第257話 最後の夏
「それじゃあ、お兄ちゃん行ってくるから」
玄関で僕が言うと、枝折と花園、二人の妹が、
「いってらっしゃい」
って、涼しい顔で言った。
枝折は
「それだけ?」
僕は二人に訊いた。
「んっ? それだけって?」
花園が眉をひそめて訊き返す。
「いや、これからしばらく兄妹が離ればなれになるんだよ。もっとこう、抱き合って泣きながら別れるとか、『お兄ちゃん、行かないで』ってすがるとか、あるのかと思って………」
大好きなお兄ちゃんと別れるんだから、二人も
きっと昨晩は、ベッドで血の涙を流したに違いない。
「だって、夏休みのあいだ、別れるだけでしょ?」
枝折が冷静に言った。
口の端は一ミリも下がっていないし、上がってもない。
「まあ、そうなんだけど……」
これから僕は、寄宿舎で生活するために家を出る。
主夫部の夏合宿として、寄宿舎で家事をする。
寄宿舎に泊まり込む。
僕が家にいないあいだ、枝折と花園は、夏休みを田舎の祖父母の家で過ごすことになっていた。
お盆過ぎには、久しぶりに母と父が帰って来られるみたいだから、それまで母方と父方、両方の田舎でお爺ちゃんお婆ちゃん孝行をするらしい。
可愛い孫が来るってことで、祖父母も楽しみにしていた。
「数週間したら、どうせまた会えるし」
枝折は数週間って簡単に言うけど、そんなに長く兄妹が離れたことはないから、不安でたまらない。
夜中に突然、僕が花園のほっぺたすりすりしたくなったら、どうするんだ。
「もう、お兄ちゃんは妹離れしなさい!」
花園に言われた。
「大体、お兄ちゃんは主夫になるとか言ってるけど、そうなるとお
花園が、ほっぺたを
「大丈夫、心配するな。お兄ちゃんは、花園ちゃんも枝折ちゃんも連れて、お婿に行くから」
「いや、心配するなって、そっちのほうが余計に心配だよ!」
二人に突っ込まれた。
「お兄ちゃんと結婚してくれる上に、二人の妹まで面倒見てくれるって、どんだけ聖人だよ!
花園が言う。
僕と結婚してくれる人は、聖人か詐欺師なのか……
「冗談はさておき、最後に抱き合ってから別れよう」
僕が提案すると、
「全然冗談をさておいてないよ!」
今日の二人は、突っ込みが
口では色々言うくせに、僕が手を広げたら、二人とも近づいて来た。
僕達は三人で肩を抱き合う。
「何かあったら、すぐに連絡するんだよ」
僕は言った。
連絡があったら、たとえどんな状況にあろうとも、飛んでいく。
「分かってるって」
花園が言って、僕の背中を叩いた。
「もう、お兄ちゃん力入れすぎ、痛い」
枝折が言う。
母や父がいなくて寂しいとき、僕達はいつも三人でこんなふうに支え合ってきた。
もし、僕が本当にお婿に行く日がくれば、こんな別れが本物になるんだろう。
そう思ったら、ちょっとだけ切なくなった。
「それじゃあ、いってきます」
僕は、リュックサックを背負って、スーツケースを引いて、家を出た。
「いってらっしゃい」
結局、二人は門で僕が見えなくなるまで見送ってくれる。
花園は、角を曲がって見えなくなるまで、ずっと手を振っていた。
「先輩! いらっしゃい!」
悲しい別れのあとに、僕を笑顔で迎えてくれたのは、寮長の弩をはじめ寄宿舎の住人だった。
弩に、新巻さんに萌花ちゃん、宮野さん。
そして、ヨハンナ先生に北堂先生、ひすいちゃん。
全員そろって、玄関で僕を迎え入れてくれた。
「待ってたよ」
ヨハンナ先生が言う。
「夏休みの間、よろしくお願いします」
僕は、丁寧に頭を下げた。
親しき仲にも礼儀ありだ。
「こちらこそ、よろしくね」
ヨハンナ先生が言って、みんなが拍手してくれる。
ここには毎日来てるし、みんなとは毎日顔を合わせているのに、照れてしまった。
あらためて挨拶するのは無性に照れくさい。
「それで、篠岡君はどこの部屋を使うの?」
ヨハンナ先生が訊く。
「どの部屋も綺麗にしてますから、どこでもいいですよ」
弩が言った。
綺麗にしてるのは僕達なんだから、それは解ってるけど。
「私の隣の105号室にしなよ。それなら
ヨハンナ先生が言った。
今なんか、
「私の隣の部屋でもいいですよ」
弩が言う。
弩の隣の部屋、111号室は「開かずの間」だったし、何もなかったって分かってるけど、やっぱり、ちょっとそこで寝るのは気が引ける。
「二階は、私と宮野さんしかいないし、空いてるからいいんじゃない? 二階にすれば?」
新巻さんが言った。
「台所とかに近い方がいいから、やっぱり一階じゃないですか?」
萌花ちゃんが言う。
「まあまあ、みんな、僕を取り合うのは止めてください」
ふざけて言っただけなのに、みんなに
話し合った結果、結局、201号室、寄宿舎の一番端っこの部屋に住むことで落ち着いた。
みんなの部屋から離れたところだ。
僕は、201号室にスーツケースを運び込む。
倉庫にあった
「それじゃあ、とりあえずお茶でも飲みましょうか?」
ヨハンナ先生が言って、僕達は食堂に集まる。
みんなでテーブルを囲んだ。
いつもより人数が少なくて、こぢんまりした感じでそわそわする。
「今度は篠岡君の歓迎会もやらないとね」
ヨハンナ先生が言った。
「先生、お酒飲みたいだけですね」
弩が言って、みんなが笑う。
「…………」
「…………」
「…………」
「…………」
「…………」
「…………」
「…………」
「…………」
「…………」
「…………」
「お茶、出てきませんね」
沈黙を破ったのは、弩だった。
あっ、そうだ。
御厨がいないんだった。
「お茶、入れてきますね」
僕は席を立つ。
今まで特に何も言わなくても、飲みたいときにスッとお茶が出てきたのは、御厨がそれを自然にこなしていたからだった。
今日からは、僕がそれを一人でやらなければいけない。
自覚が足りなかった。
三年生の夏休み、部活の集大成として、僕はこの寄宿舎の女子に何不自由ない生活を提供する。最高の環境を用意するのだ。
それは、野球部員が最後の甲子園に挑むのと同じ覚悟で。
麦茶を入れて
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