第317話 先生の背中

 12月に入ると、ヨハンナ先生は寝る暇もないくらいの毎日を送っていた。


 ただでさえ受験をひかえた三年生の担任で忙しいところに、新しい学校の打ち合わせと、年末の忘年会が重なって、寄宿舎にいないことも多かった。

 来春、この学校を辞めて引っ越すこともあって、今年は送別会的な意味も含めた忘年会になったから、二次会、三次会まで付き合って、先生は深夜になって帰って来た。

 当然、酒量もかさんでいる。


「お世話になった人達だから断るわけにもいかないし、簡単に会えなくなるから、できる限り出ておきたいんだよね」

 先生はそう言って、誘われた忘年会には全部顔を出していた。


 会えなくなるのは僕達だって同じなんだから、一緒にいて欲しいのに。

 出来ることなら、いつもの先生みたいに、僕達におやつをねだって、部室のソファーから優しく見守って欲しかった。




 今日も先生は、忘年会に出るからって、学校から帰ってくると夕飯も取らずに着替える。


 僕は、先生の部屋で着替えを手伝った。


 紺のワンピースを着て、ベージュのノーカラーコートを羽織ったヨハンナ先生。

 さり気ない服で、アクセサリーもネックレスくらいなのに、先生が着ると上品で華やかに見えた。

 このまま、アカデミー賞のレッドカーペットの上を歩けそうなくらいだ。


 着飾った先生を見て感嘆かんたん溜息ためいきが出ると同時に、ちょっと寂しくもあった。


 こんな先生に、僕を一緒に連れてってくださいとか、お婿さんにしてくださいとか、そんなこと絶対に言えるわけがないって、考えてしまう。


 そんなの現実離れしている。


 僕みたいなこんな高校生のガキに先生が付き合ってくれるわけがないって思ってしまった。


 先生の後ろで姿見すがたみに映る僕は、どこから見ても子供だ。

 先生とは全然釣り合わない。


「飲み過ぎたら、だめですよ」

 僕は先生に釘を刺しておいた。

「分かってるって」

 先生はそう言って僕にウインクする。


 先生がチェストの上のバックを取ろうと、手を伸ばした時だ。


「きゃ!」


 バランスを崩した先生が、僕の方によろけた。

 僕は肩を抱いて先生を支えた。


 先生の顔が、僕の鼻先数センチのところまで迫ってくる。

 そのまま青い瞳に吸い込まれそうだった。


「ごめん。なんか、ふらっとしちゃって」

 ヨハンナ先生が僕の目を見て言う。


「大丈夫ですか?」

 僕はとりあえず先生を椅子に座らせた。

「うん、大丈夫」

「本当に、大丈夫ですか?」

「本当に、ちょっと目眩めまいがしただけだから。ほら、もう大丈夫」

 先生はそう言ってすぐに立ち上がろうとする。

 だけど、まだちょっと足がふらついていた。


「今日の忘年会、絶対に出ないといけないんですか?」

 僕が訊く。

「うん、やっぱり、顔を出さないとね。でも大丈夫。今日は金曜日だし、栄養ドリンクでも飲んでこれを乗り切ればなんとかなるよ。土日は、久しぶりに休めそうだし」

 ヨハンナ先生はそう言って気丈きじょうにも笑顔を見せた。


「それじゃあ、今日は終電までには帰って来てください。二次会とかに誘われても、用事があるって、断ってください」


「そうだね。なるべく、そうする」


「いえ、絶対に早く帰って来てください。僕、待ってます。先生が帰って来るまで帰りませんから」

 僕は、そんなふうに言ってみた。


 大人の事情を考えない、ガキっぽい言い方だけど、それは僕みたいなガキの特権だから許して欲しい。


「だめだよ。夜遅くなったら、男の子だって危ないよ」


「そう思うなら、先生、今日は早めに切り上げてください。僕は、先生の顔を見るまで絶対にここを離れませんから」

 僕は駄々っ子みたいに言った。


「もう……」

 先生が溜息を吐く。


「分かった。今日は早く帰って来るよ」

 なんとか先生から言質げんちを取った。


「ありがとうね」

 先生はそう言って、僕の頭をくしゃくしゃってする。


「まったく、生徒に心配させる先生は、悪い先生だよね」

 先生が肩をすくめた。


「それじゃあ、行ってきます。戸締まりはちゃんとしておくんだよ」

 そう言い残して、ヨハンナ先生が寄宿舎を出る。




 その後、いつも通り、主夫部は寄宿生に夕飯を出して後片付けをした。

 主夫部の男子が帰り支度をするのを横目に、僕は寄宿舎に残る。

 

「じゃあ、俺達は先に帰るよ」

 錦織が言った。

「先輩、お先です」

「失礼します」

 御厨と子森君も頭を下げる。


「うん、お疲れ」

 僕は帰る三人を玄関で見送った。



 先生の帰りを待つあいだ、僕は、新巻さんの部屋に行って新作の下読みをしたり、弩の部屋に行ってちょっかい出したりした。

 萌花ちゃんの部屋で写真を選んだり、宮野さんがかんなの刃をぐのを見学する。

 そして、お風呂に入る北堂先生の代わりに、ひすいちゃんにい寝して子守歌を歌った。


 夜10時を過ぎると、消灯で廊下の明かりが落とされて、ただでさえ静かな寄宿舎の中が一層静かになった。


 あんまり遅い時間に女子の部屋に入るのはいけないから、僕は台所に移る。


 明日の朝食の下ごしらえをしたり、ぬか床をかき回したりして時間をつぶした。


 それでも先生は帰ってこない。


 僕は、椅子に座ってホットミルクを飲んで先生を待った。


 一人でホットミルクを飲んでたら、将来、主夫になった僕も、こんなふうに妻になった人を待つことがあるのかなって、そんなことを考える。


 妻になった人が、今日みたいに飲み会とか残業とかで遅くなって、僕はそれを家で待つのだ。


 それはきっと、寂しいけど楽しみな時間なんだと思う。

 一人で待つのは寂しいけど、大好きな人が帰ってくるっていうわくわくする時間になると思う。


 その相手がヨハンナ先生だったら、どんなに幸せだろう。


 深夜に帰って来たヨハンナ先生は、「ただいま」って僕に抱きつく。

 そして、歩けないからお姫様抱っこで運んでって、駄々をこねる。


 僕はお風呂までお姫様抱っこで先生を運ぶ。

 脱衣所で服を脱ぐ先生が、「きゃあ」ってふざけて大きな声を出す。


 僕達の幸せそうな声が聞こえて、マンションの隣の部屋の住人から、ドンドンドンって、壁ドンされる。


 ドンドンドン、ってされたから、僕達は小声で話す。


 それでも、隣の人はドンドンドンって、しつこく叩く。


 ドンドンドン。


 ドンドンドン。


 ドンドンドン。




 ドンドンドンって、玄関の方からの音で目が覚めた。




 いつの間にか、台所で椅子に座ったまま、壁に寄りかかって眠っていたらしい。

 時間を見ると、午前一時ちょっと前だった。

 当然、もう終電なんてとっくに出た時間だ。


 ドンドンドンって、玄関のドアを叩く音が続く。


 僕は、急いで玄関に駆け付けた。



「あら、塞君、お久しぶりー」

 玄関にはヨハンナ先生がいた。


 とろんとした赤ら顔の先生。

 金色の髪が乱れてるし、ストッキングが派手に伝線していた。


「あれ? 塞君、先生を待っててくれたの?」

 先生は完全に酔っ払っている。

 お酒臭いし、足がふらふらだった。

「こんな時間まで待っててくれたなんて、嬉しい」

 そして、先生は僕に抱きついてくる。


「もう、飲み過ぎたらだめって言ったじゃないですか」


「飲み過ぎてないよ。ほら、私、全然しらふだし」

 先生は言うけど、僕が支えてないと立っていられないくらい酔っ払っている。


「うっ」

 突然、先生が口を押さえた。

「どうしました?」


「ちょっと、気持ち悪い」

 先生の目が、涙目になっている。


「トイレ行きましょう!」

 急いで先生をトイレに連れて行く。



 トイレの中で、先生は吐いた。

 僕がトイレの中まで入るのはどうかと思ったけど、先生が心配で個室の方まで入る。


「大丈夫ですか?」

 僕は、便器に顔を向けて吐いている先生の背中をさすった。


「ごめんね。ごめん、本当にごめん。私、情けないよね」

 さっきまで陽気だった先生が、急に泣き上戸じょうごになる。


 やっぱり、先生は正体をなくすくらい、飲んでいた。


 お酒に強い先生だけど、仕事で疲れてる上に、こう毎日飲み会が続いてたら無理もない。


「先生、お水飲みますか?」

 落ち着いたところで、コップに入れてきた水を先生に渡した。


「ありがとう」

 先生は、それをゆっくりと口に含む。


「とりあえず、少し休みましょう」

 先生を部屋に連れて行こうとしたら、

「だめだ、やっぱり気持ち悪い」

 先生は再びトイレに戻った。



 便器を抱くみたいにして吐き続ける先生。

 吐く物がなくなって、胃液みたいのしか出なくなって、それでも吐き気が収まらずに先生は苦しそうにしている。


 僕は先生の背中をさすることしか出来なかった。


 疲れてるところに、こんなふうに付き合いで無理してお酒を飲んで、そして吐いて……


 僕は、先生の背中に、仕事をする人の苦労を見た。


 急に先生の背中が小さく見える。


 普段凜々しい先生も、本当はこんなに小さな背中なのだ。


 そんな先生を見てたら、たまらなくなった。

 いとおしくなった。



「先生」

 僕は先生に呼びかけて、先生の肩を抱いてこっちを向かせた。


「あの、ヨハンナ先生。僕を先生と一緒に連れて行ってください」

 僕は、先生の青い目を正面から見て言った。


「僕のこと、先生のそばに、一生、ずっと、いさせてください」

 僕の口から、そんな言葉が出ていた。


「僕を、ヨハンナ先生のお婿むこさんにしてください」

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