第307話 男湯

「あれ? 花園ちゃん、ちょっと見ないうちに成長してない?」

「そうですか?」

「うん、出るとこは出て、すっごい、グラマーになってる」

「本当に? 嬉しい! でも、先生にはかないません。先生、すっごい綺麗なんだもん。あこがれちゃう」

「ううん、花園ちゃんだって、もうちょっと大人になれば、先生くらいになるよ。いえ、花園ちゃんは私を超えるね。保証する」

「ありがとうございます」


 なんか、壁一枚挟んだ向こうで、高度な会話が交わされている。


 果てしなく、想像力をかき立てる会話だ。


「ほら、花園ちゃん触っちゃダメだって。くすぐったい」

「だって、柔らかいんだもん」


 高度すぎて、僕の理解の範囲を超える会話が、壁の向こうから確かに聞こえた。




 僕達は、ヨハンナ先生の実家である温泉旅館「霧島屋」の露天風呂に入っている。

 紅葉を見た山が先生の実家の裏山だったから、車で二十分もかからずにここに着いた。


 ヨハンナ先生と花園が入っている女湯と、僕が入っている男湯は、ひのき板の壁一枚でへだてられているだけだ。

 板が薄くて、近づいて耳を澄ませると、隣の会話も、お湯をかく水音も聞こえる。


 その気になってタックルすれば、簡単に破れてしまうかもしれないもろさだ。


 だけどこの壁は、絶対に超えられない壁として、僕と女子達の間に存在していた。



「ねえ、花園ちゃん、塞君が立ち聞きしてるみたいだから、もうちょっと壁から離れようか?」

 ヨハンナ先生の声がする。

「はい、そうですね。スケベお兄ちゃんから離れましょう」

 二人がそんな言葉を交わした。


 ばしゃばしゃとお湯の中を歩く音がして、二人が露天風呂の端の方に移動する音が聞こえる。


 スケベお兄ちゃんって、ひどい。


 確かに、僕はこうやって壁に張りついて耳を付けて、聞き耳立ててたけど。


 二人が遠くに行ってしまって会話が聞こえなくなる。


 裸にタオル一枚巻いただけだったから、すっかり冷えてしまった。

 僕は、あきらめて湯船に浸かる。



 「霧島屋」の柔らかいお湯が、体の芯から僕を温めてくれた。

 ライトアップされた紅葉の赤や黄色が、暮れた真っ黒な空に映えていて綺麗だ。



「やあ、篠岡君、久しぶり」

 僕が温泉を満喫してたら、誰かに声を掛けられた。

 誰かと思ったら、ヨハンナ先生のお父さんだ。


 白髪で優しそうな顔の、先生のお父さん。

 お父さんは男湯に入ってきてかけ湯をした。

 体を洗った後で、僕から少し離れたところに腰を落ち着ける。


 夕食時だからか、お風呂はいていて、男湯には僕とお父さんしかいない。



「どう? 篠岡君は元気にやってるかな? 高校生活は楽しい?」

 なんか気まずかったけど、お父さんの方から話しかけてくれた。


「はい、毎日楽しくやってます」

「そうかい、それは良かった」

 お父さんはそう言って、手でお湯をかく。

 目をつぶって、大きく息を吐いた。


「こうやって、毎日温泉に浸かれる。それが旅館の大旦那おおだんなの特権だね」

 お父さんが言う。

「はあ、いいですね」

 僕はそんなことしか言えなかった。


 そのあと、しばらく沈黙が続く。



 そして、

「これは、一人の父親として訊くんだけど……」

 お父さんは前置きをして口を開いた。


「別に言いつけたりはしないから、率直そっちょくなところを聞かせて欲しいんだけど、ヨハンナは、あの子は良い教師かな?」

 先生のお父さんが僕にそんなことを訊く。


「はい、とっても」

 僕は即答した。


 それは本当に、お世辞とか、お父さんの前だからとか、そういうことじゃなく。


「ヨハンナ先生は、最高の先生です」

 心から、はっきりと言える。


「そうか、ありがとう」

 お父さんはそう言って僕に笑いかけた。

 笑顔が、ちょっと先生に似ている気がする。


 僕は、先生の教室でのカッコイイ姿や、寄宿生や主夫部に色々してくれたこと、そして、先生がどれだけ生徒にしたわれているのか、それを説明した。


 お父さんは、僕が説明する間、うんうんと頷きながら、孫でも見るような目で僕を見ていた。



「そんなに慕われてるとすると、あの子も大変な決断をしたんだなぁ」

 お父さんがそう言ったところで、男湯に四、五人の客が入ってくる。

 団体客らしくて、ゴルフの話題で盛り上がっていて、急に騒がしくなった。


 僕とお父さんの会話は中断される。

 そのあとも次々に客が入って来て、それ以上、お父さんと会話をすることが出来なかった。


 しばらくお湯に浸かって、僕もお父さんも男湯から出る。




 風呂から上がると、ヨハンナ先生のお姉さん、若女将わかおかみのペトロネラさんが、母屋おもやの方に食事を用意してくれていた。


「旅館はありがたいことに満室で部屋がないから、こっちで食べて行って」

 ペトロネラさんが言う。


 金色のまとめ髪で、朱砂色しゅしゃの着物に、茶の帯のペトロネラさん。

 先生そっくりのお姉さんだけど、やっぱり、ペトロネラさんのほうが貫禄かんろくがある気がする。


「すみません、晩ご飯までお世話になって」

 僕は頭を下げた。


「なに言ってるの。あなたはヨハンナの大切な婚約者なんですからね。家族も同然です」

 ペトロネラさんが言った。


 そうか、お父さんとアンネリさんは知ってるけど、ペトロネラさんは、以前、僕がヨハンナ先生の婚約者のふりをしただけだってこと、知らないんだ。


「忙しくてこんなことしか出来ないけど、ゴメンね」

 ペトロネラさんが言った。


 なんか、だましてるみたいで気がとがめる。



 長いお風呂だったヨハンナ先生と花園も、僕に遅れて母屋に来た。

 二人とも、ほっぺが真っ赤で、艶々の顔をしている。


 浴衣を着て、髪を上げた先生のうなじが見えて色っぽい。


「前にここに来た枝折ちゃんも可愛かったけど、花園ちゃんも可愛いのね」

 ペトロネラさんが言って、花園が「ありがとうございます」って答える(ちょっとは謙遜けんそんしろ)。


 ちなみに、前ここに来た枝折ちゃんっていうのは、車に隠れて付いてきた弩のことだ。



「わあ、すごい! 懐石料理!」

 ダイニングテーブル一杯に並んだ料理に、花園が声を上げる。

 旅館で出す料理を、僕達に振る舞ってくれるらしい。



 ヨハンナ先生と僕と花園、三人で夕飯を頂くのかと思ったら、

「塞君と花園ちゃんで食べてて、私、父と母にちょっと話があるから」

 ヨハンナ先生がそう言って席を立った。


「なんで? 一緒に食べよう」

 花園が無理を言っても、先生は、

「ゴメンね」

 って振り切って、女将であるお母さんがいる旅館に戻る。


 先生、何の話があるんだろう?


 こうやって久しぶりに御両親に会うんだから、もる話があってもおかしくはないけど、なんか気になる。



「お兄ちゃん、枝折ちゃんに、電話しといたほうがいいんじゃない?」

 花園が言った。

 そうだ、僕達は夕飯を済ませて帰るから、って、枝折に報告しておかないと。


 僕はスマートフォンを取り出す。

「もしもし、お兄ちゃん?」

 スマホから、枝折の声が聞こえた。


「今ちょっと手が離せないの。取り込んでるから、また後で電話して」

 枝折は、まだ、おがみさん達と部活の最中みたいだった。

 超常現象同好会でフィールドワークをするって言ってたけど、なにしてるんだろう?


「あなた達に、この惑星ほしは渡さないわ!」

 枝折の電話口から、近くにいるらしい拝さんのそんな叫び声が聞こえた。


 は?


「いいこと、まだ私が人間の姿でいる間に、この惑星から出て行きなさい!」

 拝さんが続けた。


 枝折達、一体、何と戦ってるんだ。

 まだ私が人間の姿でいる間にって一体……


「それじゃあ、お兄ちゃん、そういうことだから」

 そこで枝折は、プツンと電話を切った。


 枝折、大丈夫だろうか?


 まあ、拝さんといれば、大丈夫だとは思うけど……




 枝折に電話した後で、花園と二人でおいしい料理を頂く。


 結局、先生は一時間くらい帰ってこなかった。

 僕達が食べ終わった頃になって、ようやく戻って来る。

 そして、先生はかき込むように料理を食べた。



「明日、日曜日だし、泊まっていけばいいのに」

 様子を見に来たペトロネラさんが言ってくれる。


「私、明日ちょっと大切な打ち合わせがあるの。だから、今日のうちに帰っておきたいんだよね」

 ヨハンナ先生が言った。


 先生、忙しい間を縫って、花園のことで僕達に付き合ってくれたんだ。


「そう、じゃあ、また今度ゆっくりいらっしゃい。塞君も、花園ちゃんも、いつでも来ていいからね」

 ペトロネラさんが微笑みかけてくれた。


「はい、また来ます!」

 だから、花園、遠慮しろって……





 帰りの車では、僕が助手席に座る。


 花園は眠たくなっちゃったとか言って、走り出すとすぐに後席で寝息を立て始めた。


 子供の頃、父の車で出掛けたときも、花園はいつもこんな感じだった。

 出掛けた先で全力で遊ぶから、帰る時間になると遊び疲れて、電池が切れたみたいに眠るのだ。

 一方の枝折はずっと起きていて、車窓を流れる夜景を興味深そうに眺めていたものだ。

 姉妹でもこんなに違うんだって、子供の頃の僕はそんなことを考えていた。




「お風呂で、二人でよく話してみたんだけどさ」

 ヨハンナ先生が、ルームミラーで花園が寝ていることを確認して、口を開く。


「はい」

「別に、花園ちゃんは何か特別な悩みを抱えてるってわけじゃないみたいだよ」

 先生が言う。


「そうなんですか?」

「うん」


「あなたが心配してたような、女子のデリケートな部分の悩みっていうのでもないみたいだし」

「そうなんですね」


「まあ、受験勉強してて、時には全てを投げ出したくなることだってあるし、あんまり心配しなくてもいいんじゃない」


「それなら、いいんですけど……」


「いざとなったら、私が全力でサポートするから安心して。君は知らないかもしれないけど、これでも私、一応、教育のプロなんだよ」

 信号で車が停まって、先生が僕の髪をくしゃくしゃってする。

 それは、僕が一番よく知ってます。


「だけど花園ちゃん、本当に、真っ直ぐで良い子だね。塞君の育て方がいいのかな?」

 先生がそんなことを言ってくれた。

 自分のことを褒められるより、花園のことを褒められたことのほうが嬉しい。


 信号が青になって、先生が車を発進させる。


「あの、先生」

 僕は先生の横顔を見ながら声を掛けた。


「ん、なに?」

 先生が前を見ながら言う。


「いえ、なんでもありません」


 お父さんがお風呂で言いかけたこと。

 そして、先生がお母さんとお父さんに何を話してたのか、聞きたかった。



 だけどなんか、それを聞くのが怖い気がして、僕はそれ以上聞けなかった。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る