第231話 バス停

「それで、私をこんなところに連れてきて、どうするつもり?」

 新巻さんが、僕に訊いた。

 新巻さんは僕の視線を警戒したのか、制服のスカートの裾を押さえる。


 さえぎるものがない砂浜は、強い海風が吹き抜けていた。

 僕達の目の前に広がるのは、さざ波が立った大海原だ。


 水平線の辺りに、大きな貨物船がジリジリと進んでいくのが見えた。


「どうするって、ここなら気分転換できると思って」



 放課後。

 アンネリさんがヨハンナ先生の代わりに努めたホームルームを終えると、僕は新巻さんを誘って、バスに乗った。

 路線バスを乗り継いで、こうして海まで来た。


 バスに乗っているあいだ、新巻さんは、「どこに行くの?」とか、「書かないといけないのに」とか、何度も言ったけど、僕は「まあまあ」ってずっとなだめていた。

 そうして僕は、制服のままの新巻さんを、半ば強引に海まで連れてきた。


 僕達は、今、砂浜の前にある防波堤の上に立っている。


 まだ海開きしてないし、夕方になろうという時間で、浜は閑散かんさんとしていた。

 周囲には三、四組のグループがいるだけだ。

 それは、孫の手を引いたお爺ちゃんだったり、カップルだったりする。

 海水浴シーズン前の、静かな海だ。



「気分転換で海って、すご安直あんちょくなんだけど」

 新巻さんが言った。


「ごめん」


「いいよ。もう、来ちゃったんだし」

 新巻さんがそう言って、防波堤に座ろうとする。

 僕は肩に掛けていたトートバッグからレジャーマットを出して、それを敷いた。

 このレジャーマットは、錦織が端切れをパッチワークでつなげて作ってくたものだ。


 僕がレジャーマットを敷くと、新巻さんがその上に座って、スカートの裾を直した。

 僕は、新巻さんの隣に、20㎝くらい間を空けて座る。


「お茶飲む?」

 僕が訊くと、新巻さんが、「うん」って頷いた。

 僕は、トートバッグからマグボトルを取り出す。

 ミルクティーをカップに入れて、新巻さんに渡した。

 この、砂糖がたっぷり入ったシナモンミルクティーを作ったのは御厨だ。


 僕がカップを渡すと、新巻さんは両手で受け取って一口飲んだ。


「おいしい」

 新巻さんの表情が、ちょっとだけほぐれた。

 新巻さんの長い髪が、潮風に揺れて、サラサラと後ろに広がっている。

 新巻さんの今日のリボンは、夕日と同じオレンジ色だった。


 執筆の最中の真剣な顔もいいけど、こうやってほぐれた表情の新巻さんも素敵だ。



 僕達は、ミルクティーを飲みながら、しばらく、無言で海を見ていた。


 僕と新巻さんが並んで見詰める海は、限りなく平和だ。

 沈もうとしている夕日のオレンジが海面に反射して、こっちまで光りの道になって伸びている。



「それで、これからどうするの?」

 新巻さんがそう言って、ミルクティーをもう一口。


「どうするって、せっかく海に来たんだから、新巻さん、波打ち際までいって、『きゃー濡れちゃうー』とかしてみよう。裸足になって海水に足をつけるとかしてみようよ。砂に棒きれで、波に消されるメッセージ書いたりとかさ」


「なにそれ?」

 新巻さんが真顔で言う。


「せっかく海に来たんだし、試しにやってみたら」


「やだよ。砂で汚れるし」


「汚れ物を洗うのは僕だから、遠慮なく」

 僕が言うと、新巻さんが「確かに」って言って頷く。


「ほら、足拭き用のタオルとか、持ってきてるし」

 僕は、トートバッグからタオルを出した。

 新巻さんの予備の靴下と、Tシャツとパンツも持ってきている。 


「大丈夫、ここに連れてきてくれただけで、十分、気分転換できてるから」

 なぜか新巻さんが呆れ顔で言った。



 浜に立てられた竹の砂防柵さぼうさくのところに黒猫がいて、こっちを見ている。

 新巻さんが、おいでって感じで手招きしたら、黒猫はぷいと横を向いて、どこかへ行ってしまった。




「ねえ、新巻さん」

 しばらく、二人で海を眺めたあとで、僕は切り出した。


「ん?」

 新巻さんが髪を掻き上げて、こっちを向いた。


「新巻さんの次の小説で、主人公がどんな選択をしたとしても、僕は新巻さんの味方だから」

 僕は言う。


「えっ?」

 髪を掻き上げる新巻さんの手が止まった。


「たとえ、僕以外、全部の読者が否定しても、僕は新巻さんが主人公にとらせた選択を支持するよ。まあ、僕以外、全部の読者が否定するなんて、あるはずないけど」

 少なくとも、妹の枝折も支持すると思う。

 主夫部のメンバーも、寄宿舎の住人も。


 僕が言ったら、新巻さんは、また、無言で海の方を向いた。


 新巻さんの目の先で、ゆっくりと水平線を滑っていた貨物船は、いつの間にか消えている。


「本当に? 味方になってくれるの?」

 新巻さんが、海を見ながら言った。

「うん」


「私が、主人公に期待を裏切る行動をとらせたとしても?」

「うん」


「小説の結末がひどくても?」

「うん」


「どうして?」

「だって、僕達は新巻さんの夫だから」


「えっ?」


「僕達主夫部は新巻さんの夫だから、無条件で新巻さんの味方だよ。」


「無条件で?」

「うん、無条件で」


「なんで?」

「だから、僕達は新巻さんの夫だから」


「それはちょっと、無責任なんじゃない?」

 新巻さんの顔が、少しけわしくなった。


「私がどんなことをしても無条件で味方になるっていうのは、私を甘やかしているっていうか、無責任だと思う。私が酷い人間だったら、どうするの?」


「僕は、新巻さんが酷い人間じゃないって分かってるから。僕達は本当の夫婦じゃないけど、寄宿舎での様子とか、クラスメートとして新巻さんを見ている限り、新巻さんが僕達を裏切るようなことをするわけないって分かってるから。今まで新巻さんの著作を全部読んでるけど、新巻さんが読者を裏切ろうとして書くわけないって分かってるから。新巻さんが主人公にそういう行動をとらせたってことは、それは必然なんだよ」


「そんな、簡単に私のこと分かったとか言ってほしくない。私、そんな篠岡君が思ってるような人間じゃないし」

 新巻さんの語気が強くなった。


「そうだね。ゴメン。でも、理屈じゃないんだよ。僕は、たとえ新巻さんがシリアルキラーだって、サイコパスだったとしても、新巻さんの味方だ。理屈じゃない。無条件で、全面的に、新巻さんを支持する。世の中に、僕みたいのが一人くらいいたっていいでしょ?」

 これが昨日、ヨハンナ先生に説教されて、僕達が導き出した結論だ。


 スイーツや洋服を作って新巻さんを励ますんじゃなく、新巻さんを支える最後のとりでになること、それが、僕達主夫の役割じゃないかってこと。



「そっか」

 新巻さんは、そう言うと、立ち上がって伸びをした。

 高く高く、星が見えてきた空に手を突き上げた。


「実は、もう、小説、書き上がってるんだよね」

 新巻さんがぽつりと言う。


「それを、編集の能登のとさんに出すかどうか、それを迷ってたの。書き直すべきなんじゃないかって、ずっと迷ってた」

 そんな気はしていた。

 やっぱり、そうだったのか。


「でも、踏ん切りがついた。そうか、篠岡君と、主夫部のみんなが私の味方になってくれるのか。それなら心強い、世界中を敵に回したって、怖くないね」

 荒巻さんが言う。


「帰ったら、能登さんに原稿を送る。ご迷惑かけて申し訳ありませんでしたって、謝る」

「うん」


「ありがとう。それと……」


「なに?」


「ううん、なんでもない」

 なにか言いたいみたいだったけど、新巻さんは口をつぐんだ。



「帰ろうか」

 日が沈んで、海は黒々としている。


 僕達は、バス停に戻った。

 時刻表を確認しようとして、新巻さんが首を傾げる。

「ねえねえ、最終のバス、もう出ちゃってるけど」

「えっ?」


 嘘だ。


 海まで来るバスの時刻表は、昨日の夜、ちゃんと調べた。

 帰りの時間は、ちゃんと計算していたはずだ。


「確かにこのあと、二本バスがあるけど、それは、夏季限定って書いてあるよ」

 新巻さんが冷静に言う。

 それは、海水浴シーズンだけの便びんだったみたいだ。


「ごめん」

 そんな但し書き、見落としていた。

 僕達は、海辺のバス停に取り残される。


 僕達の他に残っていたカップルが駐車場に停めてあった車で浜辺を去ると、本当に二人だけになった。

 日はとっぷりと暮れている。


「タクシーで帰ろうか」

 新巻さんが言った。

「タクシーとか、高いよ」

 学校まで、幾らかかるか分からない。


「心配しないで。これでも私、売れっ子の小説家なんだから。寄宿舎にいるおかげで、お金使うところもないしね」

 新巻さんが任せなさいって感じで、胸を張った。


「ホント、ごめん」

 せっかく、新巻さんの前で格好いいところ見せられたと思ったのに、結局これだ。



 海岸線に沿った国道をしばらく見ていたけど、こんな場所で流しているタクシーなんて、当然なかった。

 だから、電話で呼ぼうと近くのタクシー会社を調べてたら、僕達の目の前に、見覚えがある車がハザードを出して停まった。


 ちょっとくたびれた、青のフィアットパンダだ。



「あれ、どこかで見た顔だと思ったら、新巻さんと塞君じゃない」

 車の窓から顔を出して、運転席のヨハンナ先生が言った。

 白いサマーニットにジーンズっていう、ラフな服装のヨハンナ先生。


「ぐ、ぐぐ、偶然ですね先輩。こ、ここ、こんなところで」

 助手席の弩が、目を伏せて僕と視線を合わせずに言った。

 弩は、変装でもしようとしたのか、タオルを頬被ほおかぶりしている。


 なにが偶然ですねだ!

 なにがこんなところでだ!


 新巻さんが大笑いしている。

 新巻さんは、涙を流して笑った。


 ヨハンナ先生と弩の二人は、きっと僕達のこと、遠巻きに見ていたんだろう。

 僕がなにかやらかさないか、見張っていたに違いない。


 昨日の夜、主夫部で話し合って、僕が新巻さんに言葉をかける役に決まったときは、私達は寄宿舎で待ってるから頑張ってきなさい、とか、言ってたくせに。


「もしよかったら、乗ってく?」

 ヨハンナ先生が訊いた。


「もちろん、乗りますよ」

 バスもないし、タクシーも来ないから助かったけど、なんか負けたみたいで悔しい。



 僕が助手席に座って、助手席の弩が後部座席に移って、新巻さんと一緒に座った。


「ねえ、あんなところにラーメン屋さんあるよ。食べてこうよ。先生、おごるし」

 ヨハンナ先生が言った。

 車のすぐ先に、こぢんまりとしたラーメン屋があって、明かりが点いている。


「御厨達が晩ご飯用意してると思いますけど」

 これから、みんなで食卓を囲むのだ。


「ラーメンは別腹べつばらって言うじゃない」

 ヨハンナ先生が言った。


 そんなこと言わない。


 僕は、隙あらばラーメン屋に寄ろうとするヨハンナ先生をさとして、どうにか車を寄宿舎に向けた。


 疲れたのか、車の中で新巻さんと弩は、眠ってしまう。

 お互い、寄りかかって夢の中だ。

 二人とも、子供みたいに幸せそうな顔で寝ていた。


「どう? 上手く言えた?」

 ヨハンナ先生が前を向いたまま訊く。


「はい、上手く言えたかどうかは分かりませんけど、新巻さんは、原稿を出すそうです」

「そう、良かった」

 先生が前を向いたまま言った。



 あなた達は、主夫部であって、家事部ではないんだから、っていうヨハンナ先生の昨日の言葉が、今でも僕の耳に残っている。


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