第272話 缶詰とパスタ
船体が大きく揺れて、僕はデッキのベンチシートから投げ出された。
「みんな、大丈夫!」
すかさず、ヨハンナ先生が操縦席からラダーを伝って下りてくる。
船尾のステップに座っていた弩と萌花ちゃん、宮野さんを確認すると、三人は手すりに
「篠岡君も大丈夫ね」
「はい」
先生が僕を起こしてくれる。
「新巻さんは? 大丈夫?」
先生がキャビンの中に投げかけた。
「はい、大丈夫です」
新巻さんがキャビンから出てくる。
僕とヨハンナ先生で、ステップにいる三人をデッキに引き上げた。
三人ともびっくりしてたけど、怪我はないみたいで安心する。
「この船、どうなったんですか?」
僕は先生に訊いた。
「分からない。ここは水深があるし、
周りを見たけど、確かに、あたり一面深い海だ。
「漂流物か何かにぶつかったのかもしれない。ちょっと調べるね」
ヨハンナ先生は、そこここのハッチを開けて船倉を点検した。
浸水警報装置に異常がないことも確かめる。
幸いなことに、船体の傷や浸水はなかった。
少し時間がたっても、船が傾く様子はない。
本当に、さっきのは一体なんだったんだろう?
「とりあえず、帰りましょうか。帰って落ち着こう」
ヨハンナ先生が言った。
「そうですね。帰って夕ご飯にしましょう」
僕の提案に、女子達も頷く。
あたりは日が傾いて、海がオレンジ色に染まりかけていた。
さっきまで、周囲に僕達しかいないことが心地よかったのに、急に心細く感じる。
この海の上では、こんな大きな船も、落ち葉の一枚みたいに小さかった。
先生が操縦席に座って、来たときと同じように僕達も席につく。
みんなすっかり落ち着きを取り戻して、弩が「先輩、今日の晩ご飯はなんですか?」とか、軽口を叩くようになった。
ところが、僕達が座って待っていても、先生がなかなかクルーザーを動かさない。
「どうしたんですか?」
助手席の僕が訊いた。
「それが、エンジンが動かないの」
先生は、エンジンスタートスイッチを押したり、計器を確かめたりしている。
「燃料もあるし、バッテリーも生きてるんだけど……」
「えっ?」
まさか……
ヨハンナ先生は後部デッキのハッチを開けて、エンジンを確かめた。
バッテリーや燃料バルブ、燃料や冷却水のフィルターを点検する。
「ダメだ。分からない」
一時間くらい、エンジンと格闘したけど、先生にもお手上げだった。
そうこうしている間に、辺りはすっかり暗くなっている。
先生が航海灯をつけた。
「仕方がないね。迷惑かけちゃうけど、救助を要請しよう」
スマートフォンを取り出すヨハンナ先生。
「あなた達の安全には代えられないしね」
先生はそう言ってスマホの電源を入れた。
だけど、そこでまた先生が首を
「どうしました?」
「それが、電波が来てないみたいなの」
先生が、スマホを高く掲げたり、角度を変えて電波を拾おうとした。
「船が沖に流されたのかもしれない。さっきまでちゃんと繋がって、ネットの天気予報を見ることも出来たのに」
僕達も自分のスマホの電源を入れてみたけど、アンテナは一本も立ってなかった。
ネットも通話出来ない。
「私達、この船で漂流してるってこと?」
新巻さんが言った。
認めたくないけど、そういうことだろう。
「まあ、大丈夫よ。私達がいなくなってクルーザーがないって分かれば、それに乗って海に出たことは分かるし」
ヨハンナ先生が言った。
「だけど、コテージを借りたのは週末までだから、気付いてくれるのは週末以降ですよね」
「確かにそうだけど、その前に私達全員と連絡がつかないってなったら、おかしいって思う人がいるだろうし」
先生が答える。
確かに、お兄ちゃんのことが大好きな枝折や花園が、僕と連絡取ろうとして取れずに、弩やヨハンナ先生に電話してみて、それでも繋がらなければ、おかしいって思うだろう。
「それに、偶然、どこかの船が近くを通るかもしれないし」
ヨハンナ先生が言うけど、この真っ黒い海を見ていたら、その可能性がほとんどないことは明白だった。
昼間、船を止めてから、まだ一隻の船とも行き会ってないのだ。
船の中に、不穏な空気が流れそうになった。
そのとき、弩のお腹が、ぐうって鳴る。
「ふええ」
顔を真っ赤にして恥ずかしがる弩。
緊迫した場面だったのに、なんだか笑ってしまう。
「もう! 弩さんたら」
新巻さんも口では文句を言ったけど、笑っていた。
「それじゃあ僕、なにか用意します」
こういう時は食事だ。
不安なことがあってお腹が減ってたら、余計にイライラするし。
「じゃあ、篠岡君、お願いね。私は、もう一回連絡取れないか試して、上で見張りをしてるから。女子達、夜の海に落ちたら大変だから、キャビンから出たらダメだよ」
ヨハンナ先生は、そう言ってラダーを登った。
僕は、ギャレーにある食材を確かめる。
棚の中には、パスタやクラッカーがあった。
オイルサーディンやツナ、ホールトマトにコーン、スープの缶詰もある。
冷蔵庫の中には、ハムやウインナー、ベーコンがあるし、チーズもあった。
アボカドやズッキーニなんかの野菜もある。
そして、瓶詰めのキャビアまで入っていた。
このクルーザーを使う予定でキャンセルしたVIPのために用意されたものなんだろう。
調味料も一通り揃ってるし、調理器具もあった。
僕は、食材を見て、オイルサーディンとホールトマトを使ったパスタを作ることにする。
幸い、発電機のほうのエンジンは動いていて、電気でお湯を沸かすことが出来た。
「先輩、なにか手伝いますか?」
弩がお手伝いを買って出る。
「うん、それじゃあ、
ギャレーが狭いから、弩にはテーブル周りを頼んだ。
二口あるクッキングヒーターの一口目でパスタを
唐辛子とニンニクを入れて、塩こしょうで味を調える。
茹で上がったパスタにソースを絡めたら、最後に乾燥バジルを散らして出来上がり。
パスタの茹で汁でオニオンスープの缶詰を
それを、弩がキャビンのテーブルに運ぶ。
「先生! ご飯ですよ!」
外の操舵席で周囲を監視していたヨハンナ先生を呼んで、みんなでテーブルを囲んだ。
外はもう真っ暗だ。
陸の明かりが、遙か遠くに微かに見える他に、海は黒々としていた。
「うん、おいしそう」
キャビンに入ってきたヨハンナ先生が頬を緩めた。
「いただきます!」
みんなで手を合わせてパスタを食べ始める。
ここだけはいつもの寄宿舎と変わらない。
「おいしいです!」
弩が口いっぱいに頬張って言った。
「まあ、限られた食材でこれだけおいしいと、認めざるを得ないよね」
新巻さんがそんなふうに褒めてくれた。
「おかわり!」
宮野さんが言う。
「熱い」
猫舌の萌花ちゃんが、ちびちびとスープを飲んでいた。
それにしても、ここにいる女子達は強かった。
漂流していて救助の連絡がつかないこの状態でも、誰一人文句を言わない。
この状況を楽しんでいる向きもある。
「たぶん、もう私達のことは探してくれていると思うし、すぐに帰れると思うけど、体力温存のために、食べたらあなた達は寝なさい」
ヨハンナ先生が言った。
「大丈夫だとは思うけど、一応、水と電気は節約してね」
先生が付け加える。
「先生は、どうするんですか?」
僕が訊いた。
「私は、近くを船が通らないかどうか、上で監視しておくから」
「ダメですよ。先生一人なんて」
「大丈夫、一晩徹夜するくらい、なんともないし。綺麗な星空を見て夜を過ごすのも、おつなものだしね」
「だけど……」
「分かった、それじゃあ、朝になったら交代して。それにこれは船長命令です。船の上では、船長の言うことは絶対だよ」
先生はそう言って笑って見せた。
食べ終わった後、使った食器をさっと洗う。
寝る前、女子達も僕も、シャワーは使わずに水で濡らしたタオルで体を拭いて済ませた。
まだ夜の8時過ぎだったけど、電気を節約するためにみんなでベッドルームに入る。
電気を消すと、天窓から月明かりが入って来た。
みんなで、広いベッドの上で一緒に寝る。
「先輩、また先輩のこと、枕にしていいですか?」
弩が、そんなことを訊く。
弩は僕が許可を出す前にもう、僕の腕に頭を置いた。
すると、新巻さんが無言で僕のお腹に頭を置く。
萌花ちゃんが僕の太股を使って、宮野さんはふくらはぎだ。
僕は、子犬におっぱいを飲ませる母犬状態で眠る。
海の上で漂流しているっていうのに、あまり不安ではなかった。
それは、こんなふうにみんなが周りにいるおかげだし、上で見張りをしてくれているヨハンナ先生のおかげかもしれない。
僕達は絶対に助かるって確信している。
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