第21章

第277話 スキャンダル

 寄宿舎の台所から、味噌汁の香りがした。

 香ばしい味噌とねぎの安心する香りだ。

 この香りに包まれると、朝が来たって感じがする。



 夏休みが終わった新学期初日の朝練で、台所の御厨みくりやが朝食を作っていた。

 味噌汁の香りに加えて、アジの干物を焼いてる匂いもしたから、今日の朝ごはんは和食だと思う。


 夏休み期間中、縦走先輩の実業団の寮で食事を作っていた御厨は、料理の腕前に磨きをかけていた。

 寮生を太らせてきましたと豪語している。


 北堂先生とひすいちゃんも帰っていて、寄宿舎は今日から、寄宿生と主夫部の、普段の生活に戻った。



「先輩、洗濯手伝います!」

 僕が中庭で洗濯物を干していたら、背中にひすいちゃんをおんぶした子森君が庭に出てくる(ひすいちゃん、子森君の背中で手をバタバタさせてご機嫌だ)。


 新学期初日だっていうのに、子森君は朝五時には寄宿舎に来ていて、朝練の掃除を始めていたらしい。

 僕が寄宿舎に来たときには、もう玄関まわりを綺麗にいた後だった。


「なんか、夏休みの間、家事が出来なかったから、やりたくてやりたくてうずうずしてたんですよね」

 子森君が、真っ白な歯を見せて、さわやかな笑顔で言う。


 主夫部部長としては、子森君からそんな言葉が聞かれて、頼もしい限りだ。


「先輩、それ貸してください。僕、洗濯物干すの手伝います」

 子森君がそう言って、僕の手から洗濯物を奪い取ろうとする。


「いや、洗濯は僕の仕事だし、子森君の受け持ちの掃除はいいのか?」

「はい、五時から掃除してましたから、もう館内の掃除は全部終わってます。御厨の手伝いで台所の片付けも終わりましたし」

 子森君が洗濯物を手に取った。


「だけど、ここは僕の受け持ちだしな」

 僕は子森君の手から洗濯物を取り戻す。


「先輩は夏休みの間もここにいて、一人で寄宿生全員の家事をしてたんだから、休んでください。ってゆうか、一人で家事を独占してたんだから、僕に仕事をゆずってください」

 子森君が洗濯物に手を掛けた。


「子森君には、まだ洗濯は早いな。女子達の衣類はデリケートなんだ」

 洗い方や干し方は、慎重にならないといけない。


「先輩がそうやって譲らないと、後進が育ちませんよ」

 子森君が言った。


 僕達が洗濯物を奪い合っているからか、子森君の背中のひすいちゃんがむずかり始める。


「あの、篠岡先輩と子森君、どうでもいいですけど、私のパンツを奪い合わないでください!」

 はたで僕達を見ていた弩に怒られた。


 よく見ると僕達が奪い合ってた洗濯物は、弩のパンツだった。


「まったくもう! パンツが伸びちゃったらどうするんですか!」

 弩がパンツを奪い取る。


「申し訳ない」

「ごめん」

 僕と子森君で謝った。


「二人とも、朝から浮かれていて、まだ夏休み気分が抜けきってないんじゃないですか?」

 腕組みした弩に説教される。

 でも、その通りだし言い返せなかった。

 僕も子森君も、久々の朝練で浮かれていた。


「あなた達、どれだけ家事がしたいのよ」

 僕達を遠巻きに見ていた新巻さんがあきれている。


「今の、二人がパンツを取り合うシーン写真に撮りましたけど、傑作なんでコンテストに応募していいですか?」

 萌花ちゃんが訊いた。


 萌花ちゃん、それはやめてください。


「僕のトランクスなら伸びないので、奪い合ってもいいですよ」

 宮野さんが言う。

 いや、宮野さん、僕達は別に奪い合いをしたかったわけじゃないし……


 ここは部長の僕が折れて、子森君に洗濯物を半分だけ干させてあげることにした。

 干し方を伝授しながら、二人で洗濯物を干した。


 我ながら、なんて寛大かんだいな先輩なんだろうって思う。




 洗濯物を干し終えたら、僕は朝のもう一つの大切な仕事、ヨハンナ先生を起こしに行った。


 これは、何があっても子森君には譲れないし、子森君には出来ない大仕事だ。

 ヨハンナ先生を起こすには、熟練の技術がいる。


「先生、朝ですよ。ヨハンナ先生」

 僕は、ドアをノックして部屋に入った。

 カーテンを引いて、部屋に朝日を入れる。


 ヨハンナ先生は布団を股に挟んで、ボディーピローみたいにして寝ていた。

 薄ピンクのキャミソールにショートパンツのヨハンナ先生。


「うう~ん」

 先生が悩ましい声を出した。


「塞君、私、熱があるかも」

 かすれた声で言う。


 なるほど、今日は仮病パターンか。


「本当ですか?」

 僕は、先生の金色の前髪を掻き上げて、おでこを触ってみた。


「別に熱はありませんよ」

 逆に、寝起きでひんやりとしているくらいだ。


「手じゃ分からないよ。おでことおでこ、ごっつんこして確かめて」

 先生に言われて、僕は自分のおでこを先生のおでこにくっつける。


「ほら、熱くありません。大丈夫です」

 僕が言ったら、今度は先生がコホコホと咳をし始めた。


「風邪かもしれない」

「風邪ですか。それなら移ると怖いから、僕、行きますね」

「ううん。もう、治ったかも」


 仮病パターンのときのヨハンナ先生は、赤ちゃんと思って接すれば、そのうち満足して起き出す。

 このパターンのときは無理にベッドから追い出したり、布団を剥ぎ取ったりしたら、逆効果で時間がかかるのだ。


「さあ、起きましょう」

 僕が言って、ヨハンナ先生が無言で頷いた。

 甘えるのに満足したらしい。


 先生のキャミソールの肩紐が片方落ちてたから、僕はそれを直した。


 この先生が、数時間後に教壇に立つときは凜としたカッコイイ教師になってるんだから不思議だ。

 世界七不思議の一つとして、アレクサンドリアの大灯台と入れ替えてもいいくらいだと思う。


 僕は、先生を着替えさせて、金色の髪を丁寧にかす。




 食堂のテーブルには、僕とヨハンナ先生以外、全員揃っていた。

「おはよー」

 カッコイイ教師までまだ60%くらいの先生が言って、みんなが挨拶を返す。 


「ねえねえ、ところで錦織君は?」

 いただきますをする前に、新巻さんが訊いた。


「そう言えば、今日、錦織先輩まだ見てませんね」

 弩も言う。


 そう、新学期が始まった初日の朝練に、錦織は来てなかった。


「新学期始まったばかりだし、寝坊かな」

 僕が答える。

 夏のあいだ錦織は「Party Make」のライブやフェスで飛び回っていたし、休み明けの朝練だから、遅刻することもあるだろうって大目に見ていた。

 だからLINEとかメールで呼び出しの連絡もしなかった。

 そのうち、「ごめん、ごめん」って言いながら入ってくるだろうって思っていた。


「ふうん。珍しいこともあるわね。それじゃあ、私達はいただきましょうか」

 ヨハンナ先生が言って、みんなで手を合わせた時だ。


 その時、玄関の方から物音がした。

 誰か来たみたいで、こっちに向かって廊下を走る足音が聞こえる。


 食堂のドアが乱暴に開けられた。


 ドアの向こうには息を切らせた錦織がいて、あわてた様子で食堂に入る。


「どうした錦織、寝坊か?」

 寝坊だとしても、そんなに慌てることはないのに。


「錦織先輩、ご飯食べますか?」

 御厨がしゃもじを持って立ち上がる。


 久しぶりに見る錦織は、夏休みのあいだ外を飛び回っていたからか、いい具合に日焼けしていた。

 ほほが少しこけて、せたような気もする。


「大変なことになった……」

 錦織は僕達の方を向いているけど、目の焦点が合ってなかった。

 どこか、別の世界に向けてしゃべってるみたいだった。


「落ち着け、どうした?」

 僕が訊いて、御厨がコップに水を一杯、持ってくる。


 錦織はそれを一息で飲み干した。



 そして、コップを置いた錦織が、とんでもないことを言い出す。


「俺、夜、ホテルで古品さんといるところを写真に撮られちゃった」


「はぁ?」

 そこにいた全員が首を傾げた。


「古品さん、僕とのスキャンダルを、週刊誌に撮られちゃったんだ」

 錦織が言う。


 なっ、なんだって!

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