3 聖都


 フィルウィーズを発って二カ月。春先に芽吹いた若葉は力強く成長し、それが鮮やかに目に映える。風が夏の気配を運び、命が本格的に脈動する……そんな季節になっていた。


 神弟からの許可を得た慈乃は、ジングウでとある書物の読解に励む日々を送っていた。冥界踏破――その名前の通り、聖者クオンが成した奇跡の一つである冥界への旅を記した書物である。書かれているのは冥界の様子やそこを治める冥王なる存在などについてだ。


 慈乃が読んでいるのは、その原本たる聖者クオン直筆の手記である。予想通りであればそこに慈乃の求める情報があるはずで、あとはそれを元に浄文陣を組めばいいだけだ。


 気分転換を兼ねてとある品を見定めようと町まで出掛け、今はその帰りである。

 道の端では子供が遊び、向こうの通りからは野菜や雑貨を売る者の声が響く。ユートム教団の聖地なだけのことはあり、人々が非常に優しく暮らしていることが見て取れた。


 と。


「御嬢~っ!」


 背後から聞き覚えのある声。振り返ると、血相を変えたザンがこちらに向かって駆けてくるところだった。


「ザン。どうかし――」

「すまん匿ってくれ頼む! お願いだ助けてくれ!」


 ものすごい勢いで回り込んで慈乃の後ろに移動し、バッと体を屈ませる。小柄な慈乃の後ろにザンが隠れられるわけはないのだが、そこまで頭が回らないらしい。


「グワハハハハハハーッ! どこだぁーっ、小僧ぉーっ!」

「ひいっ、来たああっ!?」


 珍しくザンが本気で脅えている。何かと声のした方を見れば、雲突くような巨体がのしのしとこちらに向かって歩いていた。


 小さな鉄板を紐や皮で繋いだクオンツァ風の鎧に身を包んだ大男である。街中だというのに、腰には優美に湾曲した剣――これまたクオンツァ独特の剣で刀というらしい――を下げ、面に兜と完全装備。その一挙手一投足には並みならぬ力強さが溢れていた。


「こんにちは、イーブリー様」

「おおっ、聖者様ではありませぬかーっ! このような町中でお会いできるとは、ワシは幸せ者よなーっ! 寿命が三年延びたわ!」


 クオンツァの防備を担う侍衆という組織の長で、イーブリー=ガッコという男である。九十八歳という高齢で、あの聖者クオンにも会ったことがあるらしい。


「ところで聖女様ーっ! ここらで小僧を見ませんでしたかなぁ? はて? さて?」

「いないって言えいないって言えいないって言えいないって言えいないって言え」

「ザンなら私の後ろにおりますよ」

「うわっ、バカ! なんで言うんだーっ!?」

「グワハハハハハハーッ! 見つけたぞぉ、小僧ぉーっ!」


 その巨体からはありえないような素早さを発揮して、イーブリーが逃げようとしたザンの肘をボギッとつかむ。骨にヒビでも入ったか、ザンが悲鳴を上げてのた打ち回った。


「おいコラ、御嬢っ! オ、オレがここ最近コイツにどんな目に遭わされてるか、前にも言っただろ!? コイツはなぁ、バカみたいに強いんだぞ! ライゴウより強いんだぞ!?」

「では聖女様、失礼いたしますぞぉーっ! 頼まれた通り、この小僧の根性を叩き直してやりますので、ご安心をーっ!」


「徹底的にお願いします。少しくらい厳しくやらないと直りませんので」

「少しじゃねぇえっ! コイツのは絶対少しじゃぐわあああああっ!? 痛い痛い痛い!」

「やかましいぞ小僧ぉーっ! このまま腕を握り潰されたいかぁあーっ!?」


「ではイーブリー様、よろしくお願いいたします……ついでと言っては失礼ですが、もう一つお願いしてよろしいでしょうか? 良し悪しがよく分からない買い求めたい品があるのですが、今度買い物にお付き合いしていただけますか?」

「おおーっ、もちろん付き合いますぞー! この老木がかくも若く美しい聖女様と逢引とは、長生きはするもんじゃぁあーっ! 寿命が十年延びたわぁーっ!」

「痛い痛い痛い痛い千切れる千切れる腕痛い千切れるぎゃああああああっ!」


 今日もクオンツァは平和である。




   ○   ○   ○




 宿の一室を締め切り、測量道具を駆使して浄文陣を書いていく。

 復活の呪文のそれに似ているが、少しだけ違う。これは聖者クオンの冥界踏破の原本に書かれていた情報を元に復元した、クオンが最初に作った復活の呪文の浄文陣である。


 部屋の片隅では、ザンが浮かない顔で擂り鉢の中身をゴリゴリと潰している。


「なぁ、御嬢……本当にやる気かよォ?」

「そのためにこのクオンツァへ来たのです。為さずにどうするというのですか」


 聖者クオンが復活の呪文を編み出した理由は、極めて個人的かつ即物的なものである。死に分かれた家族や友人を生き返らせたい、などといった泣かせる話でもなんでもない。


 プクウという魚がいる。脅かすとその名の通りプクーッと膨らむのだが、この魚は体の一部に猛毒を含むことで有名である。しかもそれでいて非常に美味なのだ。


 聖者クオンは、このプクウを大好物にしていたらしい。しかし毒にあたると死ぬので、一度にたくさんは食べられない。死にたくもないがプクウをたらふく食べてみたかった彼は「死んでも生き返ればいいじゃないか」と発想の飛躍を得て復活の呪文の研究に着手、これを完成。念願通りにプクウを心置きなく食べて、当然死んで、思惑通りに蘇った。

 その後彼はダイテンザンでの瞑想を経て、復活の呪文を改良。これが現在使われているものである。


 では、今のものとオリジナルのものとでは何が違うのか? 慈乃が立てた仮設は『他人を復活させる用のものと、自分が復活する用のもの』だった。


 現在使用されている復活の呪文で蘇らせられるのは他人だけである。自分で自分を蘇生させる、などという器用なことはできない。

 これに対して、聖者クオンが最初に作った復活の呪文は明らかに自分用である。そうでなければプクウの毒にあたって死んだ彼自身が復活できるわけがない。


 加えてもう一点。聖者クオンは、冥界踏破を経て復活の呪文を完成させたと言われてはいるが、具体的な時系列は実ははっきりしていない。復活の呪文が二種類ある上に、冥界踏破については聖者クオンの手記としてしか残っていないためだ。


 思うに、聖者クオンはプクウの毒で死んだ時、初めて冥界に足を踏み入れたのではないか? 彼にとって予想外の出来事だったからこそ手記の形でしか話が残らなかったのでは……そう考えて冥界踏破の原本を読み込んだところ、やはり慈乃の予想は当たっていた。


 ここで重要な点は一つ。このオリジナルの復活の呪文を使えば、魂を冥界へと飛ばして冥王に会い、再び現世に戻ってこられる……ということだ。


「いろいろと分かってはきましたが、やはりライゴウ様の不死の秘密を解くには、冥界に赴く他にありません。ライゴウ様自身も知らないことを冥王なる御仁は知っているはず」

「だからって、わざわざプクウの毒まで用意して自殺なんかしなくてもよぉ……」

「プクウの毒でなければならないのです! この浄文陣は、プクウの毒で死んだ自分自身を復活させるためのものなのですから」


「それでわざわざイーブリーとプクウ料理を出す店に行ってきたのかよ」

「別の買い物のついでです。浄言に用いると無理をいって、プクウの毒のある部位をいただいてきたのです。失敗するわけにはいきません。必ず成功させます」

「失敗したらどーすんだ」

「ジングウに赴いて私の復活を依頼してください。死んだままは嫌ですし」


 復活の呪文が完成されて百年。死に対する一般的な感覚はこんな程度である。


「では、参ります。日没までに復活の呪文が発動しなかった時は、失敗したのだと思ってください。それと浄文陣を荒らされると復活できなくなってしまいますので、この部屋の見張りの方はお願いします」

「それくらいならやってやるけどよぉ……」


 ザンがプクウの毒のスープを渡してくる。それを受け取って、なんともいえない色合いのその水面に自分の顔を映して、慈乃は何度か深呼吸した。

 これを飲めば、自分は死ぬ――それはどれくらい苦しいのだろうか?


「……超神ユートムよ、我に試練に臨む勇気をお与えください……!」


 手が震える。呼吸が乱れる。意を決して、慈乃はスープを一息に飲み干した。


「お、おい御嬢……」

「大丈、夫です。毒が回るまで、いくらかは時間がかかるはずですから」


 脇を締め、胸の前で右拳と左掌を重ねる。ユートム教の礼の姿勢だ。自分の予測と計算は正しいはず……いや正しいのだと己に何度も言い聞かせ、復活の呪文を口にする。


わがまえのゆうとむよ

 ひよつきよゆめようつつよ

 とわなるせつなる

 よろずをなすちょうじんよ

 畏々かしこみかしこみもうしそうろう


 おなかが熱い――気がする。体が熱い――気がする。


われうれうはプクウのどく

 われこばむはしせるつらなり

 われもとめるはゆきさるたましい

 われみちびくはおのれとうつしみ

 われうたうはいのちのよろこび


 復活の呪文とは、こんなに長いものだったろうか。もしかしてどこかで言い間違えたりしていないだろうか。


めいかいのもんのはざまより

 はかなきみたまよめぐりてかえれ

 あまつちのことわりをこえて

 かみなるいりょくをあらわしたもう

 しんにしんにねがいたてまつる


 なんとか呪文を言い終える。その頃には、手足や唇に違和感が生じ始めていた。

 やがて指が完全に動かなくなり、目の焦点も合わなくなる。体を支えられない。正座の姿勢からぐにゃりと横に倒れる。


「御嬢!」


 慌てて駆け寄ろうとするザンに、来るなとばかりに掌を向ける。ここで邪魔をされては意味が無いし、そもそも毒はもう体に回っている。今さら助けるのは不可能だ。


「らいじょう……えふ……かはっ」


 全身が動かない。息が苦しい。空気が吸えない。意識が遠退く。


「…………かっ…………」


 かくして、慈乃は死んだ。

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