第204話 新生活
ひすいちゃんのカバーオールを、寄宿舎の裏庭に干した。
クマの顔の形をした前掛けや、帽子、肌着や、たくさんのタオルも一緒に干す。
寄宿生のセーラー服の隣に、小さな小さなミニチュアみたいな服が、遠慮がちに並んだ。
ひすいちゃんの洗濯物は、寄宿生や先生達、大人とは洗剤を変えたし、洗濯機も別に回した。
僕が妹の枝折や花園の世話を始めたのは小学生になってからだったから、赤ちゃんの衣類の洗濯は初めてで、最初、戸惑った。
北堂先生にアドバイスしてもらったり、育児書で調べたりしたけど、果たして、これでいいんだろうか?
洗濯物がごわごわして、ひすいちゃんが嫌がったりしないかって、ちょっと心配だ。
だけど、新しい住人を迎えて、新生活が始まって、こうやって知識と経験が増えていくのが楽しくて、洗濯物を干しながら、自然と頬が緩んでしまう。
「ほら、ひすいちゃん、
洗濯物を干してたら、ヨハンナ先生がひすいちゃんを抱いて、あやしながら裏庭に来た。
出勤前のスーツ姿のヨハンナ先生に、羊の耳が付いたフードを被った、ひすいちゃん。
先生の胸に抱かれたひすいちゃんはご機嫌で、洗濯物が風に
洗濯物が翻るって、ただそれだけのことが、ひすいちゃんには不思議でたまらないのかもしれない。
「ほら、塞お兄ちゃんが、ひーちゃんのお洋服干ちてまちゅよー。朝から偉いでちゅねー」
ヨハンナ先生がひすいちゃんに語りかけた(先生が使う赤ちゃん言葉、ちょっとカワイイ)。
朝日が当たってキラキラ光る金色の髪の先生が、林の木々の中で赤ちゃんを抱いてる姿は、神々しかった。
なんか、聖母って感じだ。
慈愛に満ちている。
「ホントに可愛いなぁ。私も、赤ちゃん欲しくなっちゃったなー」
ヨハンナ先生がひすいちゃんの顔を覗き込んで、さりげなく言った。
えっ?
はい?
これは、今の先生の言葉は、独り言だろうか?
赤ちゃん欲しくなっちゃったって……
いつもみたいに、先生は僕をからかってるんだろうか?
それとも、先生はただ一般論として言っただけであって、それに過剰に反応してしまう僕が、おかしいんだろうか?
僕はここで、なんて返すのが正解なんだろう?
そんなことを考えてたら、
「ヨハンナ先生、ありがとうございました」
裏庭に
ヨハンナ先生が僕を見て、悪戯っぽく笑う。
北堂先生も、ヨハンナ先生同様、紺のスーツに着替えていた。
ナチュラルメイクだけど、今日はちゃんとメイクもしている。
僕達生徒は春休みでも、先生達は仕事で出勤なのだ。
今日も朝から夕方まで、ぎっしりと研修が詰まってるとか、ヨハンナ先生が
「どう、塞君。こうやってスーツを着れば、私だってちゃんと教師に見えるでしょ?」
ひすいちゃんを抱いた北堂先生が、僕に訊く。
「いえ、全然、見えません」
なんか、妹の花園が、ふざけて母の海上自衛隊の制服を着たときと、そっくりだった。
スーツに着られてる感がハンパない。
「あー、ひどーい」
北堂先生は、そう言ってほっぺたを膨らませた。
「ひどいよねー、ひすい」
ひすいちゃんのほっぺたツンツンする、北堂先生。
そういう仕草が、幼く見える一因なんじゃないかと思うんですけど……
北堂先生とひすいちゃんは、この寄宿舎の、101号室に部屋を選んだ。
夜泣きとかして、うるさいといけないって気を使って、寄宿舎の一番端の部屋に決めたらしい。
だけど、ひすいちゃん見たさに、みんな101号室に集まるから、結局、どこの部屋でも同じだったんだと思う。
今や、ひすいちゃんは、この寄宿舎のアイドルになってしまった(つい先日まで、本物のアイドルもいたけど)。
「朝ご飯出来ましたよ」
御厨が、裏庭に僕達を呼びに来た。
「はーい。ほら、ひすいちゃん、もう一人のお兄ちゃんが、まんま作ってくれまちたよー」
ヨハンナ先生が返事をして、僕達は食堂に向かう。
食堂には、寄宿生と主夫部全員が集まっていた。
もちろん、新入生の宮野さんも、テーブルに着いている。
「先生に教えてもらった通り、ひすいちゃん用に、ニンジン入りのおかゆ作ってみたんですけど、どうでしょうか?」
御厨が味見用の小皿を持って、北堂先生に訊いた。
僕達に向けての料理は完璧な御厨も、赤ちゃん向けの離乳食では、いつもと勝手が違うみたいだ。
「うん、これで大丈夫。ありがとう」
試食して、北堂先生が御厨に微笑んだ。
御厨がほっと胸をなで下ろす。
僕も食べさせてもらったけど、おかゆは、あんまり美味しいものではなかった。
味がない料理で、御厨も心配だったんだろう。
北堂先生はひすいちゃんを抱いて、食べさせながら、自分も朝食をとった。
今日の朝食メニューは、
さばのみぞれ煮
チーズとほうれん草のオムレツ
めかぶ納豆
ちりめんじゃこ入り、豆腐サラダ
根菜類のお吸い物
デザートに、キウイフルーツとヨーグルト
「ここの皆さんは、毎日こんな朝ご飯を食べてるんですか?」
さばのみぞれ煮に箸をつけながら、宮野さんが訊いた。
青いチェックのネルシャツに、カーキ色のカーゴパンツの宮野さん。
「そうだよ。御厨君を筆頭に、主夫部の男子が、愛情込めて作ってくれるからね」
ヨハンナ先生が自慢するように言う。
「これから、ずっと、こんな朝ご飯が食べられるんですね。僕は、どっちかっていうと、今まで、忙しくパン
宮野さんはそう言って笑った。
宮野さん、アニメ少女か!
曲がり角で誰かとぶつかるのか!
「ボクっ娘カワイイよボクっ娘」
パンを囓る宮野さんを想像して、新巻さんが一人で萌えている。
「先生、僕、代わりましょうか?」
北堂先生が、ひすいちゃんにおかゆを食べさせるのに苦労してたから、僕がその役目を買って出た。
先生は自分も食べながらで、大変そうだったし。
「そう? じゃあ、お願いしていいかな」
僕は、北堂先生からひすいちゃんを預かった。
慎重に、ひすいちゃんを胸に抱く。
「うう、うあ」
お母さんから離れるのを嫌がって、ひすいちゃんは少しだけむずかる。
足をバタバタさせて抵抗した。
「大丈夫、大丈夫だよ」
僕はひすいちゃんに優しく話しかけてみる。
すると、ひすいちゃんは、お母さんと僕と、両方の顔を見比べた。
そして、僕の顔に手を伸ばして、確かめるように触る。
「だーだ」
ひすいちゃんは小さな手で僕の鼻を緩く引っ張って、そのうち大人しくなった。
このお姫様に気に入ってもらえたんだろうか。
僕は、頃合いをみて、おかゆをスプーンでひすいちゃんの口に持っていく。
するとひすいちゃんは、案外あっさりと、口に含んでくれた。
「おいしい?」
って訊くと、
「うう、あー」
って返事をする。
体を揺らして、僕の問いに答えた。
本当に、ヨハンナ先生じゃないけど、僕も赤ちゃんが欲しくなる。
「僕、ひすいちゃんのベビーチェア作りましょうか? 抱きながら食べさせるの大変そうだし、このテーブルに合わせて作りますけど」
デザートに手をつけていた宮野さんが言った。
「そんなの、簡単に作れるの?」
ヨハンナ先生が訊く。
「はい、簡単です。工務店やってる父が、知人の赤ちゃんが生まれたとき、ベビーチェアとか、積み木とか作ってプレゼントしてましたから、見ていて覚えました」
宮野さんは
宮野さんが部屋に持ち込んだ大量の大工道具、あれで、作っちゃうんだろうか?
「それから、弩先輩も椅子の座面が低くて大変そうなので、よかったら先輩用のも作りますけど」
宮野さんが続ける。
確かに、弩はこの中で一番小さし、椅子は既製品でみんな同じだから、弩は今まで食事のとき、クッション三枚重ねで座っていた。
「あ、あの、宮野さん、今、なんて言った?」
弩が、宮野さんに訊く。
「えっ? はい、えっと、弩先輩の椅子作りますけど……って」
宮野さんが、わけも分からず繰り返した。
「弩、せ・ん・ぱ・い……」
弩が、上気した顔で、噛みしめるように
そこか!
弩が、宮野さんに「先輩」って呼ばれたことに感動している。
今まで寄宿舎ではお姉さん達ばかりだったし、主夫部でも一番下の学年だったし、「先輩」って下級生に慕われるのが嬉しいんだろう。
「いいでしょう。宮野さん、私の椅子、作らせてあげましょう」
弩が言うと、
「はい、ありがとうございます。弩先輩!」
宮野さんが、目を輝かせて言った。
そこ、先輩風吹かせるところじゃないと思うけど……
北堂先生と、ひすいちゃんと、宮野さん。
三人が入った新生活も、こうして順調に回り始めた。
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