第238話 二人の秘密

「先生、朝ですよ、起きてください」

 僕は、そう言ってハート柄の遮光カーテンを引いた。

 薄暗かった寝室に、まばゆい朝日が差し込む。


 寝室の中央に置いたダブルベッドに寝ていたヨハンナ先生が、掛け布団の中に逃げ込んだ。

 布団からはみ出した先生の金色の髪が、朝日にキラキラ輝いている。


「朝日から逃げるって、どこの吸血鬼ですか」

 僕は言った。

 ベッドサイドテーブルの上の、引き出物の時計が、午前六時を指している。


「ほら、先生、起きてください。学校、遅れますよ」

 僕が言っても、先生は布団の中でもぞもぞしていて出てこなかった。


「ここには先生なんていないもん。名前で呼ばないと、起きないもん」

 布団の中から、ヨハンナ先生のくぐもった声が聞こえる。


「もう、先生、いい加減にしてください」

 僕は布団を揺すった。

 ちょうど僕の手がヨハンナ先生の脇腹の辺りに当たったのか、先生が布団の中でくすぐったそうにうごめく。


「だから、今の私は先生じゃないもん。家庭には仕事を持ち込まないんだもん」

 先生は、布団の中に籠城ろうじょうを決め込んでいた。

 甘えた声で「もん」とか言うし、いつもより少し幼い。


「ふっ、ふう」

 僕は、溜息を吐いた。


「ヨ、ヨハンナ、朝だよ。起きて」

 僕が言うと、パッと掛け布団が跳ね上げられる。


「うん、おはよう、旦那様」

 ベッドの上で上半身を起こしたヨハンナ先生が、満面の笑みで僕におはようの挨拶をする。


 僕は、そんな先生に笑顔を返した。


 薄ピンクのシルクのパジャマで、一番上のボタンを外して、胸元が開いたヨハンナ先生。



「はい、それじゃあ、朝ごはんを食べましょう。支度したくはできてます」

 僕が言うと、

「んー」

 って、先生が僕に向けて両手を伸ばした。


「なんですか?」

 僕は訊く。


「今の『んー』は、お姫様抱っこして、の『んー』だよ」

 ヨハンナ先生が言った。


 先生は、お姫様抱っこしてくれるまでここから動かないって感じで、ベッドの上に体を投げ出している。


「も、も、もう、甘えん坊さんですね」

 僕は、先生の背中と膝の裏に手を差し入れて、お姫様抱っこした。

 ヨハンナ先生は僕の首に手を回してくる。

 先生からは、僕が先生用に作ったイランイランベースの柔軟剤の甘い香りがした。



 そのまま、先生をお姫様抱っこして、ダイニングキッチンに移動する。

 2LDKのマンションの、二人暮らしにはぴったりの広さの、こぢんまりとしたダイニングキッチン。


 僕は、ダイニングテーブルの椅子に先生を座らせる。

 制服の上の身に付けていたエプロンを外して、僕も席に着いた。


 薄茶色のテーブルクロスの上に、深緑のランチョンマットが敷いてあって、真っ白な食器の上に、二人分の朝食が用意してある。


 朝食のメニューは、


 雑穀入りご飯

 鮭の西京焼き

 なめこの味噌汁

 はんぺん入り卵焼き

 オクラ納豆

 白菜の甘酢漬け

 海苔とレタスのサラダ

 

 それに、お茶とオレンジジュースだ。


「おいしそう!」

 ヨハンナ先生が目を輝かせた。


「いただきます」

「いただきます!」

 僕とヨハンナ先生は、向かい合って手を合わせる。

 二人、おそろいの箸をとって食事を始めた。

 湯飲みも、ご飯茶碗も、僕と先生のはお揃いだ。


「んー、おいしい!」

 パジャマのままで、まだ髪もボサボサのヨハンナ先生が、目を細くして、本当においしそうにご飯を食べる。


「毎日こんな美味しい朝ごはんが食べられるんだもの、塞君と結婚して、本当に良かったな」

 卵焼きを噛みながらヨハンナ先生が言った。


「ぼ、ぼ、僕も、先生にこんなに美味しそうに食べてもらえると、作り甲斐があります」


「だから、先生じゃなくて、ヨハンナでしょ?」

 先生がそう言って、ふざけて僕をにらんだ。


「それを言うなら、先生だって、僕のこと、塞君って、生徒のときみたいに呼ぶじゃないですか」

 僕は反論した。


「それなら、なんて呼んで欲しい?」

 先生が、小首を傾げて聞く。


「『とりとり』とか? 『とー君』とか? それとも、いっそ、ダーリンって呼ぼうか?」

 先生が、ダーリンって、甘い声で言った。


「塞君でいいです」


「よし、ダーリンて呼ぼう。すぐ呼ぼう」

 先生が悪乗りしている。


「先生、分かってますよね。家ではいいですけど、学校では、絶対に言ったらダメですよ」

 僕は、真面目な顔で言った。


「分かってるって。学校では、私とあなたは教師と生徒。結婚したことは秘密にしておくよ。私だって、この仕事を失うわけにはいかないからね。だって、ちゃんとかせいで、塞君との生活を守らないといけないんだから」

 ヨハンナ先生はそう言って、僕にウインクする。


「本当は今すぐにでも、私達が結婚したこと、ふれ回りたいんだけどな。私達結婚しましたって、世界中の人に言って歩きたいのに……」

 先生が言った。


「そそ、それは、僕も同じですけど」

 僕が言うと、ヨハンナ先生がテーブルの下で僕の足を突っついてくる。

 僕は、自分の足でヨハンナ先生の足を突っつき返した。


「苦しいけど、塞君が学校を卒業するまで我慢するよ」

 先生が言った。


「ぼぼ、僕だって、すごく苦しいです……」

 僕は言う。


「ほらダーリン、ほっぺにご飯粒付いてるよ」

 ヨハンナ先生は僕の言葉をスルーして、僕の頬に付いたご飯粒を取った。

 そのまま、ご飯粒を自分の口に入れて食べてしまう。


「あれ、私のほっぺたにも、ご飯粒が付いてるよ」

 ヨハンナ先生がわざとらしくびっくりした声で言った。

 言う前に、先生が自分でほっぺたにご飯粒を付けたのを、僕は見ている。


 僕がご飯粒を取ろうと手を伸ばすと、

「口で取って」

 ヨハンナ先生が言った。


「ほっぺたにチュして取って」

 先生が続ける。


「い、いや、それは……」


「私達、新婚の夫婦でしょ」

 先生はそう言って目を瞑った。

 目を瞑って、ほっぺたを僕の方に差し出してくる。


「ほら、ほっぺにチュして取って」

 先生が言った。


「え、ええと……」

 先生の顔が迫ってきて、僕は何もできなくなってしまう。

 フリーズしてしまう。


「ほーら」

 目をつぶる先生。


「ええ、ええと、と……」





「カット! カット!」

 ディレクターズチェアに座っている弩が大声を出した。


「先輩、なんですかその演技は、もっと真剣にやってください! 先輩が照れると、見ているこっちまで恥ずかしくなるんですよ!」

 メガフォンを持った監督の弩に怒られる。


 カメラマンの萌花ちゃんが、カメラを止めて、ファインダーから目を離した。


「ヨハンナ先生の演技は最高です。完璧です。それに比べて、篠岡先輩は最悪です。大根です。大根を通り越して、たくわんです」

 弩がめちゃくちゃ言って、後ろで見守っていた脚本の新巻さんと、大道具の宮野さんが笑っている。


 次のカットに備えて、衣装の錦織が先生のパジャマを直して、小道具の料理を用意した御厨がお皿を元に戻した。


「はい、それじゃあ、最後のシーン、もう一回撮り直しますよ」

 弩が言う。



 僕達主夫部が文化祭に上演する予定の映画「僕とヨハンナ先生の秘密」の撮影は始まったばかりだけど、前途ぜんと多難たなんだ。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る