第305話 母性のハグ

 その日、部活を終えて家に帰ると、家の前に一人の男の子が立っていた。


 痩せ型で、身長は160センチくらい。

 眼鏡をかけていて、大人しい感じの子だった。

 彼は、がきの外から僕達の家の中をのぞいている。

 着ているブレザーの胸のエンブレムからすると、妹の花園かえんの中学校の生徒みたいだ。


 また、花園に恋した男子が、思い詰めて家まで来たらしい。


 僕はもう、こういうのには慣れっこになっていた。

 枝折も花園も、モテモテなんだからしょうがない。

 ちょっとツンとした雰囲気がある枝折には一部熱狂的なファンがいるし、社交的な花園には、男子みんなが恋をする。


 モテる妹を持つ兄はつらい。


 だけど、僕の大切な妹と付き合おうなんて、5000兆年早いのだ。



「ねえ、君、どうしたの?」

 僕は、そっと忍び寄って背後からその男の子に声を掛けた。


「ひっ!」

 その男の子は、裏返った声を出して振り返る。

 びっくりして、顔が引きつっていた。


「ここは僕んちなんだけど、なんか用かな?」

 僕は、ちょっと威圧いあつする感じで言ってみた。


「いえ、あの、あの、すみませんでした!」

 男の子はそう言って頭を下げると、一目散いちもくさんに走り去った。

 慌てすぎて、足がもつれて転びそうになる。


 脅かしたりして、ちょっと悪いことをしたかもしれない。




「おにーちゃーん、枝折ちゃんがいじめるー!」

 ドアを開けて家に入ると、花園がそう言って、まだ靴も脱いでいない僕に抱きついてきた。

 フードがついたピンクのワンピースの花園。


 花園に続くように、枝折が二階から下りてくる。

 すると、花園は僕の背中に隠れた。


「どうしたの? 二人とも」

 僕は、二人の顔を相互に見る。


「枝折ちゃんが、花園が真面目に勉強しないって、怒るんだもん」

 僕の後ろから花園が言った。

 そう言って口をとがらせる。


「本当のことでしょ? 勉強してても全然集中してないし、他のこと考えてるみたいだし」

 枝折が言って肩をすくめた。

 枝折は、黒のジャージ姿だ。


「そんなことないもん」

 花園がほっぺたを膨らませた。


「もう、11月なんだよ。花園ちゃんは受験生なんだから、真剣に取り組まないと」

 枝折がさとす。


 最近枝折は、花園に付きっきりで勉強を見てあげていた。

 僕達と同じ高校を目指すって決めた花園に、全面的に協力している。

 花園もそんな枝折に感謝して、二人で勉強してたはずなのに。


「だから、花園は真剣にやってるもん!」

 花園はそう言うと、リビングのドアを開けて、客間の方に逃げてしまった。


「もう、知らないから!」

 枝折も、そう言い捨てて階段を上がる。

 二階から、バタンって、部屋のドアを乱暴に閉める音がした。


 これは、仲良し姉妹の久しぶりの喧嘩かもしれない。



 僕は、靴を脱いで家に上がった。

 ひとまず、客間にいる花園の前に座る。


 花園は、客間の畳の上に、電気もつけないで体育座りしていた。

 体育座りして、膝小僧にあごを乗せている。


 二人が小さい頃のことを思い出した。

 僕は、こうやっていつも喧嘩した二人を仲直りさせてた気がする。



「花園ちゃん、どうしたの?」

 僕が訊いても、花園は答えなかった。


「なんで、勉強に集中出来なかったの?」

 僕が訊いても、花園は答えない。


「学校で何かあった?」

 花園はぶんぶん首を振った。


「なんか、悩み事があるのかな?」

 花園はぶんぶん首を振る。



「花園ちゃん、枝折ちゃんが意地悪であんなこと言ってるわけないって、分かってるよね」

 僕が言ったら、花園が無言で頷いた。


「枝折ちゃんが、花園のこと一番に思ってるのも、分かるよね」

 花園が頷く。

 そして、花園の目から涙が一粒、こぼれた。

 妹に涙を流されたら、それだけで抱きしめてあげたくなったけど、僕は我慢がまんした。


「それじゃあ、謝りにいこうか? ほら、お兄ちゃんも付いていってあげるから」

 僕は、花園の涙を指でぬぐう。


「分かった」

 花園が、僕の目を見ないで言った。





「枝折ちゃん、ちょっといい?」

 僕が枝折の部屋のドアをノックする。

 ドアを開けると、枝折は机について、本を読んでいた。

 僕の後ろに隠れている花園を、枝折の前に出す。


「ほら、花園ちゃん、言うことがあるよね」

 僕が言うと、花園がコクリと頷いた。

 枝折が本を置く。


「枝折ちゃん、ゴメンね」

 花園が上目遣いに枝折を見て言った。


「ううん、私こそ、ごめん」

 枝折が椅子から立ち上がって、花園を抱きしめる。

「枝折ちゃん、ゴメン」

 花園は、枝折にぎゅって抱きついた。

 二人の目からポロポロ涙がこぼれ落ちる。


 二人を見てたら、僕も涙がじわっと浮かんできた。

 もう少しで泣くところだった。


 不謹慎ふきんしんかもしれないけど、抱き合って泣いている二人が、すごく綺麗に見える。

 たまらなく愛おしい。


「また、勉強見てくれる?」

 花園が枝折に訊いた。

「うん、花園ちゃんの部屋に行こう」

 二人はすっかり仲直りする。


 まあ、僕達は母や父がいないときも三人で支え合ってきて、本気で喧嘩することなんて絶対にないんだけど。


「勉強するなら、後で夜食持ってくから」

 僕が言うと、二人はもうニコニコしていて「ピザまんがいい」とか、「ホットチョコレートがいい」とか、要求してくる。


 現金な妹達だ。


「よし、それじゃあ、そのあと、今日はお兄ちゃんと三人で寝ようか? 仲直りもしたし、今日は兄妹水入らずで寝よう」

 僕が言うと、

「はっ?」

 って、二人が眉をひそめた。


「私は、花園ちゃんと二人で寝るし」

「私は、枝折ちゃんと二人で寝るし」

 二人がそんなつれないことを言う。


 そして、僕は部屋を追い出された。


 酷い。

 あんまりだ。


 だけど、二人が仲直り出来て、本当によかった。





 翌朝、僕は昨日のことをヨハンナ先生に話した。


 先生の部屋で、僕達は二人で鏡に向かっていて、僕は先生の後ろに立っていつものように髪をかしている。


「なるほどね」

 僕に髪を梳かされながら、先生が相槌あいづちを打った。


 花園が何か悩みを抱えいてるのは、僕に言えないような女子のデリケートなことかもしれないし、先生なら何かヒントをくれるんじゃないかって思ったのだ。


「そっか、そういうことなら、先生久しぶりに塞君の家にうかがおうかな。それとなく、花園ちゃんに訊いてみようか?」

 先生が言う。

 実は、ヨハンナ先生ならそういうふうに言ってくれるんじゃないかって思ってた。


「それじゃあ、お願いしていいですか? ご迷惑をおかけします」

 僕は、鏡越しに先生に頭を下げる。

「なに言ってるの。他ならぬ、花園ちゃんのことじゃない。花園ちゃんは、私にとっても妹だからね」

 先生は、どうってことないよって顔をする。


「すみません」

 僕がもう一度頭を下げると、先生がこっちを向いた。

 そして、僕を優しく抱きしめる。


 いきなりで何も出来なかった。


 僕は、ヨハンナ先生の胸に抱かれる。


「塞君、いい? 前にも言ったけど、君もまだ、保護する大人が必要な年頃なんだよ。花園ちゃんと枝折ちゃんの親代わりになって、二人を守ってあげてるのは立派だけど、君だって、誰かに守ってもらったっていいの。時には誰かに甘えたっていい。だから、困ったときは遠慮なく、こうして先生を頼りなさい」

 先生はそう言って僕をぎゅっとする。

 先生の胸の中は、世界一、安心できる場所だ。


「先生はだらしなくて頼りないかもしれないけど、一応、職場ではバリバリ働く有能な教師なんだからね」

 先生はそう言って笑った。


 先生が立派な教師なのは、十分過ぎるくらい分かっている。


「あーあ、生徒を抱きしめちゃった。だけどこれは、母性から来るハグだからセーフね」

 僕を抱きしめながら先生が言った。


「もちろん、恋愛対象としてのハグだって、いつでもするけどね」

 先生が悪戯っぽくそんなことを言う。


 そして、しばらく抱きしめたあと、先生は僕を放した。



「それじゃあ、今週末でも家に伺おうかな」

 スマホでスケジュールを確認しながら、先生が言う。


「それからあの……」

 先生が何か言いかけた。


「なんですか?」

 僕が訊く。


「うん、そうね、いえ、こっちはまた今度でいいや」

 先生はそう言うと、スマホを仕舞ってジャケットを着た。


「さあ、仕事仕事!」

 先生が大きく伸びをする。

 腕をぶんぶん振りながら、部屋を出て行った。



 先生は何を言いかけたんだろう?

 なんかちょっと、気になった。

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