第187話 古い便箋
「三人官女は、左から
僕が言うと、弩が「はい」と返事をして、三人官女の一体を手に取った。
人形は、白い小袖に緋色の長袴、その上に豪華な刺繍の打掛けを羽織っている。
でも、その一体を見て弩が首を傾げた。
「あのあの、先輩、すみません。加銚子ってどれですか?」
弩が訊く。
「その、持ち手が付いてる銚子がそうだよ。柄が付いてるのが長柄銚子で、盃を載せる台が、三宝だよ」
僕が言うと、弩は人形が持っている道具を覗き込んで確認した。
「今、弩が持ってる三宝を捧げてるのが真ん中だな。顔は、眉を剃ってお歯黒塗ってるから、分かりやすいだろ」
「本当だ。後の二人と違いますね」
「それは既婚者ってことなんだってさ」
「あ、それ、古典の授業でやりました」
嬉しそうに弩が言う。
僕に教えられた通りに弩が三人官女をひな壇に置こうとして、壇が弩の背丈を超えていて届かない。
ひな壇は、七段飾りの豪華なものだった。
「先輩、すみません。手を貸してください」
僕が置いても良かったんだけど、弩が僕に背中を向けて、抱っこしてくださいオーラを出してるから、弩の脇に手を入れて持ち上げた。
ひな壇の高さに持っていって、弩が三人官女を置くのを手伝う。
「先輩、くすぐったいです」
「ほら、弩、暴れるな」
弩は、猫みたいに軽かった。
放課後、僕と弩で、寄宿舎の玄関から続く階段ホールに、ひな人形を並べている。
弩に並べ方を教えながらの、のんびりとした作業だ。
鬼胡桃会長と母木先輩の受験が終わって、寄宿舎には、ゆったりとした空気が流れていた。
三年生はもう自由登校になっていて、縦走先輩は一日中トレーニング。
古品さんはキャンペーンで全国を回っていて、鬼胡桃会長は生徒会の仕事の引き継ぎや、謝恩会の準備。
そして、母木先輩は朝から寄宿舎中の掃除に余念がない。
先輩は、受験勉強で出来なかった分を取り戻すみたいに、掃除に掛かりきりだった。
「お内裏様とお雛様は、左右どっちに並べればいいんですか?」
弩が訊く。
「関東風では向かって左にお内裏様、京都風では向かって右にお内裏様ってことが多いみたいだけど、時代とか、考え方によって違うみたいだから、結局どっちでも、好きな方でいいってことだぞ」
僕は答えた。
「先輩は何でも知ってるんですね」
弩は感心している。
「枝折と花園のために、毎年並べてるからな。自然と覚えたんだ」
僕は弩に対して偉そうに言ってるけど、本当は幼い頃の枝折に問い詰められて、ネットで必死になって調べただけだ。
枝折と花園には、こういう年中行事はなるべく経験させるようにしている。
それが、母や父の代わりの僕の役割だって思うから、そうしていた。
「弩は、左右、どっちに並べるんだ?」
僕が訊いた。
「それじゃあ、向かって右にお雛様で、左をお内裏様にします」
「どうして?」
「はい、だって、先輩はいつも私の右手のほうにいるじゃないですか。そのほうが落ち着くので」
意識してなかったけど、僕はいつも弩の右手のほうにいるんだろうか?
そう言われて改めて考えてみれば、弩の頭を右手で撫で繰り回すとき、僕は体を反転してるから、確かに僕は弩の右手のほうにいるのかもしれない。
「先輩、くすぐったいです」
三人官女のときと同じように、弩を持ち上げて、お雛様とお内裏様を最上段に置かせた。
下段の家具のミニチュアや、橘、桜の造花を整えて、ひな人形並べは終わる。
寄宿舎の、歴史を重ねた落ち着いた雰囲気の中に、鮮やかな赤い
「平和だな」
「平和ですねぇ」
飾り付けが終わって、僕と弩がひな人形を漫然と眺めていたら、トレーニングを終えた縦走先輩が玄関に戻ってきた。
「おお、ひな人形か。春らしくていいな。誰が持ってきたんだ? 弩か?」
先輩が訊く。
「いえ、これ、この寄宿舎の倉庫にありましたけど」
僕が答えた。
「なんだ。そうなのか」
三年生の先輩が知らなかったってことは、ここではずっと、ひな人形、並べてなかったのか。
こんなに立派なのがあるのに、もったいない。
随分古い物みたいだから、ずっとこの寄宿舎で引き継がれてきたものなんだろう。
かつて、まだこの寄宿舎にたくさんの生徒がいた頃には、寄宿生が、わいわい言いながら、みんなで並べていたのかもしれない。
「あれ、こんなところに、何か落ちてるぞ」
縦走先輩が言った。
ひな人形が入っていた木箱の横に、古い
箱の中に入っていて、ひな人形を出すときに落ちたんだろうか。
折りたたまれた便箋は、茶色いシミが浮いているし、所々、虫に食われていた。
でも、そこに書かれた文字は読める。
縦走先輩が便箋を開いて、僕と弩が横から覗いた。
このお内裏様とお雛様のように、アキラ君と、あゆみも、永遠に、一緒にいられますように。
便せんにはそんなふうに書いてあった。
昔の寄宿生の誰かが残したのか、古風で、綺麗な字だった。
「ロマンチックだな」
縦走先輩が言った。
「そうですね」
この寄宿舎にいた乙女が、想っている人との願いを込めて書いて、木箱の中に忍ばせたんだろう。
ひな人形の箱に忍ばせるなんて、確かにロマンチックだ。
それをずっと後の世代の僕達が見つけるなんて、恋愛のタイムカプセルみたいだし。
「昔の人も、こんな恋愛をしていたんだな」
「そうですね、僕達と変わりませんね」
僕と縦走先輩が話していたら、それを聞いていた弩が、下を向いて震えている。
あれ、こんなロマンチックな感じ、いつもの弩だったら、「素敵ですぅ」とか言って、目をハートにして、うっとりするはずなのに。
「そ、それ、多分、母です」
「えっ?」
そういえば、弩の母親の名前は、弩あゆみで、ゆみゆみだった。
そして、弩の家は、代々、ここの寄宿生だ。
「私の父の名前、アキラですし」
下を向いた弩が、ぽつりと言う。
「字も母の字です」
「ええー!」
僕と縦走先輩が、同時に大きな声を出した。
その声が響いたからか、萌花ちゃんや、二階の新巻さん、掃除をしていた母木先輩や、錦織、台所の御厨まで、みんな玄関に集まってきた。
僕がみんなに経緯を説明する。
僕が説明してる間、弩は、「やめてください」とやんわり抗議して、照れている。
顔を真っ赤にして、照れまくっていた。
「いい話じゃない」
話を聞き終わって、新巻さんが言う。
「そうだな。高校の頃から付き合っていて、結婚したなんて、理想じゃないか」
母木先輩も言った。
「そして、ゆみゆみが生まれたんだもんね」
萌花ちゃんも、目を瞑ってうっとりしている。
「もう、みなさん、他人事だと思って!」
確かに、弩としては、親のラブレターっぽい手紙っていう、黒歴史を見せられて、恥ずかしいのかもしれない。
でも、弩はこんな純粋な恋をした二人の間に生まれたわけだし、誇りにしていいと思う。
それにしても、あのバリバリの仕事人間の大弓グループの会長兼CEOが、こんなロマンチックな人だったなんて。
「それじゃあ、ちょっと早いですけど、今日のおやつはひなあられにしましょう。どうせだから、このお雛様の前で、食べましょうよ」
御厨がそう言って台所に消えた。
「よし、ひな人形の前に毛氈敷いて、ひな祭りにしよう。弩の両親みたいに、このひな人形には恋愛の御利益があるかもしれないぞ」
縦走先輩がそう言って、母木先輩が頷く。
そういうことなら、僕達は準備が早い。
廊下に毛氈を敷いてクッションを用意した。
廊下は冷えるから、電気ストーブを持ってくる。
御厨が餅米を揚げてひなあられを作っている間に、飲み物を用意して、みんなが自分の部屋からお菓子を持ち寄った。
母木先輩が鬼胡桃会長を呼んで、会長は下級生に仕事を任せて抜けてくる。
この寄宿舎で、久しぶりに行われる、ひな祭りだ。
「ちょっと、私を呼ばないってどういうことよ!」
宴会の匂いを嗅ぎつけたのか、職員室から、ヨハンナ先生も駆けつけた。
なんという、鋭い嗅覚。
先生は部屋から一升瓶を持ってくる。
乾き物のおつまみも持ってきた。
これは、花見じゃないんだけど……
「あの、すみません」
僕達が、階段ホールで盛り上がっていたら、一人の女の子が玄関に現れた。
この学校の制服じゃない、ブレザーの制服を着た女子だ。
「来年度の新一年生で、入寮希望で、ここを見学させて頂きたいんですけど」
一升瓶を抱えて、スルメのゲソを噛んでいるヨハンナ先生の前で、その子は言った。
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