第271話 大海原
僕達が滞在するコテージの二階は、トイレからも海が見えた。
トイレの窓が、海に向けて完全に抜けているのだ。
僕は、海を
お昼を過ぎて日が西に傾きだした海が、青々としている。
穏やかな夏の海を見ながら掃除が出来るなんて、このコテージに来て良かったって、しみじみ思う。
そんなふうに考えながらトイレ掃除をする僕を、後ろからヨハンナ先生が見ていた。
「なんですか先生? トイレなら、今は一階のを使ってください」
ゴム手袋をして、柄付きのたわしを持った僕が、先生の視線に答える。
「ううん、違うの。こうやってバカンスに来てまで、よく家事に精が出るなあと思ってさ」
先生が僕を見てニヤニヤしていた。
「塞君を見てると、なんだか掃除が楽しいものだって思えてくるよ」
先生はそう言って肩を
「楽しいですよ。汚いところが目に見えて綺麗になるのが楽しいし、綺麗になったことに喜んでくれる人がいると、もっと楽しいですし」
「ふうん。それじゃあ、部屋を汚す私は、塞君に娯楽を提供しているわけだ」
ヨハンナ先生がそんなことを言う。
「いえ、それは違いますから!」
先生には、しっかりと釘を刺しておかないといけない。
確かに僕は掃除大好きだけど、先生の部屋を汚す能力は怪物並みだから、これ以上されると、僕の力も及ばなくなってしまう。
「掃除はここで終わり?」
「はい、終わりました」
お風呂掃除はさっきやったし、みんなの部屋の掃除も終わって、新しいシーツでベッドメイクも済んでいる。
あるとすれば、あとは庭の草むしりだけだ。
「それじゃあ、午後はクルージングに出掛けましょうか?」
ヨハンナ先生が言った。
「クルージング?」
すると、どこからともなく女子達が集まってくる。
弩に新巻さんに、萌花ちゃんに宮野さん。
さっきまで広間のソファーの上とか、バルコニーでだらだらしていた女子達が、クルージングと聞いて目の色を変えた。
「クルージングって、あの
弩がぴょんぴょん跳ねながら訊く。
「そうだよ。あれで
ヨハンナ先生が言って親指を立てた。
そういえば、ヨハンナ先生は朝から桟橋の辺りで何かゴソゴソしていた。
クルーザーの後部デッキのハッチを開けて何か見てたけど、何してたんだろう?
「でも、誰が運転するんですか?」
宮野さんが訊く。
「もちろん、私よ」
ヨハンナ先生が胸を張って言った。
「先生、小型船舶免許持ってるんですか!」
新巻さんが興奮した声を上げる。
「うん、持ってるよ。それも2級じゃなくて1級ね。あの船で、世界一周だって出来るし」
先生が、パスケースに入れた免許証を見せてくれた(2級は海岸から5
ヨハンナ先生、自動車運転免許証の下に、そんな秘密兵器を隠し持っていたとは……
「だけど、なんで先生、小型船舶なんて持ってるんですか?」
僕は訊いた。
「もしかして、今日のために?」
「違う違う、私もそこまではしないよ。取ったのは大学生の時」
先生が慌てて言う。
「先生って大学生時代、クルーザーとか乗り回して遊びまくってたんですか?」
萌花ちゃんが訊いた。
「まさか、免許は取ったけど、叔父さんが持ってる釣り船を運転してたくらいだよ。私、真面目な女子大生だったし」
ヨハンナ先生が
「その頃、
先生は過去に思いを
そういえば、僕はヨハンナ先生の学生時代のこととか、まったく知らない。
ヨハンナ先生って、どんな女子大生だったんだろう。
どんな学生生活を送ってたんだろう。
そして、その、憧れてた先輩って……
「あれ? 篠岡君、もしかして、
ヨハンナ先生が、僕の顔を覗き込んで意地悪く訊いた。
「いえ、別に、全然」
別に、先生が憧れてた人のことなんて、気にならないし、全然、ホントに、これっぽっちも、1ミリだって気にならないし。
「安心して、その先輩って、女性だから」
ヨハンナ先生が言った。
「なんにでも挑戦する人でさ、その人に感化されて飛び回ってたな」
別に僕は気になってないのに、ヨハンナ先生が勝手に話す。
「どう? 安心した?」
「いえ、別に」
僕が答えたら、女子達がクスクス笑った。
一体、何がおかしいって言うんだ。
「さあ、それじゃあみんな準備して。すぐに出発だよ」
先生が言って、
「はい!」
って、従順な生徒達が小気味よい返事をした。
女子達が着替えたり、日焼け止めを塗っている間に、僕はクーラーボックスの中に飲み物を詰めて、果物とか、おやつに食べられそうなものを
海は波が穏やかで、船を出すのに丁度良かった。
桟橋に泊めてあるクルーザーが、真っ白に輝いている。
滑らかな流線型の船体で、全長が十五メートルくらいあった。
キャビンの上にもう一つの操縦席があるタイプで、青空の下にむき出しになったハンドルや、スロットルレバーがキラキラ光っている。
キャビンの中は、白いソファーと飴色に輝くテーブルがある広々とした空間で、テレビやオーディオ機器も充実していた。
船内にはギャレーもあって、シンクにクッキングヒーター、電子レンジに冷蔵庫も備え付けてある。
シャワールームとトイレもあるし、パウダールームには高級ホテルみたいなアメニティーグッズが
前のデッキの下はベッドルームになっていて、僕達六人が横になっても十分に眠れるくらいの広いベッドがある。
5000兆円手に入ったら、僕もこんな船の一隻くらい買ってもいいかと思った。
「すごーい!」
みんなで、はしごを登ってキャビンの上に上がる。
キャビンの上は、操縦席と助手席の他に、大人四、五人が座れるL字型のシートがついていた。
上に登ると、視線が高くて見晴らしがいい。
「はい、みんなこれ着て」
ヨハンナ先生にライフジャケットを着せられた。
そういうところは、やっぱり先生だ。
「それじゃあ、出発するよ」
先生が操縦席に座って、僕が助手席に着いた。
後ろのシートに女子達が座る。
先生が始動ボタンを押して、船尾の方からエンジンの振動が伝わってきた。
慎重にスロットルレバーを入れると、大きな船体が桟橋から離れて、そろそろと動き出す。
クルーザーは、そのまま、ゆっくりとしたスピードで岬の間を抜けた。
先生は周囲に鋭く目を配っている。
「もうそろそろいいかな」
前が開けた
ゆっくりと動いていた船が、みるみる加速していく。
一応、風防はあるけど、気持ちのいい風が
横で見てると、ヨハンナ先生の金色のポニーテールが後ろになびいている。
白いショートパンツに青いヨットパーカー、ボーダーのインナーのヨハンナ先生。
ハンドルを握る先生が凜々しかった。
普段、車を運転する横顔も見てるけど、こんな大きな船を操る先生は、一段とカッコイイ。
僕達のクルーザーは、真っ青な海を切り裂くように長い白波を引いた。
目の前の波を
クルージングを
「何笑ってるの?」
新巻さんが不審そうに訊く。
「いえ、風で前髪が後ろに飛んで、みんなのおでこが丸見えだから」
五人の可愛いおでこが、
「もう!」
新巻さんに怒られる。
でも、可愛いんだから仕方がない。
「裸を見られてるみたいです!」
前髪ぱっつんで、いつもおでこを隠している弩が抗議した。
だけど、裸を見られるのと同じっていうのは、ちょっと言い過ぎだと思う。
一生懸命直してもすぐにまた風で飛ばされるから、僕はまた笑ってしまう。
陸が遠くに
エンジンを切ると、波音以外、何も聞こえなくなる。
360度、どこを見ても、船の周りには何もなかった。
僕達だけで大海を独り占めしたみたいな感覚だ。
「しばらく、ここでのんびりしましょうか」
ヨハンナ先生が言った。
「はーい!」
弩と萌花ちゃん、宮野さんの三人が、船尾のステップに下りて、並んで座った。
裸足になって、足をちゃぷちゃぷと海につける。
「三人とも、落ちないようにね」
操縦席からヨハンナ先生が注意した。
先生は操縦席の上の
サングラをして、周囲を監視しながら海を眺める。
大きなサングラスが似合うヨハンナ先生は、まるでハリウッド女優だ。
新巻さんは、キャビンに入って、ソファーの上でノートパソコンを開いた。
創作意欲が刺激されたらしく、海を見ながらそこでカタカタと何かを
クルーザーの中で執筆とか、どこかの大御所作家みたいだ。
僕は、ギャレーに下りてグラスを用意した。
オレンジジュースに、種と皮を取ったマンゴーとレモン汁を入れて、ミキサーにかける。
パイナップルも切って、それをグラスの縁に刺した。
チェリーとミントを飾れば、立派なトロピカルドリンクだ。
執筆中の新巻さんや、船尾で涼んでいる三人、そして、操縦席のヨハンナ先生にドリンクを届けた。
「ありがとう」
「ありがとうございます!」
みんな、笑顔を返してくれる。
「お酒をちょっと入れて飲みたいな」
ヨハンナ先生がふざけて言った。
僕も、後ろのデッキのベンチシートに寝そべって、そこでトロピカルドリンクを飲む。
何も考えずに、ぼーっと海を眺める時間が心地良かった。
船尾から女子達の楽しそうな話し声が聞こえてくるし、キャビンからは、新巻さんがカタカタとリズムを刻むみたいにキーを打つ音が聞こえて、眠気を誘う。
朝から掃除をしていて、それが案外体に
でも、抗わなくてもいいと思った。
僕はそのまま、眠気に任せる。
そのまま、眠りに落ちようとしていた、その時だった。
どーん! と、体全体で感じた衝撃と共に、船体が大きく揺れて、僕はベンチシートから投げ出された。
トロピカルドリンクのグラスがデッキに落ちて割れる。
一瞬なにが起こったのか分からない。
次の瞬間、僕は船尾のステップに三人が座っていたことを思い出して、後ろを振り返った。
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