第226話 後ろ後ろ

「アンネリさん!」

 ホームルームの教室で、僕が思わず立ち上がって大声を出すと、アンネリさんが、窓際の席の僕を見た。

 真新しい紺のスーツで、シャツの襟が切れそうなくらいピシッとしたアンネリさん。


「塞君、久しぶり!」

 アンネリさんが、僕に向けて笑顔で手を振る。

 手を振ったから、アンネリさんの肩くらいまで伸びた金色の髪が揺れた。


「また、よろしくね」

 ヨハンナ先生を幼くしたようなアンネリさんに、少し甘えた声で言われると、ちょっとドキッとする。


 クラスメートの、特に男子から、殺気にも似た視線が僕に向けられた。

 お前、彼女と知り合いなのか、みたいな無数の電波が飛んでくる。


「んっ、んんん!」

 ヨハンナ先生が、分かりやすい咳払いをした。


「すみません」

 思わず立ち上がっていた僕は、慌てて席に座る。

 クラスメートの新巻さんが、頬杖をついて、呆れ顔で僕を見ていた。


「はい、それじゃあ霧島さん、自己紹介をしてください」

 ヨハンナ先生が、アンネリさんに対して他人たにん行儀ぎょうぎに言った。

 先生が教卓を譲って、そこにアンネリさんが立つ。


「初めまして。私は、今日からこのクラスでお世話になる実習生の霧島アンネリといいます。名前で解ったかもしれませんが、私は、このクラスの担任、霧島ヨハンナの妹です」

 名前を聞くまでもなく、二人が並ぶとその血縁関係は一目いちもく瞭然りょうぜんだった。


「私は、尊敬する姉に憧れて教職をこころざしました。二週間の間、ここで精一杯学びたいと思います。ご迷惑をおかけすることがあるかもしれませんが、どうぞよろしくお願いします」

 アンネリさんがそう言って、頭を下げる。

 クラス全体が、大きな拍手でアンネリさんを迎えた。


 あれ? でも、アンネリさん、ヨハンナ先生に憧れて教師を目指してるとか、言ってただろうか?


「みんな、アンネリが言う通り、彼女は私の妹です。大切な実の妹です。だから、特に男子! 彼女に手を出そうなんて考えたら、どうなるか、覚悟しなさいね!」

 ヨハンナ先生が言う。

 先生は冗談めかして言ってるけど、目が笑ってなかった。


 それに僕を見ながら言っている。


 なんで、僕を見ながら言うんだ……



「はい、それじゃあ、また後で来ますけど、一時間目の授業、騒いだりしないで、ちゃんと受けなさいね」

 先生が言って、アンネリさんと一緒に教室を出て行った。

 入れ替わりに一時間目の数学Ⅱの先生が入って来る。


 後ろ姿は、髪の長さが違うくらいで、二人とも本当にそっくりだ。




 一時間目が終わって、休み時間になったと同時に、僕の机の周りにクラスの男子生徒全員が集まって来た。

 僕は男子全員に囲まれる。


 クラスの男子のリーダー格で、ハンドボール部の今野君が僕の前に座った。

「それで、篠岡、アンネリさんと、どこで知り合った?」

 今野君は指をポキポキ鳴らしながら訊く。


「ええと……」

 男子全員が、僕を睨み付けていた。


「いや、前に家族旅行したとき、泊まった宿が偶然、ヨハンナ先生の実家で、そこで帰省してたアンネリさんと会ったんだ」

 僕は、嘘をつく。


 まさか、ヨハンナ先生の(偽の)婚約者として、御両親に挨拶に行ったときに会ったとか、本当のことは言えなかった。


 僕が入ってたお風呂に、アンネリさんが入って来たとかも、口が裂けても言えない。


「本当か?」

「うん、本当」

「それじゃあ、アンネリさんとは、なにもないんだな?」


「なんにもないよ。あるわけないじゃないか。大体、アンネリさんが僕の相手なんてしてくれると思う?」

 僕が訊くと、

「そうだな」

 って、僕を囲んだクラスの男子生徒、全員が納得した。


 そんな簡単に納得すな!



「ほら男子! もう次の授業始まるよ!」

 女子の声で、僕の周りに集まった男子が蹴散らされる。

 追い払ってくれたのは、長谷川さんだった。


 助かった。

 長谷川さんが、大変だったね、みたいな顔で、僕にウインクする。



 ヨハンナ先生とそっくりな金色の髪の女子大生、アンネリさんのことは、すぐに学校中の噂になった。

 アンネリさんを一目見ようと、国語科準備室の前には人垣が出来たし、写真部や新聞部の大砲みたいな望遠レンズが、何本もアンネリさんを追う。

 夕方を待たずにファンクラブらしきものも出来ていた。

 購買部では、制汗スプレーや制汗シートの売り上げが、普段の三倍になったらしい。


 さすが、血に飢えた男子高校生の行動力はハンパない。




「先輩ー!」

 放課後、部活のために僕が寄宿舎に戻ると、ランドリールームの手前で、弩が駆け寄ってきた。


「先輩、アンネリさんが先輩のクラスで教育実習するって、本当ですか?」

 弩が、息を切らせて訊く。

「うん、本当だよ」

「そうですかぁ……」

 弩はそう言うと、廊下で眉をひそめて腕組みした。


「アンネリさん、前に、先輩の彼女として立候補する、とか言ってましたよね?」

「ああ、確かに言ってたけど、あれ、冗談だろ」

 もしくは、あのとき、家事をしてご飯を作ったり、洗濯をしたりした僕に対して、アンネリさんは社交辞令的に言ってくれたんだろう。


「いえ、あれは、冗談ではありませんよ」

 弩が断言した。


「なんで分かるんだよ」

「女の勘です」

 弩が得意顔で言う。


 弩の勘って、なんか当てにならない気がするけど。


「あんなこと言うから、警戒はしてましたけど、あれ以来なんの音沙汰おとさたもないから安心してたのに、とうとう動き出しましたか」

 そんなふうに言う弩の後ろに、人影が近づいて来た。


 おい、弩。


「まさか、本当に先輩のこと狙いに来るとは……」


 弩、おい。


「わざわざこの学校に教育実習に来るなんて、やっぱり先輩を狙ってますよね」

 弩が続けた。

 僕が目で合図してるのに気付かない。


「本当に、油断も隙もあったもんじゃないです」


 だから弩、後ろ後ろ!


「まあ、ヨハンナ先生の妹さんだけあって、それは、ちょっとは可愛いかもしれないですけど」

 とうとう、その人影は弩の真後ろに立つ。


「そう、褒めてくれてありがとう」

 弩の後ろに立っているアンネリさんが言った。


「ふええー!」

 振り向いた弩が奇声を発する。

 弩の後ろに立ったアンネリさんは、腰に手をやって仁王立ちしている。


「誰が、油断も隙もないですって?」

 アンネリさんが訊いた。


「ご、ごめんなさい!」

 弩が縮こまって謝る。

 アンネリさんが、「冗談よ」って破顔した。



「ふうん、ここが寄宿舎なのね。雰囲気があって、結構素敵な建物ね」

 アンネリさんは、辺りを見渡す。


「アンネリさん、どうしてここにいるんですか? 見学なら、案内しましょうか?」

 僕が訊いた。

 アンネリさんは、姉のヨハンナ先生がどんなところに住んでるのか、見に来たんだろうか?


「ううん。見学じゃないの。私、今日からしばらく、ここにお世話になるから」

 ところが、アンネリさんがそんなふうに言う。


「お世話になるって?」

「私、ここに住むから」


「え?」


「教育実習のあいだ、ここから学校に通うの。姉の部屋に泊めてもらうから」

 アンネリさんが言って、玄関に置いてあるスーツケースを指した。


「えええええー!」

 僕と弩が、声を揃える。


 もう、波乱の予感しかしない。

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