第236話 寄せ書き
「アンネリさん、これ、洗濯物です」
僕は、アンネリさんに畳み終わった洗濯物を渡した。
「うん、ありがとう」
アンネリさんは僕から受け取ったTシャツやパンツ、ジャージを、スーツケースに詰める。
教育実習最終日を迎えた朝、アンネリさんは、二週間過ごしたヨハンナ先生の部屋で、荷造りしていた。
持ち込んだ衣類やお化粧道具、書類やノートパソコンを、スーツケースに片付けていく。
今日、最後の授業に
最初、就活生みたいだったアンネリさんも、今では紺のスーツがすっかり板に付いている。
横顔のラインがすっとしたところとか、顔つきも来たばかりのときより凜々しくなってるような気がした。
横顔とか見てると、「アンネリ先生」って呼んでもいいかもしれない。
泣きぼくろがある目元は、やっぱりヨハンナ先生より幼い感じがして、可愛いけど。
この部屋の主であるヨハンナ先生は、今日は比較的手間をかけずに起きて、洗面所で珍しく一人で歯を磨いていた。
僕が手伝わなくても、一人で歯を磨けるようになったんだから、アンネリさんがここに来たことは、ヨハンナ先生にもいい影響を与えたのかもしれない。
これでアンネリさんが帰ってしまって、元に戻らないといいけど……
「本当に、送別会やらなくていいんですか?」
僕はアンネリさんに訊いた。
僕達が盛大な送別会をやるって言ったのに、アンネリさんはそれを丁重に断った。
「うん。まだまだこれからレポートもまとめないといけないし、やることいっぱいあるからね」
アンネリさんは、「誘ってくれてありがとう」って重ねて言う。
「それに、お姉ちゃんが住んでるんだから、ここにはまた寄らせてもらうよ。この寄宿舎は居心地が良いし、ちょくちょく顔を出すかもしれない。だから、送別会はいいの。これでお別れにはしたくないからね」
アンネリさんはそう言って微笑んだ。
朝練の洗濯も終わってるし、僕はアンネリさんの荷造りを手伝った。
「ねえ、塞君」
二人並んで作業してたら、アンネリさんが手を止めてこっちを向く。
「はい?」
ヨハンナ先生のときもそうだけど、こうやって年上の女性に近くで見詰められると、緊張する。
「お姉ちゃんのこと、よろしく頼むね」
アンネリさんが、僕の目を見て言った。
「身の回りの世話もそうだけど、お酒飲みすぎないように見ていてあげて」
真剣な顔のアンネリさん。
「たった二週間だけど、教師っていう仕事がどれだけ大変か分かったよ。だから、お姉ちゃんがお酒飲みたくなる気持ちも分かるんだけどさ」
二週間、この部屋でヨハンナ先生と過ごす中で、アンネリさんは先生のお酒の飲み方が気になったのかもしれない。
「
「はい」
アンネリさんに言われると、耳が痛い。
ヨハンナ先生が大変なのは分かってるから、ついつい甘やかしてしまう。
お酒を飲んで羽目を外すのを、許してしまう。
僕が本当の主夫だったら、妻にとって耳が痛いことだって言わないといけないんだろう。
甘やかすだけでは、ダメなんだろう。
「できれば、ずっとずっと、お姉ちゃんのこと、見ていてあげて欲しいんだけどな」
アンネリさんが、そんなふうに言った。
「えっ?」
アンネリさん、なんてこと言うんだ。
「私は塞君から手を引くからさ。塞君のこと、お姉ちゃんに譲るから」
アンネリさんが真顔で言うから、冗談なのか本気なのか分からない。
「だけど、もしお姉ちゃんと結婚しても、塞君のことお兄ちゃんって呼ぶのは、やっぱり、ちょっと抵抗あるかな」
アンネリさんに言われて、僕は、自分の耳が真っ赤になってるのが分かった。
アンネリさんがそれを見て笑う。
なんだ、からかってたのか。
まったく、年下からかって面白いですか!
その日、授業を終えて、最後のホームルームで、アンネリさんが僕達に挨拶をした。
「皆さん、お世話になりました。忙しい中、私の実習に付き合って頂いて、本当にありがとうございます。いい経験をさせてもらいました。こうして教壇に立つことが出来て、姉のような教師になるっていう私の夢の、入り口に立てた気がします。それも、このクラスの皆さんに助けて頂いたからこそ出来ました。右も左も分からない私に、優しくしてくれてありがとう。また今度、どこかで会ったら、気軽に声をかけてください。本当に、ありがとうございました」
アンネリさんは深々と頭を下げる。
僕達生徒は、それに盛大な拍手で答えた。
「それから、これは妹として言います。これからも姉をよろしくお願いしますね」
アンネリさんが言うのを聞いたヨハンナ先生の顔がほころぶ。
クールビューティーで通っている先生が、教室で見せる笑顔は珍しかった。
学級委員長の松井さんが、アンネリさんにみんなの寄せ書きが入った色紙を送ると、アンネリさんはちょっと涙ぐんだ。
ホームルームが終わったあとで、みんなで写真を撮ることになった。
せっかくだから、いい写真を撮ろうって、僕は萌花ちゃんを呼んだ。
萌花ちゃんは快く引き受けてくれて、寄宿舎から中判のデジタルカメラと三脚を持って撮影しに来てくれた。
校庭に下りる階段をひな壇にして、そこにクラスメート全員が並ぶ。
アンネリさんとヨハンナ先生を真ん中にして写真に納まった。
萌花ちゃんがシャッターを押した瞬間、たぶん僕は目を
3回とも……
「先生、記念に二人で写真、いいですか?」
ハンドボール部の今野君が、アンネリさんに訊いた。
「いいよ」
アンネリさんが、許可すると、
「俺も! 俺も!」
って男子がアンネリさんに群がる。
結局、クラスの男子全員がアンネリさんとツーショットの写真を撮った。
「ほら、篠岡君もおいで」
遠慮していた僕を、アンネリさんが誘ってくれた。
二人並んだところを、萌花ちゃんが一眼レフカメラで撮ってくれる。
萌花ちゃんには定期的に写真を撮られてる僕だけど、こうして二人並んだ写真だと、いつもと違ってなんか照れてしまった。
他の先生方への挨拶を終えて、ヨハンナ先生がアンネリさんを車で駅に送るのを、僕達はみんなで見送った。
クラスメートや、アンネリさんのファンクラブのメンバー、寄宿舎の住人、主夫部部員で見送る。
そこに百人近くが残っていたのは、アンネリさんの人望があればこそかもしれない。
生意気言うけど、きっと、アンネリさんも、ヨハンナ先生みたいな立派な教師になれると思う。
「それじゃあ、さようなら」
アンネリさんがそう言って、また深く頭を下げた。
みんなの拍手の中でヨハンナ先生のフィアットに乗るアンネリさん。
先生がクラクションを短く鳴らして車を出すと、アンネリさんは車の窓を空けて、見えなくなるまで、ずっと手を振っていた。
僕達も、先生の青いフィアットが見えなくなるまで手を振る。
駅までアンネリさんを送って帰ってきたヨハンナ先生は、少し寂しそうだった。
「これで清々と過ごせるよ、部屋にアンネリがいて、
ヨハンナ先生が強がりを言う。
「さーて、
ヨハンナ先生が冷蔵庫のビールに手を伸ばすから、僕は、
「先生、一本だけですよ」
って、念を押した。
僕はアンネリさんとの約束を果たそう。
ヨハンナ先生のこと、側で見守っていよう。
「ケチ! 意地悪!」
先生が突っかかってくるけど、僕は折れない。
だって僕は、妻を想う主夫だし。
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