3 襲撃


 何者かの気配を感じて、ライゴウは重たい瞼を上げた。

 騎士の礼服を着た赤い髪の女が、鉄格子の向こうに立っていた。壁を背に座りこむ自分を、腕を組みニヤニヤと笑みを浮かべて傲然と見下ろしている。


「久しいな。あれだけの月日を隔てて、なおお主と再び顔を合わせようとは思わなんだ」

「……こちらこそ、正直お前が生きているとは思わなかった」

「すこぶる頑健なのが某の自慢だ」

「何用だ。今さら旧交を温めるような間柄でもないだろう」

「一応、挨拶だ。お主に憐れみを感じられる程度には、某も歳を食ったということよ」

「嘲るためとしか思えんな」

「それもある。因果応報として受け入れろ。しかしずいぶん派手にイジられておったな」

「構わない、こちらは死を望んでいる。痛みなどどうでもよくなった。この国の連中も俺が死なない理由を知りたいのだろう。好きなだけ調べればいい」

「緋の海に沈み、地の底で二百年を過ごし、それでも死なぬお主が人の知恵程度で殺せるとも思えんがな。ともあれ今の陛下はお主に期待している、せいぜい役に立って……」


 轟音が部屋を揺らしたのはその時だった。何事かと天井――轟音の発生源である地上を見やる女騎士とは裏腹に、ライゴウはひどく落ち着いた様子で状況を理解した。


「……ヤツか」




   ○   ○   ○




「おいおいおい! なんだよこれ? すげェなオイ! オレが走るより速ェぞ!?」


 恐ろしい勢いで彼方の景色が眼前に迫り、後方へと吹き飛んでいく。浄言で気流を操る慈乃の隣で、ザンは子供のように大はしゃぎしていた。


「やるなァ御嬢、こんな便利な術使えたのかよ。伊達に変な髪形してねェな、おい!」

「いえ、お構いなく……髪に触らないでいただけますか」


 輪の形にまとめた髪を無遠慮に弄ってくるザンからそっと距離を取り、遮るように杖を構える。それに値する力を持ちながら、年齢的な問題から一等神官の証――三種の金属を用いた聖具を身につけられない慈乃に、渚がその代わりにと勧めてくれた髪形である。


 気流の上に敷いた布に乗って、二人は王都を目指していた。


 風を御すると共に自分の周囲に大気の結界を展開し、風圧で吹き飛ばされるのを防ぐ。街道に沿ってひたすら飛翔を続けると、ややあって正面に大きな町が見えてきた。

 中央にそびえる巨城、町を彩る色取り取りの灯り……アルメルティの王都だ。


「……あん?」


 ザンが身を乗り出す。何事かと彼の視線を追うと、城の一角に火の手が上がっていた。


「あれは……」

「ただの火じゃねェな、なんかの術だ。誰かがあの辺でドンパチやってるらしい」


 気流を操りそちらに向かい、眼下に広がる意外な光景を目にする。興奮した群衆とアルメルティの兵士たちが、城門を挟む形で対峙している。群衆側の先頭に立っているのは、慈乃のそれに似た装束に身を包んだ一団……この国のユートム教の神官たちだ。


 火の手は城の中から上がっている。ザンの見立てた通り、どうやら戦闘が行われているらしい。神官たちは怪我人の治療を理由に門を通すように主張し、兵士たちがそれを頑なに拒んでいるようだった。見られて困るものでもあるのだろうか?


「けっ。ユートム教の神官どもが、また善人ぶって騒いでやがる」

「善人ぶって、とは何事ですか。このような騒ぎともなれば、皆が不安に思うのは当然でしょう。世のため人々のために善を為すことに、どのような問題があるというのです」


 憤然として言い返す。そんな慈乃を横目で眺め、ザンはねちりとした笑みを浮かべた。


「なァ、御嬢。ユートム教団が世界中で死ぬほど嫌われてるっての、知ってんのか?」

「教団が……? 何を言っているのですか。そのような話は聞いたことも――」


 否定するのも馬鹿らしい話である。世界を善に導くことこそがユートムの教えだというのに。一蹴しようとした慈乃の眼前に、ザンが一枚の銅貨を突きつけてきた。


「……その銅貨が何か?」

「ただの銅貨じゃねェ、ユートム教団謹製の銅貨。教団の支配地域ならどこでも使える」

「良いことではありませんか。昔は地域ごとにいくつもの貨幣の種類があり、旅をするにも商いをするにも酷く不便だったのだとか。本にそう書いてありました」


「らしいな。まぁ、便利になったっていうのはそうなのかもしれねェが、問題はそこじゃねェ。ユートム教団が、寄付を教団製の貨幣でしか受け付けてないって知ってるか?」

「それがどうかしたのですか?」


「例えば、どっかの国が教団に媚を売ろうと寄付することを考える。ある程度まとまった数の教団製の貨幣が必要になる……手っ取り早くそれを集めるったら、教団と商売をするのが一番簡単だ。お宝だの食い物だのをたんまり渡して、その対価として教団製の貨幣をもらって、今度は寄付としてそれを収める。教団の丸儲けだろうが」

「……そ、それは」


 頭を殴られたような感覚。魂が揺らぐほどの衝撃。ユートム教団とて、寄付を集めなければ思うように活動することはできない。渚がいつも頭を悩ませていたのを思い出す。


 だが、だからといってザンの言うのようなやり方は本当に善と呼べるのだろうか?


「しかもああやって、何かといっちゃ口出ししてきやがる。ムカツクから従わねェ、寄付もしねェなんて言ってみろ。ズの国がなんで滅んだのか知ってるか?」

「大きな内乱を収め切れず、国が分裂したと聞いていますが……」

「違ェよ、バ~カ。あそこはユートム教団に喧嘩売ったんだ。即座に異端認定食らって、ズの国の人間は復活させないことになった。死んだら生き返られない不安と恐怖で国内は乱れ、もともと不満の溜まってた地方の属国が次々に反乱。しかも嫌らしいことに教団の連中、反乱を起こした属国の異端認定は解除したんだとよ」


 それは絶大な効力を発揮した。ズに反旗を翻せば異端認定は解除してもらえる、死んでもまた生き返らせてもらえる……そう悟ったズの国民ばかりか、有力な貴族や王族までもが我先にと祖国を裏切ったのだ。

 相次ぐ反乱、留まらぬ民の流出、続出する有力者の裏切り。異端認定された直後の混乱からも立ち直っていなかったズの国に、これらを収める力はもはや残されていなかった。


「一年足らずで、あの五大国の一つが崩壊、分裂、消滅だ。そりゃありがたがってる連中もいるけどよ、王とかどっかの代表とか、上の立場の人間ほど教団を嫌ってる。金の亡者だの他人の国でデカイ面してるだのってな」


 口の端を歪め肩を竦めて、ザンが話を締めくくる。思考がグルグルと空転し、否定することも反論することもできない。そんな慈乃の様子に愉悦を感じているようだった。


 ふと、まったく別のところで思考の歯車がカチリと噛み合う。


「ライゴウ様……なるほど、ライゴウ様なのですね」

「あ? あの野郎がどうかしたのかよ」

「分からないのですか? ライゴウ様は不死人です。その秘密を解き明かせば、ユートム教団に対する武器になり得ます。だからこそ彼らはライゴウ様を捕え、秘密を守るために私をも虜にせんとしたのです……世界を揺るがす存在とはこのことだったのですね」


 ザンの話が事実だとして、ライゴウの存在が世に広まれば、世界中の国家や組織が動き出すだろう。そうなれば彼を巡っての争奪戦が始まる――きっと渚はそれを恐れたのだ。

 あるいはライゴウを“聖女誘拐犯”として生きたまま捕えようとしたのは、彼の秘密を世に漏らさぬままに教団で保護しようという意図があってのことだったのかもしれない。共に旅に出た己の覚悟がいかに安易なものであったかを、慈乃は痛いほどに理解した。


 もう彼から離れるわけにはいかない。それが賢明な方法なのかどうかは分からないが、教団でライゴウを保護しない限り、その存在は世界に混乱を招くこととなりかねない。


 決意も新たに眼下の騒ぎを覗き込む慈乃にならい、ザンも地上の光景に注目する。


「よく分からねェが、ライゴウの野郎は城の中にいるのか?」

「恐らく。時間的にさらにどこかに運ばれたとも考えにくいですし……」

「なるほど。じゃ、あばよ」


 言うが早いか、ザンが気軽に飛び降りる。群衆の後方に着地し、その衝撃を大地に伏すようにして受け流し、人の喉から放たれたとは思えないようなすさまじい哄笑を上げた。


「 ぐ げ げ げ げ げ げ げ げ げ げ げ げ げ げ ッ ! 」


 騒ぎ立てる群衆の声を打ち消し、思わず耳を塞ぎたくなるほどの大音響である。何事かと動きを止めて振り返った群衆に、両手に剣を構えたザンが突貫した。


 人々を殺傷し、神官を切り刻み、兵士たちを惨殺する。城壁に剣を突き立て足場にするとそこを駆け上がり、一息にその上へと到達する。瞬き一つの間にこれだけのことをやらかした殺人者は、血に酔ったが如く再び怪笑し、そのまま城内へと姿を消した。


「ぐげげげげ! 殺す殺す殺す殺す死ね死ね死ね死ね死ね死ねッ!」

「……っ! ま、待ちなさい!」


 気流を操り、城門を越える。そこに広がる異様な光景に、慈乃は思わず息を飲んだ。


「これは……」


 漆黒の獣たちが城内を蹂躙している。闇色の群狼が庭園を駆け抜け、影から湧き出したような化け熊が咆哮と共に兵士を薙ぎ倒す。夜空が舞い降りたが如き大鷲が逃げ惑う人々を襲い、暗黒で形作られた猛牛が体当たりで城郭を揺るがす。王の宮は大混乱だった。

 一目で分かる魔物の大群。しかしこの数、いったいどこから現れた? アルメルティが密かに怪しげな魔法実験をしているという噂はジャルハンでも聞いたが、そうやって作られた怪物が逃げ出したということなのか?


 魔物との戦闘で負傷したか、うずくまって動けずにいる兵士に剣を手にしたザンが駆け寄っていくのを発見。編み上げた浄言を上空から遠慮なく叩き込んだ。


「悪為す者を討て、鉄槌の風!」


 圧縮された大気の槌が、轟音と共に大地を穿つ。死角からの奇襲をザンが難無く避けたのを確認し、慈乃は後退した彼と兵士たちの間に降り立った。


「……あ? なんだ? 邪魔すんのか、殺されてェのか」

「邪魔もしますし、殺されるわけにもいきません。そのために私はここへ来たのです」


 ザンの顔が笑みの形に歪む。一瞬で間合を詰められる。無造作に振るわれる左右の刃。構えた杖を一旋。右の切っ先を叩き落とし、左の刃は受け流す。


「せいっ!」


 さらに繋げて横薙ぎの一撃を見舞う。垂直に跳躍し回避され、双剣を投げつけられる。咄嗟に杖を構えて防御――それを足場にしてザンは慈乃の後方へと大きく跳んだ。踏み台にされ体勢を崩され、慌ててそれを立て直し身を翻す。器用に空中で体を捻って着地したザンが、興が乗ったと言わんばかりに口の端を緩め、双眸に殺意を浮かべていた。


「今のを見切るか。意外とやるじゃねェか、ただのザコってわけじゃなさそうだ」

「これだけ短い時間に何度も見せられれば、この程度は誰にでもできます」


 思考は明瞭。体も動く。ついこの間怖くて動けなかったのが嘘のようだ。あれほど凶悪な殺気を繰り返し浴びせられればこうもなる……ということはザンのお陰なのだろうか?


「剣を納めなさい。それを望むライゴウ様はともかく、人を殺めることは許しません」

「ぐげげげげ、そりゃ面白ェや。けどなァ、御嬢……後ろ見てみな」


 ザンが楽しそうに慈乃の背後を指を差す。その動きに釣られてそちらを見ると、新手の兵士が間近に迫り、自分に槍を突き刺そうとしているところだった。


「……っ!?」


 杖の一端で穂先を払い、半身になって体をかわし、擦れ違い様に杖のもう一端で首筋をしたたかに打ち据える。一人を昏倒させたのも束の間、すぐに別の兵士が襲ってきた。


「王命だ! 城内に侵入した者は誰であろうと排除しろ!」

「ユートムの使徒といえども恐れるな!」

「お、おやめください! そのようなことをしている場合では……」

「ぐげげげげげげ! 死ィ~ね死ね死ね殺す死ね殺す死ね死ね死ね殺す死ね殺す!」

「ですからあなたも! やめなさいと言っているでしょう!?」


 兵士たちから逃れ、魔物に襲われ、あるいはザンを追いかけて、気が付くと城の奥まで入り込んでいた。そこかしこに兵士の遺体が転がり、どこからか怒号と悲鳴が響き、方々で炎が踊り、戦闘によるものか破壊の痕跡があちこちに見受けられる。


 今のところ近辺に魔物の姿は無い。期せずして城内へと侵入することはできたが、ライゴウはどこにいるのだろう。慈乃がそこまで考えたところで、空から人影が降って来た。


「ぎゃふん!?」


 クルクル回りながら飛んできて、ドシャッと地面に激突する。見知った相手だった。


「ゼ、ゼフィー様……」

「……む? おお、聖女殿ではないか。なかなかの強運をお持ちのようだな」


 言ってゼフィーが跳ね起きる。その邪気の感じられない笑みを思わず見返していると、いったいどこに潜んでいたのかザンがズイッと顔を出して来た。


「御嬢の顔を知ってる、ゼフィーって女……テメエがアルメルティの第零騎士団長だな」

「そういうお主は話に聞く無尽剣か。我が国の民をずいぶんと殺してくれたようだの」


 ザンの顔に愉悦と殺意が浮かび、ゼフィーが敵意と共に破顔する。鋼の悲鳴が幾重にも鳴り響いたかと思った次の瞬間、ザンが後方に大きく跳躍した。


「評判に恥じぬ程度には腕が立つか。危うく挽き肉にされるところだったわ」


 感嘆混じりに揶揄しつつ、ゼフィーが蹴り足を下ろす。


「防ぐなよ、ウゼェぞ。素直に死ねよ。オレが殺してやるっつってんだぞ」


 ザンが苛立ちと共に吐き捨てる。胴の前で交差するように構えていた両手の剣は、その半ばから砕けていた。それを投げ捨て、どこからか取り出した新しい剣を構える。


 ザンが繰り出した無数の斬撃をゼフィーが捌き切り、反撃に放たれたゼフィーの蹴りを剣を盾にしてザンが防いだ……らしい。慈乃の目には捉えることもできない攻防だった。


「噂は聞いてるぜ、第零騎士団……アルメルティに国難ある時、王命によって結成される特務騎士団。その団長は代々女が務めるって話と聞いたが、本当だったみたいだな」

「特務騎士団……まさか、アルメルティは既に?」


 ライゴウの価値に気がついているのか? だとすれば、それは彼をこの国にまで導いた自分の責任だ。神官長が避けようとした事態を、己の浅慮で招いてしまおうとは……!


「語るな、面映ゆい。見逃すわけにもいかんが、今は少々立て込んでおるのでな」


 ゼフィーが表情を強張らせて中庭の一角を――彼女が飛ばされてきた辺りを見る。釣られてそちらに目を向けた慈乃の目に、まるで夜の闇から溶け出したような異形の怪物の姿が映った。


 頭部がある。首がある。胴体がある。腕が二本に、足が二本。しかしそれは決して人の姿をしていない。全身が液体のようなものでできているらしく、姿が安定しない。

 その姿は漆黒。底冷えする闇。あらゆる光を拒絶する影。まるでインクの怪物だ。


 数人の兵士が黒い魔物を包囲する。次々と槍が繰り出され、その穂先が魔物を貫く。


「よせ!」


 気付いたゼフィーが制止の声を上げた時には、もう遅かった。


 槍に貫かれ、しかし一切の痛痒も見せずに立ち尽くす黒い魔物の体から影が飛び出す。いずれも影のように真っ黒な獅子、山羊、大蛙……城の中で何度も目撃した漆黒の獣だ。

 さながら王を守る軍勢の如く、黒い魔物を脅かす者に漆黒の獣たちが襲い掛かる。その数に、その獰猛さに、兵士たちが撃滅されるまでそう時間はかからなかった。


 黒い魔物の体から、持つ者のいなくなった槍がズルリと抜け落ちる。何事も無かったかのように、歪な人型へと姿を戻す。なんとかその進行を阻もうとする兵士たちに、次々と生み出される漆黒の獣が牙を剥く。無人の野を行くが如く、魔物は悠然と移動を始めた。


 悟る――城に侵入したのは、あの黒い魔物一体だけだったのだ。漆黒の獣は、あの魔物が自らを守るために作り出した存在。しかしそんな怪物、文献でも読んだ記憶が無い。

 水魔の一種かもしれないが、それにしては妙に外見が人型に近い。あれほどはっきりとした実体があるのだから、影の魔物でもないはず……一種一体の特殊な魔物なのか?


「小僧、手を貸せ。見事あの黒いモノノケを討たば金貨三十枚くれてやる」

「金貨三十枚か、よし乗った。御嬢も手伝えよ、結構心得があるだろ」


 ゼフィーの提案にザンが応じて、こちらにも話を振ってくる。状況を理解するのに呼吸数回分の時間が必要だった。


「か、勝手に話を進めないでください。そもそもゼフィー様、あなたは私を虜にしようとなさっていたそうではありませんか? そのような方と共に戦うことなどできかねます」


「その話は後だ。とにかく早くあのモノノケを倒さんと、この先どれだけ兵と民が死ぬか分からぬぞ。それはユートムの使徒としても歓迎するところではあるまい」

「そ、それは……ですが……」

「とっとと始めようぜ。バケモンを殺すのも面白そうだ!」


 逡巡する慈乃を嘲笑う如く、ザンが嬉々とした様子で兵士たちを蹂躙する魔物へと飛び出していく。ゼフィーも慈乃との話を一方的に切り上げ、魔物に向かって駆け出した。

 どうするべきかもう一瞬だけ悩んで、それを飲み込む。釈然としない思いは確かにあるが、ゼフィーの指摘ももっともである。まずはあの魔物を撃退することが最優先だ。


 ザンとゼフィーの接近に気付き、黒い魔物がこちらに向き直る。その身から漆黒の獣が次々に溢れ出し、二人に襲い掛かる。それを双刃で滅多切りにして、あるいは剛剣で叩き切り、忍者と女騎士がさらに前進。援護するべく、慈乃は懐からあの砦の中で過ごす間に作っておいた符を取り出した。そのいずれにも精緻な浄文陣が綿密に書き込まれている。


 浄言を用いるには膨大な知識と莫大な演算が不可欠――しかしその複雑で多大な労力を必要とする作業は、事前に処理して記録しておくことで簡略化することができる。

 ユートム教団においてはこの技術を浄文と呼び、紙や床などに実際に書かれた演算式を浄文陣と言い表す。復活の呪文などの高難度の浄言や、早さが要求される実戦の場で補助として用いられる。簡単なものなら、素人に浄言を行使させることも可能だ。


 魔法にもこの手の技術は存在し、一般的には魔法式と呼ばれる。アルメルティではこれを武具どころか日用品にも組み込み、一般人でも気軽に魔法を使えるようになっている。


 余談だが、浄言と魔法……恐らくはザンの忍法とやらも、基本的には同じ技術である。細かな差異はいくらかあるが、流派の違いで名称も異なっているというだけの話だ。


「古の叡智よ、今なる者の戒めとなれ!」


 浄文陣を書いた無数の符を紙吹雪の如く風に乗せて吹き散らし、漆黒の獣群の体に貼り付ける。それぞれの符から小規模ながら強力な力場が発生、獣たちの動きを封じ込めた。


 獣たちの攻勢が止まり、好機と見てザンとゼフィーが一気に突撃。黒い魔物がさらに獣を生み出し、舌打ちしながらゼフィーがそれを両断。器用にもその体を駆け上がって肩を踏み台にして跳躍し、ザンが黒い魔物に踊りかかった。


「死ね! 死ね死ね死ね死ねぇええっ!」


 逆手に構えた双剣を魔物の両の肩口に突き刺し、身を沈めて着地。いつ抜いたか新たな剣が翻り、左右の太股の内側を切りつける。ほぼ同時に跳ね起きて、腹と顎に一本ずつ下から斜めに切っ先を突き立てる。どこに隠し持っているのやら、手品のように現れたさらなる刃を握り締め、喉元に斬撃、眼窩に刺突――が。


「ぐげっ!?」


 驚愕と共にザンが退く。ほとんど同時に、黒い魔物が腕を振るった。繰り出されたそれは鞭のようにしなり、軽く触れただけで地を豪快に抉る。本体の膂力も尋常ではない。


「クソが、脳も心臓も無いのかよ。殺し甲斐のねェヤツだな!」


 黒い魔物の体から、ザンの剣がぼとぼとと抜け落ちる。時と共に符の効力が弱くなり、漆黒の獣たちが動き出す。さらに新手の獣が続々と現れ、三人は一気に劣勢に陥った。


「切りがねェぞ、オイ!」

「やはり剣では無理かっ。聖女殿、お主の術でなんとかならんか!?」

「やってみます――浄言を編む時間を稼いでください!」


 漆黒の獣が殺到する。杖を振るって猛攻を凌ぐ。ややあって駆けつけたザンとゼフィーに防御を任せ、浄言を編んでいく。黒い魔物は微動だにせず、静かに立ち尽くしていた。

 問題は、どんな攻撃ならあの魔物に通じるかということだ。今までの様子を見る限り、単純な打撃は効果が薄いようにも思うが……まずは試してみるしかない。


「我が敵を打て、鉄槌の風よ!」


 凝縮された風の塊が黒い魔物を打つ。轟音が響き、術の威力の余波が衝撃となって辺りを撫でる。不可視の大気の槌を放つ、慈乃がもっとも得意とする浄言だ。

 さすがの魔物が一歩退く。その上体が縦に爆ぜ、足元が揺れる。効果はあったと見て、二発目を叩き込もうと浄言を編み始めて――自分の前方で漆黒の獣と戦っていたザンたちが、不意にその場を飛び退いた。


 何かと目を見張る。伏せろと誰かが叫ぶ。黒い魔物の全身が爆ぜると同時、豪雨の如く四方へ降り注ぐ漆黒の魔弾。全身を打たれ、どこかに落下するような感覚がそれに続く。

 次に気がついた時、慈乃はなぜか背を地に預けて星空を眺めていた。


「……ぅ、あ……」


 いったい何が起きたのだろう。全身に鈍痛があり、うまく力が入らない。


(意識を失っていた? どれくらい? ……あの浮遊感は吹き飛ばされたから?)


 自爆、だったのだろうか? 痛みに抗い、肘を突いて体を起こす。

 そこで恐るべき光景を目にして息を飲む。四方に散った漆黒の礫の一つ一つが、意志を持つかの如く移動し集合し、慈乃の目の前で再びあの人型を形作ろうとしている!


 焦りと恐怖と痛みが、体から自由を奪う。人の姿を取り戻した黒い魔物から漆黒の獣が飛び出し……しかし魔物の腕が、それを強引に押さえ込んだ。


「え……」


 こちらに覆い被さるように魔物が身を乗り出す。その無貌に剥き出しの眼球が現れる。血走った目に一心不乱に凝視され、不思議とそこから視線が逸らせない。

 ややあって黒い魔物は、うぞうぞと蠢く闇のかいなで慈乃の頭を鷲掴みにして――


「御嬢!」


 誰かの声。魔物がバッと退き、ほぼ同時に巨大な火球が目の前を通過する。

 新たな兵士の一団が突入し、そのまま魔物とその生み出した獣たちと戦闘を開始した。


「おい、生きてるか? もうちっと勘を働かせねェと死ぬぞ」


 近づいてきたザンが事も無く言う。自分と比べるとかなりの軽傷のようだ。

 改めて辺りを見回せば、あちこちで倒れている兵士たちと、剣を握り締めて黒い魔物を睨むゼフィーの姿が目に入る。独り言のように彼女が唸った。


「なんなのだ、あの魔物は……! 散ったかと思えば元通りだぞ、どうすれば倒せる!?」

「分かりません……ですが、剣や矢などでは手傷を負わせるのは難しいと思います」


「くそ! ヤツの警護で兵を多く配していたのが、このような形で裏目に出るとは……」

「ライゴウ様のことですか? ……やはり城の中にいるのですね!?」

「ふ~ん……そうすると、あの黒いのもライゴウ狙いか?」


 軽い口調でザンが言う。恐らくは思いつきのその発言に、しかしゼフィーが反応した。


「ライゴウを狙っている、だと? ……そういえば何か知っている風ではあったが」


 一度言葉を切って、ゼフィーが黒い魔物を見る。その顔には濃い苦渋が滲んでいた。


「……そこの建物を奥に進んだ先に隠し扉がある。ライゴウはその先の地下牢にいる」

「……それは?」

「勘違いするなよ、一時預けるだけだ。これ以上語らせるな、とっとと往ね!」


 ゼフィーが黒い魔物に向かって駆け出していく。自分の見ていないところでライゴウを連れ出せという意味だとようやく悟り、慈乃は杖を支えに体を起こした。






 痛みの残る体を奮い立たせて、ゼフィーに教わった道を行く。見張りの兵士は、頼みもしないのについてきたザンが殺そうとする前に、眠気を誘う浄言で一休みしてもらった。


「……金貨三十枚はもういいのですか?」

「あんなモンはついでだ。オレはライゴウを殺しに来たんだよ」


 隠し扉を通り、階段を降りて、さらにその先を目指し……目的の場所に到着する。

 薄暗い牢の中で、ライゴウが壁を背にして座り込んでいる。瞑目し、微動だにする様子も無いが、寝ているわけではないようだ。


「ライゴウ様!」


 名を呼ぶ。ライゴウが目を開けて、無言でこちらを見る。どうやら驚いているらしい。ザンが錠を断ち切り、迷いの無い足取りで牢の中へと入っていった。


「ようライゴウ、殺すから死ね」


 言って剣を振り下ろす。それを手枷で受け止め、ライゴウは慈乃を見やった。


「なぜ来た。あの町に戻れと言っただろう」

「そのようなことを話している場合ではありません。地上では、黒いインクの塊のような魔物が異形の獣を次々に作り出し城や兵士を襲っているのです」


「そうか……やはり黒渦か。二百年も経ったというのに、まだ追ってくるとは」

「黒渦?」

「冥界の魔物で俺の見張りだ。正しくはなんというのか知らんが、俺はそう呼んでいる」


 黒い魔物――黒渦がライゴウ狙いだというザンの予想は当たっていたらしい。となると彼がここに留まる限り、この騒ぎはいつまでも続くということになる。


「ライゴウ様、すぐにここを離れましょう。このままでは被害が増えるばかりです」

「……好きにしろ。黒渦が来ているとなっては、死ぬ方法を探すどころではないからな」

「クソが! 死ね! 死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ねぇえええッ!」


 執拗に斬りかかるザンを、ライゴウが無言で蹴り飛ばす。ライゴウの戒めを浄言で破壊すると、慈乃は憤怒と憎悪に顔を歪めて跳ね起きたザンに手を差し伸べた。


「……あ?」

「ザン=ミナモト、共に来なさい。あなたを放置するわけにはいきません。あなたがライゴウ様の命を狙うのなら、こちらの目の届くところに置くのが理に適うというものです」


 慈乃の顔と差し出された繊手の間で、ザンの視線が忙しなく動く。眉を寄せ、何がなんだか分からないとばかりに首を振りながら、彼はしみじみと呟いた。


「お前相当変な女だな……」

「それに関しては概ね同感だ」


 ライゴウまでもが小声で同調する。ザンを助け起こして牢を脱出、そのままバルコニーへと移動。気流を導き、その上に敷いた布に乗って、一気に夜空へと舞い上がった。


 眼下では今も戦闘が続いており、城門付近では神官たちが死傷者の処置や搬送を始めている。矢も魔法も届かない高度まで上昇し、慈乃はようやく安堵の息を吐いた。


「このまま行けば逃げ切れそうですね。そうすれば、黒渦も城から立ち去るはず」

「そりゃいいけどよ、これからいったいどうすんだ? アルメルティにゃ戻れねえだろ」

「…………どうすれば良いのでしょうか」


 ライゴウとザンの顔を見る。こんな時どうすればいいか、本には書いていなかった。

 ふと視線に気づいて、王都の街並みに目を向ける。尖塔の先端部分に、黒渦が立ち尽くしているのが見えた。

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