第240話 補導

 母と、花園と枝折、この三人以外に、僕の耳を任せるのは、初めてのことだった。


 ヨハンナ先生が、僕の耳の穴を上からのぞき込んでいる。

 反対側の耳が触れる先生の膝枕ひざまくらの感触が柔らかかった。

 今まで横になったどんな枕よりも、頭に優しい気がする。


「ほら、じっとしてて」

 先生に言われて、体に力が入らなくなった。


 ピンポーン


 リビングでヨハンナ先生に耳かきをしてもらっていたら、チャイムが鳴る。


「もう、だれ? こんなときに」

 ヨハンナ先生が立ち上がって、玄関に向った。

 先生がドアスコープを覗くと、そこには、セーラー服を着た北堂先生が立っている。

 魚眼レンズ越しに、北堂先生の少し怒った顔が見えた。


 黒髪ショートボブの北堂先生が、ドンドンとドアを叩いている。



「塞君! 大変! 隠れて!」

 先生が言って、玄関の僕の靴を隠した。

 リビングのチェストに飾ってある写真立てを、引き出しの中に入れる。

 写真立てには、ウエディングドレスのヨハンナ先生と、タキシードの僕の写真が入っていた。


 先生は、二人でいる間だけしている結婚指輪を指から引き抜いて、ジーンズのポケットに仕舞う。


「隠れるっていっても、どこに……」

 押し入れやクローゼットはいっぱいだし、ベッドの下に入り込めるような隙間はなかった。

 このマンションはベランダも狭いし、そこに隠れても丸見えになってしまう。


 その間も、北堂先生がドアを叩く音は響いている。


「とりあえず、ここに!」

 僕は、ヨハンナ先生に水が張ってある浴槽に放り込まれて、蓋を閉められた。

 僕は、水面から口だけ出して息をする。



「どうしたの? 瑠璃子るりこちゃん」

 先生がドアを開けると、制服姿の北堂先生が勝手に室内に上がり込んで来た。


 北堂先生は、2LDKのマンションの部屋を歩き回って僕を探す。

 洗面所にトイレ、先生は風呂場のドアも開けたけど、浴槽の中までは見なかった。



「ヨハンナ先生! 塞君をどこに隠したんですか!」

 北堂先生が、ヨハンナ先生に詰め寄る。


 二人は、リビングの真ん中で対峙たいじした。


「えっ? 塞君? 知らないわよ。何のこと?」

 ヨハンナ先生がとぼける。


 にらみ合う二人の間で、火花がバチバチと飛んだ。


 僕の結婚相手という設定のヨハンナ先生と、僕の幼なじみという設定の北堂先生が火花を散らした。


 フィクションだからいいけど、もしこれが本当だったらと思うと、ゾッとする。




「はい、カット!」

 弩の声が室内に響いた。


「いいでしょう。OKです!」

 弩がディレクターズチェアから立ち上がる。


 萌花ちゃんが撮影する映像を、モニターで確認していた弩が、大げさに拍手した。


「ヨハンナ先生、北堂先生の迫真はくしんの演技、完璧です! 篠岡先輩の演技も、今日はなんとか合格点をあげます」

 弩がそう言って、親指を立てる。


 浴槽に放り込まれた僕は、子森君と御厨によって、そこから助け出された。


 放り込まれた勢いで、少し水を飲んでしまってむせる。

 もちろん、僕はずぶ濡れだった。

 錦織が着替えを持ってきてくれて、僕は女子に隠れて着替える。


 水が入ってない浴槽でもよかったと思うんだけど、脚本の新巻さんが、「そのほうが面白いでしょ?」とか言って、水を入れることを提案した。

 監督の弩も、「そのほうが面白いですね」とか嫌らしい笑顔で言った。


 今回の新巻さんの脚本、なんか、僕に当たりが強いような気がするんだけど、気のせいだろうか?


 このあと、ビンタされたり、スタント的な撮影もあるとか言ってるけど………



「それじゃあ、今日の撮影はここまでにしましょうか。スケジュールにも遅れはありませんし、毎日徹夜するわけにもいきませんし」

 弩が言った。


 時刻は、午後八時を回っている。

 放課後、先生の職員会議が終わるのを待って撮影を始めて、もう、三時間が過ぎていた。

 撮影場所に借りたマンションの周囲は、すっかり暗くなっている。


「私達は片付けてから帰りますから、篠岡先輩は北堂先生の車に乗せてもらって、先に帰ってください」

 弩が言う。

 弩の後ろで、錦織や御厨、新巻さんや宮野さんが、撮影の後片付けをしていた。

 萌花ちゃんもカメラを片付け始めて、ヨハンナ先生や子森君がそれを手伝っている。


「いや、僕達も片付け手伝うけど」


「花園ちゃんと枝折ちゃんが寄宿舎で待っているので、先に帰って二人のお世話をしてあげてください。北堂先生も、ひすいちゃんが待ってますから行ってあげてください。私達も、パパッと片付けてすぐ帰りますから」

 弩が手を動かしながら言った。


 こうして、撮影現場を仕切ってるだけじゃなく、僕達に対して気遣いも見せてくれる。

 この中で一番成長しているのは、もしかしたら弩かもしれない。




 弩の言葉に甘えて、僕と北堂先生は先生のスカイラインGTRで寄宿舎まで帰る。


 先生のGTRのエンジンは、相変わらず、腹に響くような良い音をさせていた。

 助手席から見ていると、先生は何の意識もせずにシフトノブを操って、大きな車を自然に運転した。


「ちょっと、コンビニ寄っていいかな?」

 北堂先生が訊いた。

「はい、もちろん」

 僕は答える。



 コンビニの前には、数人の男女がたむろしていた。

 ちょっとやんちゃそうな人達だったけど、スカイラインGTRの運転席から出てきたセーラー服姿の北堂先生に、目を白黒させている。


 店内に入ると、先生はウエットティッシュとか、お菓子とかを次々に買い物籠に入れた。


「花園ちゃんとか枝折ちゃんとか、御厨君のお母さんとか増えたし、みんなで女子トークするから、おやつを仕入れておかないとね」

 北堂先生がそう言って笑う。


 ずるい、女子トーク楽しそうだ。

 僕も加わりたいけど、絶対に僕達男子は入れてはもらえないんだろう。


「なんか、夜、制服で出歩くの楽しいな。私、本物の女子高生のときは、親が厳しくて、こんなふうに夜で歩いたり出来なかったんだよね」

 北堂先生が言った。

 

「私、門限五時だったんだよ、信じられる?」


「先生ってもしかして、お嬢様なんですか?」

 門限五時って、ほぼ学校からそのまま帰らないと間に合わないじゃないか。


「お嬢様ではないかな。ただちょっと古い家なだけでね。結婚するのを反対されて、勘当かんどうされたから、もう、家とは関係ないんだけどね」

 そう言った北堂先生の横顔が、少し寂しそうだった。


 勘当されたって、北堂先生には何があったんだろう?

 あれ? ゴールデンウィークに先生はひすいちゃんをおじいちゃんとおばあちゃんに見せに行くって出掛けたけど、それって、自分の両親のことじゃないのか?

 旦那さんのほうの、おじいちゃんとおばあちゃんだったのか?


 北堂先生の過去に、謎が深まる。




 コンビニを出たところで、道路に止まっていたパトカーのお巡りさんに声をかけられた。


「君達、どこの高校? もう遅いけど、何してるのかな?」

 パトカーの助手席から出てきた、二十代後半の屈強くっきょうなお巡りさんが訊く。


「あっ、いえ、私、教員をしておりまして、彼は私の生徒です。課外活動を引率いんそつして、今、帰るところですから」

 セーラー服の北堂先生が、背の高いお巡りさんを見上げて説明した。


 お巡りさんは、呆れるを通り越して、笑っている。


 確かに、世界一、説得力に欠く説明だと思う。

 目の前で人間を食べているゾンビが、「僕、菜食主義者ですから」って言うくらい、説得力がない。


「ふざけてないで、家はどこかな? よければ送って行くよ」

 お巡りさんは言った。

 たぶん、このお巡りさんと北堂先生は、同じくらいの年齢だ。


 丁寧に説明して、先生が運転免許証を見せて、どうにか納得してもらえた。

 先生は免許証の他に保険証や、母子手帳も見せた。

 年齢を信じてもらえない場合を想定して、先生はいつもこれらをセットで持ち歩いているらしい。


「申し訳ない」

 北堂先生が本当に教員だと分かると、お巡りさんは、こっちが恐縮きょうしゅくしてしまうくらい、謝ってくれた。

 お巡りさんは、先生より一つ年下だった。


「それじゃあ、気を付けて帰ってください」

 お巡りさん、先生がGTRを転がしてるのを見て、二度びっくりする。



「なんか、セーラー服着るのくせになりそう」

 運転しながら、北堂先生が言った。


「そういうことなら、いくらでも洗濯しますけど」

 先生が着たいなら、僕はアイロンをかけてパリパリに仕上げるだけだ。


「もう、冗談だよ」

 北堂先生はそう言って笑う。


「男の子をからかうのも、くせになりそう」


 ひどい。

 やっぱり、見た目は幼くても、中身は大人の女性だ。




 学校に戻ると、校舎や部室棟には、まだ煌々と明かりがついていて、たくさんの生徒が残っていた。

 校内には演劇の練習の声が聞こえたり、金槌の音が響いている。

 夜食の、ラーメンや焼きそばの匂いもした。

 着ぐるみの黒ウサギが一匹、廊下を歩いているのも見える。


 この、文化祭準備期間のカオスな雰囲気が好きだ。




「お帰りなさい」

 寄宿舎では、玄関で、ひすいちゃんを抱いた御厨の母親、「天方リタ」が迎えてくれた。

 天方リタは風呂に入ったばかりなのか、白いバスローブを着て、濡れた髪をタオルでまとめている。

 すっぴんでも、シミ一つないって感じで、肌が艶々だった。

 見る度に思うけど、やっぱり、御厨の母親の年代だとは思えない。

 去年、ここに来たときよりも若返った気がする。


 ひすいちゃんは、その胸で安心しきって眠っていた。

 北堂先生が「お世話になりました」って言って、ひすいちゃんを抱き取る。


「あれ、枝折と花園はどうしました?」

 僕は天方リタに訊いた。

 僕が帰ったら、花園と枝折も玄関に飛び出して来ると思ったのに。

「お兄ちゃーん」って、子犬みたいに飛んでくると思ってた。


「枝折ちゃんは、文化祭の準備で学校に残ってて……あれ、花園ちゃんは、さっきまでそこにいたんだけど……」

 天方リタが首を傾げる。



 超常現象同好会で文化祭の準備がある枝折はいいとして、花園はどうしたんだろう?

 あれほどダメって言っておいたのに、もしかして、校内を歩き回ってるのか?

 でも、部外者の花園がどうやって校内を歩き回ってるんだ?


 後で花園を、問い詰めないといけない。

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