第223話 水着にはまだ早い
プールサイドのデッキチェアーに横になって、ヨハンナ先生がカクテルを飲んでいる。
鮮やかなピンクで、グラスにパイナップルとチェリーが飾ってあるカクテルは、シンガポールスリングだ。
先生はそれを、ストローで優雅に飲んだ。
鮮やかな青いワンピースの水着の上に、白いパーカーを羽織ったヨハンナ先生。
先生は、つばが広い白い帽子を被って、サングラスをかけている。
弩の実家の屋上にあるプールは、プールサイドも含めて全部白で塗装されてるし、空は真っ青だし、こうして金色の髪の先生が寝そべっていると、ここは、地中海のどこかの島のリゾートって感じだ。
先生がデッキチェアーの上で足を組み替えるだけで、僕は、ドキドキしている。
朝食を食べて、建物の周りを散歩して、敷地内を警備員のハマーで探検したあと、執事さんがこの屋上のプールを勧めてくれた。
来客用の水着も揃っていて、ヨハンナ先生は青いワンピースを着て、花園はピンクのビキニを選んだ。
僕は黒のサーフパンツを穿く。
弩だけ、自分の部屋から持ってきた、胸に「6の2」って書いてあるスクール水着を着た。
「弩は、やっぱり物持ちがいいな」
僕が言うと、
「そんなことないです」
って、弩がはにかんだ。
いや、褒めてないんだけど。
「やっぱり、まだちょっとまだ寒いかも」
先生はそう言うと、パーカーを脱いで水着だけになった。
デッキチェアーから立ち上がって、手すりを伝って、ゆっくりとプールに入る。
「そうだよ、先生も浸かったほうがいいよ」
花園が言った。
僕と花園と弩は、さっきからプールにぷかぷかと浮かんでいる。
楕円形のプールには、近くの源泉から温泉が引いてあって、30度くらいの水温で保たれていた。
外にいるより、温泉に浸かってるほうが暖かい。
温水プールなら今まで入ったことがあるけど、温泉プールは初めてだ。
温泉に入って、のぼせそうになったら、外に出て屋上に抜ける風で涼んで、また、冷えたら温泉に入った。
辺りには、森の小鳥のさえずりと、僕達が立てる水音しかしない、贅沢な時間だ。
「先生、綺麗」
花園と弩が、パーカーを脱いだ水着姿のヨハンナ先生に見とれて、指をくわえている。
それには、僕も完全に同意だ。
「ほら、お兄ちゃん、先生ばっか見てるから、鼻血出てるよ」
花園が言った。
「えっ?」
って、僕が鼻を押さえたら、
「うっそー!」
って、花園が笑う。
「ふうん、塞君、私のことばっかり見てたんだ」
ヨハンナ先生がジト目で言った。
「先輩、エッチです!」
弩が言って、顔を手で覆う。
女子が束になって、純情な男子高校生の心を
先生の水着姿を見て動じない男子なんて、いるわけないじゃないか。
そんなふうに、僕達が休日をゆったりと過ごしていたら、静かだった山々の間に、パラパラと小さな破裂音が響いて、それが段々と近づいて来た。
ヘリコプターみたいな音だけど、それはヘリコプターよりも近づいてくるスピードが段違いに速い。
まもなく、僕達の前に現れたのは、オスプレイを小さくしたようなティルトローター機の機影だった。
翼の両端にローターをつけた純白の機体が、上空で旋回したかと思うと、横を向いていたローターを上に向けて、ヘリコプターみたいにゆっくりと降りてくる(あとで調べたら、これはアグスタウェストランドのAW609っていう機体らしい)。
飛行機のように飛んできたと思ったら、ヘリコプターみたいにホバリングして、滑走路いらずで降りてくるのは、魔法みたいだった。
それは、この母屋から三十メートルくらい離れたヘリポートに着陸する。
誰か、VIPでも来たんだろうか?
そういえばここは、弩家の迎賓館だった。
しばらくして、階下がなんだか騒がしくなったのが、屋上にいても分かる。
すると、一人の男性が、エレベーターで玄関から屋上まで上がって来た。
ダークグレーのスリーピースのスーツに、紺色のネクタイの男性。
身長は、170㎝くらいだろうか。
白髪交じりの短い髪を、オールバックにしている。
眉間に深い皺が刻まれていて、太い眉毛と共に、前を睨み付けるようにしていた。
その男性が、ツカツカとプールサイドを歩いてきたと思ったら、
「まゆみ、お帰り」
低い声で言う。
厳しい顔から一転、眉尻を下げて、微笑んだ。
「お父様!」
弩が
弩は、プールから上がってその男性に駆け寄る。
ヨハンナ先生が、プールから上がってパーカーを羽織った。
僕と花園も、プールから上がる。
「お父様、どうなさったんですか?」
弩が、不思議そうに訊いた。
「どうなさったもなにも、可愛い娘が帰ってきたら、家で迎えるのは当たり前じゃないか」
弩がお父様と呼んだその男性は、そう言って、弩を抱きしめる。
弩は水着でプールに入っていたから濡れてたけど、男性は濡れるのも気にしないみたいだった。
「お父様、痛いです」
男性の胸の中で弩が嬉しそうに言う。
「ああ、ごめんごめん」
と、男性は慌てて弩を放した。
これが、弩のお父さんなのか。
弩のお父さんは、四十代後半の風格がある男性だった。
笑うと人懐こそうな目元は、弩に似ているかもしれない。
「初めまして、私、霧島ヨハンナと申します。まゆみさんの寄宿舎で管理人をしています。この度はお招き頂いて……こんな恰好で申し訳ありません」
ヨハンナ先生がそう言って、頭を下げた。
「初めまして、娘から聞いて、よく存じ上げております。いや、それにしても、お綺麗だ」
お父さんは、少しおどけて言った。
「いえ、そんな」
と、パーカーで体を隠す先生。
普段は、キャミソール一枚でふらふらと館内を歩き回ってるくせに。
「それで、そちらが、篠岡君。篠岡塞君だね」
僕が名乗る前に、お父さんが言った。
「はい、弩、いえ、まゆみさんには、お世話になってます」
僕は、慌てて頭を下げる。
「そうか、君がね」
お父さんは、僕を頭の天辺から、爪先まで、値踏みするように見た。
でも、なんで僕の名前知ってるんだろう?
「まゆみから聞いてるのと、本人とでは、ちょっとイメージが違うかな」
お父さんは言った。
弩、僕をどんなふうにお父さんに話したんだ。
「それで、そちらのレディは?」
お父さんが、花園の方を向く。
「はい。私は、篠岡花園です。兄が、ゆみゆみにお世話になっています」
花園は、
こういうところは、姉の枝折とは違う。
枝折なら、こんなとき僕の後ろに隠れてしまうだろう。
「そうですか。まゆみがいつも遊んでもらっているようで、ありがとう」
お父さんは花園にも深々と頭を下げた。
「それじゃあ、ランチにしましょうか。泳いでお腹も空いたでしょう?」
お父さんが言う。
「あのあの、お父様、お時間いいんですか?」
弩が、お父さんに訊いた。
「ああ、時間を取った。心配しなくていい。娘とランチを食べることより、重大な仕事なんて、この世の中にはないだろう」
お父さんが言うと、弩が「ありがとうございます」って言う。
僕は、弩が少し涙ぐんだのを見た。
広大な芝生の庭にある八角形のガゼボに、ランチの支度がしてあった。
白い柱の東屋には、真ん中に丸いテーブルが置いてあって、テーブルの上にはランチの皿が並んでいる。
テーブルの横に、給仕するメイドさんが、五人、控えていた。
弩とお父さんは隣同士に座って、僕達はその周りに座った。
テーブルには、牛フィレ肉のパイ包み焼きをメインに、キスのマリネ、小エビとほうれん草のフラン、あさりと菜の花のペペロンチーノ、タブレサラダなどが並んでいる。
食べきれないくらいの焼きたてのパンもあって、デザートのワゴンも用意されていた。
お父さんにワインを勧められたけど、ヨハンナ先生は断った。
「私、
ヨハンナ先生が言う。
大人って……
食事のあいだは、主に先生とお父さんが、しゃべった。
先生が弩の学校や寄宿舎での様子を話したり、お父さんが仕事で回った国でのハプニングなんかを、面白おかしく話す。
弩は、相槌を打ったり、短く話すだけで、なんだか縮こまっていた。
食事をしながら、チラチラと、お父さんの方を盗み見るようにはしてたけど。
やっぱり、久しぶりに会うお父さんだから、緊張してるんだろうか?
「よし、お腹一杯になったし、ちょっと散歩してこようかな」
ヨハンナ先生が、お腹をさすりながら言った。
「塞君と花園ちゃんも、一緒に行こう」
先生が、僕達を誘う。
ああ、なるほど、そういうことか。
先生は、弩とお父さんを二人っきりにしようって、気遣ったんだろう。
「ほら、花園も行こう」
僕は、デザートにまだ未練がありそうな花園を引っ張って、二人をガゼボに残して母屋に戻った。
それから一時間くらい、弩はお父さんと二人っきりで話していた。
普段から子供っぽい弩だけど、お父さんの前だと、目をキラキラさせていて、本当の子供みたいだ。
弩はお父さんの前で完全に心を開いていた。
僕もいつか、こんなふうに女性に心を開いてもらえる男になりたいって、二人を見ていて思った。
「篠岡君、ちょっといいかな?」
一時間して、弩と母屋に戻ってきたお父さんが、僕を呼んだ。
「男同士、話をしようじゃないか」
そう言うと、お父さんは僕の肩に手を置いて、どこかに連れて行こうとした。
えっ? 話って?
「まあいいから、行こう」
僕はお父さんの力強い手に、引っ張られていく。
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