第20章

第256話 夏の支度

 梅雨つゆが明けた寄宿舎で、僕達主夫部は、本格的な夏の準備をした。


 各部屋の窓に、すだれを掛ける。

 ベッドの敷きパットを夏用に変えて、ラグも薄手のものや、い草のものに変えた。

 脱衣所のマットも変えて、風呂上がりに涼めるよう扇風機も出しておく。

 中庭には縁台も置いた。

 打ち水用のバケツと柄杓ひしゃくも玄関に置く。


 倉庫にあった蚊遣豚かやりぶたを出して、蚊取り線香を入れた。

 廊下にたくさんの豚を並べたら、ひすいちゃんがそれを不思議そうに見る。


 錦織は女子達の夏用の部屋着や帽子、浴衣ゆかたをチェックして直した。

 御厨は、パントリーから麦茶用ポットを出して、いつでも飲めるように冷蔵庫に大量の麦茶のストックを作った。

 かき氷器や、そうめん用のざるに、蕎麦猪口そばちょこなんかも入れ替えておく。


 最後に、ヨハンナ先生が風鈴を出した。


 ガラスの江戸風鈴で、二匹の金魚が泳いでいる模様が涼しげだ。

 年代物の風鈴だから、ここで数多くの女子を見守ってきたんだろう。


「塞君、手伝って」

 先生に言われて、僕はそれを先生の部屋ののきつるした。


 林の木々を抜けてきた風が、静かに風鈴を揺らす。

 林からサラウンドで聞こえてくるせみの声と合わせて、一気に夏が来た感じがした。


「うん、いいね。ありがとう」

 ヨハンナ先生が、そう言って微笑む。


 僕の目は、そんな先生のくちびるきつけられてしまった。


 あの文化祭の打ち上げ以来、どうしても先生の唇が気になって仕方がない。

 僕とヨハンナ先生の唇が重なったあの瞬間のことが、頭から離れなかった。


「どうしたの?」

 先生が不思議そうに訊く。

 僕がじっと顔を見てるから、不審に思ったのかもしれない。

「いえ、べつに……」

 僕は、目を逸らして視線をごまかした。


「なに? 言いたいことがあるなら、言いなさい」

 先生が腕組みして言う。

 半分、教師の顔だ。


「先生、あれは一体、どういうことですか?」

 僕は、二人の周りに誰もいないことを確認してから訊いた。

 あのキスはどういう意味だったのか、訊いてしまう。


「あれって?」

「あれです」

 僕がそう言ったら、

「ごめんなさい!」

 先生がいきなり頭を下げた。


「ビール、一日一本だけって言ってたけど、どうしても飲みたくなって隠れて飲んでました。空のアルミ缶を、ベッドの下に隠しててごめんなさい」

 先生がそう言って頭を下げて、手を合わせる。


「いえ、そのことじゃなく……」

 先生……そんなことしてたのか。


「えっ? それじゃあ、他の先生達との飲み会で、シャツにお醤油しょうゆ零したのに、洗濯に出すのを忘れてて、塞君に怒られると思ったから、タンスの奥に隠したこと?」

 先生が顔を引きつらせて言う。


「いえ、それでもなく……」

 シャツが一枚消えたと思ったら、そんなことがあったのか。

 ってゆうか、先生……子供か!


「えっ? そのことでもないの? それじゃあ……」

 先生には、まだまだ思い当たるふしがあるみたいだった。


「もう、いいです」

 僕は止める。

 なんか、まだまだ色々出てきそうで怖い。


 先生、あのことは覚えてないんだろうか?

 やっぱりあれは、酔っ払った先生が起き上がって、そこに偶然僕の唇があったって、ただそれだけのことだったんだろうか?


「ごめんね。怒ってる?」

 先生が上目遣いで訊いた。

「いえ、怒ってません。でも、シミが付いた洋服はできるだけ早く出してくださいね」

 僕が言うと、

「はぁい」

 って、先生が素直に返事をした。


 やっぱり、先生はあのこと覚えてないみたいだ。

 それは残念でもあり、ほっとした気持ちもあって、複雑だ。




 夏の準備が終わったら、さっき御厨が出したかき氷器でかき氷を作って、主夫部、寄宿生みんなで食べた。


 シロップは市販品じゃなくて、御厨がちゃんと本物のフルーツから作った自家製だ。

 イチゴとメロン、マンゴーの三種類がある。


 果肉が残ってるし、甘さ控えめでおいしい。

 冷たくて作業の汗がすっと引いた。


「ところで、みんな夏休みはどうするの?」

 かき氷を食べながら、ヨハンナ先生が訊いた。


「私は実家には帰りません。帰っても、誰もいないので」

 弩が言う。

 相変わらず、弩の御両親は忙しいらしい。


「私も、ちょっと執筆に集中したいから、寄宿舎に残ろうと思うの」

 新巻さんが言った。

 新巻さん、夏休みは親戚の子供が来ていて、執筆どころではなくなるらしい。


「僕も寄宿舎に残ります。夏休みの間に、この寄宿舎を徹底的に調べて、この建物の秘密を解きたいと思うんです」

 宮野さんが言った。

 宮野さんは心酔しんすいしている建築家、青村喜太郎がこの建物に残した秘密を解くんだって張り切っている。


「私は、実家に帰ろうと思ったけど、母がバレー部の合宿で合宿所に寝泊まりするから家にいても仕方ないし、みんなが残るなら残ろうかな」

 萌花ちゃんが言った。

 一緒に居られるねって、弩と萌花ちゃんが、手を取り合って喜ぶ。


「私は学校があるし、当然、ひすいと一緒に残ります」

 北堂先生が言った。

 ひすいちゃんも「うー」って頷く。


 今年の夏休み、寄宿舎の女子は、全員ここに残るらしい。


「それじゃあ、夏休みの間も、ここは開けといたほうがいいね。残るのが私と弩さんくらいなら、また、篠岡君の家に居候いそうろうしようと思ってたから、閉めるつもりだったけど」

 ヨハンナ先生が言った。

 先生、居候しようと思ってたのか。


 まあ、僕も二人が家に来ることを予想して、二人の分の布団干してたし、シーツとかタオルとか用意してたんだけど。


「すみません。僕、『Party Make』のライブとかフェスを追いかけて全国飛び回るので、夏休み中は部活に出られそうもありません」

 錦織が言った。


「僕も、夏休みは祖父の家に行くことになってるので、部活にはちょっと出られないかもしれません」

 子森君が言う。


「そうか、残念だけど仕方がないよね。御厨君も、やっぱり、お母様とバカンス?」

 ヨハンナ先生が訊いた。

 長い休みに海外に行くのは、御厨の常だ。


「いえ、あの、実は今年、縦走先輩から寮父りょうふのアルバイトしないかって誘われてて、先輩の実業団の女子寮に泊まり込みで過ごそうと思ってます」

 御厨が、照れながら言った。

「寮のメニュー作りの手伝いもして欲しいって頼まれてますので、そっちに行こうかと……」

 そういえば、縦走先輩が寮のご飯がおいしくないって訴えてたのを思い出す。

 それで縦走先輩は、御厨を駆り出したのか。


 それにしても、実業団陸上部のお姉さん達の寮で、泊まり込みで暮らすって……


「篠岡君は? 篠岡君がダメだったら、私達、自分達だけで、生活しないといけなくなるけど」

 ヨハンナ先生が言って、女子全員が僕の顔を覗き込む(ひすいちゃんも)。


「僕なら大丈夫です。夏休みの予定は何にもないので毎日通えます。それに、学校がなくて一日中家事が出来るので、一人でも大丈夫だと思います。精一杯みなさんのお世話をします」

 僕が言うと、みんなの動きが一瞬止まった。


「毎日通えるんだ……」

「何にも予定ないのね」

「青春まっただ中なのにね」

「先輩、生きていれば、きっといいことあります」

 なんか、みんなが励ましてくれる。



「それなら、いっそのこと、篠岡君、夏休みの間、ここに住んじゃえば?」

 唐突とうとつにヨハンナ先生が言った。

「枝折ちゃんと花園ちゃんも呼んで、みんなで暮らせばいいじゃない」

 先生が言って、僕はふるえる。


 夏休みの間、寄宿舎に住んで、大好きな人達のために一日中家事をする。


 考えただけでゾクゾクする話だ。

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