ラビリンス ~飴慕情様から頂いたお題「1番強いひらがな」より



梅雨(つゆ)、まだこぬ季節。木の葉は力強く、風は柔らかい。

息子は道に迷ったか、舌打ちをする。それでも、傾斜は、上へ。


林道とは一見、ラビリンスにも思える。でも、どれほど荒んだ道にも出口はあり…そこには、その地に暮らす人々の、営みに根ざした現実がある。


…山頂を目指すのであれば、目的の場所には、やはりたどり着く。




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「凛、なにしちゅう?」

 呼ばれると凛は、恥ずかしそうにノートを覆った。

「隠さんでもえぇが」


(た に も と り ん)


辿々しい文字が、自己紹介をしていた。

学校に上がる前に、平仮名くらい書けた方が良かろうと、女房が教えたらしい。


「えらかね~。うまかねぇ」

 凛はノートを奪うと、胸に抱き、恥ずかしそうに首を振る。


「酒臭ぅないか?」

 また、首を振る。いつの間にか、少し大きめのちゃんちゃこ羽織の凛は、かごの中の子猫みたいに、わしのあぐらに収まっている。


 余り一緒に過ごす間がない。また明日から二ヶ月、現場に行かねばならなかった。




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「広い道に出ると安心するなぁ。おふくろ、寒くないか?」

 木漏れ日の林道から不意に大きな道に出た。傾斜は緩やかになり、標高の加減で気温は低いが、ぽかんと開いた空間に陽が降り注ぎ、余り気にはならない。

 見下ろせば、こんな高地に、思わぬ水量が悠々と流れる。


 


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「なんじゃぁ?」

「お守り。中の紙に、凛もなんか書いちゅぅ」

「ほう」私は、守りの袋を開けようとした。


「見ちゃいけん」

 引き戸の影で、凛の丸っこい目が睨む。

「お守りじゃけん、開けたらご利益がのうなる」

 女房が、凛と私を取りなした。




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「おぉ、見事なもんだなぁ」

 息子が鉄柵に駆け寄り、私も続いた。胸が透くような光景が、眼下に広がる。






父の墓標は、青い水をたたえ、静かにそこにあった。


母に問われたが、覚えてはいない。


幼い私は、あの時なんと書いたのだろう。




―――――――――――――――――――――――――――――――――




「谷本さん、それなんね?」

 私は我に返った。安酒と喧騒の中、出がけの光景を思い出していた。

「女房が持たしてくれたけん、お守り。中はなんかわしもしらん」

「家族持ちには、2ヶ月はながかねぇ~。まぁもう一杯飲みんしゃい」

 安い酒だが、そこここに雪の残る高地ではありがたい。


 飯場は、流れ者で溢れ返る。家を捨て、家族を捨て、中には犯罪者までがいる。

 一流の技師たちは、発破(ハッパ)の泥を被らない。ダム建設は、ここに居る何人かの死に支えられ…そして、本社と彼らを繋ぐのが、私の仕事だ。

 梅雨が来る前に、やるべき事を済まさねばなるまい。





私は、胸に下がる守りをそっと握った。


約束は守ることにしよう。


大切なのは、…言葉ではないのだから。





【了】

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