第314話 早退
「先輩、私のパンツと、萌花ちゃんのパンツ、間違えてますよ」
チェストを開けた弩が言った。
「ああ、ごめん」
乾いた洗濯物を畳んで寄宿生の各部屋に配ってたら、間違って入れてしまったらしい。
「しっかりしてくださいね」
弩がそう言って、萌花ちゃんのパンツを渡す。
すると、半分開いた弩の部屋のドアから、宮野さんが顔を出した。
「あの、篠岡先輩、僕の
「えっ?」
ああ、宮野さんのところも間違えちゃったのか。
放課後の部活の、いつもの
「先輩、どうしたんですか? 女子のパンツには誰よりも
弩が僕のおでこを触ってくる。
「いや、本当に、ちょっと間違えただけだから。次からは気を付ける」
僕はそう言って、弩と宮野さんから間違えたパンツを預かった。
「ちょっと先輩! なんですかその返しは! いつのも先輩だったら、『女子のパンツには誰よりも執着するとか、人聞きが悪いこと言うな!』とか言って、私のほっぺたをムニムニしたり、私のホワイトロリータを取り上げて隠したりするのに」
弩が、僕の顔を覗き込んで言う。
「ああ、そっか……」
僕は、言われたとおり、弩のほっぺを両手で
「やっはり、変な物でも拾ってはべはんれすか?」
僕にほっぺたムニムニされながら、弩が言う。
「まさか……僕は落ちてる物を拾って食べたりしないし」
僕が言うと、弩と宮野さんが顔を見合わせた。
「へんはい、いっはい、ろうしたんれすか?」
弩に、本気で心配される。
ヨハンナ先生の憧れの人、榊原さんがこの寄宿舎に来て、みんなに認められて帰ってから、僕は、どこか気が抜けたような感覚で生活していた。
安心したっていうか、榊原さんに完敗だったっていうか……
もう、ヨハンナ先生がここを辞めて旅立つことに、誰もが納得したみたいな空気が、寄宿舎の中に流れていた。
榊原さんの登場で、それが決定事項だって再確認されたのだ。
いっそのこと、榊原さんが、ヨハンナ先生を任せられないような
それなら、ヨハンナ先生を連れて行くなって、抵抗も出来たのに。
僕は、榊原さんが帰るとき、「ヨハンナ先生をお願いします」って、そう一言残すのが精一杯だった。
「きゃあーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー!」
突然、寄宿舎に悲鳴が響いた。
悲鳴は新巻さんの声だ。
声は二階から聞こえた。
「なに?」
弩の部屋にいた僕達三人は、新巻さんの部屋に急ぐ。
「どうしたの? 新巻さん?」
ドアを開けて僕が声をかけた。
新巻さんは、部屋の真ん中で、チェストを指して固まっている。
悲鳴を聞いた錦織や御厨、子森君も集まって来た。
「大声出してごめんなさい。部屋着に着替えようかと思って、チェストの引き出しを開けたら、中に、肉の塊が入ってて……」
新巻さんの顔が引きつっている。
僕達は、恐る恐るチェストを覗く。
すると新巻さんが指す引き出しの中に、ちょうど人の頭くらいの大きさの、肉の塊があった。
赤身の肉で、真空パックの透明な袋に入っている。
「あれ? この肉って」
御厨がそれに気付いた。
「僕だ。新巻さん、ごめん」
僕が手をあげる。
さっき、洗濯物を配る途中で、御厨に、「北海道から送られてきた鹿肉を冷凍しておいてもらえますか」って、頼まれたのは覚えてるんだけど、それがいつの間にか、すり替わっていたらしい。
「ってことは、冷凍庫の中にあるのは……」
御厨が台所に確認に行くと、冷凍庫には、キンキンに冷えた新巻さんのブラウスが入っていた。
「本当に、ごめん」
僕はもう、みんなに謝るしかなかった。
「篠岡君、疲れてるんじゃない?」
新巻さんが、心配そうに眉を寄せて言う。
「篠岡、今日はもういいから帰れ」
錦織がそう言って僕の背中を叩いた。
「そうですね。先輩、休んでください。あとは僕達でやりますから」
御厨が言う。
「でも……」
「誰でも体調が悪い日はありますし。ゆっくり休んでください」
子森君も僕を気遣ってくれた。
「それじゃあ、お言葉に甘えて……」
僕は気付かなかったけど、他にも色々やらかしていて、みんな心配してたのかもしれない。
みんな、
僕は、夕飯の用意をすることなく、家に帰ることになる。
「お兄ちゃん、どうしたの? こんなに早く」
僕が早く帰って来たことにびっくりして、妹の花園と枝折が、二階から下りて来た。
「うん、花園と枝折が頑張ってるから、久しぶりにご
僕は嘘をつく。
妹達に嘘はつきなくないけど、受験勉強の追い込みにかかっている花園と、勉強を手伝ってあげている枝折に、余計な心配をかけたくなかった。
「やったー! ご馳走だー! お兄ちゃん大好きー!」
花園がそう言って、僕に抱きついてくる。
僕の胸に、ほっぺたをこすりつけた。
「もう、花園ったら」
口ではそう言ったけど、花園に抱きつかれて、じんと体の芯まで温かくなる。
「よし、夕ご飯まで、もうひと頑張りしちゃおう!」
花園はそう言うと、階段を二段抜かしで二階へ上がって行った。
抱きついたり、跳ねたり、本当にウサギみたいに可愛い。
玄関には、僕と枝折が残された。
「ねえ、お兄ちゃん。なんかあった?」
首を傾げた枝折が訊いてくる。
「ううん、なにも」
「ふうん」
枝折が
さすが枝折、鋭い。
なんか、心の中を
「本当になんでもないから」
僕が言っても、枝折は疑わしいって感じで僕を見ていた。
「ホントになんでもないって。ほら、枝折ちゃんも、花園ちゃんみたいに『お兄ちゃん大好き』って抱きついてくれば?」
僕はふざけて言った。
こんなふうに軽口を叩けるくらいに大丈夫だって、示したかったのに……
ところが、枝折がすっと歩いてきて、僕に抱きついた。
普段なら、僕がそんなこと言ったら、「はっ?」とか
「なにがあったか知らないけど、私も花園もいるんだから、大丈夫だよ」
枝折が言って、僕をぎゅっとした。
やっぱり、枝折は鋭い。
「うん、ありがとう」
枝折と花園がいてくれて、本当に良かった。
二人と兄妹で、本当に良かったと思う。
そんなふうにせっかく早退させてもらったのに、次の日も僕は失敗してばかりいた。
朝食の片付けてお皿を割っちゃったし、ヨハンナ先生の新しいデニムを白いタオルと一緒に洗って、青く染めてしまった。
まずい。
二日連続でこんなことしてたら、僕は、部長としての信頼を失いかねない。
みんなが僕に気を使ってくれてるのが、逆に心苦しい。
「ねえ、篠岡君」
そんな僕に、北堂先生が話しかけてきた。
北堂先生は保育園に迎えに行ったひすいちゃんの手を引いている。
オレンジのコートに、黒いタイツのひすいちゃん。
「ねえ、篠岡君、明日の土曜日、ちょっと私に付き合ってくれない?」
先生が僕に訊いた。
「えっ?」
「ひすいと三人で、ちょっと、ドライブでもしようよ」
北堂先生の買い物に付き合うことはあるけど、そんなこと言われるのは
「なにか、予定ある?」
「いえ、ないですけど」
彼女いない歴=年齢だし、あるわけがない。
「それじゃあ、行きましょう。ひすい、明日は塞お兄ちゃんと、デートだよ」
北堂先生が膝を折ってひすいちゃんに視線を合わせて言う。
「にーに」
ひすいちゃんが、僕を指して言った。
北堂先生、突然、どうしたんだろう?
そうか、もしかしたら、北堂先生も僕のことを気遣って気分転換でもさせようって、そういうことかもしれない。
本当に、みんなに気を使わせてしまって、申し訳ない。
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