第316話 和解
北堂先生の旦那さんのお墓に、三人で手を合わせた。
ひすいちゃんも、お母さんの真似をして、小さな手を合わせて目を
先生の旦那さんのお墓は、この墓地の中でも比較的新しくて、掃除が行き届いていた。
先生が上げたお線香の煙が、秋の高い空に昇っていった。
「私の車見れば分かると思うけど、彼、車が大好きな人でさ、自動車レースのレーサーを目指してたんだよね」
しばらく手を合わせたあとで、北堂先生が口を開いた。
「だけど、交通事故で死んじゃったの。まだ、ひすいが私のお腹の中に入ってるときにね。それも、レース中の事故とかじゃなくて、レースの資金稼ぎで仕事をしてるときだった」
北堂先生が合わせていた手を戻すと、ひすいちゃんも真似する。
「前にも話したっけ? うちは固い家でね。父親が大反対でさ。レーサーなんて収入は不安定だし、危険だし、そんな奴に娘はやれないって。今時、そんな人いないでしょ? 大体、娘はやれないって、私は物じゃないし」
北堂先生の口調が、ちょっと厳しくなった。
「それで、彼と駆け落ちするみたいに結婚したんだよね。私は教師の仕事してたから、収入が不安定でも男の一人くらい食べさせていけるし、彼には夢を叶えさせたかったしさ」
北堂先生、見た目は女子高生なのに、すごく
「でも、大きなスポンサーがいたわけじゃないし、ワークスのチームと契約してるわけじゃないから、レースに出場出来るチャンスも殆どなくてね。彼、家で家事をして、主夫みたいなことしてたなぁ。そうだね、だから、彼、あなた達の先輩かもしれない。仕事を終えて家に帰ると、彼が夕飯を作って待っててくれて、あの頃、本当に楽しかった。彼、イタリアのレーシングスクールに通ってたことがあってさ、向こうで下宿してたから、パスタとか、めちゃくちゃ上手なの」
旦那さんのことを語るとき、北堂先生の目がキラキラしていた。
「あの車、私には大きいし、燃料も食うけど、彼の形見だから手放せなくてね。無理して乗ってるうちに、もう、自由に操れるようになったし」
北堂先生がそう言って笑う。
先生があのGTRに乗ってる理由が分かった。
「御両親とは、それ以降、連絡取ってないんですか?」
僕は、聞きづらいことを訊いてしまう。
「駆け落ちするみたいに家を出たからね。父は、私を
それで北堂先生、長い休みがあっても自分の実家には帰らなかったのか。
「だけど、あの寄宿舎は大家族みたいだし、全然寂しくないの。あそこで暮らせて、本当に良かった」
北堂先生が、しみじみと言う。
墓地の横に小さな芝生の公園があって、僕達はそっちに移動した。
山の中腹で高いところにあるし、前が開けていて紅葉した山々が望める展望台みたいな場所だ。
「わあー」
ひすいちゃんが芝生の上を走り回った。
僕と北堂先生はひすいちゃんを見守りながらベンチに座る。
少し風が吹いてたけど、日差しがぽかぽかと暖かかった。
「ねえ、篠岡君。大好きな人と一緒にいられるって、すごく素敵なことだよ。だから、あなたに好きな人がいるなら、その人と一緒にいなきゃ。そうしないと、私みたいに、ある日突然、永遠のお別れになっちゃうこともあるし」
先生が、芝生で遊ぶひすいちゃんに手を振りながら言う。
「だから、大好きな人がいるなら、告白すればいいんじゃないかって、先生は思うな。そんなことないと思うけど、告白して、断られたっていいじゃない。だって君はまだ高校生なんだよ。まだまだチャンスはいくらでもあるし」
僕達の目の先でひすいちゃんが転んだけど、ひすいちゃんは泣かずに立ち上がった。
「もし、あなたが寄宿舎のことを心配してるんだったら、管理人は私がやってもいいよ。あそこは、環境が良くて住むには最高だし、管理人って言っても、実際の管理は主夫部のみんながやってくれるしね。職場は近いし、ひすいの保育園も近いし。私はひすいが大きくなるまで、あそこで生活するつもりだから。それに、妹さんたちのことを考えてるんだったら、二人も寄宿生になればいいじゃない。先生、責任を持って二人の面倒を見るよ。もっとも、枝折ちゃんはしっかりしてるから、私が面倒見るまでもないんだけどね。それは枝折ちゃんの担任教師としての私が保証する。あの子は本当に頭が良くて優しい子だね。だから、妹さん達のことを思って踏ん切れないんだったら、そっちも問題ないんだよ」
先生はそう言って僕の顔を覗き込んだ。
「はい」
僕は、そう答えるしかなかった。
「ちょっと、お節介だったかな? もしあなたが、私の考えてるようなことを考えてなかったら、ごめんね。先生の勘違いだった? 早とちり?」
「いえ……」
北堂先生の言葉は、心から有り難かった。
先生は、それを言うために、こんなふうに旦那さんのお墓に僕を連れてきたんだろう。
自分の
「それじゃあ、日が落ちるとすぐに寒くなってくるし、そろそろ帰ろうか。今日は付き合ってもらって、ありがとうね」
「いえ」
僕達は山を下りた。
来たときと同じように、ひすいちゃんをチャイルドシートに乗せて、僕が助手席に乗る。
「あの、北堂先生。先生のご実家って、近いんですか?」
エンジンをかけた先生に、僕が訊いた。
「えっ? うん、まあ、ここから車で一時間かからないで行けるけど」
「それじゃあ、今から先生の実家に行きましょう。お父さんとお母さんに、ひすいちゃんを見せに行きましょうよ。そして、先生は御両親と和解しましょう」
僕は提案する。
「なに言ってるの」
北堂先生が眉を寄せた。
「だって、先生、今僕に教えてくれたばっかりじゃないですか。大好きな人とは一緒にいるべきだって。いつ、永遠の別れが来るか分からないって。だから、先生も御両親と向き合いましょう。御両親も、先生とひすいちゃんに会いたくて会いたくてたまらないんだと思います。ひすいちゃんにも、お爺ちゃんとお婆ちゃんは必要です」
「だけど……」
「僕は最寄りの駅から電車で帰りますから大丈夫です。だから、今から御両親にひすいちゃんを見せに行きましょう」
「困ったわね」
エンジンをかけたまま、先生が考え込む。
「あれ? さっき先生が僕に言ったことは、嘘だったんですか? 先生は心にもないことを言ったんですか? こんな生徒くらい、適当な言葉で丸め込めるって、言葉を並べただけですか?」
僕は訊いた。
「もう、一本取られたわね」
北堂先生が肩をすくめる。
「ひすい、今からお爺ちゃんとお婆ちゃんのところに行くよ」
北堂先生が言って、ひすいちゃんが「じーじ」ってパチパチと手を叩いた。
そうだよ、こんなに頑張ってる北堂先生とひすいちゃんは、絶対に幸せにならないといけない。
先生の実家は、閑静な住宅地にある、立派なお屋敷だった。
三メートルくらいある壁に囲まれた、大きな門の家だ。
先生が門の前にGTRを停める。
僕はシートベルトを外して車を降りた。
「それじゃあ、行ってください。僕、向こうで見てますから、逃げたらダメですよ」
僕が言うと、「分かってるわよ」って、北堂先生がインターフォンのボタンを押す。
「
先生がインターフォンのマイクに話しかけると、「きゃっ」って女の人の短い悲鳴みたいな声が聞こえた。
木の重厚な門が、ギイイと低い音を立てて開く。
すぐに中から白髪交じりの女性が出て来て、門の前にいる北堂先生に駆け寄った。
そして、ひすいちゃんごと、北堂先生を抱きしめる。
たぶん、その人が先生のお母さんなんだと思う。
お母さんは涙を流している。
ひすいちゃんもびっくりして泣き出した。
僕は、それを道の反対側から見ていた。
お母さんに招き入れてもらって、先生が家の中に入る。
しばらく門のところで見てたけど、別に先生とひすいちゃんが叩き出されるようなことはなかった。
きっと、中でお父さんにも受け入れられたんだと思う。
まあ、あんなに可愛い北堂先生とひすいちゃんを見て、追い出そうなんて考える人は、そうはいないだろうし。
僕は、北堂先生とひすいちゃんが実家に迎え入れられたのを確認して、そこを離れた。
最寄りの駅まで歩いて、電車に乗る。
電車に揺られながらの帰り道、大好きな人とは一緒にいるべきだって北堂先生の言葉の意味を、僕はずっと考えていた。
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