第214話 GTR

「ひすいちゃん、将来、このお姉さんの真似をしたらダメだぞ」

 僕が言うと、抱っこ紐で胸に抱いているひすいちゃんが、「うー」って返事をした。

 まだ七ヶ月のひすいちゃんだけど、目の前の部屋が汚いってことは、ちゃんと分かるみたいだ。


 くりっとした目でヨハンナ先生の薄暗い部屋を観察するひすいちゃん。

 部屋の床には、スーツやTシャツ、デニムのパンツが脱ぎ散らかされている。

 テーブルの上には、ビール缶と空になった焼酎の瓶が倒れていた。

 さきいかや鮭とば、ポテチのパッケージも落ちている。


 この部屋の主人ヨハンナ先生は、ベッドの上で、未だ夢の中だった。


「先生、朝ですよ。ってゆうか、もうお昼過ぎてますけど」

 僕は、容赦なくカーテンを引いて、部屋に陽光を入れる。

 春のうららかな日差しが、先生のベッドを照らした。


 日曜日だから、先生をお昼過ぎまで寝かせてあげたけど、もうそろそろ起きて車を出してもらわないと、一週間分の食料をそろえる買い出しに行けない。


「ほら、先生、起きましょう」

 僕は、一気に布団を剥がす前に、端をちょっとめくって中を確認した。

 大丈夫、先生、今日はちゃんと服を着ている(Tシャツにスエットの下を穿いていた)。


「御厨が美味しい昼ご飯、作ってくれてますよ。さあ、起きますよ!」

 僕は、先生が被っていた布団を剥がした。


「うーん、もうちょっと寝かせてぇ」

 先生が、悩ましい声を出す。


 先生の金色の髪はボサボサで、口元によだれの跡がついていた。

 ボディーピローをひしと抱いたヨハンナ先生は、ベッドから起き上がろうとしない。


 ひすいちゃんが手を伸ばすから、僕が先生に近付けたら、ひすいちゃんは先生の耳を引っ張った。


「くすぐったい、くすぐったい!」

 ヨハンナ先生がベッドの上で暴れる。


 ひすいちゃん、GJ。




「それなら、私が行きましょうか?」

 僕達の背後から、声が聞こえた。


 振り向くと開いたドアから、北堂先生が顔を出している。

 ドアの外には、北堂先生だけじゃなくて、宮野さんと子森君もいた。

 僕がヨハンナ先生を起こす「儀式」が、新人のみんなには可笑おかしいらしい。


「いつもヨハンナ先生が買い出しに行ってるなら、これからは、私も交代で車出しますけど」

 北堂先生が提案した。


 そうか、どこから見ても高校生にしか見えないけど、北堂先生も車と運転免許証を持っている。

 買い出しに行くのに、車を出せるんだ。


「それじゃあ、北堂先生、お願い出来ますか?」

 僕が頼んだ。

 これからヨハンナ先生を着替えさせたり、髪をかしたり、お昼ご飯を食べさせたりしてたら、夕方になってしまうし。


「北堂先生、すみません」

 ベッドに寝たままで、ヨハンナ先生が言った。

 先生……

 せめて、ベッドから起きて言おう。


「僕、ひすいちゃんの面倒見てますよ」

 子森君が言った。

 新入部員だし、日曜日だからまだいいって言ったのに、子森君は熱心に部活に出ている。

 さっきまで、御厨と台所にいて、料理を習っていた。


「あれ? ひすいちゃん、オムツ変えようか?」

 僕がひすいちゃんを渡したら、子森君が気付く。

 ひすいちゃんが「うー」って返事した。

 僕は全然気付かなかったけど、子森君には分かったみたいだ。


 さすが、イケメンでイクメン。


「それじゃあ私、着替えてくるね」

 北堂先生はそう言って自分の部屋に戻った。


 僕は、ヨハンナ先生から寄宿舎の会計の財布を預かって、御厨が作った買い物メモを持つ。


 少しして、101の自室から北堂先生が出てきた。

 先生は、白い丸襟でダークグリーンのワンピースに、ピンクのカーディガンを羽織って来る。

 すっぴんに近いし、童顔の先生にそんな格好をされると、妹とデートに行く感がハンパない(本当の妹はデートに行ってはくれないけど)。


 僕達二人が並んで歩いていても、絶対に教師と生徒には見えないだろう。




「えっ? 先生の車って、これですか?」

 駐車場で車に乗ろうとして、僕が訊いた。


 だって、北堂先生がドアに手を掛けた車が、R34のスカイラインGTRだったから。


「そうだよ。これが私の車」

 先生が言って、ドアを開ける。


 ホワイトパールのGTRは、チューンナップされてるみたいで、フロントもリアも、サイドステップも、純正ではないエアロパーツが付けてあった。

 アルミホイールもnismoのアルミに変えてあるし、リアに覗くマフラーも、太いものに交換されている。


「先生が、これに乗るんですか?」

 思わず僕は訊いた。

「そうだよ。変?」

「いえ、変じゃないですけど……」

 免許証を持ってるんだし、何に乗ってもいいけど、北堂先生がこんな車に乗ってるとは思わなかった。

 先生のイメージだと、ミニとかフィアット500って感じだ。


 先生がシートに座って四点式のシートベルトをつけたから、僕もそれにならう。

 エンジンを掛けると、重厚なエンジン音が、車体を通じて体に伝わってきた。

 外観だけじゃなくて、中身にも、相当、手が入っている。


「これ、エンジンとかも弄ってあるんですか? 何馬力くらい出ますか?」

 僕が訊くと、

「そんなにカリカリにチューンしてないから、多分、400馬力くらいだと思う」

 北堂先生は、当たり前のように言った。


 まさか、北堂先生が走り屋だったとは……


 確かに、これが先生の車だって証拠として、後部座席に、ひすいちゃん用のチャイルドシートが付いている。


 北堂先生は前に、車に乗ってると、よく白バイに停められるってなげいてたけど、無理もない気がする。

 中学生か、せいぜい高一にしか見えない北堂先生が、こんな車に乗ってたら、白バイのお巡りさんだってびっくりする。

 二度見して車を止める筈だ。


「じゃあ、行くよ。大丈夫、私、安全運転だから」

 先生は、そんなふうに言う。



 走り出すと、北堂先生の運転は上手かった。

 マニュアルミッションの車でも、シフトチェンジがスムーズだし、アクセルやブレーキも、スッと動き出して、スッと止まるから、乗っていて心地いい。

 見た目と違って、先生のGTRは乗り心地も良かった。


 対向車のドライバーがびっくりした顔をしたり、信号で停まったときに、街ゆく人が振り向くのは見ていて面白い。


「どうしたの?」

 僕が顔をほころばせているのに気付いて、北堂先生が訊いた。


「いえ、北堂先生とヨハンナ先生だと、運転がずいぶん違うなと思って」

 僕は答える。


「どんなふうに?」

「はい、ヨハンナ先生は、前とか後ろの車に、『遅い』とか、『下手』とか、文句言いながら運転してるから」

 僕が言うと、北堂先生は「ヨハンナ先生らしいね」って言って、笑った。


「急いでも仕方ないしね。事故なんかしたら、大変だし」

 北堂先生が言う。



 そんな先生の車で、三件のスーパーを回って、御厨のメモにあった一週間分の食材を買い揃えた。

 ドラッグストアに寄って、ひすいちゃんの紙オムツやお尻ふきも買う。



「本当は、ファミリーカーとかに買い換えたほうがいいんだろうけどね」

 車を運転しながら、北堂先生がぽつりと言った。


「だけど、この車、ひすいの父親が残した車だから。あの人が、ずっと手を入れてた車だから手放したくなくてね……」

 先生が、前を見たまま、表情を変えずに言う。


「ひすいも、この車に乗ってると、なぜかご機嫌なんだよね」

 ひすいちゃんの父親って、つまり北堂先生の旦那さんってことか。


 そうか、この車は、先生の旦那さんの車だったんだ。

 話からすると、先生はそれを乗り継いでいるってことなんだろう。


 そういえば、北堂先生はなんでシングルマザーをしてるんだろう?

 なんで、ひすいちゃんと二人で暮らしてたんだろう?

 この車の持ち主だった旦那さんは、どうしたんだろう?


 訊きたかったけど、先生の横顔を見ていたら、訊けなかった。

 先生は、前を見据えて、ハンドルをがっちりと握って運転している。


 見た目は高校生とか言ってるけど、北堂先生は、今まで僕なんかが思いも寄らないような、色んな経験をした大人で、ひすいちゃんを育てながら仕事をしている、立派な女性だ。


 主夫部として、そんな北堂先生を少しでも支えられたらって、思った。

 先生の横顔を見ながら、誓いを新たにする。




 買い物を終えて学校の駐車場に戻ると、そこではみんなが待っていた。

 主夫部の部員全員と寄宿生、ヨハンナ先生もいる。

 子森君に抱かれたひすいちゃんもいた。


「お帰りー!」

 って言って、みんなが迎えてくれる。

「ただいま」

 北堂先生が言った。


 みんなで手分けして、一週間分の食材を、先生の車から、寄宿舎まで運んだ。


 たとえどんなことがあったって、北堂先生もひすいちゃんも、これからは寂しいことなんてないと思う。


 僕達は、みんな、家族なんだし。

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