第18章

第225話 さざめく男子達

「ひすいちゃん! 待って待って!」

 子森君が、ひすいちゃんを追いかけている。

 ゴールデンウィークが開けて一週間、普段の生活が戻った寄宿舎で、今日の主夫部の朝練は、子森君とひすいちゃんの追いかけっこから始まった。


 八ヶ月になって、ハイハイするようになったひすいちゃんは、ちょっと目を離しただけで、すぐにどこかに行ってしまう。

 勇敢ゆうかんなひすいちゃんは、彼女にとっては広大なこの寄宿舎を、一人で探検しようとする。


 さすが、この寄宿舎の女子だけあって、赤ちゃんの頃から行動的だ。


「ほら、捕まえた!」

 二階に上がる階段の手すりで、つかまり立ちしようとするひすいちゃんを、子森君が捕まえて抱いた。


 モスグリーンのエプロンに、同じ色の三角巾の子森君。

 子森君の腕に抱かれたひすいちゃんは、見つかったかぁ、みたいな顔で、小さな両手で顔を隠した。

 水色のカバーオールに、車の絵が書いてあるよだれかけのひすいちゃん。

 子森君の腕を抜け出そうと、背中を反らして抵抗する。


「さあ、ひすいちゃん、ちょっとここで遊んでてね」

 ひすいちゃんは、宮野さんが作ってくれた木製のベビーサークルに入れられた。

 食堂の隅に設置した二畳分くらいの白木のサークルは、宮野さんの手作りだ。

 宮野さんは安全性を考えて、これを釘一本使わずに作った。

 表面は天然素材のオイルで塗装してある。


 サークルに入られたひすいちゃんは、格子を掴んで立ち上がって、つぶらな瞳で、出して出して、みたいな顔で僕を誘惑した。

 なんという小悪魔。

 僕は、泣いて馬謖ばしょくる思いで、それに応じない。


「日々、ひすいちゃんも成長してるんだな」

 僕が言うと、

「先輩、視線がおじいちゃんっぽいです」

 子森君に指摘された。


 酷い。

 おじいちゃんどころか、まだ、子供もいないし、それどころか、彼女だっていないのに。



 ひすいちゃんの相手をしたあと、洗濯物を干して、ヨハンナ先生を起こしに行った(ひすいちゃんの世話より大変かもしれない)。


 ところが……


「塞君、おはよう」

 僕が起こす前に、ヨハンナ先生が起きている。

 カーテンが引いてあって部屋は明るいし、ベッドの上の布団が畳んであった。


 それどころか、先生は顔を洗って、もう服も着替えていた。

 鏡に向かって金色の髪を梳かしているヨハンナ先生。


 嘘だ。


 僕は、夢か、幻を見ているのか?


「塞君、おはよう」

 教室で聞くような、落ち着いた声で先生が言った。

「お、おはようごございます」

 あまりのことに、僕は噛んでしまう。


「今日も天気が良くてなによりね」

 普段、学校行きたくないとか、あと五分寝かせてとか言っている先生が、当たり障りのない世間話なんかしてきた。


「あの、先生、歯磨きは……」

「うん、今日は自分でします」

 先生にすげなく断られる。


 ヨハンナ先生、どうしたんだろう?

 何か、悪いものでも食べたんだろうか?


「さあ、食事にしましょうか」

 先生は髪を梳かし終わると、自分で食道まで歩いて行った。

 もちろん、お姫様抱っこで連れてってとか、わがままを言わない。



「篠岡君、どうしたの?」

 僕が、呆気にとられて廊下に立ち尽くしてたら、丁度、食道に向かっていた北堂先生と出くわす。


「はい、大変なんです。ヨハンナ先生が、僕が起こさなくても起きてて、自分で着替えて、顔も洗ってるんです。歯磨きも、自分でするっと言うし」

 僕が言うと、北堂先生は、「はぁ?」って、怪訝けげんな顔をした。


「うん、でも篠岡君。それって、社会人として、当たり前のことだから」

 北堂先生が、冷静に言う。


 ああ、確かに。


 その後もヨハンナ先生は澄まし顔で朝ごはんを食べて、一人で歯を磨いて、お化粧をして、時間に余裕を持って登校した。



 ヨハンナ先生どうしちゃったんだろう?

 何にもないといいけど……




「篠岡君!」

 首を傾げつつ登校したら、席に着くなりクラスメートの長谷川さんが声を掛けてきた。

 長谷川さんと菊池さんと松井さん、そして蒲田さんのいつもの四人に、机を囲まれる。


 香りから判断する限り、長谷川さんの柔軟剤はダウニーのインフュージョンハニーフラワーで、菊池さんは、ファーファのファインフレグランスボーテ。

 松井さんは、レノアハピネスのアンティークローズ&フローラルで、蒲田さんは、ソフランアロマリッチのクリスティーヌだ。



「ねえねえ篠岡君、うちのクラスに、教育実習生が来るって知ってた?」

 長谷川さんが訊いてくる。

 四人の中でリーダーの長谷川さん。


「えっ? 知らないけど」

 初耳だった。

「そう? 先生寄宿舎にいるし、主夫部の顧問だから、なんか聞いてると思ったんだけど」

 ヨハンナ先生は、寄宿舎でも部室でも、そんなこと言ってなかった。


「なんか、女の人らしいよ」

 菊池さんが言う。

 背が高くて、四人の中で一番スマートな菊池さん。


「あっ、篠岡君、なんか期待した?」

 蒲田さんが、悪戯っぽく訊く。


「教育実習生っていっても、女子大生のお姉さんだもんね」

 松井さんが、僕の顔を覗き込む。


「朝からクラスの男子が、必要以上に浮き足立ってるんだよ」

 長谷川さんが言う。


 長谷川さんの言う通り、クラスの男子は浮き足立っていた。

 みんな身なりを気にしている。

 ネクタイの曲がりを気にしたり、制汗シートで顔を拭いたりしていた。

 普段、寝癖を付けたまま登校してくるような奴まで、女子に手鏡を借りて、髪を直している。


 確かに、教育実習生って、なんか、僕達男子高校生には、捨て置けない響きがあった。

 教育実習生って、夢のある響きだ。


「ホント、男子って単純だよね」

 松井さんが言った。


「ごめん」

 なぜか、僕は謝ってしまった。


「なんで篠岡君が全男子を代表して謝るの?」

 菊池さんが言って、みんなが笑う。



 そういえば、今朝のヨハンナ先生が少しおかしかった件。

 自分から起きて身支度してた件。


 あれは、この教育実習と関わりがあるんだろうか?

 教育実習生をちゃんと指導しないといけないって、先生は少し気を張っていたのかもしれない。



 予鈴が鳴って、みんなが席に着いた。

 僕の机を囲んでいた四人も、席に戻る。

 戻り際に、松井さんが僕の机に飴を一つ、置いていった。


 まもなく、ヨハンナ先生が教室に入って来る。


 パリッとしたネイビーのスーツの、凜とした先生だ。


「みなさんおはよう」

 教卓に着いた先生が言った。

「おはようございます」

 僕達は挨拶を返す。


 教室のドア窓の磨りガラスに、ぼんやりと人影が見えた。

 それを見て、教室が少しざわざわする。

 やっぱり、教育実習生が来るのは本当なんだ。


「はい、静かに」

 ヨハンナ先生が手を叩いて、そのざわめきをピタッと収める。


「えーと、もう、噂で聞いてる人がいるかもしれないけれど、今日からこのクラスに、教育実習生が来ます」

 先生が、僕達を見渡して言った。


「ここで、二週間、実習をしていきますが、みなさんはいつも通り授業を受けて、いつも通り、生活してください。特に男子、浮かれたり、騒いだりしないように」

 ヨハンナ先生が、僕を見て言う。

 なぜ、男子の代表が僕?


「それじゃあ、入って来て」

 ヨハンナ先生が、廊下に向かって呼びかけた。

 ドアが開いて、教育実習生が教室に入ってくる。


 すると、「おおおー」って、クラスの、主に男子から、地響きのようなうなり声が上がった。


 就活スーツみたいな、真新しい紺のスーツの女性。


 えっ? 彼女って!


 金色の髪に、ヨハンナ先生を少し幼くしたような顔。

 左目の下に、小さな泣きぼくろがある彼女。


 間違いない。

 彼女は……


「アンネリさん!」

 僕は、思わず立ち上がって、大声を出していた。



 それは、ヨハンナ先生の妹、霧島家三姉妹の三女、大学生のアンネリさんだったのだ。

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