第227話 悲鳴

「きゃーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーっ!」

 早朝の寄宿舎に、甲高かんだかい悲鳴が響いた。


 寄宿生と、朝練の最中だった主夫部部員が、悲鳴が上がったヨハンナ先生の部屋に集まってくる。


「す、すみません!」

 僕は、先生の部屋の入り口で頭を下げた。


 部屋の中では、着替え中だったアンネリさんが、ジャケットで胸の辺りを隠している。


「どうしたの!」

 駆け付けたヨハンナ先生が、僕に訊いた。


「はい、すみません。いつも通り、ヨハンナ先生を起こしに部屋に入ったら、アンネリさんが着替えていて……」

 僕はペコペコ謝りながら答える。

 さっき、部屋に入って見えたのがキャミソール一枚の後ろ姿だったから、てっきりヨハンナ先生かと思って「今日は早いんですね」って声をかけたら、それがアンネリさんだった。

 一目見て髪が先生より短いのに、僕は気付くべきだった。


「先輩、わざとですか?」

 弩がジト目で訊いた。

「断じて、わざとじゃない!」

「強く否定するのが、怪しいです」

 弩が、やけに突っかかってくる。


 助けを乞う視線を新巻さんや萌花ちゃんに送っても、二人もジト目で僕を見た。

 宮野さんや北堂先生も取り合ってくれない。

 北堂先生に抱かれたひすいちゃんまで、冷たい目で僕を見ていた。


 どれだけ信頼ないんだ……


「私は別に、塞君に裸見られるのは初めてじゃないから、いいけど」

 アンネリさんが言った。

 女子達から向けられる視線が針のように尖る。


 アンネリさん、誤解を招く発言はやめてください。

 あのときは、アンネリさんが間違えてお風呂に入って来たんだし。

 湯気で裸とか、見えてないし。


「だけど、なんで見られた私じゃなくて、塞君が悲鳴上げるのよ」

 アンネリさんが訊いた。

 朝早くから、僕は「きゃあーーー!」とか、寄宿舎中に響く声で叫んでしまった。


「すみません、あの、びっくりしちゃって……」

 とっ散らかって、変な声が出た。


「悲鳴出すとか、可愛い」

 アンネリさんがそう言って笑う。

 そんなこと言われて、自分でも顔が真っ赤になってるのが分かった。


「はい、それじゃあ、アンネリは早く着替えなさい。さあみんな、朝ごはんにするわよ」

 ヨハンナ先生が手を叩いて言って、みんなが散る。


 僕は、もう一度ごめんなさいってアンネリさんに謝って、頭を冷やしに洗面所に行った。

 顔を洗ったけど、頭に血が上っていて、顔についた水が蒸発しそうだ。




「わあ、美味しそう。これ、御厨君が作ったの?」

 朝食の食卓でアンネリさんが訊くと、御厨が「はい」って恥ずかしそうに頷いた。


 今日の朝食のメニューは、


 焼きたてのクロワッサン

 ジャガイモとズッキーニのスパニッシュオムレツ

 手作りハーブソーセージ

 あさりとキャベツのサフランスープ

 ささみ肉のニース風サラダ


 そしてデザートに、トリプルベリーのヨーグルトだ。



「いいなぁ、ここにいると、毎日こんな朝ごはん食べられるんだね」

 パリパリのクロワッサンをちぎりながらアンネリさんが言った。


「はい、好きなものとかあったら、教えてください。何でも作ります」

 御厨が頭を掻きながら言って、アンネリさんが「ありがとう」って返す。


「錦織君も、スーツ直してくれてありがとうね。ほら、体にぴったり合って、いい感じだよ」

 アンネリさんが錦織に微笑んだ。


「スーツ以外にも、普段着でも、直したいところとかあったら言ってください。寸法頂いたんで、一からお好みの服とか、作れます」

 錦織も、ほっぺたをほんのりと赤に染めて言った。


「イクメンの子森君はいるし、塞君は柔軟剤まで自分で作っちゃうし、本当にここの男子は、才能豊かだね」

 小首を傾げたアンネリさんに言われて、主夫部の男子達は、全員照れている。


 アンネリさんは主夫部男子の心を、一瞬で掴んでしまった。


 もちろん、心を掴まれたのは、主夫部の男子だけではない。


 昼休み、教室で御厨が作った弁当を広げるアンネリさんの周囲には、クラスの男達の輪が出来た。

 隣のクラスから遠征してくる男子もいる。


 体育の授業では、女子に混じってバスケットをするランニングと短パンのアンネリさんに、男子は授業そっちのけで釘付けだった。


 放課後になると、大学でラクロスをやっているというアンネリさんが、我が校のラクロス部の練習に参加して、校庭の隅には見学の人垣が出来る。

 帰宅部で、普段、授業が終わるとすぐに帰ってしまう奴まで残っていた。


 二日目にして、アンネリさんは校内に不動の人気を得ている。


 アンネリさんはみんなの中心にいて、笑顔を絶やさなかった。




「先生、どうしたんですか?」

 放課後の廊下を歩いていたら、ヨハンナ先生を見付けた。

 先生は眼下に校庭を臨む場所で、ラクロス部の練習を見ている。

 アンネリさんを見ていた。


 胸に書類の束を抱えて、窓枠に肘をついているヨハンナ先生。

 今日の先生は髪を後ろでまとめているから、横顔の、顎の綺麗なラインが見えた。


「どうかしました?」

 放課後の廊下には、僕とヨハンナ先生以外、誰もいない。


「ううん、別に」

 先生はそう言った後で、溜息を吐いた。


「なんですか? 先生らしくない」

 その横顔が、少し寂しそうに見える。

 うれいを帯びた先生の横顔も綺麗だけど。


「んー、なんかさ、アンネリのこと心配してたのに、もうこんなに生徒に溶け込んじゃって、大人気だし、私の出る幕もないなって思って」


「あれ、先生、焼いてるんですか?」


「そんなんじゃないよ。でも、あの子、昔っから要領ようりょうがいいんだよね。甘え上手だし、みんなに愛されるし。私が教育実習したときなんて、もっとビクビクしてたのに」

 校庭のアンネリさんを目で追いながら、ヨハンナ先生が零す。


「可愛い妹のアンネリが、みんなの人気者になるのは、姉として嬉しいことなんだけどね。喜ぶべきことなんだけさ。なんかね。昨日まで先生先生って、私にまとわり付いてた子達までが、アンネリに夢中になってるなーって思ってさ。そんなふうに考える私って、心が狭いのかな?」

 先生はそう言って、もう一度溜息を吐いた。


 年上の女性に溜息を吐かれるこの状況は、何度経験しても慣れない。


 当たり前だけど、ヨハンナ先生も、弱気になることがあるんだなって思った。

 教室ではいつも凜としてるし、寄宿舎では寄宿生や僕達のことを見守ってくれるヨハンナ先生も、こんなふうに、へこたれることがあるんだ。



「僕は、断然、ヨハンナ先生ですけど」

 僕は、先生に向けて言った。


「えっ?」

 先生が、びっくりしてこっちを向く。


「だから、僕は断然、ヨハンナ先生派です」

 僕はもう一度言う。

 それは、僕の、嘘偽りない気持ちだ。


「ん? 最後、よく聞こえなかった。世界中の誰よりもヨハンナ先生が好き、って言ったところから、もう一回言って」


「僕はそんなこと言ってません!」

 僕が言うと、ヨハンナ先生が笑った。

 先生に笑顔が戻る。

 くしゃっとした、飛び切りチャーミングな笑顔だ。


「僕は、ヨハンナ先生派ですから。全校生徒がアンネリさん派になっても」

 僕が言うと、先生はまじまじと僕を見た。


「危ない危ない。ここが学校じゃなかったら、抱きしめてたところだよ」

 先生がそんなふうに言う。


「そうだね、うん。君のその一言で、先生は勇気百倍だよ」

 ヨハンナ先生はそう言って、腕に力こぶを作って見せた。

 先生の腕は細いから、全然、力こぶとか出来てないけど。


「よーし、元気も出たし、うるさ方の先生達が集まる面倒な職員会議、さっさと片付けてこよーっと」

 先生はそう言って、職員室の方に歩いて行った。


「頑張ってください」

 僕が言うと、ヨハンナ先生は背中を向けたまま親指を立てて、後ろの僕に見せる。


 先生の背中が格好いいって再確認した。



 ヨハンナ先生の背中を見ながら、やっぱり僕は、こういう頑張っている女性を応援したいって、心から思う。

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