第255話 不意打ち
「乾杯!」
寄宿舎を囲む林に、無邪気な声が響いた。
木々の間で気持ちよさそうに鳴いていた小鳥が、びっくりして飛び立つくらいの声だ。
僕達の中で一番無邪気な声を出したのがヨハンナ先生なのはご
僕達は手にしたグラスを掲げた。
主夫部部員と、寄宿舎の住人、それに枝折と御厨の母親天方リタが、寄宿舎の中庭に集っている。
「みんな、ご苦労様!」
ヨハンナ先生が言って、グラスのビールをゴクゴクと飲み干した。
紺のTシャツにホワイトデニムのヨハンナ先生。
「ふぅ。やっぱ、このために生きてるよね」
先生が泡だらけの口を拭う。
「ほら、先生。手で拭いちゃだめです」
僕は、ヨハンナ先生にタオルを差し出した。
だけどまあ、この打ち上げのために、先生は一日ビール一本でずっと我慢してたんだから、今日は自由に飲ませてあげよう。
「先生、どうぞ」
僕は空になったグラスにビールを注いだ。
「ありがとう。最愛の生徒に注がれるビールくらい、美味しいものはないよね」
先生がキラッキラの笑顔で言った。
先生はビール飲むために生きてるとか言うけど、僕は、大好きな人達のこんな笑顔が見たくて生きてるんだって、実感する。
朝方まで続いた後夜祭のあと、少し仮眠をとって、この打ち上げの準備にかかった。
御厨が台所に入って料理をする間に、他のみんなでバーベキュー用のコンロを出したり、鉄板を準備したり、テーブルを設置した。
氷を入れたクーラーボックスの中に大量の飲み物も用意たけど、足りそうになかったから、金だらいに水を張ってヨハンナ先生用のビールとスイカを放り込んだ。
映画の上映のために借りていたPA装置で、カラオケ用の簡単なステージも作った。
夜になってもパーティーを続けられるように、ランプや投光器も用意する。
疲れたらだらだら出来るように、レジャーシートを敷いて、寝っ転がれるスペースも作った。
その上には、宮野さんが
木陰の気持ちいい風が吹き抜ける蚊帳の中で、今はひすいちゃんがすやすやと眠っていた。
テーブルの上には、さり気なく最優秀展示賞のトロフィーが飾ってある。
これは、主夫部と寄宿舎の住人、全員で勝ち取ったトロフィーだ。
「縦走先輩から頂いたお肉とかたくさんありますから、みんな、お腹一杯食べてくださいね」
御厨が呼びかけた。
テーブルには、下味をつけた牛肉や豚肉、鶏肉に、色とりどりの料理が並んでいる。
もちろん、デザートだって抜かりはない。
「それじゃあ、肉焼こう肉!」
ヨハンナ先生が言って、女子達がこぞって網の上に肉を並べた。
牛肉のサーロインにタン、豚肉のスペアリブ、香草で味付けした鶏もも肉、フランクフルトや、厚切りのベーコンも焼く。
「そんなに焼いて大丈夫ですか?」
僕が訊くと、
「大丈夫です。全部食べますから」
弩が答えて、新巻さんも、萌花ちゃんも、宮野さんも頷いた。
なんという、肉食系女子達。
肉に群がる女子を、御厨が満足そうに見ている。
御厨の全世界の女子をぽっちゃりにする計画は、着実に進んでいた。
肉が焼ける香ばしい匂いの中で、僕はみんなにお
「先生、ご苦労様でした」
まずは、北堂先生に麦茶を注いだ(授乳中の北堂先生はお酒を控えている)。
「もう、うちのクラスの生徒からセーラ服着てきてって、言われっぱなしだよ」
先生が笑いながら言う。
確かに、あのセーラー服は似合いすぎていた。
「嫌じゃないから、こっそり着て登校しようかな」
先生が悪戯っぽく言う。
それは嬉しいし、止めはしませんけど……
「脚本、お疲れ様でした」
次は、新巻さんのグラスに、飲んでいたドクターペッパーを注ぐ。
「森園リゥイチロウが書いた映画の脚本って、後世に話題になるかもね」
僕は言った。
その主演が僕だったのは自慢できる。
名前を出してないから、森園リゥイチロウのファンで映画を見られた人は、ラッキーだろう。
「それじゃあ、話題になるような大作家にならなきゃ」
新巻さんが砕けた笑顔を見せた。
萌花ちゃんにはカルピスを作って渡した。
「萌花ちゃんは、写真だけじゃなくて、動画のセンスもあるんだね」
「そんなことないです。でも、動画も楽しかったので勉強します」
萌花ちゃんが照れながら答える。
また一つ、萌花ちゃんに新しい道が開けたとしたら、主夫部の出展に巻き込んだ甲斐があった。
「宮野さんは初めての文化祭だったけど、どうだった?」
宮野さんには、オレンジジュースを注いだ。
「はい。楽しかったです。来年は、僕も何か作品を展示したいと思いました」
宮野さんの創作意欲を刺激したようで、なにより。
「5メートルくらいの金剛力士像の木像を作って、二体を校門の両脇に並べたいんですけど、どうでしょう?」
宮野さんが言った。
いや、それはもうちょっと考えようか。
「監督さん、ご苦労様」
そして、弩のグラスには、大好きなドデカミンを注いだ。
弩が手を出してねだるから、ポケットのホワイトロリータも渡す。
「去年のアミューズメントパークといい、今年の映画といい、弩のアイディアは
これは、お世辞抜きの僕の感想だった。
「いえ、みなさんの才能を生かすにはどうしたらいいかって考えたら、自然と答えが見えただけです」
弩が真っ直ぐに僕を見て言う。
弩は自分を飾ったりしない奴だから、本当にその通りなんだろう。
弩は立派に母親の跡を継いで良い経営者になる。
きっとなる。
「ほら、肉焼けたよ! どんどん食べよう」
ヨハンナ先生先生が言って、女子達がバーベキューコンロに群がった。
鉄板の方では、御厨が焼きそばを焼き始める。
僕達は食べて飲んで、大いにお腹を満たした。
食べて飲んだあとは、弩と新巻さん、萌花ちゃんがステージに立つ。
三人で「Party Make」のメドレーを完璧な振り付けで披露した(三人で相当練習したらしい)。
三人のステージが終わると、宮野さんが演歌を歌う。
こぶしが効いた宮野さんの歌は上手かった。
大工のお父さんが口ずさんでいるを聞いて、覚えたんだとか。
お酒が入って上機嫌になったヨハンナ先生も、ステージに上がった。
だけど、先生、盛り上がってるところで、なんで失恋ソングなんだ……
林の中で大騒ぎしている僕達のところへ、
「ただいま!」
花園が、中学校から帰って来た。
「もう、みんな盛り上がっててずるい!」
花園がほっぺたを膨らませる。
振替休日ではない花園は、朝、ぶつぶつ言いながら中学校に行った。
休もうとしたけど、それはヨハンナ先生や北堂先生が許さなかった。
相当汗をかいてるから、学校が終わって走って帰ってきたらしい。
花園は、玄関にバッグを投げただけで、制服のまま、すぐに打ち上げに参加しようとする。
だから僕は、汗まみれの花園にシャワーを浴びさせて、着替えさせた。
花園はぶつぶつ言ったけど、このままだと制服に焼き肉の匂いが付くし、汗をかいた制服を洗ってあげたいし。
シャワーを浴びた花園に着替えを持っていったら、「ねえ、お兄ちゃん」って、風呂場から顔を出した花園が、脱衣所の僕を呼び止める。
母譲りの赤茶の髪から、ぽたぽたと水滴が垂れていた。
「花園は進路を決めたよ。今日、先生に進路指導の紙出した」
花園が嬉しそうに言う。
そういえば、花園には進路指導のプリントの提出期限が迫ってるんだった。
「ふうん、それで、花園は進路をどうすることにしたの?」
僕が訊く。
「うん、花園は、寄宿舎のみんなみたいに、特別な才能があるわけじゃないし、何か夢中になれることがあるわけじゃない。そして、お母さんみたいに立派じゃない」
花園が言った。
兄の僕から見たら、花園だって可能性の
「だけど、花園の周りに素敵な人がたくさんいて、その人が素敵だってことは解るの。だから花園は、そんな素晴らしい才能を持った人のことを、みんなに紹介するようなお仕事がしたいなって思ったの。そういう人を取材をしたり、ドキュメンタリーの映像を撮ったりするような仕事がしたい」
花園の言葉が弾んでいた。
「ふうん」
「どうかな?」
「うん、いいんじゃないか」
花園が自分で決めたなら、あとはただ、応援するだけだ。
「だから、来年はこの学校を受験するよ。そして、ゆみゆみとか、萌花さんとか、宮野さんのこと取材するんだ。そして来年の文化祭は、花園の映像が『最優秀展示賞』を取る!」
花園は断言した。
「特別賞は一回でいいし」
花園はそう言って親指を立てる。
ん?
特別賞?
ん?
ん??
「花園、特別賞って?」
訊こうとしたら、花園が風呂場に顔を引っ込めてしまった。
「お兄ちゃん、いつまでもそこにいたら花園が出られないでしょ!」
僕は、花園に脱衣所から追い出される。
ん?
特別賞?
んん???
僕が首を傾げて中庭に帰ると、ヨハンナ先生が
「先生、ヨハンナ先生!」
夜中まで飲むとか豪語してたのに、もう酔いが回ったのか、先生はぐでんぐでんだ。
「んんー」
僕が揺すると、先生が悩ましい声を出す。
「色々気を使って、ヨハンナ先生も疲れてたんだよ」
北堂先生が言った。
「映画は好評だったけど、あの内容だったし、文句を言う人もいるからね」
確かに、あの映画には学校批判みたいな内容も少し入っていた。
生徒には好評でも、先生の間では色々あったんだろう。
「篠岡君、ヨハンナ先生をベッドまで運んであげて。少し昼寝すれば、また復活するよ。どうせみんな、夜まで飲み食いしてるし」
北堂先生が言った。
「ほら、先生、部屋で寝ましょう」
僕は、ヨハンナ先生に肩を貸して部屋まで運ぶ。
「大丈夫。私は大丈夫だから」
先生は口ではそう言うけど、足がふらふらだった。
肩を貸して館内に入って、先生を自室のベッドに寝かせる。
先生がTシャツをめくってお腹を掻くから、冷やさないようにタオルケットを掛けた。
教室ではあんなに凜とした先生なのに、手間がかかるのは花園や枝折と変わらない。
年上なのに、そこが可愛いところなんだけど。
「塞君」
タオルケットを掛けて部屋を出ていこうとしたら、先生が僕を呼び止めた。
「はい?」
振り向くと、寝ていたはずの先生の顔がすぐ目の前にあって、僕の唇とヨハンナ先生の唇が重なる。
えっ?
僕は、何が起きたか分からずに固まった。
そのまま、五秒くらい、僕とヨハンナ先生の唇は重なったままだったと思う。
五秒して、先生はそのままベッドに倒れて眠ってしまった。
「先生、先生?」
僕が揺り起こそうとしても先生は起きない。
キスするだけして、あとはスースーと寝息を立てていた。
今のは何だったんだ?
事故か?
それとも故意か……
僕はヨハンナ先生とキスをしてしまった。
僕のファーストキス(妹を除く)は、お酒臭くて、焼きそばのソースの香りがするキスだった。
二時間ほど眠って、起きて自分で歩いてきたヨハンナ先生は、何事もなかったように打ち上げの輪に加わって、飲んだり食べたり、歌ったり笑ったりしていた。
本当に、あれはなんだったんだろう?
ともかく、僕の一生忘れられない高三の文化祭は、こんなふうに終わった。
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