないかしら。お義母さんは、お義父さんがよくよく考えた末で出した答えに賛成なさるはずよ」

「ほんと、そうだわ」

 妻たちは息の合ったところを見せる。

「それがいい。もっともだよ」

 息子たちは妻たちの意見に賛成した。

 二所帯住宅の件で揉めた当時の、若夫婦一家と老夫婦との確執はすっかりきれいに消え去っている。母親の死という事件をきっかけに、家族のつながりが良い方へ転んだ手本を示している。目の前で繰り広げられている自然に流れるやりとりに、あたしたちは目線を当て耳を傾けていた。

「そうしようかのう。そうそう急ぐこともないのう」

 佐太郎は納得したようだ。

「母さんがいなくなって父さんは寂しいだろうから横浜に来たら、と誘うつもりだった。しかし、こんな良いお仲間、ともとも・くらぶだっけ、がいるんじゃな」

 義雄は言い出した。佐太郎は慌てて手を振る。

「それはない、ない。鞆の海から離れては生きていけんで」

「僕らがときどき来るしかないな。博司もそう思うだろう?」

 博司は大きく首を縦に二度振った。

「百まで生きるゆうのが、りくとの約束でな。約束は守るもんじゃけえ」

「母さん、聞いただろう?父さんの心意気をさ。僕たちにとっても故郷の鞆は大事だよ」

 義雄と博司は故郷の鞆を再認識して帰っていった。

  

 葬儀から半月たつと、佐太郎はハルの家に顔を出した。

 表情は沈んでいたが、葬儀を終えてほっとしたのだろう。顔つきは穏やかだった。

「本当はここにりくも連れてきたかったんじゃが、どんなものだかと悩んでしもうてな」

 佐太郎はぼそぼそと言った。

「じゃあ、連れてきなされ。しかし、重うはないか」

 大輔は佐太郎の顔を見つめて答えた。

「実は、壺の中からきれいな骨を二本ばかり取り出してな、痛くないようにガーゼで幾重にも巻いて、りくが好きだったスカーフにくるんでいつも一緒におる。食事はりくの分も作ってな、そのスカーフでくるんだりくと一緒に食べておる。じゃが、結局自分がその分も食べにゃならん。それがつろうてのう」

「佐太郎さん、りくさん一人で留守番は寂しかろうて。連れてきなされ」

 あたしは勧めた。

「ええやろうか。わしは何かおかしゅうなっとるかいの」

 佐太郎は周りに目を向ける。

「いや、そんなことはないで。テレビで見たんじゃが、亡くなった人と一緒に居たい人たちから注文を受けて、骨のかけらを入れるペンダントを造ったり、粉にして固めて指輪にする業者がおるんやて」

「そんなこともある時代なんやな」

「どうやらあの世とこの世の境目がぼやけてきておる気がするの」

 あたしとサキは明るい口調で受けとめた。

 佐太郎は、すぐに家に戻り例のスカーフをタオルで包んで持ってきた。

「りくさん、お茶をどうぞ」

 スカーフに包まれたものの前に、あたしは熱い茶をたっぷり注いだ湯呑を置いた。

「りくさん、ようこそ来なさった」

 それぞれが口にした。

 解散になると、佐太郎はスカーフをタオルでくるんで、ジャンパーの内ポケットに入れた。ジャンパーの上から確かめるようにそっと手を置いた。

 二週間も経ったころ、あたしは、佐太郎の目の前にスカーフにくるまれたりくがいないのに気付いた。

「りくさんは留守番かいの」

 佐太郎に尋ねた。

「死んだ身で、毎日出かけるのも疲れるやろうと思うてな。それにもし、わしが転んでりくを傷つけたらいかん。で一番安全なところ、壺の中にそっと返したで。りくにとって骨を抜かれておるのは痛いかもしれん、とも考えたでな。わしも少々冷静になってきた。つらいのは変わらんがの」

「それは分かるで」

 連れ合いを亡くした者たちは口を揃えて応えた。

「佐太郎さん、みんな同じや、仲間やでの」

「ありがとう」

 佐太郎の目は潤む。 

「運命というやつには逆えんな。じゃがここに我らが集まっておるのは、天のお恵みや」

 佐太郎は言った後、突然泣き出した。

「本当は生きておるりくが、ずっと一緒だったらえかった。骨になってしもうて、悲しゅうて悲しゅうてならん。どうしてこうゆうことになったのか分からんで」

 佐太郎は手の甲で目をこすりながら、吠えるように泣き続ける。

「ほんにそうやのう。佐太郎さん、やっと泣けるようになったんやな。気持ちがほぐれてきたんや。悲しすぎて、つらすぎて苦しすぎて、お面を被っとらんとおられんやったんや」

 タマ江は佐太郎の手を握った。

「そうや。苦しすぎるときは、神様が頭をぼーっとさせて苦しみに直面せんようにしなさる。心が壊れんようになさるとあたしも知ったで。あまりにも悲しいと胸の中はしんとして、涙の一粒も出んもんや」

 あたしは涙声になる。

「りくさんのためにいっぱい泣けるのは佐太郎さんや。ほかの誰よりも泣いてやってや。りくさんがいなくなったのをそんなに悲しむ人がおらなんだら、りくさんも寂しかろうで」

 サキも亡き夫を想ってだろう、しみじみと言った。

 

 七月下旬、梅雨が明けると高温注意報が出るほどの暑い日が続いている。

 連日の猛暑に日本列島は喘いでいる。熱中症での死亡や入院騒ぎが毎日のように報道されている。尋常ではない状態だ。

鞆も例外ではない。朝凪、夕凪のときには微風もない。ぴたりと風が止まる。うだるような暑さだ。

「こう暑うては、我が身大事に暮らすしかないで。朝早く、とか夕方などお互いに家から顔を出せば、お互いの無事を確かめられる。何とか凌いでいくとしようで」

「エアコンをうまく使うてな。命が第一や。電気代は第二。規則正しく食べて寝て、を繰り返してな」

「そうじゃ、盆の頃には日も多少短くなるで、ちょっとは涼しゅうなる。それまでは特に無理せんようにな」

 真夏の心得を話し合う。

「そういえば、佐太郎さんとこは新盆じゃ。皆で寄せていただこうかの」

「それがええ。佐太郎さんはどうじゃ」

「お気持ちは有り難い。皆さんのお顔を見て、りくも喜ぶじゃろう」

「迎え盆の火を焚くのは夕方じゃ。集まろうで」

「そうや、迎え火は皆で焚いてりくさんをお迎えしようで」

「わしらも、りくさんに会いたいでの」

「盆の道具を手分けして作ろうで」

「それでは、誰が何を用意するか、話し合いましょうで」

 ハルが言い出して相談が始まった。

 作業をしながらハルが口にした。

「実は、ほんに困っとることがあるんやけど」

 ぼそぼそとつぶやく。

「何や。それは?」

「確か、ハルさんは以前もそんなことを言うておったな」

 サキに続けてあたしも言った。

「ハルさんにしては、弱気な言いようやな」

「気になるのう」

 皆がハルを注目した。

「明日からは、ハルさんの悩みを聞きましょうで」

「それについては、時間を変更して三時から六時としましょうかの」

「それがええ。一時から四時は熱いさなかじゃ」

「では、そういうことで。よろしゅう頼みますで」

 ハルはようやく眉を開いた。


                3


 翌日、三時前には全員がそろった。

「年寄りはせっかちや。待ちきれんで」

 顔を見合わせて笑う。

「あたしの話を始めてもええかの」

 ハルが真剣な表情で切り出した。

「あたしはな、いつでも話せるように準備しておった。メモやら写真も揃えておいたでな」

 意気込みが伝わる。

「すぐに始めてもええで」

「ちょっと長いうえに複雑でな。何回かに分けて話すで。ややこしいんや」

「十回でも二十回でもちょっとずつのほうが、あたしらにも分かりやすい」

「そうや、急ぐことはないで。あたしらの脳のペースでやってもらいましょうで」

 サキがのんびりとした言いようで、タマ江の言葉に続いた。ハルは見渡して、誰もがこれから始まる話を期待していると見たようだ。

「実はの」

 ハルは少し間をおいた。

「小学校時代からの友人で、みっちゃんゆうのがおってな。このわがままあたしとなぜか気が合うて、ずっと付き合うておる」

「ハルさんは自分がわがままだと承知しておったんか」

 浩市が茶化したので、ひとしきり笑い声が続いた。ハルはそれには構わず間を置かずに続ける。

「みっちゃんは、あたしが夫を亡くして沈んでおるのを見て、身体を動かしたほうがええ、一緒に働こうで、と誘ってくれての。『太陽の家』ゆう老人ホームで働いておった。大柴村にあるホームや。そのホームの壁に張った広告の目が留まってな。住宅地を売り出し中、とあった」

 ハルは淀みなく話す。

「『一区画買うかのう』と言うたら、みっちゃんは『この広告には神奈川県、とあるで。遠過ぎるで』と不思議そうに言うた。『名古屋の娘に残してやろうかと思うてな』と答えたら、『ハルちゃんの好きにすればええ』と言うて、あとは何も言わなんだ」

「それが、ハルさんと仲良ういく秘訣やな」

 大輔が妙に納得している。

「で、買うたんかいの?」

 浩市が尋ねた。

「ああ、買うことにしたで」

「いくらや?」

 あたしも興味が沸いて、不躾な質問と承知しながら訊かずにいられなかった。

「一千万円やった」

「ほう、大金やなあ」

「ハルさん、豪儀なもんや」

「そうや、一千万をポンと払うつもりやったんやな」

「娘のためや」

 ハルは胸を張った。

「そうじゃ。親は子のためには、なけなしの金も払うてしまうで。いや、ハルさんがなけなしの金を払うた、とゆうのではないがの」

「わしの場合は息子が大学へ行きたいと言うたとき、有り金をはたいてしもうたで」

「ハルさんも立派な親じゃ」

 サキや浩市、佐太郎たちは好き勝手を言っている。

「あたしの話に戻すで、ええか」

 ハルが金切り声をあげたので、静かになった。

「娘にもその所番地を知らせて一度見に行ってくれと頼んだんや。そしたら娘は何でそんなところに土地を買うんや。母さんは行かれんやろうに、と言うたで。あんたにやろうかと思うてな、と答えた」

「そしたら?」

 同時に皆が問うた。ミツも身を乗り出している。

「風向きが変わってな。箱根に近いから別荘替わりにもなるな、と言いおった。それはええ話や、と返したで」

 一斉にため息が漏れる。

「現金な娘さんじゃ。いや、若い人は生活が厳しいじゃろうで、そう応えるのは想像できるで」

「若い者は、親が実際に持っとる以上に金があると錯覚しておるようじゃの」

 浩市とサキは同時に言った。

「まことにそうやった。娘のそのひと言を聞いたら、早くせんと売れてしまう、とあたしの気持ちも動いてな。その日のうちに広島のみどり不動産に電話を入れて、南と東側に道路がある②という区画の土地を買いたいと申しこんだ」 

 ハルはうつむいて湯呑の中の茶を揺らしている。何やら思いあぐねているらしい。皆は茶を注ぎ足したり、口に含んだりしてハルの発言を待った。

「広島のみどり不動産から不動産取得に必要な書類一式が速達で来ての。急がにゃならんと思うて、福山の三友さんゆう司法書士のところに行って、書き方を教えてもろうて戸籍抄本も添えて、こちらからも速達で送り返したで」

「三友さん?」

 聞きなれない名前だったので、あたしは尋ねた。

「みっちゃんに相談したら、福山市の街中に三友さんゆう司法書士の事務所があるで。三友さんはなかなか立派な方や、と言うたでな」

「で、手応えはあったんかいな」

 大輔が身を乗り出す。

「あったで」

 ハルは膝に目線を落とし小声になった。

「素早い反応で、それもおかしかったのう」

 相変わらず湯呑に掌を当てている。

「無理に話さんでもええよ」

 タマ江が口を挟んだ。

「いや、言わんと胸の中に溜まっておるものがそのままじゃ。話せばちっとは気が晴れると思うての」

 ハルは自らを鼓舞した。

 タマ江もやかんから茶を注いで口元に運んだ。

「小林社長からな」

 言いだしたハルに視線が向けられる。

「すぐに電話があった。その土地は好評につき売れてしもうたです。その西隣にもうひと区画ありますが、そちらはいかがでしょうかいの、と言うた」

 ハルはまた手元に目視線を落とす。

「みどり不動産は広島市なのに、箱根に近い土地を売り出す、というのはどんな繋がりがあったんや」

 サキが問うた。

「あたしもな、それが不思議で訊いたんや」

「すると?」

 いっせいにハルの顔を覗きこむ。

「『太陽の家』の理事長に小林社長が頼みこんでな、うちの広告を貼らせてもろうた、という答えじゃった。老人ホームに入居しておる人たちで、孫子のために土地を買おうかと思う人がおるらしい。日本全国の分譲地や中古の建物がネットで検索できる時代や。この辺は空き地があっても、買う人がおらんで商売にならん。売り物になりそうなものを選んで、これぞと思うものをお売りしとります。この不景気には苦労しとります、と笑っておった」

 ハルはひと息ついた。

「そうゆうことなんやな。時代はどんどん進むのう」

 あたしは感心しながらも、それで良いのかとも疑問に思う。 

「じゃが、社長からはその後何の音沙汰もなかったで。不思議に思うてな。ようすを訊いてみようかと思うとったところに、娘から電話が入っての」

 ハルは話し始めたときより、トーンが落ちてきた。

「母さんが言ったとこに来とるが、ここにはもう誰かが住んでおる。洗濯物がひらひらしておって、こまい子たちが子供用の自転車を乗り廻して遊んでおるで。みごとに騙されたで、と言いおった」

「そりゃあ、大変なこっちゃで」

 騒ぎが大きくなった。

「すると、その土地の名義は、既にまったく知らんお人のものになっておるんかいの」

サキは言ってハルの湯呑に茶を注いだ。ハルはすぐに手を伸ばして茶を飲んだ。サキはまた注いだ。

「ありがとさん」

礼を言った。ハルが感謝するのを初めて聞いた。誰もが気づいてハルを見た。本人はそうとは知らず、視線を集めているのは自分の話の故だと思ったらしく、「そいでな」と続ける。

「慌ててみどり不動産に電話をしたらな、お宅より早くに代金を降りこんでローンも組んだ方がいましたで。わしらは商売をやっとります。金を先に払うた方から順になりますと言うたんや。社長は、わざとのようにひとつ咳をしてな」

 そのときを思い返しているのか苦い笑いが、ハルの口元にあった。

「その土地は大変好評でしたよ。重ねて言いますが考えてくださいよ。一箇所の売地に何人もアクセスがあったら、一番先に代金を払うた人に売るのが道理ってもんですがな。契約書を取り交わすのも大事ですが、やはり金を振りこんでもらわんと、な。じゃが、もう一件、先の土地の西隣がまだ空いております。お安くしますで」

「結構面倒なことになってきおったな」

 あたしは腑に落ちない。向こうのペースに巻きこまれている感じだ。金を性急に求めるのはクサクないか?

「なぜ安うなるんや、と訊いたんや。あたしも疑い深くなっておったでの」

「で、何か理由があったんか」

「西隣やで、朝日が差す時間が先の家より短かくなるけんの、と答えたで。それは納得できたでな。いくら安うなるんですかと訊いたら、本体は百万安うなりますで九百万、それに消費税をプラスして九百七十二万円ですと言うた。現場の写真を送ってくださいと頼んだら、前と同じように売買契約書と写真が速達で送られてきた。写真を見ると、どこにでもありそうな住宅用の空き地やった。売地と看板が立っておった。先の住所と同じで字(あざ)の後の数字がひとつ多い三十五やった。前のは三十四やったで」

 ハルはそのときをいちいち検討するように、言葉の運びを遅くした。

「字とは田舎のほうじゃの」

 タマ江が言う。

「郵便が届きましたで見させてもらいましたと社長に言うて、すぐに郵便局から九百七十二万円振りこんでの。娘にできるだけ早うに見に行ってもらいたいと頼んだ」

 ハルの口調はまた一段と遅くなった。あまり話したくない内容になってきたのだろう。

 これからが峠だと、あたしは察した。

「ハルさん、大金をよう払うたのう」

「娘のためや」

 ハルは再度同じ言葉を口にした。

「娘さんは日を置かずに現場に行ったんかいの」

 富江が尋ねる。

「娘夫婦は二人とも働いておるで、電話をした翌日の土曜日に見に行ってくれたで」

 話が止まる。

「どうしたんや?」

「また、洗濯物がひらひらしておったんじゃなかろうの?」

 大輔と佐太郎は畳みかけるように尋ねた。

「洗濯物はひらひらしとらんやったが、若い夫婦とこまい男の子がいてな、子どもはその更地の中を走り廻っとったそうじゃ。若夫婦のほうは、同じ作業服を着た初老と中年の男と一諸に図面を見ながら何やら相談しているふうやった、と言うてきた」

「何や、それは」

「場所を間違えたのと違うんやないか?」

 サキもタマ江も眉を寄せる。

「娘夫婦も何やおかしいと思うて、ここは神奈川県南足柄市北山町三丁目大字美山字三十五ではないですか?と訊いたら、そうですよ、しかしそれが何か?と問い返されての。娘はびっくりしてその場から電話を寄こしたで」

 ハルはそのときのショックを思い起こしているらしい。目を固く閉じて俯いている。皆は暗黙のうちに、話が始まるまで待つと決めて静かに茶をすすっていた。

「でな、どう考えても納得いかん。腹が立って部屋の中をぐるぐる歩き廻っておったが、やはり抗議せにゃ前に進まん、と思うてみどり不動産に電話をしたんや。けど社長がおらんで、事務の若いのが私には分かりかねます、と繰り返すばかりでな。まったくの役立たずじゃったが、しつこく電話をかけてやっと社長を掴まえた」

「納得のいく理由が、その二件目にもあったんかいの」

「二件目も金の振込の問題やったんかの」

 サキや浩市は膝立ちになってハルを質問攻めにする。

「で、社長は何と言うたんじゃ」

 あたしがハルの眼を覗きこむと、ハルは再び激しくしゃべりだした。

「その客は、箱根に近い場所に一軒分の土地が欲しい、とネットで検索していたらウチの物件を見つけそうじゃ。その場で内金として百万円をネットバンクから払いこまれましての。こっちは、断るわけにはいかんでしょう。お宅からうちの口座に振りこまれたのは、月曜日の朝一に入金されておりましたがの。郵便局などの金融関係は土日はお休みじゃでのう。申し訳ないが、と言うんじゃ」

「腑に落ちんこっちゃ。我々年寄りたちネット難民は今の流れにはよう付いていかれんわ」

「いろいろな生き方、やり方があってええ、とゆうのが住みやすい世の中と思うがの」

「ほんに、世間は弱い者に冷たいのう」

「いいや、弱音を吐いたらいかん。若い者を味方につけることや。現在の流れに食いついていく方法を考えねばならんで」

 ともとも・くらぶのメンバーは燃えあがっていく。

「ちょっと、待ちいな。あたしの話やで」

 ハルは苛立ちを隠さない。

「おお、そうやった」

「横道に逸れてしもうてすまんかったの」

「では、続きを聞かせていただこうか.」

 一同はとりあえず聞く態勢になった。

「実はもう一件物件があります。同じ南足柄市北山町ですがの、と社長は言いだしたで。あたしは、もう結構じゃ。二回もこんな思いをさせられたのは、うちとお宅は縁がないというこっちゃ。話は打ち切りじゃ、と言うたんじゃが、まあ、話だけでも聞いてくだされ、と相手も食い下がってきおっての」

「で、今度はどんな話や?」

 あたしは、ハルの気持ちを思いながら言葉をかけた。

「ここは、先の話のところより少しばかし山にかかりますで、坪あたり三十万ですが、格安といたしまして、坪二十万にしますよ。四十坪ですから八百万です。消費税はサービスいたします。たったの八百万ですよ。山寄りとはいえ、前のふたつの物件と同じ神奈川県南足柄市北山町に在りましての、まあ他にこんなところは絶対にありませんで、と何度も何度も強調してな」

「何で、三分のニの値段になるんかいの?と尋ねたら、お商売ですけん、お客様に不愉快な思いをさせて終わり、では申し訳ないでの。まことにすんませんでした、と答えたで」

「一度関係ができた客を手放しとうないんやな」

「そうや、どうしても掴まえておきたいんじゃろうて」

「社長には相手に食らいついて離さんゆう迫力があったんやろう」

 ざわざわと憶測が飛び交う。居合わせた者たちは疑いが半分以上だ。

「何回も、申し訳なかった、すみませんでした、を繰り返すもんで、その態度を誠意と勘違いしてしもうた。ほんに悔しいで」

 ハルは憤懣やるかたない、といった顔つきでむくれている。ハルの心情を思いやって誰もが苦い顔になる。しかし、ハルの話は核心へと近づいてる。皆は息を詰めてまばたきもしない。

「とうとう負けて承諾の言葉を吐いてしもうた。また三友さんに助けてもろうて売買契約書を書いた。金は先に振りこんだのを当ててもらいたい、余剰金は早く返金してもらいたいと強い調子で書いた。その場にいた三友さんに電話に出てもろうて、二回目の物件の際に払った金で今回の物件の支払いに当てる旨と、差額の返金は至急振りこむことを三友さんに確認してもらったで」

「ほう、慎重に、しかも素早かったんやな」

 佐太郎が感心している。

「娘に連絡してな、できるだけ早うその場所に行って、目で確かめてもらいたいと頼んだで。娘も以前のことがあったで翌日の日曜日にうちの人と行ってくる、と言ってな。娘の返事を待てば良かった。何とも口惜しいで」

「口惜しい、とは何でや」

「三件目の話は順調に進んだんやないか」

 佐太郎と大輔は質問した。ハルはうなずく。

「その気でいたんや」

「その気でいた、というのは話は違うたんか」

 ハルは肩を落とした

「娘が、娘がな、電話をかけてきて叫んだんじゃ。母さんが買ったのは土地ではなかった。池じゃ、池じゃ、とな」

 一同は絶句した。



       4章 ともとも・くらぶ総力戦


              1


 八月、会場は雄吉のアパートに替わった。雄吉は生活保護を受けているので、長兄や妹の恵子の夫である義兄に経済的負担をかけずに済んでいる。それで義兄との関係も悪くない、と恵子から聞いた。

 寺の敷地に沿ってひと周りしている路地に、雄吉が借りたアパートが建っている。二階建ての木造だ。入口から一番奥が雄吉の部屋だ。ちょうど寺の裏手になる。

 集まりがある前夜、雄吉と恵子は連れ立って一階の二部屋、二階の三部屋を訪れ挨拶に行ったと報告した。

「明日からひと月の間、老人たちの会合が週に五日か六日、昼間の三時頃から三時間近くありますで。ご迷惑をかけんように心がけますで、よろしゅう頼みます、と言うてきた」

「そりゃ、気が利いたことをなさって。よう思いつかれた」

 あたしは兄妹が、ひとつ屋根の下に住む人たちに示した配慮に快い温かさを覚えた。

「形ばかりの熨斗紙にくるんだタオル一枚を差し出すと、誰もが戸惑う顔つきになって、そりゃあ、何の集まりで?と訊かれました。連れ合いに先立たれた一人暮らしの者が多いんじゃが、年寄りが一人でぼうっと家の中におるのはつまらんし、ますます呆けてしまうで、集まって茶飲み話をする会です」

 雄吉がにこやかに説明したという。

「それはええのう、と好意的な表情を返した人がほとんどやった。わしはアパートの人たちと、親しゅう話をしたことがなかったで、知り合いになるいい機会になったで」

 雄吉はうれしそうだった。

「ともとも・くらぶ、ゆうてな。あたしとこの人は兄と妹じゃが、最近メンバーに入れてもろうてな」

 恵子が自己紹介がてら、話を補足したという。

「このアパートにも一人暮らしの婆さんが二人おる。あんたさんと同じ一階や。その二人はたまたま入院中じゃが、退院したら話しておくでな。あたしも、爺さんの介護で忙しゅうしておるが、そのうち入れてもらいたいの」

 そう言った婆さんは片目をつむり、奥をそっと指差して言ったそうだ。

「ご苦労さんじゃったの」

メンバーたちは、雄吉と恵子に拍手を送った。いつものように湯呑を手にして、小魚の干物の欠片を肴にして茶を飲む。市場に出す規格に適さなかったものだ。が、その朝採れたものだから売る物よりも旨い。


 雄吉がにこにこして手を叩く。大柄な男なので手も厚く大きく、手を打つたびに際立った音が響く。

「では、ハルさんの続きじゃの」

 雄吉は開会を告げた。一同は盛大な拍手をした。

「ハルさん。どうぞ次に進みなされ」

 浩市がハルを促した。

「どこまで話したかのう」

 ハルは突然振られて当惑している。

「神奈川に買うた土地が実は池やった、と覚えておるがの」

 佐太郎がハルの気分を害しないように穏やかに言う。

「そうや。小林社長が何度も勧めた、とハルさんは言いおったで」

 タマ江は続けた。

「まことにそうや。小林社長はいつも隙間のない言動で責め立てるように言うんじゃ。考える間を与えんようにな。こっちはおかしいとも思えんかった。まったく騙されたほうがアホやったんや」

「ハルさん、何で乗ってしもうたんや、そんな話に」

 雄吉が割って入ってきた。

「向こうが上手(うわて)やったんじゃ。ハルさんは素人や。無理ないで」

 あたしはハルを刺激しないように気を配った。

「何で土地が池になったのか納得いかんで、三友さんの事務所にとんで行った。調べてもろうたら、確かにその住所は池やった」

「三友さんに調べてもろうてから、返事をすればえかったのう」

 サキは言う。

「小林はそう考える隙も与えん勢いやった、と言うたやろう。覚えとらんのかいな」

ハルの勢いに皆は一瞬静まった。

「それは、立派な詐欺や。訴えればええ」

 大輔が大きな声で断言した。短い首が伸びている。

「裁判をおこす、ゆうことかいな」

 ハルは不安げに大輔を見た。

「そういうこっちゃ」

「訴えるのには弁護士を頼まにゃならん」

「詐欺罪が成り立つで。誠意を見せるゆうて、反対にむしり取ったんじゃからの」

 浩市と佐太郎の言い分に耳を傾けていたサキも怒りを口にする。

「相手が相手じゃ。うまくいくかのう」

 富江が珍しく発言した。

「何や、富江さんはどっちの味方や。不安にさせんでほしい」

ハルは富江に目線を向けて、鼻先で「ふん」とあしらった。

「ハルさんは勝てるで。どこから見ても被害者じゃけんのう」

 佐太郎が言う。

「被害者と言われとうない。バカにされたような言われ方じゃ」

「さようか」

 佐太郎はそう言ったきり後を続けない。

「謝ってほしいで」

 ハルは眼を光らせた。

「申し訳ないが謝る気にならん。りくがのうなってからは、何も何でもという気がないでの。特に物に対する執着がない。執着する元気がない、とゆうか執着する意味が分からんとゆうか。生きておるのは生かされておるからで、りくの供養をしてやるためでな。他に何のためでもないで」

 佐太郎は抑揚のない声で語る。

「さよか」

 ハルはあっさりと済ませた。佐太郎の話に関心がないのだろう。

「佐太郎さんの気持ち、分かるで。あたしも盆や彼岸、光男の誕生日や命日には、光男とあっちの世界とこっちの世界を、光男と二人で行ったり来たりしておる気持ちや。ハルさんも旦那さんを亡くしておいでじゃが、そういうことはないかいの」

「それとこれとは話は別や。詐欺の話をしとる」

 ハルのトーンはますます高くなる。

「ああ、そうやった。水をさしてすまんかったの」

 あたしは言ったが、佐太郎は黙って茶を飲み玉子煎餅を細かく割って食べている。ハルは横目で佐太郎を見た。

「池にも住所があるとは知らなんだのう」

 サキは驚いている。

「しかも御殿場市の所有になっておって、灌漑用水を貯める池やった」

 ハルは説明した。

「三友さんは野本ゆう弁護士を紹介しようかと言うてくれたで」

「そうすればプロが解決してくれるやろう、安心や」

 タマ江はほっとした声をだした。

「それがな、また問題やったんや」

「何や、えらいややこしい話やなあ」

 大輔が言う。

「話がえろう難しゅうなってきたな。今日はここでひと休みにしてくれんかのう。これ以上は頭に入らんで」

 サキが頭を抱えて言った。

「あたしも頭がごちゃごちゃしてきたわ。図にすればええかもしれんが、どうやって図にしたらええかも難しいの」

 あたしも音をあげた。

「ほな、今回はここまで、として明日は復習してから先にいくかの」

ハルは興奮して話し疲れたのだろう。すぐに同意した。

「明日はここまでの話をメモして持ってくるでな」

「ええと、こんなんやったかいのう」

 あたしは思い返しながら言う。

「広島のみどり不動産、小林社長。初めに紹介された日にちと住所。小林に不動産取得のための書類を三友さんに相談しながら揃えて郵送。次に紹介された西隣の物件の住所。一千万近い金を振りこんだ。がこの二箇所は、名古屋の娘さん夫婦が見に行ったときには、先に金を払った者がいて、結果は✖。三番目に格安物件といって紹介されたが、そこは御殿場市所有の土地で灌漑用の池」

 簡単に話をまとめる。

「ああ、それでええ。そこをもちっと詳しゅう書いてみようかの。小枝子さんに頼めんかいのう」

 ハルのわがままが顔を出す。

「それは違うで。ハルさんの問題じゃけんの。一番正しく分かっておるのは本人じゃ。本人が書かにゃ。それが道理やろう」

 しっかりとハルを退けた。大輔が、そうじゃそうじゃと目線で肯定している。うなずいて、ハルと大輔に微笑みを送った。

「確かにそうや。自分のことは自分でやれる範囲でやらにゃならんもんな」

「ハルさん、そうすれば脳の訓練になるでの。我が身のためじゃ」

「そういうこっちゃの」

 ハルは主人公になって良い気分らしい。得意そうに皆の顔を見廻した。

 

 翌日、話の続きを促されたハルは「ええと」と言った後が続かない。

「メモして来ると言うたが、持って来なんだか?」

「メモするのを忘れてしもうた。頭の中はぐちゃぐちゃでの。小林が憎うてメモすると言うたのも忘れてしもうたで」

「ほな、きっちり続きでなくてもええで。適当なところからでも」

 大輔が助け舟を出す。ハルは目を閉じ口も閉じている。

「土地を買うたつもりやったが、娘さんが現地を見て、さらに三友さんが調べたら実は池やった。三友さんが弁護士を紹介しようと言うた、と聞いたで」

 浩市が言う。

「そうやった。雄吉さんの事件で、どこやらに飛んでいってしもうてな」

 ハルは弱みを見せたくないのだ。

「これこれ、雄吉さんとハルさんの土地は何も関係ないで。雄吉さんもハルさんのことを心配しておいでじゃ。人のせいにしたらいかん」

 サキが注意する。

「あたしが変やないかと思うたのは内金や。ハルさんは一度目、二度目のときに内金の話はせんやったが、払うたんかいな」

 タマ江が指摘した。

「そうや。内金を払えば、黙って他の人に土地は売れんの」

 あたしはタマ江の言い分に納得した。

「書類、書類と急かされておったが、内金の話はどうやったじゃろうか」

 ハルは記憶をたぐろうとしているが、思い出せないのか腰を浮かせている。

「案外、初めから三番目を売るつもりで仕組んだんじゃなかろうかの」

 浩市が鋭く突いた。一同は右に左に眼を向けては浩市の言葉を検討している。

大輔が大きなカレンダーの裏紙を広げた。

「では、もう一度復習しましょうで。一回目の土地・契約書は交わしたが、ハルさんより先に金を振りこんだ人がいてハルさんの契約は無効になった。払いこみ・0円、でええな」

 大輔は太いサインペンで書き、ハルに問いかける。

「そうやった」

 ハルは細い声で答える。

「二回目の土地・一回目の土地の隣にある土地。九百七十二万円払いこむが、これも先約があった。で、ええかな」

 大輔はハルを見た。

「それでええ。よく金額を覚えておいでじゃな」

 ハルは感心している。

「消費税が付いたで変な数字になるが、元は一千万、九百万とシンプルな金額やったでの。それから三回目の土地は二回目に払うた金額を当ててもらうことにした。しかし御殿場市所有の灌漑用の池とわかって抗議した。三友さんが野本ゆう弁護士を紹介すると言うた、でええかのう」

「バッチシやな」

 ハルの機嫌はたちまち治った。

「払うた金の余分は戻ったんかの」

 富江は訊いた。

「ここに来るとき、郵便局に寄って通帳を見てきたが、百五十九万円入っとった」

 浩市の問いかけにハルが答える。

「それは細かいのう。いかにも誠実に計算しましたで、というふうにとれる感じじゃが、胡散臭い」

 サキが小さく鼻を鳴らす。

「すると、二回目の九百二十七万から百五十九万を差し引いて、七百六十八万が回収されとらんのやな。結構な金額や」

「大金やな。しかし、よう分かるようにまとめてあるで。大ちゃん、数学の成績は良かったんやろうな」

 浩市は手帳に数字を書き込みながら大輔に笑みを送る。

「いやいや、小枝ちゃんには負けたがな。それに数字は浩市さんが言うたことじゃ」

 大輔も軽く笑い、紙を丸め輪ゴムでとめ文机にサインペンと並べて置いた。

「まとめてはみたが、どうなっとるのかまた分からんようになってきたで」

 書いた大輔本人が首を捻っている。

「ほんに、金が絡むとややこしいな。ねえ、あんた」

 富江が夫の大輔に話しかける。

「ささ、お茶でも緩りと飲みましょうで」

 これまでの空気を断ち切るように、雄吉が笑顔で話題を変える。

「脳も身体の一部じゃけえの。疲れたときは休めんと先に進まん」

 雄吉と恵子が湯呑に茶を注いで廻った。

「ところで雄吉さん、会場の主としてしっかりとまとめておいでじゃの」

 佐太郎は正面から雄吉に賞賛の言葉を送った。

「褒められるとうれしいもんやの」

 雄吉は恵子を見た。寡黙な恵子は笑みを浮かべている。 

「鞆の海の力やな。毎朝目が覚めると浜に散歩に行くと決めてな。その度に力をもらう気がするで」

 雄吉は柔和な表情を見せる。

「そうじゃ。鞆の海のない人生は考えられんで」

「人生ゆうても、後どのくらいあるかいの」

「何、言うとる。百までまだまだ時間はあるでぇ」

 てんでに好き放題な言葉を言い交わして、いつもの陽気な雰囲気に戻った。


 二日後ハルは報告した。

「野本さんの事務所に行ってきたで。福山駅から歩いて三分の便利なところでな。大きな看板が見えてすぐに分かった。ビルの二階じゃった。正式にお願いしてきたで」

「で、どうなったんや」

 一同は色めき立つ。

「このたびは三友さんから紹介いただきました、斎藤ハルです、とご挨拶してな。よろしゅうお願いします、と言うといた」

「野本はどんな感じの男やったかいの?」

「それが、よう覚えとらん。なんせ夢中で行ったもんで、顔は見たがの」

「ハルさんの頭は事件でいっぱいじゃったんやな」

「そうや、当たり前やないか」

 ハルが堂々と言うので皆は笑った。

「何か、おかしいか」

 ハルは不思議そうにあたしたちを見た。

「いや、おかしゅうはないで。ハルさんらしいと思ったまでや。で次はどうやった?」

 あたしは無難に返した。

「野本さんはな、こちらこそよろしゅう頼みます、と返したで。事務的な話を先にと言うてな。通信費などの準備金に二万円、依頼された金額に相応する手付金として、四十五万円いただきますと言うた。これは、該当する不動産の調査や、個人的な風評などを調べるといった費用に当てさせていただきます、だと」

「初めから金か。まったくこの頃の世間は金、金じゃな」

 佐太郎とサキは顔をしかめる。

「でな、昨日合わせて四十七万を郵便局からお支払いしましたで」

「問題は解決に向けて動きだしたわけやな」

「それが、そうはいかんらしい」

 ハルは口元を歪めた・

「そんな大金を払うたのにか」

 メンバーたちは意外な展開に驚いている。

「今朝、野本から電話があってな」

 ハルは、そこで大きく息を吸った。顔つきが厳しくなる。一同の目はハルに釘付けだ。

「不動産屋の小林社長ゆう人は、高級車や、家の改築など気の向くままに金を使うておるうちに、借金が溜まりに溜まってな。小林が婿に入ったその家は、昔は庄屋にもなった豪農やったそうじゃ。で、不動産会社組織にして、土地を切り売りしておるうちに、入る金より出る金のほうが大きゅうなってしもうた。自宅の土地しか残っとらんようになっても金遣いは変わらんで、こっちで借りてあっちに返すを繰り返して収拾がつかんようになったそうや。遂に自宅が建っておる土地も自宅も抵当権を設定されてしもうたそうじゃ。そいで借金地獄に落ちてしもうたゆう話やった。でな、ないところからは金は取れんで、この話は、ここまでです、と言うたんや」

「それでは、話にならんで。ひど過ぎる」

「野本先生、いや先生とは呼べんの、誠意がない、なさ過ぎじゃ」

 浩市は吐き捨てた。一同も顔を強くしかめて、能の鬼面になっている。

「あたしは、そのひと言を聞くために四十七万円払うたんですかいの、ときつう言うた。が野本は、まことに残念ですがそういうことですの、とすっとぼけた声での。腹が立って昨日は眠れんやった」

「それは、口惜しい話や。眠れんのは当然や。小林も野本も無茶苦茶や」

 タマ江も口を出す。

「何で小林はあたしに目を付けたんやろか、と尋ねたら小林本人でないとわからんことですの、とどこかで風が吹いているかいのう、といった調子で応えての。ますます頭が煮えくり返ったで」

 ハルは何度も大きく息を吐いて吸った。

「年寄りが行けんような遠い場所の話で騙そうとしたんやな」

 大輔が推察する。

「それでわざわざ遠くの話をもってきたんやな」

「遠くてはならぬ理由があったんじゃ」

「それで御殿場市などと、ハルさんとは縁もゆかりもない話が転がりこんできたわけか」

「しかし、どうしてハルさんが標的にされたんやろな」

 男たちも女たちもしきりに首を捻っている。

「おおかた、年寄りは金をもっとる、戦争を体験した世代やで倹約が身についとる、使わんでしまいこんどると思うたのかもな。おれおれ詐欺の話も、そんな大金を持っていたんか、とびっくりするような金を払いよるやないか。銀行や警察はあないに、おおきなポスターをあちこちに張っておる。銀行員は目を光らせて監視しとるけどな」

 雄吉がしたり顔で割って入った。

「確かにそうや。おれおれ詐欺と同じ類(たぐい)かの」

「そうやのう」

 とりあえず、といった調子でサキがその場を繕った。

「野本はそれ以上のことは、一切できんと言うとるんじゃな」

 大輔はハルを見やって尋ねる。

「野本は、小林名義の土地すべてと自宅の土地、家屋までが抵当物件になっておるで、売って金を返すのはできん、と繰り返すばかりでの」

「小林は金の病気で、野本は無能じゃ」

 サキは明快に切ってみせた。

「小林は、池と分かっていながらハルさんに売ったんやな。不動産屋は不動産に関してのプロじゃ。詐欺と分かっておったろうに」

「公共の物を、民間の業者が売るゆうのはできんのは、わしでも分かる。小林は相当な悪(わる)じゃ」

「金に困った挙句の仕業じゃったのやないか」

 ハルは浩市たちに指摘されて慌てている。

「極悪じゃのう」

「金目の物はすべて抵当物件になっとるで売れんそうや。金にして返せんとゆうことや。ほんに困ってしもうた」

 ハルは萎れて畳に目をやった。

「ちょっと待った。小林は婿じゃと言うたな。奥さん名義の財産はあるんやないか」

 視線は、その言葉を吐いた雄吉に集中した。

「財産ゆうものは夫婦であっても、名義が違えば手が出せんで」

「私が出しましょう、と奥さんが言わん限りはな」

「そんな旦那では尻拭いしてもキリがない、と奥さんに見限られておるんじゃろう」

「小林ゆうのはひどい男じゃ。その野本ゆうのも、ハルさんの気持ちが分からんやつじゃ。できん、とあっさりひと言で片付けるのは考えられん」

 メンバー全員は、自分たちが被害に遭ったように怒っている。

「確かにな。その難題を解決する手段を見つけにゃ、なあ」

「そうじゃ、それが弁護士の仕事やで」

 大輔は「それが」に力をこめて言った。

「もう、何が何やらさっぱりわからんで。どうすりゃええやろか。糸がこんがらがって解けんがな」

 ハルは左右の眉がつながるほど顔を強くしかめ、古い板張りの天井の隅に張っている蜘蛛の巣を見あげた。

「素人には手にあまり過ぎるで。ここに野本を呼んで顔を突き合わせて、よう話したほうがええ」

「ハルさんは司法書士の三友さんを頼りにしておいでじゃったな。三友さんに一度相談したらどうやろうか。野本と話し合う前に、法律の世界に詳しい人を相手に問題の予習をしたらええかもしれん。問題があると分かったがどういう問題か把握せんとな」

 タマ江の案に拍手がおきた。

「そうする。明日にでも福山に行って三友さんと相談してくる」

「一緒に行きましょうかいの。話がややこしいで他の人もいたほうが整理がつくかもしれん」

 申し出ると、ハルはあたしにしがみついた。

「そうしておくれな。ありがとな、ほんに感謝やで」

「ハルさん、落ち着きなされ。いずれ解決するでな」

 あたしはハルの小柄な手を握った。

「今日はそこまでとして、わしらも落ち着きましょうで。ショッキングな話やけど、丁寧にやっていけばええ。みんながきちんと分かってから、次に進むというふうにな」

 雄吉は会場の主としての威厳を示して見渡した。それに雄吉は一度刑務所に身を置いた経験がある。そこで法の世界の一部でも垣間見たのでは、とあたしは推測した。

「土地を買うつもりで金を出したのに、池やったのは悪質な詐欺や、金を全額返してもら

いたいときいきい言うたんやけど」

 ハルはぶつぶつと口にして話を蒸し返す。

「やけど、とは何や」

 大輔もテーブルに掌を置き中腰になった。

「返さんのか。それとも返せんのか」

 浩市はハルの鼻先に自分の鼻を付けそうになるほど迫った。

 タマ江はやかんから茶を注いで、ハルと自分の湯呑を満たした。

「ちょっと待った」

「何や、大輔さん、今度は何を待つんや」

 タマ江が笑顔で交ぜっ返す。つられて皆が笑った。しかし大輔は真顔だ。

「説得力を増すために、箱根の池を我々の目でしかと見たほうがええ」

 大輔が言い出した。

「箱根まで行くのは難儀やで」

 浩市は慎重だ。

「ここから箱根は遠い。申し訳ないで名古屋の娘に頼みますで」

 ハルが頭を低くして申し出た。

「何や。その気になれば箱根はそう遠くはないで。新幹線ゆうのがあるで。座っておれば列車が連れていってくれる」

 サキに視線が集まる。

「あたしは一度も大阪から西へ行ったことがないでな。天下の険の箱根に行って、富士山を眺められたら夢のようじゃ」

 あたしの胸に火が点く。

「それもそうや。行くとなったら早いがええ。一日早ければ一日若いゆうことや。年齢と体力気力は個人差はあっても比例する」

「四人の目で見たとなれば、どの方向に話に転んでも怖いことはない。ミツさんを奪還してきた経験もあるでな。あの勢いで行こうで」

 浩市の発言に皆は「そうや、そうや」と合唱する。

「行こう、行こう。行かれん方には土産を買うてくる。楽しみにしてなされ」

「あたしも箱根に行きたい」

 富江は夫の腕を搖さぶった。

「じゃあ、行くとするか?」

 大輔は妻の顔を覗きこむ。

「あたしが一番若いで。頼りになると思うがの」

「では、明日か明後日にでも行こう」

「箱根に新幹線で行くとしたら、最寄駅は小田原じゃが、のぞみは止まらんでな。時間的にはそんなに差はないけえ、ひかりで行ったらよろし。金が安くなる。新大阪まで九州新幹線で行く手もあるが乗り換えねばならん。しかし九州新幹線は福山に止まる」

 雄吉が詳しく進言した。

「詳しいのう。助かるで」

 大輔は雄吉に向かって頭を軽くさげた。

「お役に立てば何よりじゃ」

 雄吉は満足げに言った。

「息子が仕事から帰ってきたら、ネットで調べてもらおう。切符はネットで予約できると言いおったな。ついでに宿泊も予約するか」

 大輔は富江に問いかけた。

「それがええ。そのあたりは若い人は得意や。あっという間に答えが出る」

「箱根は宿泊料金が高い。厚木、伊勢原、小田原あたりで泊まったほうが安い」

 自分はこの話についてはよく分かっているので教えずにはいられないとばかりに、雄吉は淀みなく喋る。

「それは貴重なご意見やで」

 あたしは雄吉に笑顔を向ける。

「いや、大したことではないで」

 雄吉はトーンを落とした。調子に乗って自分をひけらかしたのでは、と恥じているよう見えた。 

「では、息子に頼んで結果が分かったら、今夜のうちに連絡するでな。他に行きたい人がいたら申し出てくだされ」

「あたしも行きます。当人じゃけん」

 ハルが手を上げた。

「それはそうじゃ。わしらは手助けじゃもんな。では、ハルさん、サキさん、小枝ちゃんに浩市さん、わしら夫婦と合わせて六人じゃな」

 大輔は一人一人の顔を見た。

「そうしなされ。集まりはいつものとおりやっとるで」

 雄吉がしっかりとした声で言った。


                 2


 目の前に澄んだ池が在った。池を囲む木々が水に映っている。水辺には葦が生えて風に応えて揺れている。鳥の鳴き声が周りから聴こえ止まることがない。数羽のカモが水面を、ここは自分たちの居場所だと心得ているように、滑らかに泳いでいる。

「どんな池かと想像しよったが、綺麗やなあ」

 あたしはハルを刺激しないように密かな感嘆の声を口にした。が、ハルは呆気にとられた瞬間に怒りが燃えあがったらしく、あたしの声には気づかない。

「これが」

 ハルはそう言ったきり絶句している。

「年寄りの、しかも女一人住まいと、馬鹿にしおって」

 サキも憤ってハルに同情している。池は千坪ほどの広さだ。満足池入口というバス停で降り、三十メートルの舗装された道を歩くと、林の中から突然現れたのだ。

 前夜は小田原に一泊した。朝食を済ませると勢いこんでやってきた。その挙句がこの光景だった。

 池の手前に金属版の説明書きがあった。所有者・管理者 御殿場市、とある。灌漑用で公共のものであると記されていた。また満足池と書いて、まんそくいけと読むとある。鎌倉時代に、遠州から鎌倉に来た武士が通りかかり、その池で馬に水を飲ませたところ、馬は大層喜んで何度も天を見上げて鳴いたそうだ。武士は、難所と言われる箱根の山を無事に通過し、馬の状態にも安堵して伴の者に「満足じゃ」と言ったと伝えられている、まんぞくいけと呼ばれていたが、いつのころからかまんそく、に変わったという謂われも書かれていた。

「えろう由緒ある有難い池じゃのう」

 大輔はそう言うと、金属板の前にハルを立たせ、写真を撮った。二枚撮った後は、全員が写るように撮影者を替えて数枚撮った。

「証拠の写真じゃ。それにハルさん一人ではない、応援団が付いとるとアピールせにゃならんでな」

「それはええ考えじゃ。証人がようけいる、ゆうことになる。大ちゃんはぬかりのないお人や」

 浩市は、それこそ満足げに言った。

「いやいや」

 大輔は手を振った。

 人が歩いて道になった土と泥、砂利が混じったできた細い道が、池の周りを一周できるように続いていた。木立の中にあって、涼やかな風が心地よい。ゆっくりと散策し、大輔は光景が変わる度に写真を撮った。

「帰りのバスの時刻表はどうやったかいの」

 振り返って妻に尋ねる。

「どの時間も五分と三十五分、とあったで」

 富江が答える。

「次は十一時三十五分やな。それで小田原駅に戻って、箱根蕎麦というのを食って昼にするか。それから箱根登山鉄道に乗り換えて箱根湯本に行こう」 

 腕時計を見やって大輔は決める。

「まだ二十分時間があるの。この池のようすをよーく目に焼き付けておかにゃ」

 ハルは、沼のほとりにある丸太を半分に割って作った長いすに腰をおろした。

「ほんに情けない話じゃ。自分は大丈夫やと思うとっても、娘可愛さに親はころりと参ってしもうて」

 独り言が聞こえる。それぞれが散らばった丸太のいすに身と荷物を置いて、ハルの繰り言を聞いていた。池を囲む木々の間から、民家が点在しているのが見える。

 箱根湯本に宿泊し何度も湯に浸かった。

翌日は芦ノ湖に行き海賊船に乗った。美術館の休憩所からは、ときおりテレビでお目にかかる富士山と箱根神社が見える風景そのものが目に飛びこむ。箱根駅伝の折り返し地点にも行った。

「箱根駅伝は毎年テレビで見よるが、その折り返し地点はこんなもんやったんか」

「ほんにちょっとしたもんやの」

 おそらく、選手たちが走りながら過ぎるのにちょうど良い高さなのだろう、背の低い金属の上にある半球の部分に手を当て、皆は感想を述べた。

 午後の新幹線で帰る。富士山が富士川の鉄橋を渡る前に車内アナウンスがあった。

「皆さま、これから富士川を渡ります。その富士川に架かった橋とともに見える富士山は絶景と言われています。どうぞお楽しみください」

 小田原に行く途中でも富士山は見えた。裾野に雲がうっすらと掛かり、それも風情があってあたしは感激した。来て良かった。大きな声では言えないが一生の思い出だ。と思うといつものように、ここに光男がいたらと悔やまれる。

「世界遺産になるだけのことはあるな」

「まことにそうやのう」

 大輔は深くうなずいて、視線をあたしに送り笑みを浮かべた。あたしは充たされた気分だった。大輔のことだ。あたしと同じように光男が一緒だったら、と思っているに違いない。

 往復の車内から、また箱根でと三度も富士山を見た。

「わしらを励ましておるようじゃな」

「この旅でえろう元気になった気がする。いわゆるリフレシュちゅうやっちゃな」

 サキは若返った声で言う。

「あたしもハルさん戦線に加わリますで」

 富江が両手で拳をつくって突き上げた。

「そうや、みんなで戦おうで」

「これまでのいきさつと、対処法を考えておらんのか、野本から聞きたいものじゃ」

 浩市とサキは真剣な眼差しだ。

「自分の身体あっての話じゃけんの。鞆に帰ったらまずはひと休みしてな、それから作戦を立てるとするか」

 大輔が陣頭指揮をする。

「ほんにお世話になってありがとさんでした。現地まで行ってもろうて、心から感謝しとります。ここまでしてくださるお方は、なかなかおらんでのう」

福山から乗ったバスが鞆に着いたとき、ハルは一人一人の手を握って頭をさげた。

「二日ほど休ませてもらうでな」

 サキは言った。

「これだけ移動すると、二日間、二度ずつ昼寝をせんと、頭も身体も疲れが取れんで」

「わしも同じじゃ。大輔さん夫婦や小枝子さんは若いから、今日早寝すれば明日には元気になるやろうけど。わしらは倍の休養が必要やで」

 サキに続けて浩市も言った。

「なら、三日後に、ということにしてもらいましょうで。おしゃべりも楽しいが精力が要るでの」

 あたしも予想以上に疲れを覚えていた。

「身体が休みたいと言うとるときは、休まんとな。無理しても能率はあがらんし、ますます疲労が重なる。他の者に身体や気持ちは替わってもらえん。自己責任や」

 サキは欠伸を噛み殺している。

「しかし、ええ旅じゃった。企画してくださった息子さんに、くれぐれもよろしゅう伝えてくだされ」

 あたしは少々無理して大輔夫婦に向けて笑顔を造った。

「ああ、言うとくで」富江が応えた。

「お世話さんでした」

「ほな、さいなら」

 六人は手を振って別れた。

 富江が、これみよがしに大輔にくっついて歩いているように見える。

「何や、面白うないの」

 足元の小石を蹴飛ばす。『レストランたぶ』のおじさんが自転車で通りかかった。小石は自転車の後輪に跳ね返されて飛んだ。


 三日後全員が揃った。

 ハルは帰宅した翌日には残留組の家を訪れて旅の成果を報告したそうだ。ハルは現場を見てしかと確かめてきたことを、黙っていられなかったのだろう。しかもこの話はハルが主人公なのだ。眼が輝いている。

「いやあ、よう行ってくださった」

「若い方は足腰が丈夫でうらやましい」

「それに、結果は上々だったそうで」

 佐太郎にタマ江、雄吉、恵子は満面の笑みで、旅から帰ったあたしたちを迎えた。

「次はどうするかの」

 浩市は場面が鞆に戻ったので、さっそく張り切っている。

「野本に、詳しゅう話を聞きたい。小林の首根っこを掴まえて、本人から直接訊きたいのが本音やが、弁護士を通して話を進めねばならん決まりでな。ほんにもどかしい」

 ハルが早速話を始めた。

「野本によると、小林は社長ゆうても従業員が二人の小さな不動産屋じゃそうでな。電話をかければすぐにでも本人に問い正せるのに、できんのは悔しゅうてならん」

 ハルは、目の前に小林がいるかのように眼を見据えている。唾が弾き出て散らばる。

「そう考え続けているうちに我慢できんで、実は小林に電話してしもうた」

「で、どないやった?」

 皆は驚いて同時に訊く。

「気のない言いようでな。小林はたまたまネットで物件を探しておったときに、それに目を付けたんじゃと」

「池とは知らんで、か?」

「そんなことはあるまい。池が物件として記載されておるはずはないで」

「そうや。観光名所として池が紹介されておったんじゃなかろうか。それで住所は知ったんじゃろう。それを物件に仕立ててハルさんに押し付けたんやな」

「しかもな」

 ハルは憤懣やるかたないようすで唇を突き出した。

「何じゃ」

 一同は渋い顔になる。

「小林は、野本さんを通して話はしたで。金はないんじゃ、借金しかないで。わしが住んどる土地も家も車もすべて担保になっとる。あんたに返す金は持っとらん。ないところから金は取れんでと野本さんに言うたが、あんたさんもそう聞いたじゃろう?話は終わりや、じゃと。ぬけぬけと言いおった」

「そりゃあ、あんまりじゃ」

「つくづくひどい話や」

 大輔と浩市は口を揃えて叫ぶように言った。

「そんな話は初めて聞いたで。正義が行われんのはよろしくない」

 サキの眼にも怒りが燃えている。 

「野本に来てもろうて皆で話を聞きたいの」

 あたしはハルが気の毒になって提案した。

「そうしてほしいで。皆がおると野本の態度が違うと思うで」

 ハルは追求の手を緩めるつもりはないらしい。話は混乱しているうえに、良い方向に向かいそうにはない情勢だが、それでも食い下がろうとしている。執着する力をもつハルを、あたしは尊敬に近い眼差しで見た。

「あたしだけでは、女一人はちょろいもんやと見くびられてる感じがする」

 ハルは強く言った。

「すっきりせんもんなあ。このままでは気色悪いで」

 佐太郎も同調した。

「野本に至急ここに来るよう頼みたい」

 ハルは吐き捨てるように言った。

「早い方がええの。わしらの旅の記憶が新鮮で勢いがあるうちがええ」

 浩市が積極的に肯定する。

「電話をお借りしてもよろしいか」

 大輔の承諾を得るとハルは電話に駆け寄った。

「野本さん、決着はついたとおっしゃいましたけどな、何か腑に落ちん。ご面倒でしょうが一度ともとも・くらぶの集まりへお越しくださらんか。年寄りじゃけえ問題がよう分からんでな。お忙しいところを申し訳ないがお願いしますで。もちろん交通費や使うお時間の分は払いますで」

 ハルは受話器を持つ手を取り替えて、耳に強く押し当てた。

「お忙しいのは承知してますが、是非是非」

 野本は渋っているらしい。

「とにかく、おいでくださらんか。あたしは仲間たちと、新幹線に乗って現地に行って池を見てきましたで。これまでの小林との交渉の経過を皆と一緒に聞きたいんじゃ」

 ハルは語尾を強くあげて念押しした。

「あんたさんは、あたしの立場にたって交渉するのが役目じゃろうに。その結果がこれじゃあの。納得しろゆうのは無理な話でしょうが」

 ハルは勢いづいているのに、電話の向こうの野本から返事がないらしい。見かねた大輔は目配せして、ハルの手から受話器を受け取る。

「野本さん、聞こえておりますでしょうかいの。もしもし」

 繰り返すが言葉は返ってこないらしい。

「受話器を放ったらかしにしておるんかいの」

 振り返って大輔が言う。

「電話が切れてしもうたで」

 大輔は呆れたように言い、「かなりの小心者じゃ」と笑う。

「わしらを馬鹿にしとる」

「そうじゃ、そうじゃ」

「年寄りをないがしろにする奴には、天罰が下るで」

「そうじゃ、天罰じゃ」

 富江や恵子までがいきり立つ。

「人柄が良うないのう。それで弁護士なんかしておられるのは不思議や」

 穏健なタマ江でさえ眉を寄せる。

「弁護士の先生がこれでは、のう」

 大輔はせせら笑った。

「こうなったら明日にでも、事務所に押しかけるか」

「行って空振りでは困る。時間と金は大切に使わんといかん。野本の事務所にもう一度電話すれば野本とは違う人が出るんやないか。そこで野本の予定を確認したらええ」

 サキは確信がある言いようをした。

「そうじゃ。ハルさんの一大事や。賢うやらにゃ、な」

 サキの言ったとおり、電話口に出たのは女性だった。大輔は振り返り小指を立てて皆に知らせた。

「野本先生は明日、おいででしょうかいの」

 しばらく間があった。

「予定表を見るんやて」

 大輔は振り向いて言った。

「明日は一日じゅう仕事でおらんそうじゃ」

 大輔の言葉だ。

「そうですか。いつが空いておいでですかね」

 大輔は大きな声をあげた。

「あんたは謝らなくてもええ。窓口の仕事をしておるだけじゃけえの。こちらはどうしても先生にお会いして話さにゃならん用件がある」

 電話口の女性に強い口調で迫っている。

「さっきぼそぼそと話し声が聞こえたで。そこに野本先生はおられるじゃろう?野本先生と直接お話したいがのう」

 ようやく野本が電話口に出たようだ。

「仕事が続いて忙しいんやて」

 大輔が伝える。

「そうさな一時間半もあればええでしょうかいの。依頼者のハルさんのために働いてくだされ」

 野本は答えを探しているらしい。

「なあ、野本さん、あんたさんは困っておる人の味方や。市井の善人が最後に頼りにするのは弁護士さんやで。わしらも困っておるハルさんを見かねて、野本さんに問題を解決してもらいたいと頼りにしておるんじゃ。野本さんがなぜわしらの相談にのってくれんのか、よう分からん」

 大輔の声はますます大きくなる。

 ハルがとって替わった。

「ない金は取れんと言われて、はい、そうですか、と引き下がれんで。合わせて四十七万をお支払いして、金は取れん、のひと言だけじゃあの」

ハルは金切り声でいきり立って喋り続けたが、突然胸を抑えてしゃがみこんだ。

「動悸がして苦しゅうてならん」

 ハルがやっと声にする。

 皆は立ちあがって、しゃがみこんだハルを囲む。

「ハルさんが倒れてしもうた。あんたは人のために働くのが仕事なんじゃろう?逃げてばかりおって、みっともないと思わんのか」

 大輔は怒鳴ってガシャンと音をたてて手荒く電話を切った。

「ハルさんから心臓が悪いと聞いたことはなかったけどな」

「興奮しすぎて、頭に血が昇ってしもうたんやないか」

「そうかもしれんが素人判断は良うない。大事をとって病院に行ったほうがええ」

「検査をして何もなければ、それで良しじゃ」

「心臓の状態を知るええチャンスかもしれん」

「じゃあ、救急車を呼ぶがええか?」

 あたしはハルに尋ねた。救急車はすぐに来た。ハルは心配する皆に見守られて担架に横たわった。富江が付き添って病院に行った。

ハルは翌日の昼過ぎのバスに乗って福山市の病院から戻って来た。

「何もないんやて。年なりに身体が変化しておるのを忘れたらいかん、身を大事に扱わんとな、と言われたで」と澄ましている。

「お騒がせして申し訳ない、とか何かないのかいな」

 大輔が呆れて舌打ちをした。

「ああ、そうやった。これがあたしの悪い癖や。すぐの感謝の気持ちを忘れて、世話になったことも忘れてしもうて。すんませんでした」

 ハルは頭を深くさげた。

「分かればええ」

 佐太郎と浩市が同じように口にして、顔を見合わせて笑った。つられて笑いが広がった。


 電話が鳴った。

「野本さんかいの。大輔さんにあそこまで言われては来るしかないと、腹を括ったんやな」

 タマ江が微笑んで言う。

「タマ江さんは野本のようなやつにも優しいのう」

「うちの孫と同じくらいの年じゃないかと思うてな」

 タマ江は泰然としている。

 あたしが受話器を取った。

「野本さんですね。そうではないかと話しておりましたで。やっぱり正義の味方やな」

 あたしは受話器を置くと「午後二時頃伺います、と言いよったで」と告げた。

「ハルさん、大丈夫ですか、とも言いよった」

「ほう、心配してくれたんかいの」

 ハルは気を良くしている。

「さあ、どうだかの」

 あたしは苦笑しながら答えた。三十分は過ぎただろうか。野本の声がした。

「ごめんください」

 ロボットが話すような抑揚が怪しい声だ。本当は来たくなかった、と聞こえる。

「おう。ようおいでになられたのう」

 大輔が声をあげて出迎えた。

「お忙しいところを、お呼びたてて申し訳なかったですが、あなたさまのほうがお若いでの。ご無理を言わせていただきましたで」

「いえいえ、こちらも結果だけでなく、斎藤ハルさんに詳しゅうお話しせにゃならんところを失礼してしもうて」

 しかし、「すみませんでした」とか「申し訳なかった」とは最後まで口にしなかった。言質をとられるのを警戒しとるんやな、とあたしは密かにうなずく。

 テーブルを囲んで座った。富江が野本の前に熱い茶を注いだ湯呑を置いた。

「まあ、このたびは」

 野本はそれだけ言って、両腕を畳に置き頭を浅くさげた。

「わしとこの方は、その事件については途中からしか知らんのです。わしらはただ聞いておりますで」

 野本と眼が合った雄吉は、隣の恵子を見やってから言った。ハルは野本の前に、御殿場の池で撮った写真を並べた。野本は不本意だったかもしれないが、やはり自分が関わっている物件なので関心があったらしい。熱心に素早く目線を走らせた。野本自身が初めて見る光景で、しかもそこが問題になっている場なのだ。少なからぬ衝撃を受けているようすだった。現物は説得力がある、とあたしはほくそ笑んだ。

「一度小林社長と話してみますよ」

「一度ですか」

 ハルが咎める。

「いいえ、何度でもしますよ」

 経を読むように野本は返した。

「提訴しないんですか」

 ハルは追い詰める。平静な野本に高ぶっている。

「それも含めて強気で押さないと、ですね」

 野本はハルに巻きこまれない。少しばかり白い歯を覗かせた。

 その後のハルは何も言わず、野本をきっと睨んでいる。疑いは解けず信頼とは程遠いままだ。いつも注意深く距離を置いている富江が珍しくあたしの横で囁いた。

「あたしにはよう分からんで。けど裁判沙汰になったら面倒やな」

「素人の手に負えんやろうの。うまく話し合いがまとまるとええが」

「裁判となれば、気力は要るし体力も使うで。年寄りにやっていけるかのう」

「そのために弁護士に働いてもらうわけじゃがの。それが問題じゃで」

「あのハルさんの眼つきは野本さんを完全に疑っておるの」

「救急車の中でも、野本の奴が、野本の奴が、とひどい剣幕でな。乗りたくもない救急車に乗る羽目になったのも野本のせいじゃ、と言い続けての。あたしが、ハルさん気を鎮めておくれな、動悸がひどくなると苦しいでと言うと、あたしの立場に立ってみんと分からんじゃろうけど、そうそう簡単に気が鎮まらん。第一、気持ちというもんは自分の思うように、右に左にとはいかんで、とえらい騒ぎやった」

 富江は打ち明けた。

 野本は一度崩した両足を直して正座した。背中を張る。

「では、そういうことで。ひと頑張りもふた頑張りもいたしますでの。その都度、斎藤ハルさんにご報告させてただきますで」

 顔を突き出したまま軽く礼をして、黒いビジネスケースを手に帰っていった。

「どうなるんやろうな、ハルさん」

 浩市が心配そうにハルの顔を窺う。

「しばらくようすを見るかのう」

 ハルは放るように言った。

「しかし、写真は効果があったと思うで。現物を見せられて野本の目つきが変わったで」

 あたしは確信をもって言った。

「確かにそうやった。鎧を着ているような態度は変わらんが、明らかにショックを受けとったな」

大輔も浩市も愉快そうに言った。

「大ちゃんの言うとおり、現地を皆の眼で確かめたのは大きかったで。行って良かったの」

 サキも満足している。

「弁護士は当てにされて任せられるのが仕事じゃ。みどり不動産に乗りこむのは止めるか。騒ぎが大きくなってハルさんがまた倒れたら、そっちのほうが困るで。金より命やで」

 佐太郎は労わるようにハルに言った。

「ハルさんが依頼した弁護士の野本の動きを、当分見守るかいの。当事者はハルさんじゃが、弁護士は当事者に成り代わって依頼人の立場を有利に導いていくもんや。そこが弁護士の腕の見せどころじゃで」

 佐太郎の落ち着いた言葉は、困惑しているメンバーたちの頭を整理する役目を果たした。

「野本にも言うたが、支払うた金額に相応する働きをしてもらいたいで。じゃが、野本の能力はどないかのう」

 ハルは心配している。

「何度も言うようじゃが、これからの働き具合をじっくり見ようで。ハルさんに非はまるでない。騙されたことには変わりない。小林は野本を懐柔する作戦に出るかもしれんな。小林の家、土地、車までも抵当物件になっとるゆうのは弁護士の特権で調べられる。本当じゃろう。しかし、だから、といって片付けられるもんやないで。払えんなら、ちゃんと入るべきところに入って働いてこにゃなあ」

 いつの間にか全員が、ハルを騙したのは小林なのに、野本が当面の敵のような感覚に陥っている。信じて仕事を任せたときと違って、任せたことには変わりないが気持ちは冷めてしまったのだ。あたしも、ああいう弁護士もいるのかと冷えている。

「裁判になるかのう」

 サキがはっきりした口調で言う。

「そのときは戦うしかないで」

 大輔は両掌を拳にして、どんとテーブルを叩いた。

「明らかに悪質な詐欺や。裁判になったら、こっちが勝つのは確かやで。向こうは裁判にならんように、うまく話し合いにもっていきたいじゃろう。もしかしたら、野本は金を掴まされておるのかもな。あたしらが法律の世界はよう知らんのをええことに、これ以上はできんゆうて通そうとしとったんやないか」

 タマ江が確信を感じさせる声で言い、聞いたハルは、ほっと息を吐いた。

「ハルさん、旨い話にはのらんこっちゃ」

「今さら言うても仕方がないことは言わんでええ」

 浩市が大輔を諌める。

「あたしも、それは分かった。肝に銘じておくで。もう言わんといてや。言われとうない」

 ハルは頬を膨らませた。皺が消えて薄赤い餅のようになる。

「ハルさんは、よう見ると可愛いの。こまいころそう言われたじゃろう?」

 あたしは話しかける。

「そうや、親も親戚も可愛い、可愛いを連発しとったで」

ハルの機嫌はたちまち直った。あからさまな変わりように笑い声が湧いたが、本人は意味が分からず笑顔のメンバーを見廻している。

「金の絡んだ事件がおきたら、その場で返事をしたらいかん。ここで相談しよう。年寄りは葬式代くらいは貯めてるじゃろうと狙われとる。実際に詐欺にかかった老人が新聞やテレビでニュースになっておるし、それも年々増えて、大した金額になっておるらしいで」

「何事にも慎重にならんとな。こっちは慎重になっておるつもりでも、歳のせいでどこか抜けておると自覚してな」

 浩市と佐太郎の言葉に、皆は真顔になる。

「そのときは息子や娘も呼んで、若い者にも話を聞いてもろうたらええかもしれん」

 富江が提案する。

「あたしのところは、長男は漁師を継いでくれたが、次男はぱっとせん大学じゃが一応法学部ゆうところを卒業したでな。ちょうどええことに、次の週末には徳島から一家で帰って来る予定になっとる。電話して下調べをしておいてもらおうかの」

「そりゃあ、願ってもなか。専門家の意見を聞いてみたいで」

 鼠を見つけた猫のように、ハルの眼は輝いている。

「専門家ゆうのは野本のように、それを仕事にしておる人のことや。息子は卒業して会社の総務で働いておる。法律とどのくらい縁があるのか分からん。真面目に勉強したかどうかも分からん。野本のようにそれでメシを食っとる者とは天と地ほどの開きがある。が、ちっとは分かるかもしれんし、張り切って調べてくれるかもしれん。法律の道に進んだ友人にも相談してほしいと言うとくわ」

「大学に行ったとは聞いとったが、ええ息子たちをもって大輔さんとこはええな」

 あたしは順調な隣家のようすを知って、妬みを覚える自分に当惑する。でも、あたしには元気で可愛い娘がおるで、と胸の内を繰り返し撫でた。

「うちの息子はええ大学に行ったで」

 珍しくミツが口を差し挟んだ。ミツは毎日やってくるが、ほとんど口を開かない。仲間と一緒なので安心しているのだろう。茶を飲んだり菓子をつまんだりしては目を閉じている。しかし、息子と耳にして目が覚めたらしい。

「その息子さんとは、岡山の老人ホームで会うたな。恰幅のええ紳士やった。ミツさんには優しいお子がおって良かったの」

 サキは子に対するような口調でミツに言う。

 息子の話がきっかけになったのか、ミツは急に目が覚めた顔つきになった。背筋も伸びている。

「何や、気分がええ。自分がしっかりとおるゆう感覚が戻ってきおった」

 ミツは岡山から戻ってからはサキの家で寝泊まりし、皆の厄介に頼っていた。が、腰の中心に背骨をシャンと置いて、浜のミツさんは甦ったのだ。一斉に拍手が湧き起こった。

「町田先生が時に任せるように、と言うたがほんのそうなったの」

「とにかくえかった、えかったで」

「奇跡のようじゃ」

 笑いが渦巻く。

「あたしの家に帰りますで。息子から送ってきた荷物を処分せにゃならん」

「皆で家の玄関まで行きましょうかいの」

「いやいや、だいじょうぶや」

「ミツさん。荷物はサキさんの家にあるでの」

「おお、そうやった」

「では、荷物を運びがてら送りましょうで」

 大輔の申し出にミツはうなずいた。

「ほんに、ありがとさんでした。こんなに世話になって申し訳ない」

「何も気にせんでええ。お互いさまじゃ」

「順番やでの」

 目の前のドラマに驚きながらも、メンバーは喜びの拍手を惜しまなかった。

「いろいろあるのう」

 あたしは、ハルの事件とミツの回復が重なったのを見て言った。

「ま、それが生きとる証拠じゃ。幸せなこっちゃで」

 りくを失ってから精気が半減したと見えた佐太郎が口にしたので、全員が佐太郎を見た。

「りくは、わしの胸の内に棲んどると実感できるようになってな」

 一瞬の鎮まりが部屋の中に置かれた。が、すぐに安堵の微笑みが溢れた。

「佐太郎さんが安心しとるのは、りくさんも安心しとるゆうことや。夫婦の在り方の究極の形かもしれんな」

 サキが言った。

「あたしらは、みんな人間や。口と鼻はひとつ、耳と目はふたつ。手足も内蔵も造りは同じじゃ。けど、同じようには生きられん。それだけは自分で解決せにゃならん」

 サキは話し続ける。

「そうや。サキさんは頭ええなあ」

「いやいや、うちの爺さんのほうが上じゃった」

 サキは得意げに鼻を上にあげた。

「サキさんの旦那さんはの、小学校の校長先生を長くしておられたんや」

 タマ江が言った。

「そうじゃったのう。サキさんは校長先生の奥さんの風格が備わっておる。決断力があるし、背筋がシャンとしておる。いつも筋道を通した話し方をなさる。何者やろうかと思っとった」

 あたしが応えると皆が笑った。

「何者やろうか、とはおもしろい。サキさん、どうお答えなさる?」

 浩市がからかう。

「何者?と訊かれれば、あたしはサキやとしか答えはないがの。人生の花が咲くようにと、親がつけてくれた名前じゃけえ、その親心に背かんようにと思うてな」

「その、親心に背かんように、という心がけが立派なもんやのう」

 富江は感心している。

「何十年もそう思うとったら、自然と人間の出来が違うてくるで」

 佐太郎の言葉に、あたしは得心した。

「わしにはとうていできんことや。わしとサキさんとは、えろう離れたところにおるで。情けない」

 雄吉が独り言のようにぼそりと口にした。

「雄吉さん、生きておるのは困難の連続、ちゅう時期があるよのう」

 あたしは言った。光男の死や、離れて暮らしている一人娘への心配が頭をかすめた。

「同じことに出会っても、困難ととる人もおれば、受け流してしまう人、見ぬふりをする人、それぞれやな」

「佐太郎さんたちは、ええことを言うの」

 富江は感心している。

「何か、今日は疲れたで。明日は家でごろごろしていたい気がする」

 佐太郎が言う。

「さようか。それでは、木曜日が定休日になっとるが、それ以外にも臨時の休日をもうけようかの。一人で一日暮せるゆうのも大事や。自分の時間を管理できる能力を身に付けるゆうこっちゃ。人は究極のところ一人なんじゃ。孤独に耐える強さが年寄りには必要や」

 サキが自説を披露する。

「ほんにそうじゃ。臨時の休みもあったほうが、集まりも人間も長続きするじゃろう。明日はお休みにしましょうで」

雄吉が応える。

「それはええ案かもしれんの」

「では、木曜日の定休日の他に皆さんの要望があれば、臨時休業もあり、としますかいの」

 雄吉が言うと揃って手が挙がる。

「そういうことで、次は明後日ちゅうことでな。お開きや」

 雄吉の言葉に「ご苦労さんでした」と返し、皆は散っていった。

 

 二日後、メンバーの集まりは早かった。夏時間の定刻。三時前に全員が揃った。

「昨日は一日じゅう雨で一人やった。無性に寂しゅうてならんやった」

「人の声の替りにテレビをつけておったが、どうも川の向こうの話を聞いとるようですぐに消してしもうた。それに電気代ももったいない」

 浩市と佐太郎は争って白状した。

「あたしは急にぽっかりと時間が空いてしもうたで、爺さんの部屋の押し入れを整理したで。押し入れの中のものを全部出して、押し入れの中を雑巾がけしてな。木屑や小虫の死骸もあって結構汚れとった。あたしたちは戦中、戦後を知っとる世代や。物を捨てられん。ようけ溜まっておった。爺さんは若い頃、ギターを弾きよったで、弦の錆びたギターや、粗末な紙の楽譜も束になって出てきての。それに、何かに使えると思うたんやろうな、何本もの板切れや子どもたちがこまいころ夏に水遊びさせた大きな金盥(かなだらい)、祝い返しでもろうたままの大皿やシーツなど、どっさりや」

 サキの報告だ。

「それをどうするんや」

 大輔が尋ねた。

「ギターとシーツの何枚かは残して、後は処分しようかと思うとる。箱に入れたままのシーツや大皿は、きれいに洗うたり拭いたりして公民館のバザーに出してもええな。みんな捨てると爺さんが、しょぼんとなるやろうし、あたしも寂しい」

「あたしも光男さんの気に入っておった服と着物を冬物、合い物、夏物を一着ずつ、それと茶碗、汁椀と湯呑、コーヒーカップを残しとる」

 あたしも告白した。

「わしはりくのものは何も手つかずじゃ。このまま死んでしまうかもしれんと思うと、自分のものは処分できるんやが、どうしてもりくのものには手がつけられんでな」

「佐太郎さん、無理せんでええ。そのうち少し処分しようかと思うときがきたら、佐太郎さんの古くなった衣類で包んで一緒に整理すればええよ。りくさんもそれなら寂しゅうなかろう。あたしもそうやって、少しずつ夫のものを減らしてきたで。あたしが居なくなったら、子どもたちが整理してくれるじゃろうけど、業者を呼んで片っ端からほいほいと捨てられるのは悲しいで。自分が生きておった証拠がゴミ扱いされるのはのう。そいで、生きておるうちに、自分の手で片付けるつもりや」

 タマ江の言葉だ。

「あたしも光男のものを処分するときは、必ず自分のものと一緒や。光男の衣類をきちんと畳んでな、あたしの古いブラウスを裂いて巻き、最後にリボンを蝶結びにして資源ゴミを出す日に板の上に置いとる」

 あたしは胸から息を吐いて声にした。

「女はこまいところに気が付くのう」

「何をおしゃいますか。浩市さんも気が行き届くよのう、な?そうじゃろう」

 富江は大輔を見て言った。大輔は苦虫を飲みこんだように顔をしかめている。

「鷹揚でさっぱりしとるのが、大ちゃんのええところや。富江さんは承知しておろうに。大ちゃんを虐めたらいかんよ」

 あたしは笑顔で大輔を見てから富江に言う。

「思いついたんじゃがな。聞いてくださらんか。こっちの三軒を繋いだらどうじゃろうか。屋根付きの廊下を造ってな」

 サキは思いがけない提案をした。

「それは、どういうこっちゃ」

 佐太郎が尋ねた。

「浩市さんの家には布団を敷いて、そうじゃ、ベッドもええかもしれん。立ったり横になったりするのはベッドが楽やで。横になりたい人や眠うなった人、休みたい人がゆっくりできる場所にする。次のあたしの家が会場や。そいで西にある佐太郎さんのところは、ええと、どうしようかのう」

「三軒を繋いで共同の住居にするということかいな」

 佐太郎が言った。

「そうや、そうや」

 サキはうなずいた。

「なら、テレビでも置いて気ままに過ごしたい人が集まる部屋とゆうのはどうかいの」

 佐太郎は応えて、大輔に視線を向けた。

「大輔さんとこは大所帯じゃからな。遠慮しよう」

「そうはいかん。わしのところも会場にする。サキさんと交代にしたらどうじゃ。会場係は、トイレの掃除はどうなっとるかなどと他より負担が大きいでの。富江もメンバーじゃ。家事の合間に顔を出せるしの」

「ええで」

 富江はすぐに快諾した。あたしはそれを聞いて、富江の存在が揺るぎないものになったと覚悟した。

「一軒にみんなが集まるゆうことは、家事や漁の後始末なんかを終えて行かにゃならん。家事をしながらでも参加できれば、あたしにはこんなええことはないで」

 富江は機嫌が良い。

「富江さんとこは息子夫婦や孫たちもおるで、わしらのように気楽にはいかんじゃろう。気いつかんで申し訳なかったのう」

「そうじゃ。気遣いの浩市さんが、何で気づかんやったんじゃろうの」

 笑い声が広がる。

「わしもいよいよ歳かいの」

「何を言うとるで。とっくに歳じゃ」

 タマ江が珍しく茶化したので、笑い声はますます大きくなった。

「あたしは少し考えさせてもろうてもええか。池を買わされたことで頭の中がおかしゅうなっとる」

 ハルは申し立てた。

「それや。その話をしとったとこじゃったな。ちょっと横道に逸れてしもうてすまなんだの。この話は、おいおい考えればええ。別に急ぐわけではないでの。ただそうしたら、もっと歳を重ねたときにお互いが助け合えるのでは、と思いついての。別々に暮らしておるのもええこっちゃが、もっと近うにいたら何かあったときには、と思うただけじゃ。賛成できん人がおってもおかしゅうない。人にはそれぞれの意見があるで。無理はいかん。それに多少の費用もかかるで」

 サキは言う。

「もっと歳をとったときなあ」

「明日、どうなるかわからんが、と思いながらここまできてしもうた。来月の初めにはいよいよ九十の大台に乗るで」

 浩市は、まるで成人式を迎える青年のようだ。眼に精気が満ちている。

「さようか、あたしも来月は八十代最後の一年じゃな」

 サキもにこにこしている。

「ほんに、生きてる限り歳はとっていくもんや。わしは来年九十四じゃ」

「何をおっしゃる。皆さん、まだまだお若い。あたしは再来月には九十六になるで」

 タマ江が艶やかな頬を見せて言った。

「その日は、盛大にお祝いといくかのう」

「それはええアイディアじゃ」

「人の命が母体に宿ったときから歳を数える、とりくさんのときに、町田先生が言いよったな。それが数え歳とゆうもんやて。そうするとあたしはもう九十八で、正月を越せば九十九歳らしいで」

「では、みんな相当の年寄りになるで」

 がやがやと言い立てていたが、一瞬声が途切れた。それを待っていたように雄吉が口を開いた。

「家を繋ぐゆう話じゃが、わしには難しいのう。どうすればええでしょうか」

 一様に皆が首を傾ける。

「住まいを繋ぐのは雄吉さんの場合は無理じゃ。申し訳ないが今までどおり会場の家に通ってもらうしかないで。それしかないような気がするがのう。もし何ぞのことがあったら、そのときは皆で考えて動くことにしましょうで」

 サキの言葉は素直に一同の胸に収まった。

「ありがとうございます。ほんまにありがとうさんです。皆さんのご好意に甘えて安心して暮らしております。先月七十六になりました。恵子より三歳年上じゃが、兄貴らしいことは何もしてやれんで。却って妹に支えられておってな」

 雄吉は両手を畳についてその間に頭を入れた。

「兄さん、それはもうええで。気持ちはよう分かったるでもう言わんといてや」

 恵子はいつも春を運んでくるような優しい声音で兄を労わる。

「そんなに恐縮せんでええ。気楽にな、気楽にやりなされ」

 大輔が言ってやっと雄吉は頭をあげた。ミツは黙っているが笑顔だ。浜のミツさんは、手作りの惣菜や漬物を持って来る。が、この夏の暑さには参っているようだ。ゆらりゆらりと身体を揺らせて居眠りをする。背中が丸まってきた。ひとかたまりの身体がそのままひとかたまりの魂を抱えこんでいる、と見える。

「ちょっと話させてもらってええですか」

 話の流れを切るようにハルが割りこむ。

「この間の件の続きかいな」

 視線がハルに集中する。

「そうや、あの事件であたしの頭はいっぱいじゃ。いつもいつもじゃ」

「何か進展があったんか」

 大輔の顔つきが険しくなる。

「小林から電話があっての」

「ええっ。小林の方から電話じゃと?」

 皆は大声をあげてお互いを見合った。

「野本に百万渡しての。それで手を打ってくだされと言うたら、野本はOKしたんじゃと」

 ハルは憤っている。

「百万を野本に掴ませて、ハルさんの件は解決したことにしてくれ、とゆうことかいな」

「本人の同意なしで解決はあり得ないで。話が面倒になるだけや」

 大輔とあたしは顔を見合わせた。

「その百万はハルさんに戻ってきたのかいの?」

「いいや、野本から話の欠片も聞いとらん」

「野本がネコババしたんやな」

 浩市は断定した。

「野本に抗議せにゃならんで」

 大輔はすぐさま言った。

「年寄りだし女やからゆうて、狐と狸に寄ってたかって馬鹿にされたような気分やで」

 ハルの声が大きくなる。

「狐と狸に騙されたんか?」

ミツは目を覚まし驚いたように話に入ってきた。

「そうじゃ、ミツさんの言うとおりじゃ」

 大輔はミツに笑顔を向けた。

「それは物騒なことやの」

 ミツは眉を寄せて口の周りに皺を無数に集め言葉を継いだ。

「こんな海辺にも狐や狸が出るんか。そりゃあ世の中変わったもんじゃのう。狐や狸は山に住むもんじゃと決まっとったがのう」

 ミツは大輔に微笑んで答えた。

「ほんに、珍しいで」

 大輔もさりげなく返している。

「あたしの話を続けてもええか」

 ハルは我慢できなくなったらしい。声を大にして胸を前に出す。背筋が伸びてハルの身は若いと皆の目に映った。

「まあ、聞いてくだされ」

 ハルは面々の眼を確かめ、落ち着き払って言う。堂々とした態度だ。皆を振り廻してきたとは思っていない。あたしは俯いて笑いを漏らした。

「事件はぢきに落着や、いや、落着したようなもんや、と小林は言うた」

「一体どれはどういうこっちゃ」

「野本が百万渡されてОKしたから、あたしにも了解せいとゆう意味かいな、ととれたがの」

 ハルは怒りの炎を眼に燃やしている。

「しかし、百万では収まらん話じゃ」

「それに小林に返済能力がなければ言葉だけの話じゃで。借りたものは返すちゅうことは、こまい子でも知っとる」

「二人は、まさに狸と狐やな」

 佐太郎が言い、他の者たちも「そうや、そうや」と同調した。

「で、それからどうなったんや」

「ちょっと、ひと休みさせておくれな」

 ハルは勝手にひと休みと決めて、茶を飲み子饅頭に手を出して頬張った。

「この饅頭はうまいのう、どこの店のや」

「静ちゃんちの嫁さんが家の角を改造してな、若旦那と二人で饅頭を作り始めたんやって。それがよう売れてな。二個で百五十円や。値段も大きさも手頃じゃ。その前を通る人のほとんどが買うていきよる。饅頭のてっぺんに鞆という字を焼きごてで付けたのが当たったんじゃろうな」

 あたしは答える。

「ほな、当分茶菓子はこの饅頭でもええな」

 ハルはよほど気に入ったようで、立て続けに三個も食べた。

「ハルさん、ちょっと過ぎるんじゃないかの。糖尿があると聞いておったで」

 サキが口を出した。

「それが、糖尿にはこれがいかん、あれは食べてもここまでと制限が多くての。そのストレスで滅茶食いしとうなる。食べるのは楽しみや。それを制限されてみい。ほんにつらいで」

「そうじゃろうのう、しかし糖尿には運動が大事じゃとゆうで。老人体操を最後にしてから、解散するようにしたらどうじゃろうか」

 富江が提案した。

「その話は前に、サキさんも言いおったな。年寄り向けの体操のビデオがあるんや、爺ちゃんも婆ちゃんもしたらええと孫が言いおってな。この間、誕生日の祝いにもろうたで」

 大輔が言う。

「そりゃあ、ええ話や。あたしらもその体操をしようではないか。しかし、大輔さんちばかりではのうて、わしらの家でもできたほうがええ」

 雄吉や恵子もうなずいている。

「テレビを使うてビデオで見られるようにしたらええな。希望のある方は手を挙げてくだされ」

 全員が手を挙げる。ミツも挙手している。

「今夜、息子たちに相談するでな。それでは、ハルさん、続きをお願いしようかの」

 大輔は話の展開を期待している気持ちを代表して促した。

「そうじゃった。ついつい饅頭の旨さに忘れるとこやった」

「聞いてくだされ、と言うたのはハルさんじゃ。饅頭のせいにしたらいかん」

 浩市が釘を射す。

「ほんに、すぐに自分のことを棚にあげるのが、あたしの悪い癖やな」

「分とったらええ」

 佐太郎は呆れた言いようをしたが、皆は笑った。

「で、ハルさんの話はどこまでいったんやったかのう」

 佐太郎は催促した。 

「百万の話やった。ショックやったで。野本に問いただそうとしたら、向こうから連絡があってな。絹子さんゆう小林の奥さんが長いこと入院しておると連絡があったで」

ハルは報告をする。

「それはどういう意味や」

 浩市が尋ねる。

「小林は大屋敷の一人娘、絹子さんの財産目当てで婿入りしたという専らの噂を聞いた、と野本は言うた。絹子さんの両親は婿の気質を見抜いておったんじゃろう。娘が可愛いし何といっても我が子じゃけんの。遺言には娘に九割、婿には一割と書いてあったんじゃと」

「親として考えた挙句の遺言やったんやろうの」

 あたしは、財産がある家の苦労を少しばかり理解した。金はあればあるほど良い、というものではないらしい。

「小林は、義理の両親と妻に何かあれば遺言は反古になると考えておったじゃろう。死んだ人間は何も言えんで」

 タマ江が客観的な意見を述べた。

「そうじゃ、しかし全財産を誰々に譲ると遺書にあっても、もらえんかった人が異議を申し立てると遺留分といって、法定相続分の半額はもらえる、と息子が言いおったな」

 大輔が言う。

「けど、金、金、と自分が稼ぐはええが、人の死を当てにするのは本当に嫌な話じゃ、寒気がするで」

 富江は小饅頭を手にして言った。

「絹子さん名義の土地、家作やマンションに駐車場などようけあってな。絹子さんが大病を患うておるらしいで万一のときは金を返して貰うチャンスと、債権者たちは狙うておるらしい」

 ハルは得々と語っている。

「人が死ぬのを待っている、期待しておるなんて、酷な話や」

「小林というお人は困りもんやの。債権者たちは小林は当てにならんと判断して、絹子さんの財産を当てにしたわけか」 

 浩市が言い、タマ江はうなずく。

「けどな、あたしとしては絹子さんの財産から返金してもらうしか手がないなら、そうしてもらいたいで。綺麗ごとでは済まされん」

 ハルは強い口調で返した。ハルの眼に在る怒りは消えない。

「考えてみれば、そこしか金を返してもらうところはないけんの。債権者たちの意見を簡単に悪と決めつけられん。わしも考えが浅かったで」

頭を下げる浩市を見て、ハルは「もうええで。人間は間違うもんや」と返した。

「浩市さん、ハルさんに説教されたらおしまいじゃが」

 大輔が浩市の肩を叩いた。笑いの波がひとしきり打ち寄せる。ハルは憮然として皆に視線を向けた。

「こっちがチビの婆さんじゃと侮って、野本はやりたい放題じゃ。どうにかしてギャフンと言わせてやりたいで」

 ハルは両掌を握り締めて目の前の空(くう)を連打した。


                 3


翌日、ハルは雄吉の家に現れたときから、立ったり座ったりと落ち着かない。

「ハルさん、どないしたんじゃ」

 浩市とあたしは尋ねる。

「メンバーが揃ったら話をするで。何回も説明するのは面倒じゃけんの」

 一人、二人と集まるのを待ちきれないのか、ハルは玄関を出て左右を見ている。

「まだ始まる時刻には五分あるで。茶でも飲みながら待ったらどうや」

「あたしの行動はあたしが決めることや。口を出さんでよろし」

「まったく、ハルさんはこの調子で最後までいくんかいの」

 佐太郎が大げさに両腕を広げて言う。

「うるさいのう。放っといてな」

 あたしたちは、肩をすくめ顔を見合わせて、ふふ、と笑った。

「ああ、やっとサキさんが来よった。大輔さんと富江さんは遅いなあ」

「あの家は、漁の後がひと仕事じゃ。が、息子夫婦と一緒にこまい孫も手伝うておるらしい。もう来るんやないか」

「佐太郎さんの言うたとおりや。夫婦で家を出てきたで」

「それでは、何の話が始まるか楽しみじゃのう」

 浩市は湯呑に注いだ茶をひと口飲む。「水分はほしいが、茶を飲み過ぎるとよう眠れん」とタマ江が言い出したので、先週から番茶と焙(ほう)じ茶にしている。持ち寄った袋菓子や庭先で採れたミニトマト、キウリ、昨夜の残り物の惣菜、漬物、煮豆などで一ものようにテーブルの上は賑やかだ。

 皆が揃ったところで、ハルは「実は野本さんが見えることになっとる」と大きな声で告げた。

「へえ、そりゃあ、また何でじゃ」

 一同が返したとき、ドアをノックする音がした。

雄吉の家の小さなドアを開くと、野本はあたしに片目を閉じて見せた。あたしは無視して内に向かい「野本さんが見えたで」と知らせた。

「おう、野本さん、久しぶりじゃが、話はどうにかなりましたかいの」

 大輔が口火を切った。

「途中経過が分からんで、どうなっちょるかと案じておりましたで」 

 サキが刺すような視線を向けた。

「私は、斎藤ハルさんに頼まれて仕事をしておるわけですが、いったい誰と話したらええのでしょうかいの。皆さんには勢いがありすぎて話し相手が分からなくなりますで」

 野本は正座の姿勢で皮肉を言う。

「確かにあたしが、野本さんにお願いした本人や」

 ハルは座布団を持って席を移し、野本の正面に腰をおろした。野本を見据える。

「大金がかかっておる話じゃで。ハルさん、頑張ってな」

 ハルの背中を軽く叩く。

「そうや、大金じゃ。地獄の沙汰も金次第やからの。あたしの場合は金の他に、池が問題じゃ。池に金を捨てさせられたんや。土地を担保に金を貸した者より始末が悪い。詐欺に遭うたんやからな」

 ハルは怒りの声を絞り出した。

「そこで野本さんの出番ということや。野本さん、何かええ話をもっておいでかいの」

 佐太郎が尋ねる。

「ええかどうかは、決められんですがの、動きはありましたで」

 野本はひと息ついた。

「変化があったゆうことですか」

 ハルが訊いた。

「まあ、ありましたな」

「思わせぶりな言いようは要らんで。簡潔にお願いしますよ」

浩市が迫る。

「浩市さん、話はこれからじゃ。落ち着きなされ」

 ハルの返事を聞いて全員が笑った。

「何かおかしいか?」

 怪訝な面持ちでハルが問う。

「落ち着きなされ、とわしらがハルさんによう言いよる言葉じゃで。つい笑うてしもうた。失礼して申し訳ない」

 浩市は笑いに負けて途切れがちに返した。

「どうもあたしはそういったところが足らんの。もっと気持ちの大きな人にならんとな」

「いやいや、その人その人の性分がある。そのままでええ」

 佐太郎がとりなした。

「まあ、まあ、聞いてくだされ」

 野本は両手を開いてメンバーに押し返す動作をした。

「小林社長の妻、絹子さんが亡くなりました」

 空気の流れが止まった。

「少し話が長うなりますが、聞いてくだされ」

「いくらでも聞きますで」

 ハルは力をこめて返した。

「絹子さんが患うて入院しておると、債権者たちも私も知っておりました。聞こえは悪いですが、待っちょったんですよ」

「奥さんが亡くなられるのを、待っておったんですか?」

 タマ江が尖った声で確かめる。野本はその言葉を耳にしなかったかのように続ける。  

「絹子さんが危篤という情報が入りましての。絹子さん名義の財産を亡くなったその日のうちに息子名義にして、借金を返済せんまま逃げ切る手段を取られんよう、債権者たちで絹子さんが入院しておる病院に集まりました。私らが親しい司法書士に、五人の名で事情を話しておきました」

 サキが茶を注いだ湯呑を、富江が菓子を乗せた皿を野本の前に置いた。野本はさっそく茶をひと口飲み菓子をつまんだ。

「生前の絹子さんは婿さんがどんなに頼んでも、親の言いつけには背けんと跳ねつけて一円も渡さんやったそうで」

「ふーん。そういうことやったんか」

 大輔は瞬きもせずに野本に丸い目を向けている。野本は真剣そのものの視線を集めて、言葉の運びが一段と遅くなった。慎重に自らの発言を確かめながら口にする。

「病室のベッドの上では命との闘い、五メートルしか離れとらんところでは金の争奪戦か。複雑やな」

「ドラマよりも切ないのう」

「奥さんは意識がなければ救われるが、あったらいたたまれんじゃろうて」

 サキとあたしは眉間に皺を深く刻む。

「小林には息子が一人おる。我々が心配しておったのは、母親の財産すべてが息子にいかんように、ということじゃった。私らは息子名義になったものを取り立てる権利はないでな。あくまで、小林が私らに、私の場合はハルさんじゃが、金を返してもらわにゃならん。小林は自分が継ぐ権利がある部分をもらっても、五人の債権者が狙っておる。小林の借金は合計で八千五百万円じゃ。くどいようじゃが、小林が継ぐはずの遺産が息子にいかんようにと策を練っておった」

「早く言えばそういうことですな」

「早くても遅くても同じじゃ」

 タマ江と佐太郎が口を揃えて言う。

「人が死ぬのを待っとるなんて、切ないのう」

 ミツは睨む。皆がミツに目線を当てた。

「ほんに、ミツさんのいうとおりじゃ」

「ミツさんは正しいで」

 富江は言い、あたしは優しい気持ちになった。口々に言い合って野本の話を遮っている。あたしは野本が唇をきつく結んでいる横顔を盗み見ていた。

「医者が、午後七時五十八分です、と命が切れた時刻を告げたのが廊下の外でも聞こえましたで。医者や看護師が出たり入ったりするんで、ドアが細く開いておったでな。急にざわめいた気配がして看護師の声が聞こえた。ご遺体のお浄めをいたします。皆さま、霊安室でお待ちください。廊下の突き当たりの手前右側にエレベーターがあります。地下二階で降りると霊安室まで矢印が表示されています。それに従って進んでください、と指示しておったで。小林たちが出てくると、ドアは内側からしっかりと閉められての。室内では医療者たちが動き廻っておるのでは、と察しておりましたで。一つの命が失われた瞬間に、金の督促とはのう、と私は頭を捻っておった。こんな不似合いなこともあるんか、と頭の隅にありましたが、この場面を外すわけにはいかん、小林の動きを知りたいと五人で霊安室の前に移動しました」

 その場に居合わせた野本が語る感想は、野本に対する不信感をいくらか少ない方向へ導いた。

「小枝ちゃん、野本も人間じゃな」

 大輔があたしに言った。

「ほんに、そうや。人にはいろいろな面があるでの、簡単に決めつけてはならんの」

 あたしが応じると、富江はあたしに口元を歪めてみせた。

「のう、富江さん、そうやろう?」

 あたしが富江に声をかけると「まあ、そうやな」とだけ返してきた。

「霊安室へは家族だけが入って、私らは廊下の硬いベンチに座っておった。小林に貸した金額の大きさに従って、奥さんの遺産のうちの小林の分け前をこちらに渡してもらわにゃならん、と何度も確認しましたで」

 野本は背広のポケットから、ハンカチを出すと額を拭いた。

「急に、あ、と小さく叫んだ男がおった。何や、と尋ねると、霊安室の入口、つまり遺体が入ってくるほうの扉も見張っておかにゃならん、と言うて小走りに行ってしもうた。一人がその後をついていった。ええタイミングやったで。ちょうど、小林が霊安室の裏の扉を開けて、左右を見ておったそうじゃ」

「鋏打ちになったわけじゃな」

 浩市が愉快そうに笑みを浮かべた。

「その男を見て、小林は霊安室に戻ったそうじゃ。が、きっとまだ時間はある、と思うたやろうな。チャンスを狙うて市役所に死亡届を出し、その足で司法書士の事務所に行く算段をしておったと思うで。自分の相続分をその場で息子に相続させたい意向やと私らは確信しとりました。そうなれば、債権者たちには金は一円も返ってこん。奥さんの遺産は抵当物件になっとらん。私らは小林に金を貸したんや。小林から返してもらわにゃ」

 話す方も聞く方も緊張は増していく。

「で、うまくいきましたかいの?」

 あたしが尋ねると野本は胸を軽く叩いた。

「いきましたで」

 野本ははっきりと答えた。皆は眼を凝らし唾を飲む。

「債権者たちが払った金額に応じて返済してもらおうと話は決めておった。霊安室から出てきた遺族の流れを五人で両腕を広げて止め、小林を捕まえました。この方の息子さんはどちらに、と大きな声で尋ねると、私ですと一歩踏み出してきた青年がいました。で、私らはあなたの父上に金を貸して、しかし返してもらえないので、これからの話し合いの証人として立ち会ってほしい、と頼みました。息子は話が理解できないという顔でした。小林は葬儀屋と相談をせにゃならんから後にしてほしいと言うたが、あんたは警察にしょっ引かれるかどうかゆう話や。葬儀のことは親戚の者に頼めばええ、と私らは言い張ってな。親戚ばかりでなく、通りかかった人たちも立ち止まって、何事かとその場面を見おったんで、小林も観念したらしく、息子も心配そうなようすで付いてきたで。七人で小林の車とタクシーに分乗して小林の家に行き、ひと部屋に集まっての」

 野本はひと休みといってふうに、湯呑を手に取った。聞いているほうも、どうやら話は順調に進みそうだと受け取って茶を飲む。

「奥さんの財産はあんたが半分、息子さんが半分と配分するのが普通やけどな、と一人が小林に話しかけた。しかし、あんたがすぐに自分の分を息子に相続させると、私らはあんたから金を返してもらえん。借りた金を返さんお人じゃと噂がたったら、もうこの土地で商売はできん。それどころか、住むのも難しゅうなるやもしれん。そうなったら息子さんも困る。父親の不始末で迷惑をかけられたら可哀想じゃ。父親を恨むかもしれんで。野本さんに返金の交渉を頼んだ高齢の女性は、神奈川の公共の池を住宅と偽って買わされたんじゃ。こりゃあ裁判ものじゃ、と怒っておると聞いたで、と五人で代わる代わる言うてな。息子はひどく驚いて、なんや、父さんは何をしたんやと訊いてきたで、今あなたがお聞きになったとおりです、と私が答えました」

 野本はひと息ついた。話の緊迫感がこの部屋にも満ち満ちてくる。あたしの握り締めた掌の内は汗で濡れている。

「息子はな、父さん、一冊の本でも、借りたものは返さにゃならんで、と父親に猛然と食ってかかってな。僕の父さんはそんなことをしとったんかいな。情けないの極みじゃ、と言い捨てたで」

「息子は真人間なんじゃな」

 野本の言葉を聞いて、浩市がほっとした言いようをした。

「そうじゃ、それが普通じゃ。しかしそんな父親の下でええ息子によう育ったの」

「母親が偉かったんじゃろうの」

「そうかもしれんの」

「そうじゃ、そうに決まっとる」

「母親と息子はええ関係になることが多いで」

「それに比べて、母親と娘は難しいときがあるのう」

「父親と息子も、バトルちゅう時期があるの」

「親を乗り越えて大人になるためじゃ」

「それが、このごろは仲良し親子が多くなって、反抗期のない子が増えとると新聞にあったで」

「それは問題じゃなかろうか」

「家族、ちゅうもんは人間関係の学びの場じゃからのう」

 タマ江のひと言に皆は落ち着いた。世間話の時間は、野本にとっては良い休憩になったようだ。張っていた肩が落ちている。

「話を戻してええですかいの」

 ややあって野本が声を張った。

「すまんのう。あたしらは、いつもこんふうに話が筋道からずれてばかりや」

 サキが言うと野本は笑った。

「いや、分かってもらえばええことで。話を戻しますと、息子の勧めもあって小林は返済に努めると言いましたで。息子は、僕は父が言うたことを確かに聞きました、と言うてくれての」

「ほんに立派な息子や」

 ハルが感激している。野本はハルを見てうなずいた。

「今日、明日は通夜と告別式での。その間、債権者たち五人で、小林から返してもらう金額の配分を確認する予定です。その後小林本人と息子さんに同席してもろうて、正式に決めますで。確実に返済されるよう念入りに話し合います。結果は四日後報告にあがります」

「そうか、そうか」

 浩市がにこやかに言い、打ち解けた雰囲気が広がった。

「ご苦労さんですが、よろしゅう頼みますよ」

 サキとあたしは揃って野本に頭をさげた。

「ハルさん、結果がええようになりそうじゃな。えかったなあ」

 大輔も喜んでいる。

「皆さんのお陰です。箱根まで行ってもろうてなあ。感謝しとります」

「ハルさんらしゅうもない。いやに素直なお言葉やな」

 大声で笑い合う。

「それにしても、何か今ひとつすっきりとは理解できんのう。これはわしの脳の力の衰えかもしれんが」

 佐太郎が真面目に頭を捻っている。

「あたしは、まるで分からん」

 ミツが言うのを聞いて、ハルが提案する。

「図にするのは大輔さんは得意じゃで、ここでできんかいの。復習になるで」

「そうさな。野本さんの話を描いてみるかいの」

 大輔は、こんなこともあろうかと予測していたのか、持参したカレンダーの裏を広げてテーブルに広げた。

「これが、小林。そいで、ここに金を貸したまま返してもらえん人たち五人がおる」

 大輔は真ん中に大きな丸を描き、小林と書きこんだ。その周りに小さめの丸を五個描いた。

「この周りの丸の一つがハルさんや」

 ハルはうなずき笑みを浮かべる。

「ここに、亡くなった奥さんがおる」

 大輔は、大きな丸のすぐ横のベッドに寝ている髪の長い女を描いた。

「小林の奥さんは、髪を長うしとったんか」

 ミツが問う。

「いや、女性の印(しるし)や」

「髪が長いのは女性と分かるし、ベッドに寝ておれば病気で亡くなった奥さんじゃと理解できる。大ちゃんは絵が上手じゃ」

 サキは感心している。

「ここにもう一人おる。小林の息子じゃ」

大輔は、紙の中心から離れたところに、若い男を濃い鉛筆で手際よく描く。寝ている女性と若い男を、それぞれ鉛筆で囲んだ。

「この二人は借金と関係がない。金を借りて皆を困らせておるのはこの男一人じゃ」

 大輔は大きな丸を太い赤のマジックペンで囲み二重丸にした。周りの小さめの丸の一つずつから、大きな丸へ矢印を書く。赤い丸の中に、担保物件ばかりで返金できない、と書いた。寝ている女性から、中央の赤丸で囲まれた男と若い男に向かって、一本ずつ直線を引きその先に矢印を記した。矢印の先に遺産と書く。 

「こりゃあ、ようわかるで」

 野本までが賞賛した。

「青いフェルトペンはあったかいの」

「あるで」

 すぐに富江が応える。一同は大輔が握った青いフェルトペンの先を見る。

「問題はここじゃ」

 大輔は女から小林に引いた直線の先の矢印から、青いフェルトペンで離れた場所にいる男に太い直線を引き、そこに星印を描いた。

「この青いフェルトペンを引いたようにならんようにと野本さんは働いてくださった」 

 大輔は青いペンで直線の上に大きく×を記した。

「それは、ありがたいこっちゃ」

 ハルはうなずき、野本も笑みを浮かべた。


 四日経った。いつもより早めに全員が集まる。各々がたてた予想や希望を口にしては、肯定したり否定したりと賑やかなこと、このうえない。当のハルは、我が身に及ぶ結果を気にしてか、そわそわと立っては外を眺め、また座って湯呑をもち、今度は湯呑を手にしたまま、立って玄関に行く。ひたすら野本を、野本が運んでくる情報を待ち続けている。

 野本が視界に入ったらしい。

「野本さーん。どうじゃったかのう」

 ハルは大声で呼んだ。意識せずにだろう、手を広げたので湯呑が落ちて割れた。

「野本が来よったか」

「どんな話し合いだったじゃろうのう」

 ざわめく中であたしは箒を持って、玄関の土間に散った湯呑のかけらを集めた。

「気がつかんで済まなんだの」

 サキは寄せ集めた陶器のかけらを、新聞紙で二重に包んだ。

 野本がテーブルに座ると皆が凝視する。野本は眉を僅かにひそめた。

「話し合いはうまくいったですか?」

 浩市が口火を切った。

「野本さん、どう相成りましたで」

 ハルが詰め寄る。皆の周りの空気が凝縮する。

「ええ。まあ、上々と言えます」

「その言い方は、含みがあるの」

 あたしは絡んだ。

「絹子さんの遺産はどうなったんや」

 富江も単刀直入に問う。

「それをこれから話しますで」

 野本は、会場を提供している雄吉に軽く頭をさげた。いつものメンバーが全員揃っているのを確かめて、微かに眉を寄せた。

「わしらは歳が歳じゃけえの。これだけ集まってもようよう一人前じゃ」

「そういうこっちゃ。大目に見てくだされ」

 佐太郎とサキが野本の表情を読み取って応える。

「年寄りを大事にすれば、野本さんにもええ老後が待っとりますで」

 タマ江も言う。野本は苦笑を漏らした。

「小林と息子が絹子さんの遺産を半分ずつ継ぐと決まりました。絹子さんの遺産は家賃や駐車場の料金、他に有価証券とすぐ金になるものが主なので、順調に返済が進むと思います。他に現金があったそうですが、治療のためにほぼ使い切ったということでした」

 野本は大きく息を吸い、肩をあげて話し合った顛末を披露した。

「法定相続になったんやな」

「えかったのう」

 メンバーは笑顔を交わし合う。

「ハルさんのところにも、きちんと全額返ってくるんでしょうかいの」

 佐太郎が確認する。

「それがの」

 野本は言い淀んだ。

「どうしたんじゃ。まだ問題があるんかいな」

 浩市が被せるように問う。

「家賃や駐車場料金は月々入るものですから、一度には返せんのですよ。小林が借りた金の合計は八千五百万でな、ま、その金に端数は付きますがの。小林の分の遺産相続から得る収入は年間八百万ということでした。それを五人で年間いくらずつと取り戻していくと、ざっと十年と少しかかるゆうのが問題になりまして」

「それでは、あたしが生きとるうちに問題が終わらんかもしれんの」

 ハルはさっそく反発した。

「でな、社長は働けばええんじゃ、オリンピック前やで、東京に出稼ぎに行って来いや、と怒鳴りつけた者もおってな。少しでも多く早く返済して誠意を見せてほしいで、と小林を責め立てた者もおった。すると小林はわしの生活費もある、わしが生きておらんと返済はできんことになるで。あんたたちもそうすりゃ困るんやないか。それに自分がもろうた遺産を、自分の意志で息子に継がせて何が悪いのか分からんと、反撃してな。それで混乱しておると、息子がまあまあ、と宥めたで。父さんが感情的になっては問題は何ひとつ解決せんし、お互いを攻撃しあっても良いことはない。父さんに金を貸した人は多少の親切心があったんじゃろうから、その人たちを敵にまわしてはこの土地に住めんようになるやもしれんで、と何回も諭しての。小林はようよう静かになっていった。一時はどうなるかと思うたで」

 野本の話に皆は聞き入っている。老人たちは、ひとたび問題が生じると単純に展開していかないと経験から学んでいる。しかし、このような大金や詐欺が絡んだ話は初めてだ。あたしは、自分がちっぽけな場所で生きてきた、と振り返る。知らない世界がまだまだあると考えていると、ふいに朝刊で読んだ記事を思い浮かべた。母親とまだ学齢期の姉妹の家族が、おやつがないのでティッシュペーパーを味見して凌いでいる話だった。急に胸が詰まる。金をやっきになって取り合う場面が、少し遠のく。しかし、金がなくては生きていけないのが現実だ。あたしは瞼を少し落として、野本とハルを中心にした場面をみやった。気が付くとサキとタマ江も同じような眼になっている。

「小林は息子の言い分を認めたんやろうな、だんだんしおらしゅうなってな。仕事が旨くいかん。皆さんに迷惑をかけて申し訳なかったで。首都圏や大都市でも空家が問題になるようなご時勢や。不動産は、売る人はおっても買う人がおらん。この経済や社会の状態は、わしら商人がいくら頑張っても限りがあってのう、と訴えたんじゃ。殺気立っておった者たちも鎮まっていってな」

「泣き落としか。じゃが問題がずれておる。自分がどんなことをしたか分かっておるんか、と言いとうなるで」

 大輔は腕を組み唇を曲げた。

「で、それからどうなったんや」

 浩市が話の続きを催促した。

「息子がな、父に時間をください。時間がこの問題をいずれ解決します。感情を持ちこまずに話し合ってください。父に非があると僕は知りましたので、ひたすらお願いするしかないのですが、と言うてな」

「その息子は、良うできた子じゃな」

「いいや、自分の取り分はしっかり持っといて、それから一円も出さんのは結構したたかやな」

「そう言われれば、確かにそうじゃ」

「しかし、親子、夫婦といえど金は別、と割り切ったほうがええ。いい大人じゃでの」

「なるほどな」

「しかし、息子も働かんでもそれだけの収入があるゆうのは、どうやろうかのう」

「雄吉さん、他人の心配をせんでええ。誰もあんたさんに人生が問題になるほどの金をくれるとは言うとらんで」

 ハルが突く。

「ハルさんの言うとおりや。わしは金銭感覚がおかしいらしいの」

「金に関しては、人それぞれや」

 あたしは、お茶を濁して雄吉の話を切りあげた。

「でもなあ、そんなに時間がかかるのも老人にとっては問題じゃ。それについて考えんといかんで」

 ハルの眼はきらきらしている。脳が忙しく働いている証拠だ。

「今夜、自分の年齢と併せて、その時点でいくら返金されておるか表にしてみる」

「それはええ。問題の整理になるで」

 タマ江が保証したので、ハルは良い気分だったのだろう。

「明日にでも、それを見せますで」と自信を見せた。

「ハルさん、表を作ると他人よりも自分自身が納得できるで」

 大輔が助けるように言う。

「小林が言うたように、小林の生活費も頭に置かにゃならん。仙人とは程遠いお人やしの」

 雄吉が言うと、どっと笑いが広がった。

「そうや。霞を食うて生きていけとは言えんの」

 ハルは素直に雄吉の意見を取り入れた。

「雄吉さんは鋭いの」

 サキは見直したような言い方をした。

「和解が成立しましたで、提訴は取り止めると決まりました」

 野本は高らかに告げた。

「裁判沙汰になると、時間も体力も気力も膨大なもんじゃ。ええこっちゃ」

「そうじゃ。わしらが生きているうちに解決するかどうかわからんしな」

 佐太郎や浩市は野本の発言を歓迎した。

「公平に、というのがなかなか難しい場合が多いらしいで。我先にと取り合いになったり、抜け駆けする者が出たりするケースがようある、と息子が言いよったでな」

 富江は落ち着いていた。

「大元が決まって良かったで。そうとなればいずれ時間が解決するで。後は決まったように実行されるかどうかやな」

 タマ江が続けた。

 今度こそ全てが解決するのではと期待していたハルは、当事者として良かったと言われても落胆に近かったらしい。気が抜けた表情になった。年齢を考えると、解決を見届けられるだろうかと不安が沸いたのだろう。

「野本さんらが結束して話し合いを重ねたおかげじゃな。礼を言わねばな、ハルさん」

 佐太郎の言い分にもハルは不機嫌な顔つきを崩さない。それを見てサキが野本の前に進み寄って「この度は、仲間のハルさんのために大きな働きをしてくださいまして、まことに有り難うございました」と白い頭を下げた、つむじの辺りが薄くなって頭皮が見える。

「いやいや、こちらこそ。ご協力有り難うございました」

 野本は畳に八の字に掌を置いて頭を下げる。あたしは胸を撫でおろした。

「野本さんは、弁護士としてよう働いてくださいましたで」

 タマ江が背中をシャンとさせて言う

「タマ江さんはこのグループの星じゃけえのう、言うとることに間違いはないで」

 あたしはタマ江の存在の大きさを野本に伝えた。

「法律の世界は面倒なんやな」

 ハルは膝に手を置いて呟く。

「そいで法学部ゆう学問を学ぶところがあるわけや」

 浩市がハルに言い聞かせる。

「しかしなあ、払った金を返してもらうゆう単純なことが、何でこんなに厄介なんや。分からんのう」

「そうや、貸した金は返せば済むもんじゃ。菓子折りのひとつもつけてのう」

 ハルの不満にミツは答えた。

「もみじ饅頭はほんに旨いでこまいころから食べておるから馴染みがあるんやな」

 ミツは重ねて言う。

「おお、そうでした。そのもみじ饅頭を持ってきましたで」

 野本がビジネスケースの中から菓子折りを取り出した。

「お茶を入れましょう」

 あたしと富江が同時に腰をあげた。

「お茶の時間ですかいの」

 ミツがうれしそうに言う。

「そうですよ。見通しがついたでひと休みしましょう、な」

 サキが応える。

「あたしは、ひと月いくら返してもらえるんかいの」

 ハルは待っていた答えがなかなか出てこないので、じれたように問いただした。

「債権者たちで、割り振りを考案したんですがの、ハルさんには、ひと月十万六千円五百円ですが、小林の生活費に六千五百円は廻すことになるでしょうから、十万円です。一年間で百二十万です」

「あたしは、七百六十八万円返してもらわにゃならん。ええと」

「六年半くらいかのう」

 大輔が素早く計算して答えた。

「六年半のう。するとあたしは九十四、五歳じゃ。ちっとまどろっこしいで」

 ハルは首を傾けて目を閉じ、考えこんでいる。周りの者は黙って待ち続けていた。

 ややって、ハルはポンと手を叩いた。

「そのうちの四年分、四百八十万を小林に働いて返してもらおうかの」

「働いて返す、とな?」

「それはどうゆうことや」

 野本が自分に目線を当てているのを確認し、ハルは強い調子で言う。

「以前サキさんが提案しとったことや。平安時代やったかの、国のため、ちゅうか中央権力のために働くことを税のひとつとしたことを思い出したで」

「いや、奈良時代にもあったではないかいのう。租庸調と習うた気がするな」

「よう覚えておいでじゃの」

「老い始めてからは聞いたそばから忘れてしまうがの。小学校や中学校で覚えたことは結構覚えておるもんじゃ」

 がやがやと言い始める。

「つまり、それは小林社長が労働で返金の一部を贖(あがな)ってほしい、とゆうことですかいの」

 野本はハルの言い分を理解したようだ。

「素晴らしい思いつきやないか。ハルさん、冴えておいでじゃな」

「サキさんが提案した皆の家を繋ぐ話や。ええ話やと思うたが、はてさてどのようにしたら実現するかいの、と思うとったで」

 佐太郎と浩市は直ちに賛意を表した。

「それにな、佐太郎さんちとあたしの家を結ぶ渡り廊下も造ってな」

「すると全体がU字型をひっくり返した形になるとゆうこっちゃな」

 佐太郎は確認する。

「そうじゃ」

 ハルはうれしそうに言い切った。

「神奈川の池の話が出てから、あたしはない知恵を絞りに絞ってな。どう良いのか毎日考えに考えておったで。かなりのエネルギーが要ってな、脳の力を使い果たしてしもうたようじゃった。神奈川の池の話が出てから、途中で何度も芯から嫌になったけどな、ようやくここまでこぎつけたで。皆さんのおかげじゃ」

この台詞に「まっこと」を追加して、ハルは二回繰り返した。

「新聞やテレビで報道されておるのを聞くと、金の絡んだ詐欺事件はほとんど泣き寝入りじゃ。ハルさんは流されることなく、戦っておる。大したもんや」

 あたしは賞賛した。

「当事者のあたしはの、金よりも精神の消耗がつらかった。まさか自分がこういう目に遭うとはとショックでな。一人で、うーん、うーん、唸ってな。どうしたらこの気持ちが鎮まるかと貧血になるほどじゃったで。誰にも替わってもらえん話やでな」

 ハルは言った。

「よう乗り越えたで」

 サキも感心している。

「働いて返す、というのは?」

 野本は怪訝そうに再度問い返した。また、面倒なことが起きそうだと困惑しているようすだ。あたしは苦笑した。

「あたしらも、いつまでこうやって集まれるか分からんでの、あたしの家と佐太郎さんの家との間に渡り廊下を造ってもらいたい。あたしの家の前の路地の奥はお寺さんじゃ。空が見える屋根にしてな。観光客も来るで真ん中に土足で通れるところを造ってほしい。雨風もあるで廊下の両側の下半分は板塀を造ってな」

 ハルは次第に気持ちが高揚したらしい、声高になった。盛大な拍手が渦巻いた。

「野本さんから小林社長に話してもらいたい」

「それは」

 野本は気乗りがしない顔つきになった。

「ここまで話をもってくるのも、結構な苦労だったんですよ」

 恩着せがましい返事をする。自分は仕事を見事にやりきった、と満足していたのだろう。こんな提案が出てくるとは予想もしなかったに違いない。

「野本の器の程度はこんなもんかいの」

 サキはハルに耳打ちする。

「まっことじゃ」

 サキは野本が困っているのを楽しんでいる。

「野本さん、どんな仕事にも苦労は付き物でしょうが。だから、やりがいもあるってもんですよ」雄吉が言う。

「わしもそう思いながら働いていた時代があって、思い返すとその経験がもてたことは、ほんまに貴かったと思うで」

「本来なら借りたものは、そっくり返すのが人の道や。あたしは利息は要らん。訴訟も考えたが、この歳では時間的な問題がある。気力、体力も自信がない。そいで、働いて返してもらうのが一番ええやないか、お互いにすっきりするんやないかと思いついたで」

 雄吉に続いてハルが野本に説教めいたことを語る。ともとも・くらぶの面々の表情は晴れ晴れとしていたが、野本は唇を歪めている。

「とにかく、小林さんと相談してくだされ。わしらはハルさんの事情を見かねて協力をしてきましたで。最後はきっちりと帳尻を合わせたい。野本さん、あんたさんもハルさんのお味方の一人でしょうが。そこのところをしっかりと自覚してくだされ。人はな、いろんな人がおる。気の小さな者も豪儀な者もおる。しかし、どんな人でも、その人にちょうど良い人生が与えられるとは限らんで。身の丈以上のことや面倒やと思うものが、しょっちゅう降ってくるでの。ここは一つ、踏ん張って年寄り集団を応援してくだされ。いずれ野本さんも年寄りになる。年寄りのために働けば小さな集落じゃ、評判になって決して悪いようにはならんと思うけどな」

 大輔が大きな目をますます大きくして、野本を見据えた。

「野本さんは、もともとあたしの力になってくださる方として、お願いしたお人じゃ。あたしらの考えを小林さんに淡々と伝えればええんじゃ。そいでついでに、わしも困っておる、と言えばええが。二人で仲良う困っておくれなされ。金額は材料費、通信費、働く人の日当。この仕事に関するものなら何でもええ。合計額が四百八十万円になればええんじゃ。あたしは野本さんに話をしておるが、ご本人の小林社長にこの労働に加わってもらいたい」

 理路整然と語るハルに一同は感心している。

「ハルさんは正しいで」

「労働で返すのはええ考えや」

「小林は住宅地と偽って、公有地で灌漑用の池をハルさんに売ったんや。娘さんが見に行かなんだら、ハルさんは住宅地を買うたと思いこんだままやったろうで。立派な詐欺事件じゃ。訴訟をおこして当然や」

 野本の痛いところをサキはえぐるように突く。老人たちに追いつめられた野本は、腕を組んだままだ。

「ところでハルさん、この問題のおかげか、えろう成長したのう」

 サキが言うと、ハルはニヤッと笑う。

 「人はいろんな面をもっとる。その人間の多面性がお互いに交錯しとるのが、人生を面白うしとるで。小林社長がどんな反応をするか楽しみじゃ」

 タマ江が茶をすすりながら言う。

「歳をとっても成長するゆうことがあるんじゃな」

 ミツがぼそぼそと言った。全員が一斉にミツを見やって笑みを浮かべた。

「人は生きている限り修行じゃけえの」

 タマ江は姿勢を正しくして発言する。

「さすが、タマ江さんじゃ」

 浩市は拍手を送った。

「さて、そろそろ時間じゃ。野本さん、よろしゅう頼みますで」

 当番の雄吉が宣言した。

「野本さんはハルさんのお味方や。ハルさんはわしらの仲間じゃけん、野本さんを応援しとりますでの」

 佐太郎は野本の肩を叩いた。

「何しろ弁護士さんじゃ。そんじょそこらの人がなれるもんではないでな」

 サキも応援する。

「やってみます」

 野本は小声で言い頭を下げ、顔をあげた。

「小林社長から百万預かっています。明日にでも振りこみますので、ついでのときにでも確認してください」

「ああ、小林がこれで手を打ってくれと、あんたに渡したと言うた百万ですかいの。それは助かりますで。その百万は最後の返済から引いてくだされ」

ハルは微塵の動揺も見せずに言った。野本は、驚いて口を開いたが、すぐに平静を取り戻した。ビジネスケースを手元に引き寄せ、何事もなかったかのように玄関の戸を開き去っていった。一同は拍手をして見送った。

「いやあ、どうなるか、楽しみじゃな」

「叶えば、わしらも助かるで」

「この話は前から出ておったがの」

「しかし、いざ実行となると、きっかけを掴むのは難しい。ちょうど良かったで」

「あれだけ言うたんや。野本も引っ込みがつかんで」

 スニーカーやサンダルを履きながら、しばらくやりとりが続いた。やがて皆は手を振り合って帰っていった。

 

                4


 野本と小林の話し合いはどうなっただろう、と胸が高鳴る。あたしが雄吉のアパートに着くと既にメンバーは勢ぞろいしていた。

「野本は何とか小林を説得したと昨日ハルさんが言うておったがの」

「小林がほんに納得したかどうかやな」

「おおさ、それがもっぱらの気がかりじゃ。生きておるうちに決着を知りたいのう」

「何をおっしゃる。佐太郎さんは、りくさんに百まで生きると約束しなさったんじゃろう?」

 サキが念を押す。

「そうじゃった。りくとの約束を忘れるようでは、わしもおしまいじゃの」

「これこれ、おしまいにはまだ早い、とあたしが言おうと思うたに、自分から口に出すのは困りもんじゃ」

 笑い声が浜に打ち寄せる波のようだ。

チャイムが鳴った。

「はてさて、どなたじゃ」

雄吉は立ちあがる。

「小林と野本が、ここに来ると連絡があったでな。その二人じゃろう」

 ハルは言った。

 ドアが開いたと同時に、叫びに近い声が聞こえる。

「何じゃ。小林社長ゆうのはお前のことじゃったか?」

 雄吉の声だ。

「そういうお前は、模範囚の雄吉か」

 応えて太い声がする。どうやら二人は見知らぬ仲ではないらしい。コタツと小さなテーブルを並べ、その周りに座っている者たちは一瞬息を詰めた。小林の後ろに付いてきた野本も驚きを隠せない。口を半開きにしている。

「ともかくそこの男衆、中に入ってドアを閉めてくだされ」

 あたしとサキが強い口調で促した。

「お知り合いだったんですか」

 野本は驚いている。

「大阪の刑務所やったな。お前は窃盗で、わしは詐欺罪やった」

 小林だ。

「あんたさんは、詐欺の病気やな」

 雄吉は笑って返す。

「刑務所?」

「詐欺罪?」

一同は、オウム返しに口にした。思わぬ展開になりそうで困惑している。

「小林は詐欺慣れしとったんじゃな」

「池を宅地にするんじゃからの、みごとなもんや」

 浩市と佐太郎は耳打ちし合っている。恵子は眉をひそめ、兄の雄吉と体格の良い赤ら顔の小林を交互に見やっては、ひっそりと息をしている。ハルはいつもの勢いはどこへやら、シュンと静まりあちらこちらに視線を走らせ落ち着かない。

「それは昔の話やないか。とりあえず、横に置いておきましょうで」

 雄吉はしばらく睨み合うと、小林に呼びかけた。

「まあな」

 小林はおとなしく応じた。

「そもそも、何で神奈川の山地に在る公有の池を、鞆の人に勧めたんじゃ。売った本人から聞きたい」

 大輔が開口一番、小林に正面から尋ねる。

「金じゃ、金がのうなっての。それに、債権者たちが毎日やってきて、金を返せ、金を返せと責められて怒鳴られての。わしは頭がおかしゅうなってしもうたで」

 小林は大輔の問いに素直に答えた。

「あんたの頭がおかしゅうなったのは自らが蒔いた種のせいじゃ。大屋敷にお住まいの身じゃ。土地を担保に金を借りたなら、その土地を売って返せばええじゃろうに」

 大輔は畳みこむ。

「そうはいかんのじゃ。土地が売れん。この不景気じゃで買う人がおらん」

「不景気は二十年ばかりも続いておるで。そうゆう時勢やとわかっておらんかったのか。売れん土地を次々担保にして金を借りたのは、相当見通しが甘かった、ゆうか目が見えんやったんじゃな」

 浩市も入りこんできた。小林は黙ってしまった。

「ハルさんは二度も土地を買おうとしたで。その話のときは先に買うた人がおったゆうやないか。売れた土地もあったゆうこっちゃ。その利益を債権者たちに少しでも返す気はなかったんかいな。真心ちゅうもんをちょっとでも見せれば、責められたり怒鳴られたりすることはなかったろうに。人は気持ちやで。それとも社長は足し算、引き算、割り算ができんとか」

 サキは滑舌鋭く小林を射す。

「そのくらいでは返しきれん金額になっとったでな。売地と看板を立てると、それなりの体裁は整えねばならん。定期的に草を刈ったり、捨てられたゴミを処分したりと手がかかる。それも積もって結構な金額になっとった。じゃが返す当てはあった」

 小林は苦しい声を出す。

「なんや、当てとゆうのは」

「女房の病気は治らんと言われておったで。死ねば遺産が入る。それで返すつもりやった」

 皆は息を呑んだ。あたしも息をするのを忘れた。

「何じゃと。大事な女房殿が死ぬのを当てにするとは、あんたは人間か?」

「治らん病気になって、不憫なやつじゃと思わんかったんか。死ぬのを待っとるなど地獄行きじゃ」

「犬猫にも劣るで。獣は不足を言わんで自然に身を任せて暮らしとる。夫婦の契りをした奥さんや。自分の借金の返済のために、妻に死んでほしいとは薄情この上ない男じゃ」

 死を待たれていた妻は、小林と一緒になって幸せではなかったろう、寂しい思いをしただろう。あたしは知らぬ女性を思って悲しくなる。

「なぜハルさんに宅地というて池を、しかも御殿場市所有の灌漑用の池を売ったんじゃ。宅地ゆうなら宅地を売ればよろしい」

 富江も興奮して叫ぶ。

「そうじゃ。宅地と言うて池を売るなぞ、よう堂々とそんな悪さをしなさるの。呆れるわ。不景気が当たり前の時代じゃ。一部の者は富を持っておるようじゃが、その他大勢はは貧乏か、貧乏の一歩手前か、貧乏に近づいておるのが現実じゃ」

「浩市さん、よう言うた。わしらは年金で細々と暮らしとる。社長、夢を追う時代はとうの昔に過ぎてしもうたで。経営方針を見直しなされ」

 言葉も声もエスカレートしていく。唇から唾が飛び、涎が垂れる。

 小林は腰をあげた。仁王立ちになる。

「わしが野本さんから聞いたのは、年寄りたちはいつ何があるか分からんで、四百八十万円を使って、二軒の家を繋ぐ渡り廊下と、それぞれの家を結ぶ小さな屋根付き廊下を五箇所造作してほしい、というもんやったでな。そいでここに来たんや。文句を言われるために来たんやないで。胸糞悪い。わしはの、呼ばれてきたんじゃ。何か悪いかのう」

 小林は居丈高に胸を反らせダミ声で吠えた。


 サキがテーブルの上に立って、ピーッと笛を鳴らす。

「何じゃ。その笛は」

 大輔が尋ねる。サキは両の手を開きその場を制する仕草をしながら、二度続けて鋭く笛を吹いた。一同は笛に気を取られて平常心に近くなる。

「この笛はのう、話し合いが荒れた場合に使ったら効果があるやもしれんと思うて持ってきたで。爺さんが学校に勤めておったときに運動会やらで用いておった思い出の品や」

「さよか、何でも役に立つもんやな」

 大輔はグループを代表してサキに敬意を表している。話し声が再び広がった。

「皆さんも小林社長も腹の内を曝して、少しはさっぱりしたじゃろう。そこで本題に入ってもらおうで。あたしらには喧嘩に使う時間が惜しいでの。小林社長が野本さんから聞いたように、渡り廊下を造ってほしいんじゃ。手伝いを頼むのは構わんが、その費用は小林社長がもっておくれ。あたしらは工事の進み具合を楽しみにしておるでな。この工事は大層意味があっての。年寄りのあたしらがもっと歳をとったときに、お互いが自由に行き来して、グループホームのように各自の家を活用するプランじゃで。若いもんがおる家もあるから心強い。しかし、何でも作るのは簡単じゃが、それを活用し続け維持するのは、ようけ難しい。あたしらより若い人たちにも加わってもらわにゃならん。ここのメンバーは、もうすぐあの世に逝く者がほとんどや。作りっ放しでは意味がない。この渡り廊下を使い続ける方法は、民生委員の中越さんに働きかけて、今後の課題として丁寧に相談していこうと思うとる。うれしいことや楽しいことを考えて、思うて、生きていきたい。あたしらにもまだ未来がある」

 サキはひと区切りつけ見廻す。メンバーの眼は輝いている。

「金の話も大事じゃ。ないと生きていかれん。じゃが、もっと大事なのは気持ちじゃ。心じゃ。小林社長の力がこの仕事に関わってくだされば、社長も気分が良うなるで。あたしはそれも楽しみにしておる。皆さんもそうじゃろう?」

 拍手が沸き起こる。

 演説を終えたサキがテーブルを降りると、富江と恵子が二枚の雑巾と布巾でテーブルを丁寧に拭いた。全員が腰をおろした。

「お二人も茶を飲みなされ。気分が落ち着くでの」

 サキは野本と小林に笑顔を向けた。二人の表情は以前に比べて柔らいでいた。あたしは湯呑に茶を注ぎ、盆に干物の欠片を盛った皿も載せて二人の前に置いた。

「どうぞ」

 と勧める。野本と小林はややあってから、申し合わせたように揃って頭を三十度ほど前に倒してから湯呑に手を延ばした。

 工事の手順や経費、人数、日数など必要な事項について、当事者であるハルと小林を中心にして話し合う。小林はその結果を図面や立体図でざっと描いて見せた。誰もがもの造りの技量に優れている小林の意外な一面を認めざるを得なかった。あたしは、小林が力強い線で描いた図面と立体図に感動すら覚えていた。

 自分たちのための物を造る準備の一歩目を共有したのは、良いことだった。順調にその日の作業が終わったとき、一同は誰彼となく見合わせて、うなずき合った。小林、野本、ハルの眼は輝いていた。あたしも清々として胸を張った。

 

                 5


八月いっぱいは暑い日が続くでしょう、とテレビの天気予報が告げた。連日、雲ひとつない空が広がっている。

 現場に着くと、雄吉が腕組みをして立っていた。当番の責任を果たそうとしたのだろう。十分もしないうちに、ハル、大輔夫婦、サキ、浩市、佐太郎、恵子、タマ江、ミツも揃ってオールキャストが並んだ。

 集落の人も集まってきた。路地の奥にある寺の住職が顔を見せた。

「先日はご丁寧にご挨拶をいただいてのう。あい済みませんでしたの」

 住職はハルに声をかけた。

「いやいや、お礼を言われるほどのことはありませんで」

 ハルは恐縮している。

「ハルさん、お寺さんに話してくれたんかいの。あたしら気いつかんで申し訳なかったの」

 富江ががハルの気遣いに驚いている。

「あのハルさんがのう」

 あたしはサキに言った。

「大したことはないで。ざっといきさつをな。でないと驚かれるやろう?うちは檀家じゃけえ話しやすい。気にせんでええ」

 ハルが得々と口にするので、あたしとサキは口元に手を当て目配せして笑いを堪える。いつの間にか、ハルは私たちにとって、やんちゃな末の妹のような存在になっている。


 メンバーたちの家の前の路地の突き当たりには細い路一本を隔てて寺があり、その奥は山にかかっている。寺に近いハルと佐太郎の二軒を渡り廊下で繋ぐ工事がいよいよ始まった。南北が一・五メートル、東西が二メートルの長方形の土地の四隅に基礎を置くのが最初の作業だ。

 両家の玄関にごく近い場所の左右に、深さ十二センチメートルの立方体の穴を計四ヶ所掘る。黙々と作業をする小林と息子健一は、無心に土を相手にしている。二人を囲んで一同は彼らの一挙手一投足を熱心に見守る。小林親子の身体からは隙のない自信が伝わってくる。

「根切り(ねぎり)はこれで、ええかの?」

 小林は健一に尋ねる。

「ええで、親父の腕は鈍っとらんの」

 健一は穴を覗きこんで、保証した。

「どの直線も十二センチきっちりに掘られておる」

 小林は息子の言葉にふうっと息を吐いた。皆を振り返る。

「基礎の準備段階としての穴を掘るのを、根切りといいますで」

「ほう、さようか」

「どの業界にも専門用語があるんやな」

 大輔と浩市は感心している。

 健一が大袋をカートに乗せて運んできた。敷かれている青いシートの上に細かく砕かれた石をざあっと流す。

「さて砕石(さいせき)を四等分してそれぞれに入れよう」

 健一が砕石を等分に穴に入れ表面を撫でて平らにしている間に、小林は路地の外に置いた黄色い小型の重機を運転してきた。

「親父、天圧機でうんと固めてくれ」

「おっしゃ」

「ほう、あの機械を見かけることはあるが、天圧機と呼ぶんじゃの」

 雄吉が恵子に言う。

「初めて知ったのう」恵子は答えた。

 ダダダダダと大きな音がして、天圧機は穴の中に撒かれた砕石を土の上で平に固める。終わると小林は天圧機を繰って路地の外に運転して行った。次に小型のコンクリートミキサー車が路地いっぱいに入ってきて、砕石の上にコンクリートを流しこむ。健一はコテでコンクリートの表面を平にならし、その上に格子状の鉄の網を置いた。

「捨てコンはうまくいったかの」

「いったで」

 親子はアイコンタクトでうなずき合う。

「捨てコンとは何ですか」あたしは尋ねる。

「基礎を固めるためのコンクリートで、表面には出ないもんで捨てるようなもんだ、という意味かいな、と思うとりますが」

 健一は丁寧に応えた。

「ここで、ひと休みとしますかいの」

 コンクリートミキサー車がその場を去ると、雄吉が声をかけた。

「この暑さじゃ。休み休みやらにゃあ、な」

 浩市と佐太郎が麦茶を入れた大薬缶を二個台車で運んできた。メンバーや小林親子だけではなく、集落の人たちが大勢集まっているのだ。

「皆さん、お疲れやろう。どうぞ一杯飲みなされ。いや、二杯でも三杯でも結構じゃ。麦茶は氷が浮いておるでな。お寺さんで薬缶も台車も貸してくださったでの」

 歓声が上がる。

 捻りハチマキにした手ぬぐいを頭に巻き、肩にもう一本のタオルを掛けた健一は、シートの上で紙コップに注いだ茶を飲んでいる。彼は赤銅色の腕と顔をもち、眼には誠実に仕事に向き合う光りが在った。

「とても、小林の息子とは思えん。ええ青年じゃ」

「小林も、こうして見ると立派な男じゃな」

「詐欺を働く男には見えんの」

 タマ江と佐太郎、浩市たちが話している。

 冷えた茶を飲み終えると、小林たちはさっそく軽トラから木材をおろして、渡り廊下になる場所を囲む部分と、四隅の基礎を囲う木枠を作った。柱を支えるために長さ二十センチのステンレス製の太い棒、ステンレスアンカーを四隅、柱が立つ中央の部分に垂直に立てる。このステンレスアンカーの上部には、柱と同じ形の正方形で厚さ二センチのステンレスプレートと、その上にアンカーの上の部分を固定するための小さな受け皿が乗っている。ステンレスアンカーはプレートと受け皿の中心を通って、柱とコンクリートを接続し繋ぐ重要な部分なのだ。

 さらにステンレスプレートの中央に高さ二十センチ、幅八センチ、厚さ二・五センチのステンレス製のカセットプレートが、ステンレスプレートの中央に垂直に立てられる。この作業が、長方形の土地の四隅で行われた。

 先のコンクリートミキサー車が再び路地いっぱいに押し込まれるように入ってきた。見物客は、連なっている家の軒下にぎゅうぎゅう詰めになった。大人も子どもも口を開けてミキサー車を見上げる。あたしたちも同じだ。

 廊下の部分と柱を支えるための板囲いの中にコンクリートが流しこまれるとき、同時にステンレスアンカーを含むセットも埋められた。アンカーはボルトで止められる程度の高さの上部が、またカセットプレートは半分の高さ十センチが顔を出している。

 父親と息子の顔つきは引き締まって、眼は獲物を狙う鷲か鷹のようだ。大工だという健一はともかく、不動産屋の小林の身の軽さにあたしは驚いた。息子より歳はかなり上のはずなのに軽トラに飛び乗り、また飛び降りる動作はいとも軽々としている。二人の筋肉の逞しさと精魂の入れように感動している自分に気づく。

 昼休みを挟んで一日目の作業が終わった。見届けた全員が「ほーっ」と息を漏らし、力が入っていた肩をおろす。作業は抜かりなく終わったとあたしは確信した。

作業の途中に現れた野本が、調子に乗って言う。

「社長、まるで棟梁じゃないですか」

「いや、棟梁は健一や。まるで叶わん。健一の指示どおりにやっておるでの」

 誇らしげに口元をほころばせている。

「順調に初日が終わりましたの」

「気持ちのええ汗をかいたで。野本さんも明日から働きなされ。鈍っとる身体に非常にええと思うで」

「私が、ですか?」

「そうじゃ。野本さんは労働の必要あり、とわしは見たで」

 小林はだみ声で強く要請した。

「そうかもしれない」

 野本は素直に認める。

「ほう、野本さんも働かれるんじゃあ、筋を通されるゆうことになりますな」

 あたしは野本や小林親子に、初めて微笑んで見せた。

「その衣装はどこから手に入れるんで?」

 野本が困惑しながら訊く。

「一週間もないこっちゃで。Tシャツにジーンズでええ」

 小林は、その気になった野本に満足したように言う。

「いつも背広姿の野本さんしか見とらん。それは楽しみじゃの」

 タマ江が雄吉に笑顔を見せた。

「俺より似合うやないかの」

 ウロコがこびり付いた真っ青なTシャツに、グレイのジーンズを履いた大輔が冷やかす。

「大ちゃんはいつもTシャツにジーンズや。板に付いとるで。野本さんには負けんやろ」

 あたしの言いように大輔はからからと笑った。


翌日も朝の八時を過ぎると、空から熱線が降り注ぐ。容赦ない暑い一日の始まりだ。男どもは麦わら帽子を被り、女たちは日傘をさして集まってきた。前日よりも人が多い。

 中越が来ている。

「すごい人気じゃないですか」

 オレンジ色のTシャツに定番のジーンズを履いた野本が、小林に話しかけた。

「そうよ。俺は中学を出て十二年間大工をやっとった。足場から落ちて背中を打たなんだら、きっと不動産屋でのうて棟梁になっとったかもしれん。不動産屋になったのが間違いじゃった」

「不動産も立派な仕事やないか」

 大輔が口を挟んだ。

「いやいや、俺には向かなんだな。扱う金額が我が身には大きすぎて、金銭感覚がマヒしてしもうたで。それに大金に接しておると、下心がある奴も集まってくるでの。わしは、おかしゅうなっとったな」

「しかし、不動産屋がないと、わしらは家や土地の始末などに困りますで。必要な職業や」

 佐太郎は言い、横にいる浩市も「そうじゃ」と相槌を打った。

「社長も、自分なりの人生を歩んできたわけじゃな」

 佐太郎が手を差し伸べた。小林は驚いたように顔を上げ、佐太郎を正面から見た。差し出された手を握る。

「さあて、始めよう」

 健一のひと声で作業が開始される。皆は興味津津だ。

 まず、前日コンクリートから出ていたステンレスアンカーの上の部分をボルトで締めて、コンクリート部分との接続を強化する。小林は軽トラの荷台に手をかけて飛び乗った。

「そーれ、一本目、いくでー」

 柱にする木材を青いシートの上に落とす。

「よーし。次を頼むでー」

 健一と野本は投げ落とされた柱を、シートの隅に横たえる。四本の柱がシートに並べられると、三人はシートの上に座りこみ、電動ノコギリとカンナで柱の上部に、屋根を取り付けるための斜面を作った。柱の下の部分には、カセットプレートの上の半分の半分を入れこむために柱の中央をくり抜く。このカセットプレートの下半分は、前日コンクリートの中に埋めてある。

 作業場を囲む足場を伝って、健一は登っていく。

 柱が立つのだ。柱を立てた状態に近いようにして、アルミ棒に縛りつけ仮止めする。下では野本と小林が柱の下部をカセットプレートに入れこむべく、奮闘している。

 プレートの下部分、五センチは外気に晒されている。

「何で、ここは飛び出しているんや。何か理由があるんかいの」

 よく見たいと近づいて訊くと、小林は「木材とコンクリートは長年(ながねん)接触しておると、木が腐ってしまうでな。ちょっと空間が必要なんや。ここが一番大事な場所じゃ」と説明した。

「なるほど。そういうわけじゃな」

「柱を支える大事なとこ、というこっちゃの」

 周りの者たちは一様にうなずいた。

 カセットプレートが、柱のくり抜きにうまく入った。小林は手を挙げ、「オーライやでえ」と健一に声をかけた。健一は仮止めを解くと少しずつ動いて、柱を地面に対して垂直に立てた。

 健一が、木槌を最初に振りおろす姿勢を整えたとき「ほうりゃ!」と掛け声がかかった。掛け声は、健一の動作に合わせて勢いを増していく。

「ほうりゃ!」

「ほうりゃ!」

「ほうりゃ!」

「ほうりゃ!」

「ほうりゃ!」

 腹の底から大きな声を出すごとに、人々は興奮の度合いをあげ、声はますます大きくなっていく。

 柱が一本立つたびに、小林と野本は、柱に組みこんだカセットプレートに向かって、柱の両側からボルトで強く締めつけた。柱はすっくと立った。四本の柱がすべて立ったとき、居合わせた人たちは、快感の渦に巻きこまれ放心状態に近かった。

「これは祭りじゃあ」

「これは祭りじゃ、祭りじゃ!」

「ほんに祭りじゃのう」

「あの若者は、神輿に乗った若侍に見えるのう」

 誰彼となく言い合う。健一が地面に降りると父親は息子の腕を捉えて言った。

「ようやったで」

 小林親子と野本を見守る者たちは、感嘆と尊敬の眼差しを惜しげなく送っている。

 その日の作業を無事に終えて、三人はシートの上に座りこんだ。「旨い」「旨い」を連発して冷えた麦茶を飲んでいる。健一は麦茶を口に運びながら、すっくと立った大柱に目線を当て続けている。

「おじさんたちは、大工さんかいの」

 鞆小と書かれた帽子を被った男の子と女の子たちが、暑さに頬を赤くした職人姿の小林に尋ねた。

「おお、そうじゃ。大工やで」

「かっこええのう」

 子どもたちは尊敬の眼差しを三人に当てている。

「そうか、かっこええか」

 小林たちはカラカラと笑った。

「お前らは何年生じゃ」小林は返す。

「俺たちは五年生で、この子たちは四年生」

 元気な声だ。

「五年生の男の子が三人と四年生の女の子が二人じゃな」

 小林は破顔一笑した。うれしそうに笑う小林を、あたしは初めて見た。

「で、何ができあがるんや」

「大雨が降らなんだら、あと二、三日でできあがる、何ができるかはお楽しみじゃ」

 小林は小学生たちの頭を撫でた。

「そりゃあ、楽しみじゃなあ。毎日通おうで」

「他の子たちにも知らせにゃ、なあ」

 五人の小学生たちは、飛び跳ねて言い交わした。

「健一、国民宿舎に帰ってひと風呂浴びよう。野本さんもおいでなされ」

「それは、ええな。働いた後は風呂が一番じゃ」

 野本は上機嫌だ。

 太陽はその日の作業の進行が予定どおりに終了したことを認め、明日の快晴を約束する濃い朱色の光と金色(こんじき)の輝きを鞆の衆に送ってきた。


 三日目。屋根が無事に柱に乗った。金具で柱に留められる。屋根は景観を壊さないようにと、透明に近いポリカーボネイトが使われた。渡り廊下は、空と寺を観る空間になると皆は知った。下から三人の作業を眺めている者たちの眼は、その動作に釘付けだ。昨今この集落で修理はあっても、造作は滅多にない。

午後、健一が軽トラで杉材を運んできた。

「おお、来た、来た」

 ハルが叫ぶ。ともとも・くらぶのメンバーは、期待でいっぱい。始まる前からご満悦だ。あたしは富江、恵子たちと集まった人数を目で数えて、大薬缶をもう一つ用意しなければならないのでは、と相談していた。

「大人数やなあ。大盛況や。あたしら、よっぽど珍しいことをやっとるんかいのう」

 ハルは少し怯えているようだった。

「まっこと、こんなに人が見に来るとは思わなんだ」

 自ら提案したことが実現していくのに戸惑っている。

 あたしはハルに笑みを見せた。

「ハルさんは、ほんにええことを考えついたのう」

「そう言うてもらうと、ちっとは落ち着くな」

 ハルが頬を緩めたので、あたしはほっとする。

「あれ、大きなカメラを持っている人がおる」

 富江が素っ頓狂な声をあげる。

「テレビの人かいの」

「まさか」

「いや、そうらしいで」

「ええっ」

「しゃあないで。来るな、とは言えんで。人間、移動の自由ちゅうものがある」

 サキが口を出してきた。

「それにしても、日に日に人が増えるのう」

「観光客も何事かと見とる」

「ええことをしとるんやがの。しかし、こんなに大ごとになるとは思わなんだ」

 世間を憚る気分が抜け切っていないのか、雄吉は眉根を少しばかり寄せた。

「まあ、ええこっちゃ。何かと話のタネになるやろうて。いつも静かな集落じゃで、何かイベントがないとな」

 浩市は顎を撫でながら笑う。

「人生も終わりに近いが、面白いことを見させてもろうたで」

 佐太郎も同じだ。

「そうじゃ」

「愉快じゃのう」

 サキも浩市や佐太郎と一緒に、騒ぎを楽しんでいる。

「何じゃ、この人の多さは。わしらは見世物か」

 小林と野本も驚いている。

「材料は届いておりますで」

 健一の声だ。

「よし、始めよう」

 小林はハチマキを締めて、軽トラから腰板用の木材を下ろす。

「板を張ってな。その上に木材を打ち付けていくで」

 健一の指示に従って作業が始まった。

「わしも手伝うてもええですかいの」

 がっしりした体躯の青年が協力を申し出た。

「ええですがの、これはボランティアじゃけん、金は出ん。ただ働きじゃで」

「ええですよ。見とるだけじゃつまらん。わしの趣味は日曜大工や」

「それは、頼もしい」

 小林は快諾した。

「実はこの工事の後に、各家を繋ぐ短い屋根付きの廊下を五箇所造る作業もありますんで、手伝うていただくと、ありがたいんですわ」

「喜んで手伝いますよ」

 小林の願いに、男は顔も声も明るくして言った。陽に焼けた顔をほころばせる小林の表情は底抜けに朗らかだった。

「何でこんなことになっているんですか」

 前日に続いて現れた中越が驚いている。

「刺激になるんやろうな。いつも静かな集落じゃで」

「何か事件がないとな。それもええことがええんじゃ。気持ちが明るうなるでの」

 大輔夫婦が答えている。

 腰板を張る作業が始まった。人の背丈の半分の高さだ。ハルが発案した。渡り廊下を歩くとき、冬の寒さや夏の暑さから逃れたい、というのがその理由だ。

 腰板の上の部分と地面に近い部分に横桟(よこさん)を渡す。そこに板を張り付けていく。鞆の地は、一方は海に開いて、他の三方は山に囲まれている。山には杉が多く植林されている。容易に手に入るので杉を材料にすると決まっていた。

 屋根は張り出すように取り付けられたが、腰板は雨晒しになる場所なので、丈夫に保つようにステインを二回重ねて塗るという。杉の木目の魅力が消えないように透明なステインを選んだ。

 陽が傾いてきた。

「明日は通路の問題を解決せにゃならんの」

 氷の音を楽しむように、紙コップを揺らせながら小林が言う。

「そうやの。天気に恵まれて仕事がはかどったで」

「親父、えかったのう。ものを造るゆうのは楽しいで、な」

「私もそれを知りましたで。小学生の頃から、図画工作は苦手でな。しかし、こうやって何かを作るゆうのは、無心になれてええ時間やった」

「何言うか。まだ終わっとらん。感想文みたいなことを言わんでええ」

 親子と野本はひと笑いして、国民宿舎に戻っていった。

「良いこっちゃ。人間は労働して身を動かさんといかん。それが、人の基礎を創るとあたしは思っとる」

 サキは三人の後ろ姿を見て言った。あたしも富江も恵子もうなずく。

「人間も世の中も、そう簡単にはいかんで」

 ハルだけが、三人が曲がって見えなくなった曲がり角に、鋭い目線を当てている。

「あんたさんは、えろう振り廻されて大変じゃったのう」

 あたしは穏やかな声を用いてハルに言う。

「あたしには大きな試練やった。いや、まだ続いとる話や」

 ハルは、あたしに背を向けたままだ。

「働けるゆうのはええことや」

 雄吉が、声をかけてきた。

「わしも働いた時代を思い返すと、ほんまに貴かった時間やったのに、と悔いも混ざって複雑や」

「雄吉さん、働いて稼いだ時代も、奈美さんのために金を使ったときも雄吉さんには大事やろうな。二度と同じ体験はできんでの。そんなこんながあっての現在の自分やで。あたしも人に言うほどの者ではないがの」

「小枝子さんの言うとおりやで。それぞれの人生やが懐かしいの」

 雄吉は口元に笑みを置いてあたしを見た、というより見下ろした。雄吉の脇あたりにあたしの頭があったからだ。


四日目だ。

「さあて、取り掛かろうで」

 男集の三人が手をパンパンと打って立ちあがると、全員が彼らに注目する。観光客まで足を止める。

「この地の行事ですか」

 観光に訪れたらしい夫婦連れが訊いた。

「まあ、そんなもんで。しかも滅多にないことで」

 浩市が応じる。

 人々が通るために、渡り廊下を区切る作業が始まった。路地自体が狭いので、その道幅を決めるのに三人は頭を捻っている。○・八メートルの幅はほしい、ということになった。

「えろう狭いようじゃが、よかろうかのう?」

 小林が交渉に来る。

「しゃあないじゃろうて」

「そうや。元が狭いんじゃからな」

「それで、そのまま真っ直ぐ歩けば、お寺さんの階段に続くようにしてほしい」

 ハルが指示する。

「この路地は私有地で、路地の中央から右は右の家の土地、左は左の家の土地となっておる。佐太郎さんとうちは向かい合わせやで、この件に関してはあたしらの自由や」

 場所は決まった。寺の階段に直線で繋がるように中央より少し佐太郎の家寄りになった。両家の玄関に接する部分から通路に向かってなだらかな傾斜になっている。車いすの使用を想定したバリアフリーだ。

「わしらの計画は着々と進んでおるのう」

「そうじゃのう。こちらから言い出したこととはいえ、感動してしまうで」

「発案したサキさんは大したもんじゃ。それを行動に移すハルさんの思いつきと実行力との結集やな。両方揃うてのこの場面じゃ」

「そうじゃ。自分の金を取り戻すだけではなく、これからの世代にも残すものを造ろうと、よう思いついたで」

「あたしも感心しとる。ハルさんの気の強さは見上げたもんじゃ。相手が野本であろうと小林であろうと堂々と渡り合ってのう」

 あたしはサキとハルの力の結合の結果に心底感嘆していた。

「人の力が結びつくと、これだけの大事(おおごと)もやってのけるんじゃな」

「まっこと、そうじゃ」

 居並んだ面々は大きくうなずき、作業が進むのを確認する。

 ともとも・くらぶのメンバーも群衆と一体になって盛り上がりハイになっている。

「日を追って何かができあがっていくのを見るのは珍しいのう」

「そうじゃの。ただただ古い建物を継ぎ接ぎして出来あがっておる集落じゃで」

 午前十時に冷えた麦茶が配られた。皆は整列して順番を待つ。この短い期間に定着した光景になっている。

 半袖のワイシャツを着た男、二名が近づいて小林に話しかけた。

「山陽テレビの者ですが、お話を聞かせてもらっていいでしょうか」

「わしは頼まれてやっておるでの。話はあの婆さんに聞いてくれ」

 サキを指す。男たちは早足でサキに近づき、「なぜこんなことを始められたのですか」と尋ねた。サキはうなずいて突き出されたマイクに向かって話しだす。

「あたしらは、ともとも・くらぶ、ゆう名前のグループでな。みんな、充分に年寄りですがの、まだまだ歳をとっていきますで。それで、助けが必要なとき、お互いにすぐに連絡がとれるように家を繋ぐことにしましたで。ちょっと待ってください。その続きを若い者に話してもらいますで」

 サキはあたしに向かって掌を開いて振った。こちらに来てほしい、と言っている。何か、とあたしはサキに近づいた。

「この後を続けておくれ。各家の使い方やその目的、つまり将来に向けての、小枝子さんの考えを言うてほしいんじゃ」

「急に言われても」

「思うたことを言えばええ。おじけずかんでの。家だけではなく世代も繋ぐことが大事じゃけえ」

 サキはさっと離れていった。仕方なく押し付けられたマイクを手にした。

「それぞれの家は食事をする、おしゃべりをする、眠る、外から人が来たとき話をする、一人でいられる、テレビを見たりして寛ぐなど分担してな。まあ、若い人にも助けてもろうて、やっていこうかと計画はしておりますが、まだ話はプランの段階でな。これから案を練っていかねばならんところです。建物は、あたしらが往生しても使うてもらえたらええ。言ってみれば平たいグループホームゆうことです」

 語っているうちに身から力が沸いてくる。夢を語るのは楽しい。声の切れは良くな自分の目が輝くのが分かる。サキもにこにこしている。

「ええ試みですね」

 若い男は興味をそそられている。

「ええかどうかは、やってみんと分からんですがの」

 気張らず受け流す。

「年寄りなら、誰でもメンバーになれますか」

 カメラも、あたしを捉えている。

「年寄りでなくてもメンバーになれますよ。みーんな年寄りになりますで。出入り自由ですし、年齢制限もないでの。こまいお子さんも遊びにきてほしいと思うとります。帰省した学生さんが、小学生や中学生の勉強を見てやる場所に使ってほしいとか、あたしたちがパソコンや携帯の簡単な使い方を教えてもらえるとええなあと、考えとります」

 この作業の意図を分かってほしくて口調が熱くなった。

「鞆を愛してくれる人なら他所の人でもええですよ。ここに住んで穏やかに、しかも伸び伸びと毎日を過ごし、お互いを思いやって生きる楽しさを存分に享受してほしい。老いも若きも子どもたちも仲良し、というより適度の緩い絆で結ばれて、この適度の緩さゆうのが肝心のところですがの、安心して鞆の地と海を共有していきたい、と思うとりますで」

 それぞれに語りかけるように丁寧に目線を送る。笑みを湛えて皆の顔を見廻した。

 静まった後で拍手が湧きおこった。

「小枝子さんもよう考えておいでじゃったんやな」

 富江が甲を脱いだ、という顔で夫の大輔を見上げるのが視界に入った。あたしは大輔に眼で同意を求めた。大輔は大きくうなずいている。

 作業が終わりに近くなった五日目、住職がやってきた。

「この渡り廊下に、長椅子を取り付けてもらいたいんですがの。そこで、皆さんが風に当たりながら喋ってもええし、ひと休みなさってもええ。いかがかな?」

「それはええな。しかし」

 小林が言いかけると住職は手を振った。

「長椅子の費用はこちらで払います。皆さん、ひと休みしたら、目の前の階段を登る元気がでますじゃろう。うちの庭には、市の文化財になっておる樹齢八百年に近い藤棚や、みごとな垂れ桜もありますでな」

 住職はとっておきの笑顔で言った。

「そういう算段ですか。まあ、仕事となればやりますよ。しかし鞆の皆さんはどうじゃろうかの」

 小林はサキ、ハル、その他のメンバーに問いかけた。

「ええと思うで」

「あたしらはちょっと歩くと疲れて、すぐ休みたくなるでの。無料の休憩所はありがたいで」

「観光客にも喜ばれるじゃろうな」

 女衆の意見が出たところで雄吉が言った。

「それではお願いしましょうで」

 居合わせた者たちは手を叩いた。

「では、よろしゅうに。仕事が終わった後でも明日でもええから、寺の社務所に来てくだされ」

 住職はくるりと向きを変えて階段を登っていった。僧衣が浜風に翻る。

「確かな足取りや。とても八十五とは思えんな」

「計算高いのも感心したで」

「いや、商売熱心、というんやないか」

「長椅子はええ。わしらは助かる。この工事の間、椅子はとても置けん人数やったで、ビニールシートを敷いて座っとった。長う立っておるのは苦痛じゃもんな」

「そうじゃ。それでええ、としようで」

 あたしは両拳に力をこめ、空に向かってぐいと突き出した。それに倣ってともとも・くらぶの全員はもちろん、小林親子に野本、鞆の集落の者たち、それに観光客も同じ動作をした。

「鞆は永遠じゃあ」

 思い切り声が出た。

「鞆の海は日本一やあ」

「鞆はええでえ」

 大合唱が響く。

 あたしの胸はどこまでも熱くなっていく。

「見てや、あんたぁ」

 群衆の中から光男が顔を出す。周りの群衆は霞んでいく。叫び声が遠くなる。

光男は白い歯を見せて、妻のあたしに笑いかける。


                                 (了)

    



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