第197話 ドーナツ

「先輩! お弁当出来ました!」

 子森君が、朝から真っ白い歯を覗かせて言う。



 ホワイトデー当日。

 朝練の洗濯物を干し終わって寄宿舎の中に戻ったら、子森君がお弁当箱を持って走ってきた。

 朱色で楕円形の小さなお弁当箱の蓋を開けて、僕に中を見せてくれる。


 おかずは、小アジみりん干しに、ほうれん草とハムが入った卵焼き。

 鶏の唐揚げ。

 アボカドとカニかまのサラダ。

 レンコンのきんぴら。

 プチトマト。

 そしてご飯は、枝豆と桜エビを入れた、豆ご飯にしてあった。


「うん、美味しそうだね」

 彩りが綺麗だし、いい匂いがして、本当に美味しそうな弁当だ。


「はい、すごく、美味しいです!」

 子森君は自分で作った弁当を掲げて、自信満々で言う。

 まあ、御厨の監修が入ってるし、味は折紙付きだろう。


「それで、サッカー部の洗濯は、手伝わなくていいの?」

 僕は訊いた。


「はい、自分でやります。先輩に手取り足取り教えてもらったし、出来ると思います」

 僕は別に、手取り足取りは教えてないけど。


「自分で、やってみます!」

 子森君は堂々と宣言する。


 ここ数日で、子森君のピンクのエプロンもすっかり板についてきた。

 飲み込みが早いし、自分から進んで家事を覚えようとするし、子森君は教え甲斐がある後輩だ。


「それじゃあ、さっそく、マネージャーに渡してきます。ありがとうございました」

 子森君は顔が膝につくんじゃないかってくらい頭を下げた後、足取りも軽やかに寄宿舎を出て行った。


 朝から騒々しいけど、なんか、憎めない。



「彼、嬉しそうですね」

 玄関で、その背中を見送って、御厨が言った。

「なんか、初心を思い出すよな」

 錦織も感慨深げに言う。


 お弁当や家事で、女子を喜ばせることが嬉しい、その気持ちは僕もよく分かる。


 確かに僕も、彼に初心を思い出させてもらった。




 さて、人のホワイトデーの心配ばかりしてないで、自分の方はというと、実はもう、寄宿生へのお返しは、仕込んである。


 僕は用意した自家製の柔軟剤を極秘裏ごくひりに寄宿舎に持ち込んでいて、一昨日から、洗濯に使っていた。

 みんなの洗濯物は、徐々に新しい柔軟剤で仕上げたものに入れ替わっている。


 バレンタインデーのお返しはいらないって、断られてるから、みんなには言ってないけど、ホワイトデー当日の今日になって、その効果は徐々に現れていた。



 朝、洗顔用のタオルを渡したら、顔を洗った後で、萌花ちゃんが不思議そうに首を傾げていたのだ。


「先輩、なんか、今日はいつもと違う気がします」

 萌花ちゃんは言った。

 具体的に何が違うのかは分からないみたいだったけど、微かな香りの違いを感じてくれたらしい。

「なんか、心地いいです」

 すっぴんでつるつるの顔の萌花ちゃんを見ながら、ぼくは「そうなの?」とか、すっとぼけた。



 ヨハンナ先生の柔軟剤を変えた効果は、本人じゃなく、周囲に現れた。


「なんか、今日の先生、色っぽくないか」

 男女問わず、クラスメートから、そんな声が聞かれた。


「やっぱ、綺麗だよな。惚れ直したって感じ」

 みんな、そんなふうに言って、惚れ惚れと先生を見ている。


 授業中に先生が横を通るとき、ふわっと甘い香りが鼻をくすぐった。

 教室では厳しい先生も、少しだけ、表情が柔らかくなったような気がする。

「ほら、篠岡君、ぼっーとしてない」

 その言葉は、厳しいけど。




 弩はこの微かな変化に気付いてるのか、僕は放課後、部屋に見に行った。


「おーい、弩、いるか?」

 弩の部屋のドアをノックして開けたら、弩がベッドの上でタオルケットにくるまって、体を丸めて蓑虫みのむしみたいになっている。


「ああ、先輩」

 弩が僕に気付いて、タオルケットに包まったまま、上半身を上げた。


「何してるんだ?」

 タオルケットの中で、昼寝でもしてたんだろうか?


「いえ、あのあの、タオルケットが気持ちよかったので、うつらうつらしてました」

 口の端によだれの跡をつけた弩が言う。

 まったく、のんきな奴だ。


「先輩、このタオルケットのふわふわ感と、良い香りはなんなのですか?」

 弩がタオルケットでほっぺたをスリスリしながら訊いた。


「ああ、ちょっと柔軟剤変えてみたんだ」

 手作りの弩スペシャルに。


「ふうん、そうなのですね。私、この香り、大好きです」

 弩がとろけた顔で言った。

 ほっぺたピンクだし、完全に力が抜けた表情だ。


「もう、手放せないのです」

 弩は、そう言ってベッドの上でゴロゴロする。


 やった、ホワイトデーの香りのお返し大成功。

 僕は、心の中でガッツポーズした。

 新しい柔軟剤は、弩の心を完全に捉えている。


「ところで先輩、なんか用事ですか?」


「いや、いいんだ。そのまま、まどろんでてくれ」

 僕が言うと、弩は「ふわぁい」と、あくびで返事をした。

 そのまま、ベッドに寝っ転がる。


 僕は、弩の幸せそうな寝顔を見ながら、静かにドアを閉めた。




 次に、新巻さんの反応を知るために、執筆中の部屋にお茶を持って訪ねたら、

「ねえ、篠岡君。洗剤か何か、変えた?」

 新巻さんがブランケットを指して訊いた。


 机でノートパソコンに向かう新巻さんが、いつも膝に掛けているブラックウォッチ柄のブランケット。

 それも昨日、新しい新巻さん用の柔軟剤を入れて洗ったのだ。


「うん、柔軟剤変えた。変かな?」

 僕が訊く。

「ううん。すっきりとした香りだし、擦れるとスッと、鼻に抜けるようなミントの香りがして、気持ちいい。書いていて、リフレッシュできる」

 新巻さんはそう言って、ブランケットを擦った。

 爽快なミントの香りが、一瞬、パッと広がる。


「そう、良かった」

 その場で小躍りしたいくらいだったけど、新巻さんの原稿書きを邪魔したらいけないから、静かに部屋を出た。


 新巻さんへの香りのお返しも大成功だ。



 総じて、僕の「香りのお返し」作戦は成功した。

 みんなに気付かれずに、バレンタインデーのお返しが出来た。

 一生懸命考えて、気に入ってもらえるプレゼントができたときは、やっぱり嬉しい。




 そんなふうに部活を終えて、気分良く家に帰ると、駐車場のスペースに、なにやら車が停まっている。

 母か父の車かと思ったら、ヨハンナ先生のフィアットパンダだ。

 なぜ、先生が?

 僕が電車で帰る間に、先生は車で先回りしたんだろうか?

 だけど、なんのために?


 ドアを開けると、玄関には確かに先生の黒いパンプスがある。

 僕は、脱ぎ散らかされたパンプスを揃えてから、家に上がった。



「お帰りなさい!」

 花園と枝折、そしてヨハンナ先生が声を揃えて僕を迎えた。

 三人はリビングのソファーに座って談笑してたみたいだ。


「先生、どうしてうちに……」

 先生はまだスーツのままだから、学校での仕事が終わった後、そのまま、ここに来たんだろう。


「まあまあ、塞君、ここに座りなさい」

 先生が、ソファーをぽんぽんと叩いて、自分の隣に座るよう、僕に勧める。


 なんだろうって、恐る恐る先生の隣に座ると、

「それで、塞君。いくらかかったの?」

 先生が、僕に肩を組んで訊いた。


「えっ?」


「自家製柔軟剤作るのに、いくらかけたか、訊いているの」

 先生が、僕の肩を揉みながら訊く。


 なぜ、先生がそれを知っている。


 あっ。


 僕が花園と枝折を見ると、

「お兄ちゃん。ごめんなさい。先生から拷問を受けて、しゃべるしかなかったの」

 花園が、しゅんとした顔で言った。

 枝折も、俯いている。


 リビングのテーブルには、ドーナツの箱が置いてあって、皿の上に花園が食べかけたストロベリーカスタードフレンチと、枝折の食べかけのオールドファッションがあった。


 ドーナツを使った拷問か……


 って、花園、枝折、ただ、先生に買収されただけじゃないか。


「昨日から、なんか洗濯物の香りが違うことに気がついたの。そういえば今日はホワイトデーだし、塞君がなにか仕込んだかもしれないって睨んだ。それでランドリールームを覗いたら、私達のラベルを貼った、怪しげな瓶がある。問い詰めても塞君は言わないだろうし、家に押しかけて、花園ちゃんと枝折ちゃんに優しく訊いてみたら、自家製の柔軟剤作ったとか、言うじゃない」

 先生、以外と鋭い。


「で、いくらかかったの?」

 先生に詰問された。

 僕の肩をがっちりと掴んでいて、答えるまで、放してくれそうにない。



「なんだかんだで、一万円くらい……他の材料は数百円程度だったんですけど、アロマの精油が高くて、何種類も買ったから……」

 仕方なく、僕は正直に答えた。


「もう! 大切なお小遣い、そんなに使っちゃって。あれほど、お返しはいらないって言ったのに!」

 先生に怒られた。

 僕の目を真っ直ぐに見て、眉を吊り上げている。


「まったく、塞君たら……」

 先生は、怒ってたけど、その顔は三十秒も維持出来なかった。

 僕がやったことに、呆れたんだろう。

 怒る方が馬鹿馬鹿しいって、思ったのかもしれない。



「その一万円は、私が出すわ」

 先生が言った。


「それは、ダメです! 僕の気持ちですから。それに、先生に迷惑かけられないし」

 それじゃあ、お返しの意味がなくなってしまう。


「私の経済力を舐めないで欲しいわね。それなりにお給料は貰ってるし、毎日学校と寄宿舎の往復で殆どお金使わないし、寄宿舎の管理人ってことで、食費もかからないし、小金貯め込んでるから、心配しなくていいわ」

 先生が言う。


「だけど……」


「いいの。今回は、私に甘えなさい」

 ヨハンナ先生が言う。


「そうだよ。お兄ちゃん、甘えちゃいなさい」

 花園が言った。

 花園の奴……後で先生が帰ったら、ほっぺたプニプニの刑にしてやる。


「分かりました。先生に甘えます」

 僕が言うと、先生は財布から一万円札を出して、僕に握らせた。


「でも、みんなには言わなくていいの? みんな、ただ柔軟剤変えただけだと思ってるよ。それが、塞君のお返しだって知らずに」

 ヨハンナ先生が訊く。


「いいんです。みんなが喜んでくれれば。黙っててください」

 僕が言うと、先生は破顔した。

 チャーミングな笑顔だ。


「まったく、君って子は……ここに花園ちゃんと枝折ちゃんがいなかったら、愛おしくて抱きしめてるところだよ」

 先生が、冗談めかして言う。


「それじゃあ、先生帰るから」

 先生は、見送りはいいからって言って、リビングに僕達を残して、出て行った。

 もしかしたら、まだ仕事が残ってるのかもしれない。

 そんな中で、わざわざ抜けて来てくれたのかも。



 みんなに内緒でバレンタインのお返ししてやったとか、得意になってたけど、結局、僕はヨハンナ先生の手の中で踊ってただけみたいだ。



小姑こじゅうととして、ヨハンナ先生がお兄ちゃんのお嫁さんなら、花園は認めるよ」

 花園がドーナツの残りを食べながら言った。

 枝折も頷いている。

「こうして、ドーナツを手土産に持ってきてくれるし」


 おい……


 お兄ちゃんをドーナツで売るんじゃない。



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