第17章
第211話 進路指導2
「で、また、こうして二人で、向かい合って話してるわけだけれど……」
先生が言った。
紺のスーツで、シャツのボタンを僕たち男子高校生を刺激しない程度に開けている、ヨハンナ先生。
僕と先生は、教室に机を二つ並べて作った即席の指導スペースで、顔と顔を突き合わせている。
僕達の間には、一枚の進路指導のアンケート用紙があった。
これは、一年前とまったく同じシチュエーションだ。
窓から四月中旬の少し冷たい風が吹いていて、グラウンドから、野球部の金属バットの音が聞こえるのも同じだった。
遠くから女子テニス部のコーラスみたいな声援が聞こえるのも変わらない。
だけど、考えてみれば、去年のこの面談のとき、ヨハンナ先生はまだ僕の名前の読み方も知らなかった。
向かい合って座りながら、先生は僕のこと、面倒な生徒って思ってたはずだ。
僕の方も、パリッとしたスーツを着た先生を、外見だけで、凜とした格好いい教師だって思ってた。
休日は、スポーツクラブで汗を流したり、オープンカーでドライブするような、スマートな教師だって思ってた。
それが今では、先生が僕を下の名前で呼ぶような仲だし、先生は、主夫部の顧問に納まっている。
僕は毎朝、朝練で先生を起こしたり、着替えを手伝ったり、金色の髪を櫛で
先生が脱ぎ散らかして階段の手すりに引っ掛けたキャミソールを片付けたりしている。
先生の中身が、四十代の中年男性だってことも分かった。
休日はスポーツクラブどころか、二日酔いでお昼まで寝てるし、ドライブの代わりに、僕達に頼まれて、古いフィアットで一週間分の食料の買い出しに行くのも知ってる。
シチュエーションは同じでも、この一年でお互いの認識は、まるで変わっていた。
それでも、こうして先生と面と向かってるとドキドキするのは、前と少しも変わらないけど。
「それで、どうしようか?」
先生が、ざっくりと訊いた。
僕が書いたアンケート用紙に目を落とすヨハンナ先生。
将来就きたい職業の欄には、もちろん、「専業主夫」って書いてある。
「やっぱり、専業主夫って書くのはまずいですか?」
僕は訊いた。
一年経っても、この点は変わらないんだろうか。
「いえ、いいわよ」
ところが、ヨハンナ先生があっさりと認めた。
「先生も腹を
先生は、任せなさいって感じで、胸を張る。
「それじゃあ、何が問題なんですか?」
僕は訊いた。
「うん、将来、塞君が主夫を目指すのはいいとして、直近の、卒業後の進路はどうするのかってこと。君はもう三年生なんだし、卒業まで一年もないんだよ。もう、結婚相手が決まっていて、卒業と同時に結婚して主夫になるっていうなら、話はべつだけどさ」
先生はそう言うと、上半身を倒して、僕に顔を近付けてくる。
「で、結婚を決めた相手とか、いるの?」
向かい合ったまま、10㎝の至近距離から僕の目を覗き込むヨハンナ先生。
先生のシャツの胸元から、柔軟剤の香りが漂ってくる。
これはもちろん、僕が先生用に作った、イランイランベースの自家製柔軟剤だ。
「どう? 結婚相手は決まったの?」
「いえ、結婚相手なんて、全然」
結婚を決めたどころか、まだ、付き合ってる相手さえいない。
それどころか、今まで告白したこともない。
自慢するわけじゃないけど、彼女いない歴=年齢を続行中の僕だ。
「だったら、卒業後の進路を考えなきゃ。このアンケートは去年と同じだけど、去年と今年とでは、重みが違うんだよ」
教師の顔になって僕に言うヨハンナ先生。
「進学するのか、就職するのか、決めないとね。もし、家事や家庭のことに理解を深めたいんだったら、大学には家政学部もあるし。そこで学ぶっていう手もあるけど」
「家政学部、ですか?」
「うん。でも、男子が通える大学で、家政学部があるのは、この日本で一校しかないんだけどね」
「えっ、そうなんですか?」
「うん、私学に一校だけ。家政学部から改編した生活科学部ってなれば、もう少し
家政学部や生活科学部は、女子大にはあっても、共学の大学には
「次の面談までに、考えておきなさい。本当は、それでも遅いくらいだけど」
先生が言う。
僕は「はい」って答えるしかなかった。
「まあ、それまでに相手を見付けて、電撃的に婚約しちゃってもいいんだけどね」
「まさか……」
「先生だったら、いつでもウエルカムだけど。今すぐ婚姻届を書いて、役所に出して来てもいいし。それとも、卒業まで待とうか?」
ヨハンナ先生が言って、僕にウインクした。
先生は大人の女性だし、本気で言ってるのか、冗談なのか分からない。
まったく、ピュアな男子高校生を、これ以上、からかわないで欲しい。
「それじゃあ、塞君との面談はそんなところかな。あなたとは寄宿舎でもずっと一緒だし、相談はいつでも受けるから、いつでも声かけて」
先生はそう言って、僕のアンケート用紙をファイルに仕舞った。
三年になって最初の進路指導は、そんな感じで終わる。
「はい、それじゃあ、次の人呼んで」
ヨハンナ先生に言われて、僕は「ありがとうございました」って頭を下げて、席を立った。
廊下に出ると、僕の次に面談を受ける新巻さんが、椅子に座って、文庫本を読んでいる。
新巻さん、夢中で読んでいて、周りのことは目に入ってないみたいだった。
僕が教室から出たのも気付いていない。
本のことになると、こんなに夢中になる新巻さんが微笑ましかった。
「新巻さん。次、新巻さんの番だよ」
僕が呼ぶと、
「あっ、うん」
と、やっと気付いた新巻さんが、文庫本に
セーラー服の上に、ベージュのカーディガンを羽織った新巻さん。
ハーフアップにした髪を止めている今日のリボンの色は、若葉色だ。
「ねえ、新巻さん。新巻さんは、やっぱり、このまま小説家になるの?」
すれ違い
「うん。多分ね」
新巻さんは、さらりと言う。
新巻さんは、もう、しっかり進路を決めてるんだ。
「ふーん」
「なに? どうしたの?」
立ち止まって不思議そうな顔で僕を見る、新巻さん。
「ねえ、新巻さんが小説家として仕事をしていくとき、僕みたいな主夫が、家で家事とかしてたら、どう?」
僕が訊いた。
面談で、ヨハンナ先生に結婚相手はいるのって訊かれたばかりで、新巻さんみたいな仕事を持った女子に、僕みたいな主夫を目指す奴ってどう映るのか、訊いてみたくなった。
「な、な、何よ、いきなり」
新巻さんが、ずり落ちた眼鏡を人差し指で上げながら言う。
「いや、パートナーに主夫っていう選択肢は、あるのかなと思って」
「そ、そ、そんなの、分かんないし!」
新巻さんはそう言うと、なんだか慌てて教室に入ってしまった。
教室に入って、ぴしゃりとドアを閉める。
新巻さん、何をそんなに、慌ててるんだろう?
いつも冷静な新巻さんなのに、なんか変だ。
パシャパシャパシャ
教室の前で首を傾げてたら、カメラのシャッター音がした。
周りを見ると、萌花ちゃんが僕にカメラのレンズを向けて連写している。
「先輩の物思いに
ファインダーを覗いたまま、萌花ちゃんが言う。
萌花ちゃんは、いつものように校内を巡って、写真を撮ってたらしい。
ここにも一人、将来、仕事を持って生きていこうっていう女子がいる。
母親に反対されても写真家になりたいっていう、
「ねえ、萌花ちゃん。萌花ちゃんは、将来、パートナーが主夫ってありかな?」
僕は、萌花ちゃんにも訊いてみた。
「えっ? な、なんですか先輩、突然」
萌花ちゃんは、びっくりしたみたいで、カメラのファインダーから目を離す。
「うん、萌花ちゃんが仕事をするのを、僕みたいな主夫が家事をして支えるのは、ありなのかなって、思って」
僕は、新巻さんに訊いたように、萌花ちゃんにも訊いてみる。
「そそそ、そんなの、私、分かりません!」
すると、萌花ちゃんも、なんだか大慌てで廊下を走って行ってしまった。
取り乱してレンズキャップを落としたのにも気付かず、そのまま廊下の向こうに消える。
あれ、僕は、なんかまずいこと訊いただろうか?
新巻さんといい、萌花ちゃんといい、二人ともちょっと変だ。
わけも分からず、部活のために寄宿舎に帰ったら、弩が廊下をのんきに歩いていて安心する(ここは弩の家なんだから、のんきに歩いてて当たり前なんだけど)。
「せんぱーい!」
僕を認めて、弩が駆け寄って来た。
「どうしました? なにか、悩み事ですか?」
弩が訊く。
僕は、弩に心配されるほど深刻な顔をしていたんだろうか?
「とりあえず、ホワイトロリータあげます。これを食べれば、大体元気になりますよ」
弩が言って、スカートのポケットから出したホワイトロリータを一本、僕に渡す。
「ああ、ありがとう」
弩から渡されたホワイトロリータは、体温で表面のホワイトチョコがちょっと溶けていた。
「なあ、弩。弩は、将来、パートナーが僕みたいな主夫ってありか?」
僕は弩にも訊いてみる。
弩はなんと言っても、将来、大弓グループを背負って立つ後継者だ。
「はい、ありですよ!」
弩は、はっきりと答えた。
「私、まだ仕事をしたこともないし、本当に母の跡を継げるかなんて分からないですけど、一人じゃなくて、先輩達みたいな主夫のみなさんと二人なら、何でも乗り越えられそうな気がします。この一年、先輩達を見ていて、一緒に主夫部で活動して、そう思いました。だから、全然ありです!」
弩が、弾んだ声で言う。
「そうか、ありがとう」
「いえ、偉そうなこと言ってすみません」
そう言って、ちょこんと頭を下げる弩。
そんな弩の頭を撫で繰り回したくなったけど、止めておいた。
弩は、今、寮長だし。
「そうだ弩、そろそろコタツ片付けようか? 服も冬物をクリーニングに出したいし、整理しようか?」
僕が訊く。
「そうですね。私、手伝います!」
弩が言った。
弩みたいに考えてくれる女子もいるんだし、僕はいつか来るその日のために、こうやって、家事の腕を磨いておこう。
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