第319話 30秒

 ヨハンナ先生がカシミヤのコートを脱ぐと、周りから、わぁって溜息ためいきれた。


 紺のワンピースを着た先生が、クロークにコートを預けて、ボーイさんに軽く会釈えしゃくする。


 ヨハンナ先生は本当に紺色が似合った。

 先生の髪の金色と、紺色の深さが先生を気高く見せる。


 僕達が入ったレストランのお客さんや、従業員の人達が、ヨハンナ先生に釘付けになるのが分かった。

 びっくりしたみたいに先生を二度見する人もいた。


 その横にいて、いかにも着慣きなれないジャケットに身を包んで、馴染なじんでいないネクタイをした僕は、みんなからどんなふうに映るんだろう?


 今、ほほをつねると、これが夢だって気付いてしまうから、僕は、頬をつねるのを止めておく。



 ウエイターさんに案内されて、僕達は暖炉だんろに近い席についた。


「クリスマスだったら、こんなところで食事なんか出来なかったよね」

 ヨハンナ先生が言った。

 それでも12ある席は全部埋まっていた。

 先生は、旅館の若女将わかおかみをしているお姉さんのつてを使って、このレストランを予約してくれたらしい。


 クリスマスイブまであと二週間あるけど、レストランの中はすっかりクリスマスのよそおいで、緑と赤、金色のキラキラしたオーナメントで飾り付けられていた。

 窓際には、天井まで届くクリスマスツリーが立っている。


 どこの席も、恋人同士みたいだった。

 その中に僕がいるってことが不思議に思える。

 しかも、その相手はヨハンナ先生だ。


「この前の忘年会でつけちゃったシミ、綺麗に消えて本当によかった。これも塞君のおかげだね」

 ヨハンナ先生はシミがついていたワンピースの脇腹の辺りをさすった。


「やっぱり、持つべきものは洗濯が上手な旦那様かな」

 ヨハンナ先生が悪戯っぽく言う。


 あの日、先生が眠ってしまった後で、僕はワンピースのシミをタオルで丁寧に叩いてお醤油のシミを落とした。

 朝までかかったけど、跡を残さず元に戻すことが出来た。


「徹夜までしてくれたんでしょ? ありがとうね」

 先生が言う。

 でも、朝まで起きてたのは、先生の服を綺麗にしたいっていう思いもあったけど、実は、先生にもう一度プロポーズしなさいって言われて、興奮して眠れなかっただけだ。


「車で来たからワイン飲めないのが残念だなぁ」

 ヨハンナ先生が言う。

「先生」

 僕は先生をジト目で見た。

「嘘嘘、もう、お酒にはりてます」

 先生が慌てて言う。


「あんな姿を見せてもプロポーズしてくれるのは、塞君だけだもんね。もうあんなことにならないように、お酒は節度を持って飲みます」

 先生が言って、ちょこんと頭を下げた。

 大人の先生が見せるそんな仕草が、たまらなくカワイイ。



 コース料理は、クリスマスの特別メニューだった。


 サーモンとジャガイモのテリーヌに、トリュフ入りコンソメスープ、アワビと鯛のポワレ、たらば蟹のパイ包み焼き、和牛ロースのロースト・レモンバジルソース。

 そして、デザートには苺とピスタチオのムースを頂く。


「美味しいね」

 食べながら、ヨハンナ先生が話しかけてくる。

「はい、すごく、美味しいです」

 僕はそう答えたけど、正直、味はほとんど分かってなかった。


 周りの目が気になって、先生にふさわしい相手でいないとっていう緊張感もあったし、なにより、これからするプロポーズのことで頭が一杯だったのだ。


 それでも、先生が美味しそうに料理を食べてる姿を見てると、こっちまで嬉しくなった。

 この先毎日、こんなふうに先生を喜ばせる料理を作ろうって、心にちかう。




 食事を終えると、僕達はコートを羽織はおって、バルコニーに出た。


 このレストランには、眼下に夜景を望める展望台みたいなバルコニーがある。

 空が晴れていて、僕達の頭上には満天の星が見えた。

 窓からクリスマスツリーのイルミネーションが見えるし、プロポーズには最高の場所だ。


 夜景を見下ろしながら二人、並んで立った。

 先生が肩を寄せてきて、先生の腕と僕の腕がくっつく。

 先生の腕とくっついた僕の左腕だけが、燃えるように熱くなった。


「ここはオーベルジュだから泊まることも出来るんだけど、私達はまだ先生と生徒の関係だし、それはまた今度のお楽しみだね」

 ヨハンナ先生が言う。


 先生のその一言で、彼女いない歴=年齢の僕は、即死級のダメージを食らった。


 先生、僕には女子の気持ちが分からないとか言うくせに、自分だって男子高校生の気持ちが分からないじゃないか。

 そんなこと言われたら、この後のプロポーズがぐだぐだになっちゃうって、全然分かってない。


 それとも、先生はそんな僕を見て楽しんでるんだろうか?



「ねえ、私が塞君を初めて意識したのがいつか分かる?」

 遠くの街の灯を眺めながら、先生が訊いた。


「いえ」

「それは、私が君の担任になって初めての進路指導のときだよ」

 先生が言う。


「私、担任になったばかりだったし、まだクラスの生徒全員を把握はあくしてなくて、君はクラスの生徒の一人って感じだったの。だけど、将来の進路に主夫って書いて来て、正直、厄介やっかいな生徒がいるなって思った。それが、私が初めて君を意識したとき」

 確かに、その時の僕は厄介な生徒だったかもしれない。

 僕は僕で、本気で主夫になりたかったから、大人は何で分かってくれないんだって、必死だったけど。


「それから、主夫部の顧問をお願いされたり、私が寄宿舎に住むようになって、君と長い時間、一緒にいることになって、夏休みや冬休みは君の家で過ごしたり、私の婚約者として実家に行ってもらったり、北海道をドライブしたり、文化祭で恋人同士の役を演じたり、海を漂流したり…………色々あったよね」


「はい」


「なんか、あっという間の二年間だったね」


「はい」

 相づちしか打てない自分が情けない。


 もっと会話を広げるとか、面白い話を振ったり出来ればいいのに……



「んっ、んん」

 ヨハンナ先生が、咳払いをした。


「ん、んん」

 先生が、もう一度咳払いをする。


 あれ、ヨハンナ先生、まだ、忘年会の二日酔いが直ってないんだろうか?

 まだ調子が悪いのか。

 それに、コートを着てるけど、ここはちょっと寒いし。


「ん、んんん」

 先生が三度みたび咳払いする。


 ん?


 ああそっか、この咳払いは、今がその時だよ、プロポーズしなさいって、先生が合図してくれてたんだ。

 そのタイミングを教えてくれたんだ。


 まったく、なんていう鈍感。

 それにやっと気付くなんて、自分で自分を殴りたくなる。


 そしたら先生が笑い出した。

 せっかくこんなシチュエーションを用意したのにって、あきれ果てて笑い出したのかもしれない。


 一頻ひとしきり笑った後で、

「そうだよね。塞君の鈍感には、散々振り回されたし、やきもきさせられたし、今更、言うこともないよね。それに、なにも男子がプロポーズしないといけないなんて、そんな決まりはないんだもん。女子のほうからプロポーズしたっていいんだもんね。うん、この前は塞君が勇気を出してくれたんだから、今度は、私の番だよ。私から、プロポーズしないと」

 先生はそう言うと、フッと息を吐いてから、僕に向き直った。


 星空の下、僕達は向かい合う。

 先生の金色の髪に、クリスマスツリーのイルミネーションが映って綺麗だった。


 ヨハンナ先生が僕の目を見る。


「篠岡塞君、あなたは私に付いてきなさい。寄宿舎の管理人になるのは止めて、私と一緒に来なさい」

 先生が切り出した。


「私はあなたを一生幸せにします。私はあなたを生涯をかけて守ります。あなたを愛し続けます。だから、私と、結婚してください。私のお婿さんになってください。私に、一生あなたといられる幸せをください」

 ヨハンナ先生の言葉、一字一句が僕の胸に刻み込まれる。


「はい、お願いします」

 僕はそれだけははっきりと言えた。


「ありがとう」

 すると先生は僕のあごに手をやって、顎をくいって自分の顔に引き寄せた。


「目をつぶって」

 先生が言う。


 僕が目を瞑ると、ヨハンナ先生が唇を重ねてきた。

 目を瞑ってたから分からないけど、この柔らかい感触は、たぶん、先生の唇なんだと思う。


 僕達はキスをした。


 結局僕はプロポーズ出来なかった。

 プロポーズされた。


 適正なキスの時間がどれだけか僕は知らないけど、たぶんこのキスは長かったんだと思う。

 30秒くらい唇を重ねたあとで、先生が顔を離した。



 頭が真っ白になって、そのあとどうやって家まで帰ったのか、僕は覚えていない。

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