4 冥界
気が付くと、慈乃は見覚えの無い不思議な場所に倒れていた。
より正確には、死の苦しみが延々と続いてのた打ち回っていたらこの場所にいた……という具合だ。いつ死んだか、どの時点でここに運ばれてきたのかは分からない。
草一本生えていない、川原のような場所である。改めて自分の体を見てみると、全身が淡く発光し、その輪郭がぼやけているという妙な姿になっていた。
いつまでもそうしているわけにもいかず、立ち上がって辺りの様子を調べてみる。正面には川のようなものが流れているが、不思議と水の音がしない。
後は薄灰色の空と、白く乾いた大地がひたすら続くのみである。非常に殺風景なところだった……聖者クオンの冥界踏破にある描写と一致する。間違いない、ここは冥界だ。
「あ……」
自分と同様に淡く発光している人影を発見し、そちらに向かう。輪郭も顔立ちも判然としない無数の人型の何か――これが人の魂だろうか?――が、黙々と進行を続けていた。
彼らの向かう先に目を向ける。川岸に船のようなものが到着していた。
冥王は冥界の深部にいるということらしいのだが……あれに乗ればいいのだろうか?
近づいて観察してみる。慈乃の知る船とは細部の異なる、なんとも不思議な形状の乗り物である。繁々と眺めていると、不意に足が宙に浮いた。
船の船頭らしい怪物が慈乃をひょいと持ち上げて、繁々とその顔を覗き込んでいる。
「は、初めまして……」
白い霧を集めて人間の形に近い何かにしたような、奇妙な怪物である。寸胴な体格で首に当たる部分が見当たらないが、手足は異常に細くて長い。
霧の内側を、緑色の小さな光が動き回っている。これが目なのだろうか。
やがて興味を無くしたか、船頭は慈乃を船の上にヒョイッと落とした。見れば老若男女の魂が何十と乗せられている……この全員が死者なのだろうか。
船頭が船を漕ぐ……いや漕いでいるのかはよく分からないが、とにかく船は川の向こう岸を目指して進む。やがて少しずつ空の色が暗くなっていった。
(冥界は深部に進めば進むほど空の色が暗くなっていく……冥界踏破に書かれていた通りです。聖者クオン、偉大な先人の奇跡に感謝します)
不意に、目の前の人物が消える。何事かと改めて辺りを見てみれば、最初に乗せられた時よりも人間の数が大幅に減っている。しばらく考えて、どこかのユートムの使徒の手で生き返らせてもらったのだと推測した。
不思議なもので、そう思うと船上から消えていく霊魂たちに妙に親しみが湧いてくる。
ふと気が付くと、船頭の姿が無い。周囲を確認すればいつの間にかそこは川ではなく、白い砂漠のようなところだった。
衝撃の類は感じなかったのだが、いつの間に接岸したのだろうか? 老衰や不治の病、孤独の内に死んだ者たちか、船に残っていた僅かばかりの人間が白い砂漠を歩いていく。
空の色は墨色。もう半分くらいまでは来たのだろうか。慈乃も白い砂漠に降りてみた。
前を進む霊魂たちに続いて、冥界の砂漠を行く。やがて霊魂たちの体の輪郭が少しずつ崩れ、白いモヤモヤした何かとしか認識できなくなっていった。
(死後十年以上が経った……復活の呪文でも復活させられない魂とは、このような具合になっているのでしょうか?)
はっとして自分の体を見る。川の向こうにいた時と比べ、だいぶ輪郭がぼやけていた。
――このまま進めば、自分も彼らのように魂が分解し、蘇ることができなくなる?
「……っ……我が前の有と無よ、日よ月よ夢よ現よ、永遠なる刹那る、万を成す超神よ」
恐怖を飲み込み、震える足を叩いて、ユートムを讃える言葉を口にしながら前に進む。
いかに魔物、いかに吸血鬼とはいえ、自分は彼女――キリィの想いを、二百年分の恋心を託されたのだ。こんなところで弱音を吐くことなど許されない。
やがて共に歩く魂は一つ減り二つ減り……ふと気がつけば、慈乃だけになっていた。
空の色は黒を通り越して、一切の光を飲み込むような闇色。白い砂漠が淡く輝いているので歩く分には困らないが、帰る時のことが不安になった。
「……?」
不意に、目の前に四本の光の柱が現れる。これはなんなのだろうと上から下まで眺めてみて、最後に思い切り上まで視線を動かした時、柱の正体にようやく気付く。
「これは……」
光の柱は、慈乃の遥か頭上で一つの胴体に繋がっていた。あの柱は手足だったのだ。
異様に長い手と足を持つ光る人型……その頭部には、闇色の穴が三つ並んでいた。それが目になっているのか、慈乃をしばらく見詰めた後、光る人型は悠然と去っていった。
あれはなんなのだろう。人間の魂とはまた違う何かであるような気がした。冥界の住人か、あるいはライゴウの言っていた獄卒……黒渦の仲間なのだろうか。
魂――自分自身が消滅する恐怖に抗って、その後も歩を進める。二度ほどまたあの光る人型と遭遇した以外は何も無く、慈乃は冥界を踏破していった。
どれくらい歩き続けたのか――
「珍しいね、生者がここに来るなんて」
人語を解する何者かが、ついに慈乃の前に現れた。
他の光る人型と比べて非常に小柄で、人間の赤ん坊くらいしかない。頭部にある瞳状の穴は二つで、全体的な体格もほぼ人間のそれと同じものだった。
「初めまして、東雲慈乃と申します。冥王様はどちらにいらっしゃいますか?」
「慈乃っていうのか。冥王なら僕だよ」
光る人型が言う。驚いて、納得しかけて、しかし首を傾げる。
「……冥王様は見るも恐ろしい御方と聞いているのですが……ひょっとして、代替わりをなさったのですか?」
「僕は見たままの存在ではないんだよ。その捉え方は個々人によって異なる。無害な存在にしか見えない者もいれば、恐ろしい怪物に見える者もいる。馬鹿げた話だけどね」
「そうだったのですか……疑って申し訳ありませんでした、冥王様」
「いいさ。それより、どうしてこんなところに来たんだい? ここは生者が訪れる地ではないし、そもそも尋常な方法で訪れることができる場所じゃないというのに」
「はい。実は、冥王様にお尋ねしたいことがあるのです。ライゴウ=ガシュマールという方をご存じでしょうか?」
「ああ、ライゴウ=ガシュマール! 知っているとも。愚かな咎人、大罪を犯した男……慈乃、君は彼のことを知っているね? もしかしたら直接の知り合いかな。僕を恐ろしい怪物呼ばわりする生者なんて、彼くらいしか心当たりが無いもの」
「はい。そのライゴウ=ガシュマールを不死人にしたのは、あなただと聞いています」
「そうだよ。罪を犯した者を罰するのは当然だ」
「……不死を与えることが、なぜ罰になるのですか? ライゴウ様が、いったいどんな罪を犯したというのですか」
「ライゴウ=ガシュマールは、生者が決してやってはいけない罪を犯した。故にもっとも重い罰を与えた。彼はね、慈乃。生きる義務を放棄したんだよ」
「生きる……義務?」
「分からないという顔をしているね? 命というモノは、ただそこに在るだけで罪悪の塊なんだよ。あらゆる命は、他の命の犠牲の上に成り立っている。つまり生きることとは、他の命を踏みにじる行為に他ならない。他者に犠牲を強いる存在は悪であり、その行いは罪である。故に命とは悪、生きることとは罪――それが命の摂理だ」
「…………」
「そうまでして命を繋ぐ者は、義務を果たさなきゃならない。生きる、生き続けるという義務を。どれほど苦痛でも、どれほど困難でも、生きることを諦めてはいけないんだ」
「ですが、その理屈では、生き続ければ生き続けるだけ罪深い存在になってしまいます」
「そうだよ。だけど、それでも生きなければならない。己が今まで踏みにじってきた命の分まで、精一杯生きなければならない。それが命の業というものなのさ」
「……命こそが悪、生きることが罪……そのように考えたことはありませんでした」
「それは君が立派に生きている、生きる義務を果たしているということさ。そして義務を果たした者には権利が与えられる。生きとし生ける全ての者が持つ、絶対の権利が」
「生きとし生ける全ての者が……では、その権利は私も持っているのでしょうか?」
「もちろんさ。少し早いけど、君はいつでもその権利を行使できる。死ぬ権利をね」
「死ぬ権利……? 死ぬことがどうして権利なのですか!?」
「生きることは哀しいことだからさ。辛くて苦しくて虚しくて寂しくて……それが命だ。それでもがんばって、きちんと生きる義務を果たしている者は、この権利を持っている」
「そのようなことはありえません、私は死にたくなどありません!」
「今はまだ分からないだろうね。でも、君もいつかきっと知るだろう。命とは嘆きなのだと。生きるということは、死する時まで続く絶望との戦いなのだと」
「あなたのおっしゃっていることは、私には分かりません。分かりたいとも思いません」
「感情任せに嘘を口にするのは賢明ではないよ。君は見てきたはずだ。命あることに絶望する者を。生きることに苦しみ悶える者を。ライゴウ=ガシュマールをね」
「…………っ!」
「彼はただ一つの大切なモノのために、他の全てを捨てた。だが哀れな話だ、今度はその大切なモノが彼を捨てた。こうしてライゴウ=ガシュマールは絶望に屈し、生きる義務を放棄した……この時点で自害したなら、ここまでの罰は与えなかったんだけどね」
「……話の続きがあるのですか」
「彼の国だった地には、伝説があったのさ。遥か昔、冥界の魔物が現れたという……それは実際に起きたことなんだ。道として通じているわけではないけれど、いくつかの条件が重なった時、彼の国のある場所と冥界は一時的に繋がる。ライゴウ=ガシュマールは墓守をしていた吸血鬼を追い払い、古文書を調べ上げて冥界に入る術を突き止め、ここに乗り込んできた。失ったモノを取り戻すために」
「私には、それが絶望に屈した者のすることとは思えません。事実ライゴウ様は愛する者を取り戻そうと、懸命に生きようとしていたではありませんか!」
「本当にそうであれば立派なことだ。だが、彼はそこまでにはなれなかった。彼が求めたのは愛するモノとの再会ではなく、“格好の良い死に場所”だったんだよ」
「死に場所……?」
「彼は死を望んでいた。だが一方で自害する覚悟を固めることもできなかった。死ぬのが怖かったんじゃない。自分が死んで楽になるなんて許されないと思っていたのさ。なのに生きる義務は放棄していた。宙ぶらりんだ。そこで彼は考えた。冥界に行こう、あの人に会いに行こう、その過程で死ぬなら自分に言い訳ができる、とね。要するにライゴウ=ガシュマールは、自分が納得できる形で死にたいがためにここまでやって来たのさ」
「……それは……ライゴウ様を、あそこまで苦しめなければならない罪なのですか?」
「僕は彼から、彼が放棄した義務に値する分の権利を奪っただけだよ。それで二百年もの間苦しんでいるというのなら、彼がちっとも成長していないということだね」
「……私にはそう思えません。信じられないような理由で人を殺す者もいます。その者とライゴウ様の罪を比べて、いったいどちらが重いというのですか!?」
「バカを言っちゃいけない。人間の命は特別なのかい? 慈乃、君は君が一日生きるだけでどれだけの命を奪っていると思っているのさ。その者を殺戮者と呼ぶのなら、君もまた十分以上に殺戮者だ。聖者クオンが、かの術を復活の浄文ではなく復活の呪文と名付けた理由が分かるかい? 彼は理解していたんだよ。生きるということが、呪いだということをね」
「…………」
「聞きたいことは終わりかな。では、こちらの用を済まさせてもらおう」
冥王が言うなり、四方の闇の中から人型が現れる。比較的人間に近いサイズと体型で、手には槍のように細長い得物を携えていた。
「……? 冥王様、これは……?」
「ここで見聞きした話を忘れてもらうのさ。冥界に生者があまり溢れると困るからね」
「そんな……!? 困ります、私はあなたから話を聞くためにここまで来たのです!」
「なら聖者クオンのように生きる者の義務を果たすことだね。彼はこれらを素手で退け、僕に手を振りながら現世へ帰っていったよ」
つまりは、戦えということか……! 槍を腰だめにして、光る人型たちが慈乃に迫る。
前後左右は固められている。浄言を用い、風を纏って空いている上空へと退避。
その途端、人型たちの手足がうにゅっ、と伸びた。
「なっ……!?」
まっすぐ上空へと飛んだ慈乃に目掛けて、パンチが四発! 不意を打たれて、ギリギリ防御するのがやっとだった。
「く、う、ぅ、あ…っ!」
風の衣のお陰でダメージは少ないが、空中で体勢を崩される。姿勢を制御できず、クルクルと回転しながら地に落ちた。
即座に放たれる四本の槍。転がって避けて起き上がる。その間に、手足を伸ばした人型たちが、たった一歩で距離を詰めてきた。
その内の一体が、唖然としている慈乃へと高角度から拳を打ち下ろし――
「御嬢ーッ!」
横から投げつけられた無数の剣に貫かれて倒れ伏す。まさかと目を見張る慈乃の前に、淡く光る少年の背が現れた。
「ザン!? どうしてあなたが……」
「冥界の魔物とか殺すの面白そうだなァって思って来て見て殺した! 超楽しかった!」
高揚した笑顔で爽やかに語る。もはや何を言ってやればいいのか分からなかった。
「これはまた強靭な魂の持ち主だね。生きることが楽しくて仕方が無いといった感じだ」
「うわ、なんだあの石しゃべりやがったぞ。おい御嬢、あれって殺せんのか?」
「……石、ですか?」
ザンには冥王がそう見えるらしい。見る者次第で姿が変わるというのは本当のようだ。
「まぁいいや、要するに動いてるヤツを全部ブッ殺せばいいんだろ? 任せとけ!」
這うように姿勢を低くして、ザンが地面に軽く触れる。その部分の砂が少し減ったかと思うと、彼の手の中に剣が現れていた。
「なるほど、それが無尽剣の秘密ですか」
「あんまジロジロ見るなよ、ウチの里の秘伝だぞ!」
ザンが人型たちへと突撃する。高角度から放たれるパンチを次々と回避し、長く伸びた足に斬撃を叩きこむ。グラついた光人たちに向けて、慈乃は得意の浄言を撃ち込んだ。
「風よ! 鉄槌となりて我が敵を討て!」
バランスを崩したところを追撃され、人型たちがバタバタと倒れる。ザンが嬉々としてトドメを刺しに向かった。
「ぐげげげげげげっ! 殺ォす殺す殺す殺す死ね死ね死ねぇえーっ!」
いつもながら本当に楽しそうである。あれはもう生来の気質としか言いようがない。
ともあれ聞くべきは聞いた、長居は無用。風を纏って飛翔して、途中でザンの手も引っ掴んで離脱する。冥界踏破の記述通りなら、川方に向けて移動を続ければ帰れるはずだ。
「君に、ライゴウ=ガシュマールが救えるのかい?」
刹那、冥王の声が耳元に響く。即座に背後を振り返り、慈乃は小さくなっていく冥王を見据えて胸中で叫んだ。
(救います……救ってみせます!)
――否。己の魂に、そう誓った。
○ ○ ○
意識が戻る。五感が回復する。慈乃の目に最初に映ったのは、自分と向かい合うように座り込んだザンの死体だった。肩口から剣を刺し込み、見事に心臓を貫いている。
彼を復活させ、手早く荷物をまとめると、慈乃はその日の内に宿を発った。
街の外に向かって歩く中、ふと思い立って首から下げた聖具を外して川へ投げ捨てる。いつもの形に結わえていた髪も解き、背の中ほどで新たに結び直した。
「……行きましょう」
きょとんとしているザンにそう声をかけ、慈乃はクオンツァを後にした。
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