第224話 一触即発
「篠岡君、男同士の話をしよう」
弩のお父さんが、僕の肩に手を置いた。
弩のお父さんからは、ダージリンティーのような上品な香りがする。
普段、柔軟剤の香りに囲まれている僕が
「先生と花園ちゃんは、ちょっと待っていてください。まゆみ、二人のお相手していて」
お父さんは、みんなにそう言い残して、僕の背中を押す。
物腰は柔らかかったけど、僕の肩に置いた手には力が入っていた。
僕は、半ば強引に連れて行かれる。
二人で母屋の長い廊下を歩いた。
「あの、どこに行くんですか?」
僕は、恐る恐る訊く。
「まあ、いいからいいから」
お父さんは笑顔で言って、僕の背中を押した。
やな予感がする。
その優しい笑顔が、逆に怖い。
さっき、弩とお父さんが二人っきりで話してたけど、あのとき弩が、僕に寄宿舎で意地悪されてるとか、お父さんに訴えてたらどうしよう。
僕が、弩のホワイトロリータをルマンド・ホワイトに入れ替えたり、弩の靴下を裏表逆にして畳んだり、夜中にスマホで飯テロ動画を送りつけたりした悪戯が、お父さんにバレたのかもしれない。
そうだったらマズい。
一発くらい、殴られるのかもしれない。
僕が連れて行かれたのは、二階の
本格的なレストランみたいに、業務用の大きな冷蔵庫や、ステンレスの厨房機器が揃った調理場に、僕を導く。
「君達、ちょっと席を外してくれるかな?」
お父さんは、厨房で片付けをしていた二人のメイドさんを人払いした。
メイドさんは、「はい」と頭を下げて、そそくさと出ていく。
メイドさんがいなくなると、お父さんは上着を脱いだ。
ワイシャツの
水道で、手を丁寧に洗うお父さん。
タオルで手を拭いたお父さんは、包丁差しから一本の包丁を抜いて、手に取った。
包丁を握って、僕を見て微笑む。
「あの、すみません!」
僕は、顔が膝に着くくらいに腰を曲げて、頭を下げた。
「僕は、そんなつもりじゃなくて、つい、まゆみさんが可愛かったから……」
殴られるくらいならいいけど、包丁はマズい。
「なにを謝っているんだ君は?」
お父さんは、不思議そうな顔をしていた。
「君は、まゆみに何かしたのか?」
「いえ、なにも……」
だけど、悪戯のことで、怒ってるんじゃないの?
するとお父さんは、冷蔵庫を開けて中から油揚げを出した。
「今から君に、我が弩家に伝わる、いなり寿司の作り方を教えようと思う」
お父さんが言う。
「へっ?」
僕が呆気にとられていると、お父さんは包丁で油揚げを半分に切って中を開いた。
それを熱湯でさっと
「私はこの作り方を、お義父さんから教えてもらったんだよ。女系家族のこの家で、いなり寿司は、婿に入った者の、父親の味、とも言える存在なんだ」
お父さんは言う。
なんだ……
完全に僕の勘違いだった。
お父さんは、僕に料理を教えようとしているだけだった。
殴られるだとか、包丁で切られるだとか想像していた自分が恥ずかしい。
「お料理、されるんですか?」
僕は訊いた。
「ああ、私は料理の腕には自信があるよ」
お父さんが言う。
「なんたって、半分、主夫みたいなことをしていたからね」
「えっ、そうなんですか?」
「ああ。まだ、まゆみが生まれる前のことだけどね。彼女と一緒に世界中を回って、彼女のために世話を焼いていた。忙しくなって、グループ企業の一つを任されて、私も働くようになったから、一緒にはいられなくなったけどね」
お父さんが、どこか寂しそうに言う。
「妻に会ったことはあるよね?」
お父さんが訊いた。
「はい。以前、お目にかかりました」
弩の見舞いに来たときに会った。
弩のお母さんは、凜としていて、
「あんなふうだけど、実は、だらしなくて、家では服を脱ぎ散らかして、キャミソール一枚で歩き回っているんだ。僕がいないとなにもできなかった。料理だって、彼女はゆで卵も作ったことがないかもしれない」
お父さんは、声を潜めて秘密を教えてくれる。
ぼくは、大弓グループの代表取締役会長兼CEOの重大な秘密を知ってしまった。
でも、あれ? だらしなくてキャミソール一枚でふらふらしてるって、まるで、誰かさんみたいだ。
「君は、主夫になりたいんだろう?」
お父さんが僕に訊いた。
僕は「はい」と頷く。
「私も、主夫になりたかったな。彼女はそれくらい、興味深い存在なんだ。ずっと
お父さんが、遠い目でしみじみと言った。
「でも、なんで僕に教えてくれるんですか?」
僕は訊く。
家に伝わるレシピって、そんな大切なことを僕なんかに教えていいんだろうか?
「なんでって、君は、寄宿舎でまゆみの世話をしてくれてるんだろう? 帰ったら、時々まゆみに作ってあげてほしいんだ。あの子はこれが好きだったから」
お父さんが言う。
その横顔は、どこか寂しげだった。
最愛の娘である弩と、中々一緒にいてあげることが出来なくて、お父さんも辛いのかもしれない。
「それに、将来、役に立つこともあるかもしれないからね」
お父さんは冗談めかしてそんなふうに言った。
「なんたって、まゆみは、電話でも、メールでも、君のことばかり報告してくるんだ。父親として、
お父さんはそう言って笑う。
そんなことを言われて、お父さんの前で、どんな顔をしたらいいのか、分からなかった。
だから僕はなぜか「すみません」って謝ってしまった。
僕は、お父さんが教えてくれるいなり寿司のレシピと手順を、丁寧にメモする。
油揚げをつけるタレの、醤油やみりんの銘柄、量、
ご飯の炊き具合や、混ぜるお酢の銘柄、混ぜ方、入れる
そして、弩家のいなり寿司の秘伝は、味を染みこませた油揚げを、すし飯を入れて包む前に、一度七輪で焼いて、焼き目をつけるところにあることも習う。
厨房は、タレが
出来上がったいなり寿司は、焼き目と照りが綺麗で、見るからに美味しそうだ。
「まゆみのこと、これからもよろしく頼むよ」
最後にお父さんはそう言って、僕に握手を求めてきた。
ぼくは、「はい」と答えて、その手を握り返す。
お父さんと一緒に作ったいなり寿司を持っていくと、弩は「わぁ」って声を上げて喜んだ。
さっき、ランチを食べたばかりなのに、十個くらいペロリと平らげてしまう。
だけど、お父さんがここにいられるのは、そこまでだった。
さっきから、秘書らしき紺のスーツの男性が
これでもお父さんは、だいぶ無理をしてるのかもしれない。
「お父様、戻ってください。私は、大丈夫ですから」
弩が言った。
お父さんを困らせないように、弩は満面の笑顔だ。
「それじゃあ、楽しんでいってください。これからもまゆみをよろしくお願いします」
ヘリポートで、お父さんは、そう言って深く頭を下げた。
「責任を持って、お預かりします」
ヨハンナ先生が、礼を返す。
「まゆみ、またな」
お父さんが言って、弩が無言で頷いた。
「篠岡君!」
お父さんは僕に親指を掲げる。
ヘリポートに駐機してある弩家の自家用ティルトローター機。
お父さんが客室に入って、ハッチが閉まった。
と、同時にローターが回り出す。
風圧が凄くて、僕達は、ヘリポートの横の小屋に逃げた。
ローターを上に向けた白い機体は、そのまま、ゆっくりと空に上がる。
やがて上空でローターを斜め前に向けて、滑るように飛んで行った。
だいぶ急いでいたのか、すぐにローターを真横にして、轟音を残して飛び去る。
水色のワンピースにカンカン帽の弩は、機体が消えた方向をいつまでも見ていた。
「よし、それじゃあ、
機体が完全に見えなくなったあとで、ヨハンナ先生が弩の肩に手を置いて言った。
「やったーバーベキューだ! やっぱゴールデンウィークは、バーベキューだよね!」
花園がはしゃぐ。
弩を元気づけようとして、花園はいつも以上にはしゃいでいた。
我が妹ながら、よく出来た妹だ。
それにしても、家の敷地内に、鍾乳洞まであるなんて……
結局、ゴールデンウィーク最後の日まで、僕達はこんなふうに弩の家でのんびりと過ごした。
弩のおかげで、贅沢な休日を過ごせた。
最終日に、執事さん達に玄関まで見送ってもらって、僕達は先生の車で、寄宿舎まで帰る。
たぶん、休み癖が抜けないヨハンナ先生が、ゴールデンウィーク開けに学校行きたくないとか言いそうだから、僕は明日は少し早く家を出て、ヨハンナ先生を起こしにかかろうと思う。
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