第232話 ぽろぽろ

「終わったー!」

 新巻さんが、部屋から出てきた。


 既に出来上がっていた原稿を、最後まで、何度も何度も推敲すいこうしていた新巻さんが、新作を書き上げて部屋から出てくる。


 新巻さんは昨日の金曜日から徹夜してたみたいで、髪がぼさぼさで、目もしょぼしょぼだった。


 担当編集者の能登さんに原稿を送信して、これで新巻さんは一仕事終える。


 これから本になるまで、まだまだ何度も書き直すことになるんだろうけど、まずは一安心だ。


「ちょっと、シャワー浴びてくる」

 新巻さんがふらふらの足で風呂場へ向かうから、弩が肩を貸して支えた。

 新巻さんは、12ラウンドフルで戦ったボクサーみたいに疲れ果てている。


「新巻さん、朝ごはん食べますか?」

 御厨が訊いた。

 新巻さんの部屋の前には、主夫部全員が待機している。


「うん、ちょっとお腹に何か入れたい。そして、泥のように眠りたい」

 新巻さんが言うと、御厨が台所に急いだ。


 僕は着替えとタオルを用意した。

 錦織は新巻さんのベッドのシーツや枕カバーを替えてベッドメイクする。

 子森君は、紙切れやエナジードリンクの缶が散乱した新巻さんの部屋をパパッと掃除した。

 部屋の空気を入れ換えて、新巻さんお気に入りのアロマで部屋を満たす。


 ここまでの作業を、僕達は会話を交わすことなく、目配せだけで行っていた。


 技術的な面では、主夫部の練度はかなり上がっている。



「お兄ちゃん達、魔法を使ってるみたいだねぇ」

 ひすいちゃんを抱いた北堂先生が、笑いながら言った。

「だーだ」

 って、ひすいちゃんも頷く。


 寄宿舎は、平和な朝を迎えていた。


 今日は夕方から、新巻さんのご苦労さん会と、アンネリさんの歓迎会が開かれる予定だ。

 アンネリさんが来てから、もう一週間も過ぎちゃったし、来週には送別会だけど、宴会をするための方便ほうべんみたいなものだから、会の名称はどうでもいいのだ。



「あれ? ヨハンナ先生とアンネリさんは?」

 僕が、辺りを見渡して訊いた。

 さっきから、先生とアンネリさんの姿が見当たらない。

 特にヨハンナ先生は、新巻さんの原稿のことで大いに気を揉んでいたのに、なぜか姿を見せなかった。


 さっきみんなで朝食を食べたときは二人共いたから、部屋で二度寝でもしてるんだろうか?


 ヨハンナ先生に「新巻さんが原稿を上げましたよ」って報告しようと思って、僕が先生の部屋のドアをノックしたら、中からアンネリさんが飛び出してきた。


「もう、お姉ちゃんなんか、大っ嫌い!」

 アンネリさんが、部屋の中にいるヨハンナ先生に向けて、大声を出す。


 花柄の白いワンピースの上に、ライトグレーのカーディガンを羽織ったアンネリさん。


「何言ってるの! アンネリ、ちょっと待ちなさい!」

 部屋の中からヨハンナ先生も出てきた。


 カーキ色のカーゴパンツに、白シャツのヨハンナ先生。


 ドアの前でヨハンナ先生とアンネリさんが対峙たいじする。


 騒ぎを聞きつけて、寄宿生と主夫部部員も、先生の部屋の前に集まった。



「あの、どうしたんですか?」

 アンネリさんとヨハンナ先生の間に挟まれた僕は、二人を落ち着かせるために、ゆっくりと、なるべく低い声で訊く。


「なんでもない。これは、姉妹の間のことだから」

 ヨハンナ先生とアンネリさんが、同時に言った。


 二人は僕を見ずにバチバチと視線を戦わせている。


「なんでもないようには、見えないんですけど……」

 一触即発で、今にも二人で殴り合いをしそうだった。


「そうだ、丁度よかった塞君。これから二人でデートに行きましょうか?」

 アンネリさんが、ヨハンナ先生を見たままそう言う。

 すると不意に、僕の腕に自分の手を絡ませた。

 アンネリさんが僕にぴったりとくっついてくる。


 一瞬、心臓が飛び出るくらいびっくりした。


「二人で、ラブラブな土曜日を過ごそうよ」

 アンネリさんはそう言って、腕を取ったまま、僕を押して玄関に向かおうとする。


「ちょっと、アンネリ、なにをふざけてるの!」

 ヨハンナ先生が止めようとした手を、アンネリさんは振り払った。


 弩や、寄宿舎の住人、主夫部部員が呆気にとられて固まっている。


「私、ここも出て行くから、今日から、塞君の家に泊まる。お姉ちゃんと一緒の部屋なんて、もうやだから!」

 アンネリさんは吐き捨てるように言って、僕を連れて玄関まで歩いた。


 アンネリさんは靴を履いて、玄関を出て行こうとする。

 腕を取られたままで、僕もなんとか靴を履いた。


「ちょっと、アンネリ、待ちなさい!」

 ヨハンナ先生が僕達の背中に呼びかける。


 僕は、後ろを向いて、ヨハンナ先生やみんなに向けて、大丈夫、僕がちゃんとアンネリさんを落ち着かせますから、って、目で訴えた。


 それが上手く伝わったみたいで、裸足で玄関を出たヨハンナ先生が、僕達を見送る。



 僕達は校舎裏を通って、教職員用の駐車場がある裏門から校外に出た。


 そのまま、アンネリさんは僕を駅の方に引っ張っていく。

 というか、腕を取ったまま、押していく(なんか、腕に当たってますけど)。


「なに、私とデートじゃ、不満?」

 怒ったままの顔のアンネリさんが言った。

「いえ」

 むしろ、光栄なくらいだけど。


 先生より幼い顔のアンネリさんも、怒ると凜々しい顔になって、ヨハンナ先生そのままだ。



 僕達は、駅前の商店街まで歩いた。


 土曜日だから登校する生徒は少ないはずだけど、こんな場面を誰かに見られたら、僕は、月曜日、命がないかもしれない。

 ファンクラブまで出来たアンネリさんの支持者に、なにをされるから分からない。


「ここ、入ろう」

 アンネリさんが、一件の店を指した。

 パステルブルーの壁に白い窓枠の、可愛らしい店だ。

 そこは、僕一人だったら絶対に入れないような、ケーキ屋さんだった。


 店内は、四人掛けのテーブルが五つあって、後はカウンター席に三人座れるくらいの広さだ。

 店内のテーブルや家具は真っ白で、壁はブルーと白のストライプだった。


 僕達の他に客は二組いる。

 二組とも、女子の仲良しグループって感じで、おしゃべりしながらケーキを食べていた。

 幸いなことに、我が校の生徒らしき女子はいない。



 ウエイトレスさんに案内されて、僕とアンネリさんは奥の席に向かい合って座った。


 こんなお店に入るだけでも緊張するのに、アンネリさんと一緒だともっと緊張する。

 お客さんやウエイトレスさんに、あんな美人と、あんな変な奴が一緒って、どういうこと? って思われてたらどうしよう。

 きっと、なにか弱みを握られてるんだよ、とか、話してたらどうしよう。


 僕の、自意識過剰だろうか。



 席についてメニューを見ていたら、突然、アンネリさんが泣き出した。


 アンネリさんの青い瞳から、ぽたぽたと大粒の涙がこぼれ落ちる。


「あっ、あの、アンネリさん?」

 僕は、どうしていいのか分からなかった。

 思わず立ち上がろうとして、テーブルに股をぶつける。


 年上の女性に目の前で泣かれて、僕はそれに対処する方法を一切持ち合わせてなかった。

 いや、こんなふうに泣かれたら、同級生だって、年下の女子にだって、対処法は持ち合わせてないけど。


 アンネリさんは嗚咽おえつを漏らしている。


 他のお客さんの視線が、僕に刺さった。


 これじゃあ、まるで僕がアンネリさんを泣かせてるみたいだ。

 あんな変な奴が、金色の髪の美人を泣かせて、って、思われてるのかもしれない。

 親でも人質に取ってるんじゃないのって、通報されたらどうしよう。


「アンネリさん」

 僕は、ハンカチを渡した。


 アンネリさんはそれで涙を拭いて鼻をかんだ。

 だけど、涙は次々にあふれてくる。


「ゴメンね」

 アンネリさんが言った。


 僕はこれから、一体どうしたらいいんだ……

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