第302話 高度な宿題

「いっけなーい、遅刻遅刻!」

 僕は、パンを口にくわえて家を出る。


 ちょっと寝坊して、朝練に遅れてしまった。

 弩と萌花ちゃんがいないっていう気のゆるみと、昨日の、諏訪部すわべさんが残した「あの人」っていう言葉の意味を考えていて中々眠れなかったから、寝過ごしてしまったのだ。


 今夜、二年生が修学旅行から帰ってくるっていうのに、まったく、なにしてるんだ。


「お兄ちゃん、交通事故に気を付けるんだよ」

 妹の花園と枝折が、玄関先で、ヤレヤレって感じで僕を見送る。



 僕は駅までの道を走った。


 僕が起こさないと、ヨハンナ先生が遅刻してしまうかもしれない。

 先生の評判を落とすような、そんなことがあってはならない。


 僕は、全力で走る。


 駅までの道の、高い塀がある曲がり角に来たところで、目の前に人影が見えた。

 角の向こうから誰かが歩いてくる。

 だけど、全力疾走の僕は止まることが出来ない。


 あれ? でも、これってフラグじゃないか。


 いっけなーい、遅刻遅刻。

 パンを銜えている。

 見えない曲がり角。


 これは完全に美少女とぶつかるフラグだ。

 それも、相手は転校生に違いない。


 美少女の転校生とぶつかって、教室で再開するパターンだ。


 これはまた新巻さんに、「篠岡君が新しい女子を連れてきた」とか、「女たらし」とか、言われちゃうんだろうなって考える(その間0・01秒)。



「おい、てめぇ、ふざけんな!」


 しかしそんな妄想は、野太い男の声に砕かれた。

「なんだお前!」

 僕は、190越えで背が高い学ランを着た男の胸に跳び込んでいた。

 胸の筋肉が厚くて跳ね返される。


 彫りの深い四角い顔に、太い眉毛。

 背中に、空手着のようなものを背負っている。

 その後ろには、同じ学ラン姿の筋骨隆々きんこつりゅうりゅうな二人が控えていた。


 目付きが悪いその三人組に、僕は見下ろされる。


 学ランを着てるし、学生鞄を持ってるし、たぶん高校生なんだと思う。


「ふみまへん!」

 パンを銜えたまま、僕は謝った。

 その彼は、僕とぶつかってパンくずがついた学ランを、パンパン払う。


「ぶつかっておいて、ただで済むと思うなよ」

 いきなり、胸ぐらを掴まれてすごまれた。

 すごい力で持ち上げられて、僕は爪先立ちになってしまう。


 僕と同じように通学の途中だった他校の女子達が、遠巻きに僕達を見ていた。

 サラリーマン風の男の人が、見て見ぬふりをして通り過ぎていく。


 なにが美少女とぶつかるフラグだ。

 なにが転校生だ。


 これは、絶体絶命のピンチだ。

 僕は覚悟して目をつぶった。

 一、二発は、食らうかもしれない。

 せめて、命だけは助かりますように。

 僕は心の中で手を合わせて祈る。



「おい、ちょっと待て。この人、主夫部の篠岡さんじゃないか」


 ところが、脇にいた一人がそんなふうに言った。

「ああ?」

 僕の胸ぐらを掴んでいる学ランの彼が顔をしかめる。


「ホントだ、篠岡さんだよ。鉄騎丸てっきまるが、すげーヤバイ人だから逆らっても絶対に勝てないって言ってた人だ」

 もう一人も言う。


「まさか……」

 胸ぐらを掴んでいた一人が、その手から力を抜いた。


「あんた、篠岡さん?」

 彼が訊いた。

「はい、篠岡です」

「主夫部の?」

「はい、主夫部の篠岡しのおかとりでです」

 僕が答えると、三人がお互いを見る。


「す、すみません! まさか、篠岡さんとは存じ上げずに。首、苦しくなかったですか?」

 胸ぐらを掴んでいた彼が、僕の襟を丁寧に直した。

 他の一人が、僕のジャケットの肩のほこりを優しく払う。


「あの、登校ご苦労様です。これ、今コンビニで買ったばかりなんッスけど、良かったら飲んでください」

 もう一人が、コンビニのレジ袋から缶コーヒーを出して見せた。

「これ、肉まんも、今買ったばかりなんで、食ってください!」

 そう言ってレジ袋を僕に無理矢理持たせる。


「それじゃあ、失礼します! 本当に、申し訳ありませんでした!」

 三人は、逃げるようにしてその場から走り去った。


 遠巻きに見ていた他校の女子も、ほっと胸をなで下ろす感じて、それぞれの行き先に戻る。


 取り残された僕の手には、温かい缶コーヒーと肉まんが握られていた。


 いったい、なんなんだ……


 そういえばさっき、鉄騎丸君がどうこう言ってたけど、僕と鉄騎丸達の決闘が、黒龍剣山高校や、周囲の高校に、なんか変なふうに伝わっているのかもしれない。


 うわさに尾ひれがついて、僕が危ない奴だって思われてるのかもしれない。


 僕はただ、毎日真面目に家事をしてるだけのの男子高校生なのに……

 なんでやんちゃな人達から恐れられてるんだ……


 まあ、ともかく、今は駅に急ごう。





「おはよう!」

 僕が遅れて寄宿舎に着くと、ヨハンナ先生はもう起きていて、バルコニーに布団を干していた。

 空は秋晴れで、空気は乾燥してるし、布団を干すにはもってこいの陽気だ。


 僕はすぐに階段を上ってバルコニーまで行く。


「おはようございます、遅れてすみません」

「ううん、旦那様が寝坊したときは、妻が頑張らないとね」

 ヨハンナ先生は悪戯っぽく言って僕を困らせた。


「どうしたんですか? 朝から」

 先生が一人で起きてくるなんて、珍しい。


「旅行で疲れた弩さんと萌花ちゃんを、ふわふわの布団で寝かせてあげたいし、どうせ、土産みやげ話聞きたくて今晩は男子も泊まるんでしょ? だから、みんなの分の布団も干しとこうと思ったの」

 先生が言った。


 やっぱり、先生は何よりも僕達のことを考えてくれてるんだ。

 先生、普段、寄宿舎ではぐうたらだとか言ってごめんなさい。


「北の大地の美味しそうなおつまみで、朝まで飲み明かせるしね!」

 ヨハンナ先生がそう言ってニヤける。


 前言撤回。



 布団を干すヨハンナ先生は、グレーのニットワンピースに、黒のレギンスパンツを穿いていた。

 金色の髪を後ろで緩くまとめていて、後れ毛がキラキラ光って見える。


 こんな飾らない服装でも、ヨハンナ先生は綺麗だ。

 逆にさりげない服装だからこそ、先生の綺麗さが引き立つのかもしれない。


 僕がそんなことを考えて見てたら、先生がそれに気付いた。

「なに?」

 手を止めて訊いてくる。


「いえ、べつに……」

「なに? 気になるじゃない。言いなさいよ」

 先生が、僕のほっぺたを突っつく。


「先生は、飾らない服装でも、綺麗だなと思って」

 言ってしまった。

 恥ずかしいこと、言っちゃった。

 たぶん、僕の顔は真っ赤になってると思う。

 耳まで真っ赤だと思う。


「うん、ありがとう」

 ヨハンナ先生は恥ずかしがる僕に笑顔をくれた。


「ねえ、塞君。これから、そういう言葉は積極的に口に出していこう」


「はい?」


「君も、もう一皮剥ひとかわむけた主夫になるなら、パートナーを言葉で喜ばせられるようになったほうがいいんじゃない?」


「はい……」


「さっきみたいに、実際に口で言ってもらえると、嬉しいものだよ。『綺麗だ』って、その一言だけで、今日一日頑張れるもの。よっしゃー、って、気合い入る。特にそれが、大好きな人からの言葉だったらね。それだけで、どんなことだって出来ちゃうって気がする」


「はあ……」


「よし、それじゃあ、主夫部顧問として、先生は君に課題を与えます。これから、一日最低一回は、寄宿舎の女子一人一人を褒めること、それを口に出して伝えること。いい?」


「はぃ」

「返事が小さい」

「はい!」

 僕は自棄やけで大きな声を出した。

「うん、じゃあ、頑張って」

 先生はそう言って僕の頭をくしゃくしゃってした。


「よし! 先生、めちゃくちゃ気合い入ったぞ。職員会議で、教頭の無理な要求も、突っぱねてやる!」

 先生は布団を干し終えると、いさんで洗面所に向かった。


 先生から大変な宿題をもらってしまった。


 寄宿舎の女子みんなを一日最低一回は褒める。

 大変そうだ。

 僕は、顔を真っ赤にし続けて、頭に血が上って倒れちゃうんじゃないだろうか。


 幸い、寄宿舎の女子は素敵な女子ばかりだから、褒める言葉に困らないからいいけど。





 夜8時を過ぎて、弩達二年生を乗せたバスが、学校の駐車場に帰ってくる。


 僕達、残った主夫部と寄宿生は、全員で二年生を出迎えた。

 駐車場の周りは、出迎えの学校関係者と父兄でごった返している。


「ただいま帰りました」

 何やらたくさんの荷物を抱えた御厨が、まず最初に僕達のところに戻ってきた。

 たぶん、抱えているのはお菓子作りの材料だと思う。


 カメラを構えた萌花ちゃんは、最後の最後まで、クラスメートの写真を撮っていた。


 背が高い子森君はすぐに分かった。

 僕達を見付けて、こっちに手を振る。


「ほら、弩、こっちこっち」

 子森君が後ろに呼びかけた。

 その後ろから、周りの生徒や父兄に押しつぶされそうになっている弩が、ちょこちょこ歩いてくる。

 弩はスーツケースやお土産の紙袋に、振り回されていた。


「先輩、ただいまです」

 弩が僕に元気な顔を見せる。


「お帰り」

 ほっぺに絆創膏ばんそうこうを貼った弩は、ちょっとだけたくましくなったように見えた。

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