第297話 涙の理由
弓道部の部室で、一人の女子生徒が泣いていた。
板張りの部室の、畳の
ピシッと
長い黒髪をポニーテールにして、紫色のゴムで
背筋を伸ばした姿勢が美しい。
窓からの光が、彼女の輪郭を
そんな彼女が泣いているのだ。
僕と錦織、部室に忍び込もうとしてドアを少し開けて見とれてたら、ドアがギイィと音を立てて、内側に開いた。
あっ、まず、手、放しちゃった。
「誰!」
彼女が振り向いて、その顔が見えた。
ほっそりとした輪郭に、
弓のように
前髪を、眉に掛かるか掛からないくらいのところで切りそろえていた。
泣いて目の周りが少し赤くなっている。
大人びた感じだけど、たぶん、一年生の生徒だと思う。
校内で何度も見かけたことはあっても、名前までは知らなかった。
「誰ですか!」
振り返った彼女が身構えて訊く。
突然のことで、なんて言ったらいいか分からなかった。
「えっと、あの、宗教とか、興味ありますか?」
僕は、思わずそんなふうに問いかけてしまう。
ウザい勧誘の人か! って自分で突っ込んでも遅かった。
でも、まさか、忍び込んでこれから掃除しようと思ったんです、とか言えないし、部員が女子だけの部室に勝手に入った正当な理由なんて思いつかないし、気がついたらそんなことを口走っていた。
「はあ?」
彼女が眉をしかめて言う。
第一印象マイナス10000ポイントからのスタートだ。
情けない部長の僕の代わりに場を
「僕達、主夫部の者なんだけど、部活で柔軟剤を作ったんで、使って感想をもらえないかって、色んな部活を回ってるんだけど、もしよかったら弓道部も使いませんか?」
僕をドアから押しのけた錦織が、そう言って袴の彼女に笑いかける。
「ええ、そういうことなら使わせてもらいますけど……」
彼女が
よかった。
錦織の機転で、僕の宗教云々は冗談だと思ってもらえたかもしれない(あんまり、面白い冗談だとは言えないけど)。
「それじゃあ、明日にでも、こいつに届けさせるから」
錦織がそう言いながら、僕の服を引っ張ってドアを閉めようとする。
錦織は目で、早く
確かに、僕達がここに来たのはゲリラ掃除をするためだったし、彼女がいてそれが出来ないんだから、早々に退散するのが正解なんだろう。
だけど僕は、彼女の涙を見て、それを見過ごすわけにはいかなかった。
女子の涙を見過ごすこと、それは、主夫部の道義に反する。
「あの、今、なんで泣いてたのかな」
僕は彼女にそう投げかけていた。
錦織が、「おい」って感じで、ドアに隠れて見えないところで僕の
「私は、泣いてなどいません」
彼女が言った。
そう言って口を固く結ぶ。
「ううん、泣いてたよ。鼻水、啜る音が聞こえたし」
僕が言ったら、彼女にキッと
鼻水って言ったのは余計だったかもしれない(第一印象、マイナス10000ポイント追加)。
「私は泣いていませんが、もし泣いていたとしたら、それは私が自分の
彼女は僕を睨んだまま言った。
「それが出来なかったって、具体的には?」
僕は突っ込んで訊く。
「
彼女は目を伏せた。
「どんな小言を言っちゃったの?」
ここまで印象悪くしてたら、あとはマイナス何ポイント食らおうと関係ないから、僕はずけずけと訊く。
「部室の掃除がなってないとか、ロッカーの整理整頓が出来てないとか、色々と……」
彼女の言葉が細くなった。
「ふうん」
だけど、見たところ、部室の中は綺麗だった。
板張りの床はちゃんとワックスがかかって艶々してるし、窓ガラスも指紋一つついてない。
他の部活みたいに、テーブルや小上がりに部員の服やタオルが散らかってることもないし、チェストの上のトロフィーなんかは、光り輝いている。
整理整頓が行き届いていて、逆に部屋が
母木先輩基準で見ない限り、この部室は綺麗って言っていいと思う。
「おい、篠岡」
錦織が僕の耳元で
ドアの外で、弓道場の方から誰か袴姿の部員が一人、歩いて来るのが見える。
他の部員が来たら、面倒なことになりそうだ。
僕は小上がりの上の彼女にさっと近づいて、
「誰か部員が来るみたいだから、これで涙拭いて」
そう言ってハンカチを渡した。
彼女は「えっ?」って、びっくりした顔をする。
受け取るかどうか迷ってるみたいだったけど、強引に押しつけた。
「それじゃあ、柔軟剤は明日」
錦織がこっちに歩いてくる部員にも聞こえるように言って、僕達は弓道部の部室を後にする。
部室に向かう部員と
「危ないところだったな。掃除する妖精の正体が、俺達ってばれるところだった」
少し歩いて部室が遠くなってから錦織が言った。
「それに、あの部室、十分綺麗だったから、俺達が掃除するまでもなかったしな」
錦織もあの部室に僕と同じ感想を持ってたらしい。
「錦織、彼女のこと知ってるか?」
僕は訊いた。
あの涙が、気になって仕方なかった。
「ああ、一年の
さすがは錦織。
女子の情報に詳しい。
「他にも色々知ってるし、彼女のスリーサイズも分かるけど、個人情報だから、お前には教えない」
錦織が目を細めて言う。
いや、そこまで訊いてないし。
てか、なんで知ってるし。
「さて、それじゃあ帰って夕飯の支度でもするか」
ゲリラ掃除が空振りに終わって、少し詰まらなそうに錦織が言う。
「ああ、そうだな」
僕は答えた。
だけど、彼女の泣き顔が、僕の
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